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「ははうえー、みてみて!魔法でお花を出せるようになったよー‼︎これ,母上にあげるね。」
「ふふ、ありがとう。」
小さな男の子と、その母親が花畑の中で笑っている。
そんな様子を少し後ろから眺める父親もまた、微笑みを浮かべていた。
柔らかな風にかすかに揺れる花。太陽の光は、優しく彼ら親子を包み込む。まるで、映画のワンシーンのような、美しい光景。
俺の記憶の中での母上はいつも笑っていて、幸せそうな顔をしていた。
そういえば、母上に昔聞いたことがある。
人は死んだら死者の門をくぐって、天国に行くのだと。
天国では、苦しみも悲しみも感じないのだと。
それを、思い出した途端、俺は唐突に死んだことを理解した。あぁ、今も、母上がこんなふうに、俺に笑いかけてくれるはずがない。と。
これは、一番愚かで幸せだった頃の、俺の幻想だ。
俺は、母上の苦しみに気づくことができなかった。寄り添うことができなかった。
そんな俺を母上は憎んでいるに違いないだろう。
俺の脳裏にあの日の光景が浮かぶ。
あの雨の日、あのたった数時間で俺の人生は一変してしまった。耳の奥に父の罵声が聞こえる。
「お前が殺した‼︎お前さえ生まれなければお前の母は死ななかった‼︎お前さえいなければ‼︎」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
初めて父に殴られたあの日、何回謝っても足りなくて、涙と鼻水に顔をぐしゃぐしゃにしながら掠れた声で父に謝り続けた。
もし、俺にもっと力があれば。そう思わない日はない。
母上は、俺の巻き添えで死んだ。俺のせいで大事な大事な母上を、殺してしまったのだ。
母上が虐げられていたという事実にさえ気づけず、のうのうと母上に守られ続け、挙句の果てには母を俺が殺した…
俺は、消えない罪悪感に、重くなる罪に、目を背けたのだ。
視界が滲む。嫌だと思うのに、涙が目にどんどん溜まっていってしまう。
無知は罪だ。俺は今まで守られてばかりで、何も見ようとしてこなかった。今はどうやったって手に入らない温かな思い出。
このままずっとここにいたい。
この中に閉じこもってしまいたい。
一度溢れ出した心の本音は、止まることができずに溢れ出す。
まばたきをした瞬間、とうとう一筋の涙が、こぼれ落ちた。
こんなの惨めだ。
どうやったって、もう戻れない。泣いたって、何も変わらない。
そうわかっているはずなのに。
頭の中に渦巻く激情をコントロールできない。
もう一度、目を開けて仕舞えば、止まらなくなりそうで、目を開けることが怖かった。
どれくらいそうしていたのだろうか。
やったのことで、目を開けると,いつのまにか、さっき見た母上は消えていて、俺は一人で花畑に立っていた。
その瞬間、さっき見た光景は嘘だったような気がしてくる。
ここはのどかだ。追手に追われることも、空腹で倒れることもない。
でも、何かが足りない。何かがなくて、その喪失感がずっと胸の奥に巣食っている。それは、冷たい風のように俺の中を吹き荒らす。俺は、何を求めているのだろうか。
ぼんやりとした黒い影。
のどかだった花畑の向こう側に、誰かの人影が見えた。まるで、冥界からの使いのようなその深い影にようやく俺は罰を受ける日が来たのかと腹を括る。
だが、それは段々と近づいてきて、女性だということがわかった。
艶やかな銀髪に、紅の瞳。一言で言って、美しい人だった。
首元の特徴的なネックレスが目を引く。
だが、なぜここに?
そう、俺が尋ねると、彼女は、
あなたの道案内をするため。
と答えた。
道案内?
どういうことだ?
あなたは死んでいたけど、生き返ったので、あなたを死者の門まで案内します。
はぁ?それこそ意味がわからない。
俺は追われる身なので、俺の命を狙う輩は星の数ほどいても、助けるものなんていないはずだ。
第一、死者が生き返るなんて、聞いたことがない。
俺の認識が合っていれば、この世で人が生き返るなんてことはないはずだし、そんなホイホイ生き返られては逆に困る。
それに、死んでいた人を生き返らせるなんて、神をも凌駕する実力を持つものは俺の知る限りいないはずだ。
そういえば…だが…
ノアの一族なら?
突然思い出したその言葉。
ノアの一族とはこの国の伝説に出てくる魔法を使うことに秀でた一族だ。そして、ノアの一族は皆、銀髪と紅の瞳を持つ。
そして今、目の前にいる彼女はその条件に当てはまる。彼女がノアの一族なのは間違い無いだろう。助けてくれたのは、彼女なのか? どういうことだ?
では、行きましょう。
俺が何か言いかける前にそういって彼女は歩き出してしまった。
こんがらがった頭を必死に整理していた俺は、半信半疑のまま、もつれる足を、慌てて歩みを進めた。
私が案内できるのはここまでです。
そう言われて初めて自分が死者の門の前に立っていたことに気づいた。
対して会話もしないまま、俺はひたすらこんがらがった頭の中を整理して歩いていたため、結局何が何だかわからないままだ。
彼女は誰なのか、死んだ人を生き返らせるなんてできるのか、俺を助けたのも誰なのか…
あなたを介抱してくれた人がいます。その人に助けを求めなさい。彼女はそう言った。
「分かった。」
そう俺が言うと、彼女はなぜかほっとしたような顔をした。
「それと、一つ聞きたいことがあるのだが、いいか?」
「俺を蘇らせたのは、誰なのか教えてくれないか?」
いいえ。今、教えることはできません。ですが、少なくとも私ではありません。私はもうすでに死んでいるので。
「そうか。あ、あと、あなたの名前を教えてくれないか?」
え!?まぁいいでしょう。私の名前はメアリです。
彼女は一瞬驚いたあと、名前を教えてくれた。ノアの一族のメアリ、か。忘れないようにしよう。
だんだんと視界はかすみ、歪んでいく。平衡感覚は無くなっていき、まるでゆりかごに揺られているようだと思った。
「これで全てうまくいく。どうかあの子が助かりますように。」
そんな彼女の呟きは風に消されて俺には届かなかった。