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夜の醸造所の聖なる務め

作者: 瓶八

修道士のゴーシェは、お酒が大好きでした。

中でもぶどう酒が何より好きでした。

湖のほとりの修道院で、ゴーシェたち修道士はぶどう酒を作って暮らしていました。

ゴーシェが作るぶどう酒はとくにおいしいと評判でした。


ある冬の夜のことです。

修道院の鐘が、リンゴン、リンゴン、と大きく鳴りました。

「こんな夜更けにいったい誰が鐘を鳴らしているんだろう」

音に気づいたゴーシェは、ベッドから起き上がると、マッチを擦り、すっかり短くなった蝋燭に火をともしました。

壁にかけていた外套を羽織って頭巾をかぶり、蝋燭を乗せた燭台を掲げて、石造りの階段を登ってゆきました。


修道院の鐘は、修道院で一番高い塔のてっぺんにありました。

階段の行き止まりに扉があって、その隙間から外の光が漏れ出ていました。

「今夜は月が明るいようだ」

ゴーシェは、ギギィ、と音をさせながら、重い扉を押し開けました。


一頭の牡鹿が、鐘の隣にたたずんでいました。

ふつうの鹿ではありませんでした。

ふさふさとした毛皮は、夜の雪原のように、ぼうっと青白く輝いていました。

みごとな角は、半分透き通った乳色で、ところどころに星屑がからまっていました。

きらきらとまたたく無数の氷の粒のような冷気が、鹿の周りに漂っていました。


「修道士ゴーシェ」

光る鹿は喋りました。

「あなたのぶどう酒をわけてください」

その瞳は、夜の湖のように静かでした。

「あなたのぶどう酒を飲みたい人がいます」

光る鹿が喋るたびに、その息は白く濁り、やがて無数の氷の粒となって、あたりに溶け込んでゆきました。


光る牡鹿は跪きました。

ゴーシェは、乗るように、と言われているのがわかりました。

燭台を置いて、その背中に跨がると、不思議な匂いがしました。

割りたての薪と薬草と果実と土の匂いを混ぜたような、森のような良い匂いでした。


不思議な匂いのする鹿は立ち上がりました。

あっ!と思う間もありませんでした。

ゴーシェを乗せた鹿は、石造りの塔の床を蹴って大きな窓から飛び降りました。

ゴーシェを乗せたまま、まっさかさまに、高い塔から落ちてゆきました。


ぺしゃんこになる!とゴーシェは思いました。

でもそうはなりません。

不思議な光る鹿のひづめはやわらかく地面を蹴りました。

するとどうでしょう。


ゴーシェを乗せた鹿は、大きく跳び上がりました。

その高さは、修道院の塔よりも高いのです。

その上たったのひと蹴りで、修道院の屋根も、塀も、ぶどう畑も越えてゆくのです。

「こんなに驚いたのは生まれてはじめてだ」

ゴーシェは風で飛ばされないように、片手で頭巾を押さえます。


やがてぶどう畑は終わり、鹿のひづめは湖のほとりの地面を捉えました。

そしてまたひと蹴りでその湖を跳び越えてゆきます。

ゴーシェは下を見ました。

夜の湖を横切る青白い鹿の光は、むかし見た流れ星に似ていました。

「あの時なにをお願いしたんだっけ」

ゴーシェは思い出せません。


やがて湖の終わりが見えて来ました。

しかし湖が終わったところからすぐに森がはじまっているのです。

このままでは、岸辺を蹴ったところで木にぶつかってしまいます。

それでも鹿は止まりません。


ぶつかる!とゴーシェは思いました。

もちろんそうはなりません。

不思議な光る鹿のひづめはやわらかく空を蹴りました。

するとどうでしょう。


ゴーシェを乗せた輝く牡鹿は、冬の夜空へ高く高く跳び上がりました。

ひと蹴り、ふた蹴り、み蹴り。

その高さは、今や山々よりも高いのです。

月に手が届きそうなほどです。

あたりに浮かぶ星々が、鹿の角にからまっては、ほどけてゆきます。


ゴーシェと星屑だらけの鹿は、森を越え、小さな町を越え、また森を越え、川を越えました。

そしてその川を越えたところにある大きな町の、少し先の丘の上へ降り立ちました。

丘を下って森に入っていくと、まもなく一軒の小屋がありました。

「この小屋に住む人間が、あなたのぶどう酒を願いました」

不思議な牡鹿は背中に乗せたゴーシェに向かってそう言いました。


ピチチチ。ピチチ。ピチチチチ。

修道士ゴーシェは鳥のさえずりで目を醒ましました。

いつもの見慣れた朝の光が、見慣れた毛布の上に差し込んでいました。

「夢だったのだろうか」

外套は壁にかけてありました。

頭巾はたたんで棚の上にありました。

しかしゴーシェは、森のような不思議な匂いを覚えています。


ゴーシェは鐘のある塔に登りました。

鹿の角からこぼれた星屑が落ちてないかと思ったのです。

星屑はどこにもありませんでした。

しかしゴーシェの燭台が、扉のそばに置いてありました。

塔の上には強い風が吹いていました。

その風は湖から吹いています。

湖の向こうには森が広がっています。

「夢だったのだろうか」

パチン。パチン。パチン。パチン。

ぶどうの木を切るはさみの音が、塔の上まで聞こえてきます。


ゴーシェは燭台を持って地下の酒蔵へ降りてゆきました。

酒蔵は、古い木の匂いとぶどう酒の匂いとひんやりとした空気がたちこめる暗い場所です。

あまりにも暗いので、昼間でも蝋燭に火をともさなくてはなりません。

「これはだめ」

「これもだめ」

「これなら良い」

「これは、すばらしい」

いくつも並ぶ大きな樽から、ゴーシェはいちばん上等のぶどう酒を選びました。

そのぶどう酒を瓶に詰め、その瓶をかごの中へ優しく横たえました。

修道士ゴーシェは、そのかごを大切に抱えて出発しました。



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― 新着の感想 ―
[一言] 夢だったのでしょうか。 幻想的なお話ですね。
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