いつもの日常
「おはよう、ルーシー」
朝食の席で笑顔で話しかけてくるのはこの国の第二王子のレオナルドだ。まだ大人の背丈の半分にも満たない十歳の少年で無垢な瞳でこちらに手を振っている。
「おはようございます、殿下」
そして十六歳のルシルの婚約者でもある。
「今日はルーシーの好きなチーズ入りのオムレツだって」
「楽しみです」
「聞いてよ。今日は座学の時間が多いんだ。やだなぁ」
「また武術の時間のように逃げ出さないようにして下さいね」
笑顔で答え、いつも通り幼い王子と簡単な雑談を楽しむ。婚約者と食事を共にするのが朝の始まりであり、日常だった。
「え~だって楽しくない」
「殿下はまだ幼いですから学ぶことが沢山あるんですよ。全部終わったら美味しいお菓子を用意しておくので、私の部屋で一緒に食べましょう」
王子はぱっと明るい顔をした後に、少し渋い顔をしながらわかったと呟いた。護衛と一緒に出て行く王子を見送っていると、近くにいる侍女が笑いながら話しかけてきた。
「第二王子は本当にルシル様が好きですね。ルシル様の言う事なら大概は大人しく聞いてくれますから」
「…元々やるべき事はちゃんとわかってる方だもの。私が言わなくても大丈夫よ」
その言葉をあまり本気にしていない侍女を余所に、王子が出て行った扉を見つめた。
日が傾き始めると、部屋の扉を叩く音がして王子が入ってきた。王子は侍女や護衛を部屋の外に放り出すと、やっと力を抜いてルシルの対面の長椅子に座った。
「お疲れ様です、殿下」
「ルーシー、ここには二人しかいないから」
「そうですね、レオ」
いつも名前で呼ぶ事を好んでくる、小さな婚約者の顔を見ながら笑う。殿下と呼ぶと途端にむっとする顔
はとても子供らしくて可愛いと思う。
「授業はどうでした?」
「今日は異国の学者が来てたから初めから出るつもりだったよ。書物を丸読みする講師よりも全然面白かった。ああこれ、異国の珍しい菓子貰ったからルーシーにあげる」
「レオが貰ったのでは?」
「ルーシーが食べる姿が好きなんだ。甘い物好きでしょ?」
お菓子を用意していると言っていたのはこちらなのに、何故か自分が貰ってしまって困惑する。
「ルーシーは今日は何してたの?」
「母から手紙が届いたのでその返事を書いてました。近くの村で疫病が流行っているとか」
「そういえば報告があったね。まだ貴族が住む街には罹患者は出てないけど時間の問題かも。早めに神殿に救護を要請しないと」
彼は年齢程幼くはないと常々思う。なぜか皆の前では年相応の子供のように振舞うが、ルシルと二人きりの時だけ大人びた雰囲気になるのは、こちらが素だからだろうか。
まあ、王家の子供が普通の子供と同じわけないとは思うけれど…
どちらにしても、後継問題が絡む政治的な意味で、幼いながらに年齢以上の仮面をいつも被らされているようでならない。それが無垢なレオは微笑ましさを感じるが、少し物悲しい気持ちも湧いてくる要因だった。
私達の婚約もそうだし…
ルシルは王子の婚約者としては爵位が低い子爵令嬢だった。
ただし、ただの貴族令嬢ではなく王家の血を引いている。
彼女の父親は、前世代の第七王子で隣国の王女と結婚するはずだったが、子爵家の令嬢である母と恋仲になり、婿入りで身分を落としてでも一緒になった。
結局、父は私が幼い頃に亡くなったんだけど貴族にしては大恋愛よね
その後、爵位は母の弟が継ぎ、子爵家では肩身の狭い生活を送った。十六歳になった頃、今まで何の音沙汰もなかった王家から婚約者候補として呼ばれほぼ強制的に今に至る。
まあ、母は反対してくれたけど、あそこにいても良い縁談はなかっただろうし、相手がレオでむしろ良かったと思う
たとえ侍女たちの間で売られてきた令嬢と言われても。
身分とは権力であり、子爵家の人間など王宮にはほぼいない。第二王子の婚約者の肩書はあっても所詮結婚しているわけではないので、冷遇される場面は多々あった。
「ルーシーどうかした?」
「あっ…いいえ、異国のお話が面白そうだったので、本でも借りようかと思って」
「王宮図書館?あそこは二階のテラスの眺めもいいんだよ。きっとルーシーも気に入ると思うよ」
ふふっと笑いあうと対面に座ったレオが、じっとこちらを見て自分の右隣をぽんぽんと手で示した。ルシルは少し笑って席を立ち、レオの隣に腰かける。すると腕を組んだレオは倒れる様に、ルシルの膝に頭を乗せた。
レオは姿に似合わない大人びた言葉遣いをする割に、ルシルの前ではやや子供らしい仕草をして甘えてくれのが、心を許してくれているようで嬉しかった。
するりと頭を撫でると、一瞬びくっとレオが跳ねたように感じたが、そのまま大人しく撫でられてくれている。後ろ向きで表情はわからないが、耳が赤い気もする。
「レオも少しは息抜きをして下さいね。レオくらいの年齢の子達の間でカードゲームが流行っているらしいので、遊んでみるのもいいかもですよ」
何気ない会話だったが、それを聞いたレオが少し悲しそうな表情をしたのにルシルは気付かなかった。そしてこんな穏やかな日常に変化が起こるなど、この時のルシルは思ってもいなかった。