序章 「働きすぎた人生」
午後九時三十分。
都心のオフィスフロアは、昼間とほとんど変わらない明るさを保っていた。
蛍光灯の白い光が、無機質な机とパソコンの画面を均一に照らしている。静かなはずの空間には、キーボードを叩く音と、冷却ファンの低い唸りが重なっていた。
――まだ、誰も帰らない。
田上京子は、モニターを見つめながら小さく息を吐いた。
旅行代理店勤務。
それが彼女の肩書きだった。
だが皮肉なことに、彼女自身はほとんど旅行に行ったことがない。
画面には海外ツアーの企画資料が表示されている。南国リゾートの写真。白砂のビーチ。透き通る海。
京子は、無意識に画面をスクロールした。
隣の席の先輩が立ち上がる。
「この修正、明日の朝までにお願いできる?」
柔らかい口調だが、断る選択肢はない。
「……はい」
京子は頷き、資料を受け取った。
仕事が嫌いなわけではなかった。
むしろ、好きな方だと思う。旅の魅力を誰かに届ける仕事は、確かにやりがいがある。
――ただ。
(自分の人生を、資料にしているみたい)
そんな感覚が、ときどき胸に浮かんだ。
休憩時間。
京子は給湯スペースの隅でスマートフォンを開いた。
いつもの習慣だ。
SNSを開くと、世界中の写真が流れてくる。
氷河に沈む夕日。
石畳の旧市街。
山岳地帯の雲海。
見たこともない料理の写真。
京子は、気に入った写真を淡々と保存していく。
保存先フォルダの名前は――
『将来の自分用資料⑨』
ちなみに①から⑫まで存在していた。
整理はかなり綿密である。
京子は新しい写真を保存しながら、メモアプリを開いた。
タイトル。
『死ぬまでに行きたい場所100』
現在、六十三項目まで埋まっている。
京子は画面を眺め、小さく笑った。
「見るだけでも楽しいけど……」
指先が止まる。
「本当は、歩きたいな」
独り言は、静かに空気へ溶けた。
終電間際の駅は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
ホームには疲れた顔の人々がまばらに立っている。誰もが静かで、誰もが少しだけ前を向いていない。
京子は電車を待ちながら、壁の広告に視線を向けた。
そこには海外旅行のポスターが貼られていた。
青い海と、白い帆船。
大きく書かれたキャッチコピー。
『人生は一度きり』
京子は、その言葉を見つめたまま、苦笑した。
(その一度を、仕事だけで終わらせるのかな)
少しだけ、胸が重くなった。
だが電車が到着し、その感情はすぐに日常へ押し戻された。
帰宅途中のコンビニ。
京子はいつも通りの買い物かごを持っていた。
弁当。
栄養ドリンク。
そして――旅行雑誌。
今月号の特集は『世界の絶景100』だった。
表紙には、幻想的な風景が広がっている。どこか現実離れした、物語の世界のような景色。
京子は少しだけ迷ってから、それをカゴへ入れた。
帰宅後。
部屋の電気をつけ、スーツのままソファに腰を下ろす。
弁当を食べ終え、栄養ドリンクを飲み干し、京子は雑誌を開いた。
ページをめくる。
青の洞窟。
天空の湖。
砂漠の星空。
京子の視界が、ゆっくりと景色で満たされていく。
(ここ、行ってみたいな……)
ページをめくろうとして――
指が止まった。
視界が少しだけ滲む。
疲労は、思っていたより深く体に溜まっていた。
京子は雑誌を胸の上に乗せたまま、目を閉じた。
ほんの少し、休むつもりだった。
翌朝。
いつもより早く出社した京子は、パソコンを立ち上げながら、軽いめまいを感じた。
画面の文字が、わずかに揺れる。
資料を開こうとした手が止まる。
周囲の音が、少し遠くなった。
(あれ……)
視界の端に、昨夜見た雑誌の絶景が浮かぶ。
青空。
広い大地。
果てしない旅路。
京子は、ふと考えた。
(……一度だけでいいから)
椅子の背にもたれ、ゆっくり息を吐く。
(思いきり旅してみたかったな)
視界が白く霞んでいく。
意識が静かに遠ざかる中、京子は最後に思った。
(次は……)
まぶたの裏に、見知らぬ景色が広がる。
(自由に旅したい)
――その願いだけが、はっきりと残った。
そして。
どこか遠くで、誰かが名前を呼ぶ声が響いた。
「リリエル・フォン・アルシェンド!」




