婚約者には捨てられたのに、辺境伯には「俺のすべてを君に捧げたい」と迫られています
◆登場人物
エリシア・バルトネル(18)
男爵家の一人娘。社交界では「隙がない」と囁かれる美貌と礼儀正しさを備えるも、心の奥に傷と孤独を抱える。
レオニス・エルヴァン(22)
辺境を治める若き伯爵。容姿端麗・頭脳明晰。国王に信頼される戦略家。公には冷静沈着な貴族として知られるが、エリシアに対しては溺愛。
ジェラルド・クラヴィス(21)
子爵家の嫡男でエリシアの婚約者。人当たりはよいが、奔放な女遊びで有名。エリシアを都合の良い正妻候補としか見ていない。
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◆第一章 私は、黙って微笑むしかなかった
「また一人ですの? エリシア。」
柔らかな声に振り向くと、親しい友人の侯爵令嬢セレナが、心配そうに眉をひそめていた。
エリシアは、ゆっくり微笑んで、紅茶のカップを口元へ運ぶ。
「ええ、ジェラルド様は、また急用だそうですの。」
嘘ではない。
そう書かれた短い書状が、今日の午後、従者を通じて届けられたばかりだ。
急用、そう、急用ね。その急用がまた別の令嬢の寝室であることくらいは知っているわ
けれど、口に出すことはない。
怒ることも責めることも涙をこぼすことすら――許されていない。
子爵家の嫡男に嫁ぐことは、バルトネル家にとって一つの救いだった。
領地も財産も乏しい男爵家には娘を良縁に出すことでしか家を守る道はない。
「逆らえないのよ。格上の婚約者には。」
紅茶に映る自分の瞳が、少し寂しげに揺れた。
「エリシア、貴方はいつも我慢しているわ。」
「していないわ。私はただ私にできることをしているだけよ。」
そうは言ったけれど。
本当は声を上げて泣きたかった。
「どうして私じゃ、だめなの?」と叫びたかった。
けれど、そんな弱さを見せるのは彼に負けることになる気がしてできなかった。
◆第二章 辺境から来た男と、紅茶の夜に
それは、秋の夜風が冷たさを帯び始めた舞踏会でのことだった。
「お初にお目にかかります、エリシア・バルトネル嬢。」
銀の光をまとうような青年が、彼女の目の前で静かに礼を取った。
名を聞く前に、彼の姿が視界に焼き付く――
長身に洗練された仕立ての良い黒衣。冷たい翡翠のような瞳。
(この方が……レオニス・エルヴァン辺境伯)
噂には聞いていた。国王が唯一未来の宰相候補と公言した若き辺境伯。
戦略家としての才に恵まれ、辺境の再建をわずか3年でやってのけたという伝説。
「貴方のことは存じております。鋼の微笑。冷たく美しいと社交界では噂されておりました。」
「それはあまり嬉しい噂ではありませんわね。」
「ですが、私は冷たさではなく貴方の鋼の芯に強く惹かれております」
心臓が、一瞬止まった気がした。
これまで誰にも言われたことのない言葉。
表面の美しさでも、家柄でもなく、芯を見られた気がして息が詰まった。
「辺境伯閣下は、お上手ですのね。」
「私は口下手ですよ。ただ、貴方には言葉を惜しみたくない。」
紅茶の香りがやけに熱を持つ気がした。
◆第三章 溶け出した心と、騎士のような手
それからというものレオニスは驚くほど自然に、そして頻繁にエリシアの傍に現れるようになった。
図書室、舞踏会、散策の途中
「またよくある偶然ですわね。そう、とてもとても頻繁にある偶然ですわ。」
「偶然と思われたいのなら、私は少し傷つきますね。」
「では、意図的に待っていたのですか?」
「ええ。あなたが帰る時間も、好む本も既に調べがついておりますので。」
「一体何者ですの?」
「騎士と呼んでいただければ幸いです。」
思わず笑ってしまった。
彼は、完璧に見えて意外なほど正直だった。
どうしてこんなに私に優しくするの?
