第3話
昭和20年8月15日。
日本は連合軍に無条件降伏したはずなのだが、ソ連はそれを無視し、京子たちの住む樺太に攻め込んできた。
しかも、4年前に結ばれた日ソ中立条約によりソ連は中立国のはずであった。
樺太は北海道の北にある島で、南半分は日露戦争の勝利によって日本の領土となり、そこに住む日本人は40万人を超えていた。
樺太にある真岡郵便局の一室では、局長の加賀が女子局員に向け話をしていた。
「日本の降伏によって戦争は終わりました。にもかかわらず、卑怯にもソ連はこの樺太に攻め込んできました。今まさに、ソ連の軍隊がそこまで迫っています。そこで、婦女子は北海道へ急ぎ疎開するよう樺太庁から指示が出されました。君たちもすぐに疎開船に乗るように。」
女子局員の班長である伊勢が加賀局長に尋ねた。
「電話交換は誰が行うんですか?」
「真岡中学の男子生徒に行ってもらいます。」
しかし、答える加賀局長に女子局員たちは次々と自分たちの思いを口にした。
「一人前の電話交換手になるのに3年はかかります。彼らでは無理です。私はここに残ります。」
「国境ではソ連軍を相手に戦っている日本の兵隊さんが大勢います。私たちがいなければ、軍の通信手段が成り立ちません。」
「私は残ります。」
「私も!」
そう話す彼女たちは電話交換手だ。
当時は電話を相手方へつなぐには郵便局にいる交換手の手を経なければならなかった。
電話交換手は女性の花形職業であり、誰もがその職に就けるわけではなく、成績優秀で品行方正な者が選ばれたのである。
その中には高波京子と磯風トミ子もいた。
二人は家が隣同士の幼馴染であり、姉妹のように育ってきた親友同士だった。
「絶対に電話交換手になるんだ。」
高等女学校の頃からお互いにそう励ましあい、ともに勉学にいそしんできた。
「京子ちゃんはどうするの?」
戸惑いながら尋ねるトミ子に京子は毅然とした態度で答えた。
「私はここに残る。お父さんがアッツ島で戦死しているから、私だけが逃げるわけにはいかない。」
「そうなんだ…」
「トミちゃんも残るんだよね。」
トミ子は何も答えなかった。
覚悟を決めている京子に対し、トミ子には少し迷いがあるようだった。
ほかにも、決めかねている電話交換手の女性が何人かいた。
そこで、加賀局長はいったん女性たちを帰宅させることとした。
「それではみなさん、一度帰宅して、親御さんとよく相談してください。しかし、これだけは忘れないで下さい。戦場に取り残された女性たちがどんな運命を辿ることとなるのか。そのような歴史が何度も繰り返されていることを。」
京子が自宅に戻ると母は荷造りをしていた。
着替えや貴重品をリュックに詰め込んでいる。
「お母さん、私はここに残ろうと思う。」
京子の決意を聞いた母は激怒した。
「バカなことを言うんでない!」
「私が逃げれば戦っている日本の兵隊さんに迷惑がかかる。お父さんだって私を応援してくれるはずよ。お父さんの名誉のためにも絶対に逃げない。」
京子の父は医者であった。
3年前に軍医として招集され、北極に近いアッツ島で戦死した。
戦死を知らせる軍からの文書には、父は軍医であるにもかかわらず、アッツ島守備隊の生き残りとともに米軍陣地へ最後の突撃を行い、見事なる戦死を遂げたと書かれていた。
そして、真岡の町を挙げての葬儀が行われ、天皇陛下から御香典が下賜された。
「お父さんは、どんなことがあっても人殺しをするような人ではない。それに、みんな玉砕したのに最期の様子がどうやって分かるんだ。何が名誉の戦死だ、いい加減なことを言うな!」
京子と違い、母は名誉の戦死などというものを全く信じていない。
そこへ、京子の兄である丈一が帰ってきた。
彼は、中学を卒業して、この真岡にある製紙工場で技術を学びながら働いていた。
「お兄ちゃん、お母さんに何とか言って。」
丈一も京子と同じく、父は名誉の戦死をしたと信じている軍国少年だ。
「母さん、京子だってもう子どもではない。それに、俺もここに残ることになった。すべてはお国のためなんです。」
”お国のため”
この言葉はありとあらゆる議論を封殺してしまう力を持っていた。
「あんたまで、そんな…」
「母さんだけ先に実家のある小樽に疎開するんだ。小樽には父さんの兄弟もいるし。明日の朝に船が出るからそれに乗ってください。戦いが終わったら俺たちも北海道に引き揚げるから。」
茫然とする母に向かって兄は淡々と話した。
これは、どこの家でも見られた光景なのかもしれない。
翌日、疎開船に乗る母を見送りに京子と丈一は港へ向かった。
「絶対よ、絶対だからね。どんなことがあっても死ぬんでないよ。」
母は涙まで浮かべて京子と丈一に何度も言い聞かせた。
「大丈夫だ、日本軍が露助どもを蹴散らしてくれる。」
「後から私たちも北海道に行くから。」
母の悲壮な顔とは対照的に、誇らしげな顔までして話す京子と丈一であった。
これから訪れようとしている悲惨な運命も知らずに…
