第4話
九人の乙女
みなさん、これが最後です、さようなら、さようなら
「時雨、これは、けっこう面白い特集を組めるぞ。8月の彼女たちの命日に、札幌の寺で法要が営まれるっていう話だ。」
札幌に本社を置く道都新聞社ビルでは次々と電話のベルが鳴る中、大勢の記者や編集者の話し声、いや、怒鳴り声が響いていた。
大東亜戦争が終わって20年近くが経ち、札幌も近代的な都市へと生まれ変わる中、市内のいたるところでビルの建設が行われている。
「東京オリンピックを間近に控え、もはや戦後ではない。日本全体が浮かれまくって、若い連中は戦争のことなんか大昔のことみたいに思ってる。だがな、そんな時だからこそ、戦争の記事が受けるんだよ。日本人は美談が好きだからな。」
そう話す編集長の視線の先では、記者の時雨が机に向かっていた。
彼の手は何かの記事を書いており、口には火の付いたタバコがくわえられていた。
時雨は変わり者であり、彼を煙たがる者も多い中、編集長は彼を高く買っていた。
「そんなもんですかね、お涙頂戴の特集ですか。何だか力が入りませんね。」
ほかの仕事で忙しいのか、時雨は興味なさげの様子だ。
「まあ、そう言うなよ、死んだ電話交換手の妹が札幌にいるらしいから、話を聞いて来いよ。純潔を守るため、全ての乙女たちは従容として毒をあおった、これぞ美しき日本人。こんな記事を頼むよ。」
時雨はタバコの灰を灰皿へ落としながら、回転椅子を回して編集長の方へ向いた。
「誰も詳しいことは知らんでしょう。その場にいた連中はみんな毒を飲んでおっ死んだんだから。」
「絶望とか悲劇なんかはな、後世の人間が勝手に想像して作り出すんだよ。それらしく、しかも大げさな記事が出来上がれば、それでいいんだ。お前、何年この仕事やってんだよ。」
「分かりましたよ、編集長は戦争世代だから。」
「お前だって戦前の生まれだろうがよ。」
「はいはい、でも終戦の時は小学生でしたから、よく分からんです。」
編集長にせかされた時雨はハンチングを被ると、少々面倒くさげにビルをあとにした。
捨て台詞を残す時雨を見送る編集長であったが、彼とは馬が合ったのか、腹立たしいという思いを抱いたことがなかった。
札幌のオフィス街の一角にその建物はあった。
「ここだな、妹がいるという電報電話局は。」
さっさと取材を終わらせて喫茶店で時間をつぶすか。
やっつけ仕事だ、給料のためだと割り切るか。
そう思いながら建物の中へと入っていった。
受付窓口には暇を持て余しているのか、雑誌を読んでいる中年の男性職員がいた。
「磯風ハナエさん、いらっしゃいます。」
いきなり要件を告げられた職員は不機嫌そうに時雨へ返した。
「あんた、誰さ。」
「申し遅れました、道都新聞で記者をしている時雨といいます。」
職員はいかにもお前が気に入らないという態度を示しながら、電話で磯風ハナエを呼び出した。
ほどなくして一人の女性が現れた。
30歳を少し超えたくらいであろうか、いかにも仕事ができるという感じのする女性だった。
「道都新聞の時雨と言います。樺太の真岡郵便局のことを聞かせてもらいたくて、お姉さんのいた。」
「何ですか、いきなり。」
ああ面倒くせえな、そう思いながらも時雨は話を続けた。
「まあまあ、九人の乙女のことでね。」
すると、意外な言葉が彼女から返ってきた。
しかも、その言葉からは何となくではあるが嫌悪の感情が読み取れた。
「九人ですって…」
「九人ですよね、そう聞いてますけど。」
みるみるうちに不機嫌な、というよりも怒りの表情が彼女の顔を包んだ。
「いるんですよ、10人目が。」
「みんな死んだのでは。青酸カリを飲んで。」
「逃げた10人目がいるんですよ。」
「え、どういうこと。」
「一緒に死のうと言っておきながら、逃げ出した人がいるんですよ。」
「…!」
「仲間が毒を飲むのを見ていながらね、止めもしないで。」
「まさか…」
「そのまさかです。10人目の裏切り者がいるんですよ!」
最初はただの面倒な仕事だと思っていた時雨であった。
しかし、10人目の存在、このことがどうしても彼の中で引っかかった。
