それは雨と共に 後
婚約者は王宮に共に住むことになった。
あまり例はないが、領地が離れすぎていて通うのが難しく子爵家も送り出す事に快く了承したためだ。普通は若い娘を王宮に入れる事に反対する親が殆どだが、令嬢はただひとりの侍女と共にやってきた。
「はじめまして殿下。ハワード家のルシルと申します」
少女は自分よりも幼い婚約者であるレオを前にしても、落胆も嘲りもない笑顔で答えていた。彼女もまた流れに身を任せて売られてきたのだろう。
僕と同じように…
だからと言って特に興味は湧かなかった、むしろ自分と似たような者を見ているとあまりいい気分でもなかった。礼儀としての挨拶のみ済ませて、積極的に会う事もなかった。
「あの令嬢またあそこにいるわよ」
「殿下が待っているようにと伝えると、いつまでもあそこにいるのよ」
「バカね、身の程知らずの上に頭も悪いのね」
庭園の四阿に何時間も座っている彼女をよく見た。王宮の侍女たちによる低級な虐めだろうが、干渉しようとも思わなかった。爵位も低く、肝心の婚約者にも相手にされない令嬢が王宮で舐められるのは当たり前だった。
しかしそれが雨の日も続くとさすがに気になった。
まだ子爵家に籍のある令嬢に体調でも崩されたら面倒なのだが
護衛に雨避けを持たせて四阿に足を運ぶと、挨拶以来、初めて自分の婚約者に対面した。
「おはようございます、殿下。こちらに御用ですか?」
「…?令嬢は僕を待っていたのではないのか?ならばなぜここに居る?」
「気が済むまで」
「貴方は侍女たちに騙されていたのに何故気付かない?僕がわざわざ呼び出すはずがないだろう」
それなりに直球で伝えると、彼女は笑って答えた。
「存じてます。嫌がらせはある程度騙されたふりをすると満足するものですから」
レオは一瞬ぽかんとして言葉を返せなかった。
騙されたふり?
「なぜ?侍女にそんな扱いをされる筋合いはないだろう?不名誉な噂は否定すればいい」
「人は見たいもの、聞きたい事しか信じない生物です。気に入らない者なら尚更。それよりも嫌がらせが増えていく方が面倒ですから」
だから甘受すると?
彼女の話によるとあまり抵抗をしていくと、次は自分の侍女が標的になるという。侍女たちの中でも階級は存在しており、貴族の関係者など力をもった者もいる。けれど…
「目下の者の為に我慢する意味がわからない」
「彼女は友達なのです。ここにもたった一人で付いてきてくれました、もうすぐ結婚するのでそれまでは守ってあげたいのです」
彼女と話すと何故だが苛々するのはどうしてだろうか。庭園に降る雨を忌々しそうに見つめていると、小さな声で相手から話しかけてきた。
「殿下は雨が嫌いですか?」
「雨が好きな者はそう多くないだろう」
「そうですか?私は好きです。雨音が余計な雑音を消してくれますし、曇天は表情を隠してくれますから。外にいると、自分の存在が雨に溶け込んで誰にも見つからない気さえします」
今度こそレオはルシルに向けて眉根を寄せた。
「貴方は雨が好きというよりも、自分がいらないと言っているように聞こえる」
「…そうですね。私は自分があまり好きではないのかもしれません」
「嫌いなものを僕に差し出すために来たのか?」
少し皮肉を込めた言い方になったかもしれないが、自分を卑下する彼女の言葉が気に入らなかったからだ。
「私が殿下にお仕えする事と、自身を嫌いな事は別です。これは私の心の在りようです」
それは何故か拒絶に聞こえた。これが自分と彼女の今の心の距離であるように。そしてレオは彼女のように、自身を嫌いだとも言えないし、好きだと言えるほど自分を持っていない気もした。
「…朝早くからここにいたようだが、朝食は済んだのか?」
「は?いいえ、王宮では朝は配膳されないと聞いたのですが」
「そ、そんなわけないだろう!王宮が満足に食も提供しないわけがあるか!」
唐突に話を変えたが、あまりの返答に怒鳴ってしまいレオは少し佇まいを直した。
「わかった、今度から朝食は共にとるようにしよう。子爵家に満足に食べれていないなど文句を言われても困る。いいな」
ルシルはしばらく呆気にとられて聞いてたが、ふふっと笑い出した。
それが思ったよりも幼い笑顔だったのが印象的だった。
朝食を共にとりながら少しずつ話をすると、彼女の性格が少しずつわかってきた。