「貴方のような方が私に時間を割く理由など、どこにもないはずですわ。」
思わず漏らした一言に、レオニスは目を細めて言った。
「理由が必要ですか?」
「え?」
「心が惹かれた。それでは足りませんか?」
その声が、まるで魔法のように胸に降り積もった。
◆第四章 婚約という鎖と、ほつれる仮面
エリシアは、庭園のベンチでひとり空を見上げていた。
澄んだ青の奥に、ふと滲んだ何かが目の奥に染みてきて、そっとまぶたを閉じる。
「あなたが泣くなんて、珍しい。」
その声に、エリシアは驚いて振り返った。
そこには、いつものように静かな足音で、辺境伯レオニスが立っていた。
「泣いてなど、いませんわ。」
「ならば、風に目をやられたのですね。あなたの涙の言い訳にしては、少し嘘が甘い。」
「ずるい方ですね。いつも見透かしたような目で私のことを。」
「見ているだけです。ずっと、貴方を。」
その真っ直ぐな言葉が、やけに刺さった。
見られていた。仮面の下の、私の弱さも、寂しさも
レオニスは、そっと隣に腰を下ろした。
手には、ラベンダーとローズマリーを束ねた小さな花束。
「貴方に似合いそうだと思って」
「香りが、落ち着きますわね。優しいのですね、閣下は。」
「貴方にはね。他にはそうでもありませんよ。」
「私は特別だと?」
「気が付いていなかったのですか?」
その瞬間、心のどこかがぐらりと揺れた。
けれど同時に、エリシアの脳裏には、あの名が浮かんだ。
――ジェラルド。
婚約者である限り誰の手も取れない。それがこの世界の理だった。
◆第五章 仮面が割れる音と、彼の腕の中で
そして事件は起こった。
社交界に大きな波紋が広がる――
「ジェラルド・クラヴィス子爵令息が宰相の一人娘との密会をパパラッチされる」
昼下がりのティールームにいたエリシアの前に、そのニュースが届いたのは、意外なほど冷静な空気の中だった。
「あの人、ついに宰相のご令嬢にまで手を出したのね。」
「エリシア、どうするの? 破談?」
隣にいた友人の声を聞きながらも、エリシアの心は不思議なほど静かだった。
まるで、氷のように凍っていた感情が、今ようやく解けたかのように――
「決まっているでしょう。私は彼との婚約を破棄いたします。」
その声は、震えていなかった。
けれどその夜――
彼女はレオニスの前で、初めて感情を零した。
「悔しかった
彼が、誰かといても、私は、怒ることもできなかった」
その叫びとともに、彼女の肩が震える。
レオニスは、何も言わず、そっと彼女を抱き寄せた。
「泣いていい。今日だけじゃない、これまでのすべての涙を、ここで流していい。」
「でもっ、私は強くなければ貴方に見合わないのです。」
「違う。貴方が泣ける相手でありたい。誰にも見せなかった涙を私だけにはどうか預けて欲しい。」
その声に、エリシアの胸が崩れた。
彼女は初めて誰かの胸で少女のように泣いた。
◆第六章 あなたを守る者として
数日後、エリシアのもとに正式な書状が届く。
「ジェラルド・クラヴィス子爵令息との婚約、双方合意のもとに解消」
父も、母も驚いていたが、エリシアの瞳を見て、それ以上は何も言わなかった。
その日の夜。
エリシアがバルトネル邸の庭園に出ると、そこに彼はいた。
「わざわざ、来てくださったのですか?」
「今日くらい貴方のそばにいたかったのです。――いや、本音を言えば、今日も貴方に会いたかった。」
「貴方は本当に……いつもまっすぐですね。」
レオニスは、彼女の手を取った。
静かに、でも力強く、決して逃がさぬように。
「婚約は解かれました。――ならば今度は、私に求めさせてください」
「求める?」
「貴方に真っ当な形で妻として私の傍に来ていただきたい。
二度と、悲しい目をさせない。あなたを尊び守り抜き愛すると誓う。この先の生涯をかけて。」
その言葉に、エリシアの視界が再び揺らいだ。
「そんな急に言われましても困りますわ。」
「焦っているのです。初めて誰かを本気で欲しいと思ってしまったから。」
「私なんて強くもない隙だらけで――」
「隙がない? とんでもない。貴方ほど愛おしいほどに人間らしい女性を私は他に知らない」
彼の熱い唇がそっと彼女の額に触れた。
「私は、貴方の全てを愛しています。」
