哀嬢
どぶ漬けられた真っ暗闇の中から、急に飛び出したような気がした。
するとすぐに、熱いものが不意に……胸を昇る。
それが勢いよく口まで来て、出ていくのを止められない。
一歩も動けず、それを辺りに撒いてしまうのを止められない。
受け皿かなにかを使うこともできずに撒きちらしてしまう。
けれど、それでもいい……どうでもいいと思ってしまう。
いっそのこと、このまま一緒に……内臓でも命でも、精神でも……適当に吐き捨ててしまいたい。
そんな気すらしてしまう。
「局長……」
一言だけ、吐瀉物にまみれた口から……声が出た。
そのあとは結局、涙しか出ない。
「ダメか……まったく情けない」
「ま、まだ一日ですからナ……しかしどうにも臭いますナ、ひとまず本人と部屋の清掃ですナ」
マリエとペドロ課長の二人が近くで話していることは分かる。
その意味では……多少は意識がはっきりしてきて、周りで起きていることを感じ取れるようになった……のかもしれない。
ただ、まだ……それらに反応するだけの力が湧かない。身体のどこにも、力が入らない。
「ひとまずシャワーでも浴びさせてやってくださいナ」
「……どうすれば良いか分からない」
「私が手伝うのは大いに問題ですからナ……適当にお湯をかけて洗ってやれば十分ですゾ」
「それでいいなら、拒否はしない」
「ありがたいですナ、では着替えを用意しておきますゾ」
身体を抱え上げられた。
「あっそれだと貴女の身体に……」
「構わない。メイだから気にしない」
「……右のドアの先が、浴室ですゾ」
私は浴室へ連れて行かれるらしい。
別に嫌ではない。けれど、自分で歩いていく力はまだない。
「立たせたまま脱がせるには、手が足りない……」
私を抱えたまま、マリエは一度足を止めて……また歩き出して、私を低い椅子に座らせた。
「脱がす。文句は聞かない」
トップスの布地が身体のあちこちに引っかかる……少し、痛い。
脱がせ方としては割と下手……少し、似てる。
また……あの子を思い出してしまった。
ただあの子はもしかしたら、意地悪くわざと引っかけてたのかもしれないな……と。
けれど、もうそれは悲しくなるだけ。
もう、考えないほうがいいこと。
分かってる。分かってる、けれど。
目が熱い。また涙が流れてるのだろう。
「下着も取る。不満は聞かない」
全部脱がされたらしい。
胸元にシャワーを当てられる。湯が流れ落ちていく。
この水流で、全身を洗い流せ……ということらしい。
けれど、手が動かない。
マリエは私を、洗ってくれるだろうか?
マリエの手が、私へ伸びたのが見える。
けれどもその手は、私に触れずに引っ込んだ。
「……ごめん、やっぱり自分で洗ってくれない」
それがなぜなのかは、全く分からない。
シャワーの水音に混じって、ドアの開閉する音が聞こえた。
浴室に一人残されたらしい。
私は胸元にシャワーの湯を浴びているようだけど、それで身体を洗うことはできないでいた。
ただ座ったままで、目の熱さよりもぬるい湯を受け続けていた。
このまま少しずつ、この水流に削られて、残らず流れ去ってしまったら……楽になれるのかもしれない。
動くことのできない身体で、そう考えてしまい。
動けないでいる。
「いつまでシャワー……と、これじゃ洗えていない」
ドアの開閉する音に混じって、マリエの呟く声が聞こえた。
「私は……いつまで……」
視線を感じる……ような気がする。
「……ごめん」
私は気力を振り絞って、なんとかマリエに一言返した。
すると目に感じる熱が、少し変わったような気がした。
「……そうじゃない……」
しかしマリエの答えは、意味の分からないものだった。
私は浴室から出され、布地を羽織らされて別室へ連れて行かれ……そこで横になっていた。
「今日はどうやって眠らせてみましょうかナ……」
「失神させるくらいしか思いつかない」
「えっ?」
突然、首の左右から絞められた。
そこから上がピリピリして、目の奥が痛んで……苦しいけど、止めよう、抗おうという気持ちにはならなかった。
このまま暗がりに沈められて、そのままなら……それもそれで……
「これでも、すぐに起きるのは変わらない」
落とされた暗闇から、また起き上がってしまったらしい。
「姑息的治療にはなりそうですがナ……これじゃ睡眠剤と変わりま」
なにか機械的な、大きな音が話し声を遮った。
「はいナ、こちら疾風ペドロ……おお、そういえば今日ごろ完了でしたナ。はい、はいナ……早速ですが、こちらへ向かわせてくれますかナ? 明日になる? ええ構いません、よろしくですゾ…………では、さらばですナ」
一人の声しか聞こえない時間帯。
「ふふ、どんな具合か楽しみですゾ」
「なんだか楽しそう……でもそんな場合じゃない」
そうだ。こんなときに、何を楽しそうに……
私には、もう関係ないことなのだろうけど。
「いやいや、メイ課長にとても関係の深い話でしてナ……特効薬になるかもしれませんゾ」
「え? それは……」
「明日着くとのことですゾ、早めに準備をしておきましょうかナ……課長を別の部屋に運んでくれますかナ?」
「問題ない」
私はまた身体を抱えられて、別室の椅子に座らされていた。
「数日はカメラで見守るだけにして、一人にさせてみましょうゾ」
「私がそばにいないほうがいい、と? あまりいい気はしない……」
「今日のところは環境を変えてみよう、というだけですゾ。明日は私の別件を手伝ってほしいのですがナ」
「もう少し待てば、別の特効薬もできる予定ですがナ……そっちはちと刺激が強すぎるかもしれませんからナ」
二人が話しながら、部屋から出ていった。
私一人、部屋に置いていかれて……ただ座っていた。
結局、何もできずにいた。
いや……用足しくらいはできるようになっていた。
それ以外はただ、同じ椅子に座っていて……一日ほど過ぎたらしい。
何の音もない、力もない状態が長く続いたあと……ドアの開く音がして、光が部屋に入った。
眩しい。マリエが来たのだろうか。
「こんにちは~、ここに、メイってひとはいますか?」
……私の知らない声が聞こえてきた。
「えっと、その……そのひとが、あたしの──」