年上の女性と話す事が、姉以外にほとんどなかったのもあるのかもしれないが、他家の令嬢はこんなに大人しいものだろうかと不思議に思った。
一人娘なら傲慢に育ちそうだが、どちらかというと消極的だな。
相変わらず家族の事などは話さないが、あまり良い扱いをされて来なかったのはわかった。
それとも自分が彼女より身分の低い者ならもう少し打ち解けてくれただろうか
友達と言った侍女の事があたまを過った。遠慮している様が少し居心地悪く、彼女がどんな話に笑ってくれるのか、何に興味があるのか知りたいと思った。
そんなある雨の日、また王宮の者達から虐めを受けている場面に遭遇した。今回はやや酷く、雨の中に突き飛ばされたような様子だった。
「だから洗濯中ですから、寝間着のまま朝食に行ってくださいと言ってるだけじゃないですか。暴れるから濡れたじゃないですか、あーあ」
数人の侍女たちが笑っている中で、ルシルは目を逸らさずに見据えていた。何もかも甘受していたら相手は調子に乗っていくのは当たり前だ。流石に見ていることは出来ずに、ルシルを助けようとした。
「お断りします」
動きをとめたレオは、ルシルが強い言葉で拒絶するのを初めて聞いた。
「売られた令嬢のくせに」
「それでも私は殿下の婚約者です。私の行いは全て殿下の評判に直結するでしょう。こんな格好で王族の前に出る事は出来ません」
まさかルシルが反抗すると思ってなかったのか、侍女達が態度を強めた。
「レオ殿下だって貴方を婚約者と思ってないわよ」
「殿下が私をどう思っているのかは関係ありません。けれど殿下の恥にならないように努めるのは婚約者の義務です」
僕がどうして彼女に苛ついたのかわかった気がした。彼女は僕と違うんだ
何もかも享受してきた自分と違って、自分で選んでいるここにいる。彼女がずっと嫌がらせを受け続けたのも、それが彼女にとってどうでもいい事だったからだ。だから譲れないものには信念を持っており、それは自分にはないものだった。
それでも望んできたわけではないだろうに、後悔を口に出すわけでもなく雨の中で毅然と立つ彼女が今まで一番綺麗に見えた。
ああ、やはり雨は嫌いだ
とても思い悩むような気持ちを抱える予感がするから
それから、あまりに度が過ぎた行いをした侍女たちは辞めさせられ、少しだけルシルの周りは静かになった。そして婚約者であるレオが時間を作るようになったのもある。
「じゃあ、また明日来るよ」
「はい、お待ちしています」
相変わらずの他人行儀だが、レオは焦らずに距離を縮めて行こうとした。それでも少しは仲良くなったが、彼女の態度は幼い弟に向ける様な眼差しだと知っていた。
まあ、まだ早い。時間は十分あるから
せめてもう少し背が伸びて、隣に立っても違和感なくエスコートできるようになったら、少しは意識してもらえるかもしれないから。それまで着々と好感度を上げる事に勤しむことにした。
「レオ」
「兄上?珍しいですね」
廊下で会う事はまずない人物に少し目を丸くした。
「お前えらくいい顔してるな。噂の婚約者が出来たからか」
「…そうかもしれません。以前兄上が言ったような立派な志は持てませんでしたが、守りたいものは見つけました」
「あ~…あ?違う違う!あれは俺はなって言っただろう?別にそれが大層なものじゃなくてもいいから、何も希望を見いだせないような虚しい生き方はするなって事。お前は生きていることがつまらなそうだったからな」
他人ならどうでもいいがお前は弟だからと言う兄を見上げなら、この人もまた自分とは違うが、どこか近い暖かさを感じた。
「じゃあ兄からひとつ忠告してやる。お前は優秀だと言われているが大事な物を守るためにその矜持を捨てられるか?」
「は?」
考えろと言われて笑って去っていく兄の後姿を見ながら、レオはその場で立ち尽くして考えた。
優秀だと都合が悪いのは兄上への対比であり、それが何を指すのか。このままを貫くと、もしかして僕を王太子に推す派閥が活性化する…?
そうなると、家格の釣り合わないルシルとは婚約破棄させられるかもしれない。第二王子ならよくても王太子にはふさわしくないから。
彼女を失わない為に捨てられる矜持なんてたかが知れてる。いくらでも道化を演じて見せよう。
自分が好きではないと言った彼女に、好きだと言ってあげたいから
レオは今まで自分の事も周りの事もあまり興味はなかった。
けれど、彼女を想う自分が少しだけ好きだと思えるようになった。