◆第七章 辺境に咲く花となって
辺境伯領――エルヴァン領。
首都から遠く離れたその地に、今、春の風が吹いていた。
馬車から降りたエリシアの手を、レオニスがそっと取る。
真新しい花畑、手入れの行き届いた美しい花々が咲き乱れる庭、そして――奥へと続く白亜の館。
「これが、私のこれからの家。」
「いいえ。私たちの家です。」
レオニスの手は温かく、言葉の一つ一つが胸を満たしていく。
冷たい石の床ではなく、やわらかな土の上を、自分の意思で歩いている――そんな確かな感触があった。
「私は、ようやく自分になれた気が致します。」
「ならば、もう二度と、誰にも戻させない。
君は、私の隣で微笑むべき人だ。それ以外の未来は、想像できない。」
そう言って、彼はひざまずき、エリシアの手の甲に唇を落とした。
「今日からは、誰よりも甘やかさせていただきますよ。エリシア嬢。」
◆第八章 あなたの姓になりたい
数週間後、エリシアは鏡の前で純白のドレスに身を包んでいた。
肩のあたりが微かに震えているのは、寒さのせいではない。
これが本当の婚礼。愛されるための、愛するための。
扉がノックされ、入ってきたのはレオニスだった。
彼は、いつも以上に凛々しく、しかしどこか子どものように落ち着きがなかった。
「震えておられる。寒いのか?」
「いえ、少しだけ怖いのかもしれません。」
「怖い?」
「幸せに、なっていいのか分からないです。」
その言葉に、彼は迷わず彼女を抱きしめた。
花嫁衣裳ごとそっと、しかし決して崩さぬように。
「恐れなくていい。君が幸せになりたいと願ってくれるなら、
その分は、私がすべて、形にしていく。」
「……あなたの姓をいただけるのなら。私は、何度でも生まれ変わります。」
「ならば――君の人生は、もう私のものだ。」
その日、エリシア・バルトネルは、エリシア・エルヴァン辺境伯夫人となった。
◆第九章 終わった過去と、決着の時
婚姻の報が王都へ届いてからほどなくして、ある使者がエルヴァン領を訪れた。
その名は――ジェラルド・クラヴィス。
「一目、謝罪をしたくて。」
レオニスの許可がなければ入れない館内。
かつての婚約者は、今やかつての気品すら失い、かすれた声で言った。
「君は、何も言わずに耐えていた。愚かだったのは私だ。君がどれほど。」
エリシアはただ一言だけ返した。
「その言葉は、あのとき言うべきだったわ。もう、遅いのです。」
「幸せに、なってくれ。」
「ええ。もう、なっていますから。」
その瞬間、扉の向こうからゆっくりと、レオニスが現れた。
銀髪に黒の礼服、威圧感と品位の塊のような存在。
「彼女を泣かせた過去の男がここに入れるのは、今日が最初で最後です。
二度と、彼女の名前を口にしないでいただきたい。」
その言葉に、ジェラルドは顔をゆがめ、しかし一礼をして去っていった。
◆第十章 あなたが笑えば、それでいい
季節は再び春を迎え、辺境の庭に白い花が咲き誇る。
エリシアは、レオニスの腕の中にいた。
「こんなにも甘やかされる日が来るなんて、思いもしませんでしたわ。」
「私は、まだ甘やかし足りない。今日だけで、あと十回は君に触れたい。」
「辺境伯閣下は少々過保護ですわ。」
「君が泣く夢を見て以来、私は君の笑顔以外、見たくないと思ってしまった。」
「それはもう愛ではなく、執着ですわよ?」
「では、君の全てに執着していると認めよう。心も、身体も、未来も全てを私のものにしたい。」
彼はそう言って、指先でエリシアの頬をなぞる。
「エリシア、君が望むなら、王宮でも、戦場でも――世界ごと敵に回す。」
「貴方って本当に、どうしようもなく甘い人ですこと。」
「君にだけはな。」
エリシアは、静かに笑った。
もう、仮面をかぶる必要もない。誰かの影に隠れる必要もない。
彼の隣にいるときだけ、自分は確かに愛されるために生きていると感じられる。
――もう、涙は必要ない。
「これからも、どうぞ存分に甘やかして。閣下の妻として。」
「当然だ。私の最愛の花嫁へ。」
紅玉の瞳が、彼女のすべてを慈しむように包んだ。
そして二人の静かな春は、今も続いている。
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完