母を見送った後、兄の丈一は製紙工場へ、京子は郵便局へと向かった。
そこには9名の電話交換手の女性たちがいた。
ほとんどが親の反対を押し切ってここに集った者たちだ。
その中にはトミ子の姿もあった。
「トミちゃんも残ることにしたんだ!」
「うん、京子ちゃんも残るんならって。それで、父さんも母さんも許してくれた。」
京子は嬉しそうな表情を浮かべトミ子へ問いかけた。
「トミちゃんの家族はどうするの。」
「父さんは警察官だからここに残るんだって。それなら、母さんも妹も残るって。死ぬときはみんな一緒だからって。」
不安げな顔をするトミ子を励ますように京子は言った。
「そう、トミちゃん、みんな一緒よ、ずっと一緒よ!」
お互いの存在に勇気づけられながら電話交換業務を行う中、外の様子をうかがっていた女子局員の声が響いた。
「露助の船が見える!!」
ソ連軍がついにこの真岡にも上陸してきた。
兵力で勝るソ連軍は日本軍を駆逐し、郵便局の近くへも迫ってきた。
街中から火の手が上がり、銃声が聞こえてくる。
班長の伊勢が窓から外の様子を見ると、ソ連兵の姿が見えた。
「露助に捕まったら、何をされるか分からないわ。」
「純潔を汚されるくらいなら自決するわ。」
「局長はまだ来ないの!」
そうする間にも、交換を依頼する電話がひっきりなしになり続け、何人もの女性が電話交換作業を行っている。
みなを指揮するはずの局長は、どういう理由だろうか、ついに姿を見せなかった。
「露助が来る前に、みんなはここを脱出してください。」
班長の伊勢はみなにそう呼びかけた。
「班長はどうするんですか。」
伊勢は悲壮な決意をもって答えた。
「私は最後までここに残ります。」
京子をはじめ、誰一人として逃げ出そうとする者はいなかった。
全ての者が覚悟を持ってここに集ったのだから。
その頃、ソ連兵により真岡の町は地獄と化していた。
一般市民を面白半分に殺害し、建物に押し入っては金目のものを奪い、女性たちを襲った。
己の欲望が満たされると、用済みとばかりに女性たちを撃ち殺した。
全裸にされた女性の死体の横で、笑いながらズボンを上げ、ベルトを締め直す露助ども。
そして、この真岡郵便局にもソ連兵が近づいてくる気配がした。
「ついにこの時が来たのね…。京子ちゃん、まだ回線がつながっている郵便局へ最後の交信を行ってください。」
京子に指示を出すと、伊勢は目に涙を浮かべながら10個の湯呑にヤカンの水を注ぎ、そこに白色の粉末を溶かした。
「青酸カリよ。みんな、今までありがとう…」
湯呑を持つ伊勢の手はかすかに震えている、死の恐怖で…
「これが最後よ、みんな、さようなら、さようなら…」
そう言って、伊勢は湯呑を口に当て、一気に飲み干した。
そして、ほかの女性たちもそれに続いた。
中には、毒を飲む前に両足をきつく紐で縛り、開かないようにしている者もいる。
”屍姦!”
そうだ、露助はそういう連中だ、あいつらは生まれながらの悪党だ。
絶対に捕まるわけにはいかないんだ。
トミ子はそう思うと、迷いながらも湯呑の中身を口に流し込んだ。
女性たちはまるで集団ヒステリーにかかったかのように、次々と湯呑の中の毒をあおっていった。
京子は、まだ回線がつながっている別の町の郵便局へ最後の交信を行っていた。
露助の兵隊に囲まれもう助からないこと、
班長をはじめ全員が毒を飲んだこと、
これから自分も毒を飲むことを。
しかし、交信を行ったため、皆に遅れを取ってしまった。
その場の勢いに乗り遅れてしまったことが、京子に周囲の様子を観察する時間を与えてしまった。
交信を終えた彼女の目に九人の姿が飛び込んできた。
苦しみのあまり鬼の形相を顔に浮かべながら、今まさに命の灯を消そうとしている九人の姿が。
もがき苦しむ女性たちの姿を見て、軍国少女であったはずの京子の心が揺らぎだした。
湯呑を持つ彼女の両手はガタガタと震え始めた。
軍国少女の覚悟などただのハリボテだったのか。
死が目前に迫る中で、自分を包んでいた鎧が次々とはがされるような感覚に襲われた。
湯呑を口にあてる京子であったが、どうしても口を開けることができない。
「どうして口が開かないの…、私の口が私の言うことを聞かない。どうして…」
口を開け、湯呑を持ち上げるだけ、ただそれだけのことなのに、どうしてもそれができない。
私は誉れ高き日本人だ。
父さんのいる靖国神社へ行くんだ。
卑怯者にはならない、絶対に。
自分を鼓舞するかのように、まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
その時、敵の銃弾が激しい音を立てて窓を割った。
さらなる恐怖に包まれた京子にトミ子の声が響いた。
「京子ちゃん、飲んじゃダメ、絶対飲んじゃダメ!」
このトミ子の最期の言葉は、京子の心の中では別の言葉となって響き渡っていた。
「京子ちゃん、一緒だよね、ずっと一緒だよね、そう言ったじゃない…」