何となく前にも似たような人物に会ったような気もするが…
時雨は、喫茶店での時間つぶしも忘れ、急ぎ新聞社ビルへ戻った。
「編集長、10人目がいるらしいですよ。名前も聞いてきました。どうやら北海道にいるようです。」
「何だって、妹が言ってたのか。」
時雨の話を聞いて、編集長の目は色めきだった。
「聞いた話では、一人だけ青酸カリを飲まずに逃げて助かったらしいです。」
時雨の話を聞いて、編集長は ”しめた!” というような顔をした。
「美談の裏に卑怯者の影か。潔く死んだ9人と、仲間を裏切って逃げ出した10人目の存在。みんなが毒を飲んで死ぬのを待ってから逃げ出したということか。」
興奮のあまり立ちあがった編集長の机の上では湯呑がひっくり返り、茶が書類を水浸しにしていた。
慌てた女子社員が雑巾を持って駆けつけ、編集長の机を拭き始めた。
そして、時雨は、まるで獲物を見つけた狐のような目を編集長へ向けた。
「どうしますか、編集長。」
編集長も獲物を見つけた狐の目をしていた。
しかも、妙ににやついている。
「決まってんだろ。時雨、10人目を探せ! これはなかなか面白い記事になるぞ!」
樺太連盟、北海道庁、稚内市役所など、時雨はおよそ樺太からの引揚者の情報を持っていそうな団体や役所を片っ端から回った。
戦前は地縁血縁の強い時代である、何か小さな情報でもあれば、それを手がかりにしてたどり着くはずだ。
そしてとうとう、樺太の真岡病院に勤務していた高波という医師が小樽出身であることを突き止めた。
「医者はその地域の名士か、そこそこの家柄だ。これは楽勝かもしれない。」
確かに小樽に高波医院という病院は存在した。
どこにでもあるような地方の病院という感じの建物であり、そこには気のよさそうな初老の男の医者がいた。
「高波京子さんはこちらにいらっしゃいますか。」
「高波京子って、京子のことか。あいつは私の従妹だが、あんたは誰だ?」
「樺太で近所に住んでいた者です。小さいころから仲良くさせていただいて。引き揚げる時に、落ち着いたら訪ねて来るようにと言われていたものだったので。ああ、それとこれを。」
新聞記者だと正直に言えば警戒されることは経験から分かっている。
時雨は嘘をついた。
しかも、わざわざ菓子折りまで用意して。
「そういうことかい。あいつは結婚して今は夕張にいるよ。」
時雨の言葉を信じたのか、菓子折りに騙されたのか、医者は何の警戒感も示さず京子のことを話した。
夕張は札幌から列車で2時間か3時間くらいの炭鉱町だ。
朝鮮戦争から始まる日本の経済成長の中で、国はエネルギー源である石炭の増産を叫んでいた。
多くの炭鉱が存在する夕張も、時代の波に乗って10万人の人口を誇る都市となっていた。
そんな街の一角にある炭鉱住宅に京子が住んでいるらしかった。
結婚して青葉という姓を名乗って。
「青葉…、ここだな。」
表札を確認した時雨の目の前でいきなり引き戸が開き、買い物かごを持った中年の女が出てきた。
「京子さんですよね。」
「はい…、そうですけど。」
時雨は、やっとたどり着いたという安堵の表情を浮かべながらさらに問いかけた。
「やっぱりそうでしたか。あの、樺太の真岡郵便局でのことを聞きたいのですが、九人の乙女の。そうだ、私、道都新聞の時雨と言います。」
その言葉を聞いて、女の顔がみるみるうちに険しいものとなっていった。
「知りません、樺太なんて。人違いです。」
「そんなはずはないですよ。小樽の高波医院のお医者さんから聞いてここに来たんですよ。」
「ですから人違いです、警察を呼びますよ!」
怒りを含んだ激しい言葉を投げつけながら、女はその場から足早に立ち去ろうとした。
「京子さん、待ってください!」
女を引き止めようと時雨は必死に彼女の背中へ言葉を投げかけた。
「来月、亡くなった電話交換手の法要が札幌であるんですよ!」
「磯風ハナエさん、知ってますよね!」
女は決して振り返ることはなかった。
しかし、その背中からは何かを訴えたいような、何かを叫びたいような、そんな雰囲気を時雨は感じ取っていた。