やさしそうなせかい
昨日……いや、おとといか。
朝まであの娘と寝ていた疲れが、まだちょっと残っている。
正直ダルい。身体のあちこちがダルかったり痛かったりする。
喉もちょっと痛いし、夕方くらいまでは二度寝したい気分。
けど、これ以上出発を延ばすのもよくないかな。
向こうで過ごす時間の余裕がなくなっちゃうし。
「んじゃメイやんいってら、おみやいっぱいよろ〜」
「それはいけない」
白い壁の小部屋の中へ、外側からの声が聞こえてくる。
「わーってるってぇ、冗談よジョーダン」
「行ってらっしゃい……あなたのことだから、心配はしていない」
室内では、これら外からの声が止んだのち……いくつかの無機質で合成的な声が響き合っていた。
「目標地点周辺面に生体反応はないか……検出なし、クリア!」
「生存性パラメータの確認よいか!」
「ふん囲気組成、温しつ度、重力、病原性び生物、なんとか線量……とにかく全部ヨシ!」
「適合性確認完了……異界転出、準備できたです!」
「了解、みんなお疲れ様」
小部屋の中で、一方の壁に背を預けて立つ女……メイと呼ばれていた女が機械的な声に応えた。
その声に従ってか、室内のあちこちに散らばっていた小さな半透明の人影たちは透過度を高めていく。そしてそのまま色と存在を薄めていき、やがて彼らは消えた。
「ふう……」
さてひと仕事、行ってみよっか。黒カラコンも入れたし……
ある世界の、ある城下町の、ある裏路地の……人の行き来どころか他の生物すらまばらな地点に……黒い髪、黒い瞳の女が一人現れた。
但しその世界には、女の現れる瞬間を見た者もいなければ、女が別の世界からそこへ侵入したことを知る者もいない。
よし、周りには誰もいない。まずは平穏に侵入できたかな。
さて、標的を探す前に……まずはじっくり現地調査をしてみよう。いつも通りに。
前情報ではこの異界は……いや、良いや。とりあえず見に行こう。危険の少ない、穏やかな世界だったという話だし。
とりあえず自動翻訳アプリだけは先に起動して、と……
「異界言語自動翻訳、起動……プロセス構築実行」
「……基本スキームノ設定完了。言語検出ヲ開始」
アプリも問題なし、ここまではいい感じ。
それにしても……風が暖かくて、なんか気持ちいいな。
なんとなく、いい予感。
世界に密やかに現れた女……メイは胸の辺りまで伸びた艷やかな濡れ髪と、くるぶしの辺りまで伸びたひだ付きのスカートを春風に揺らしている。
それを誰に見せるでもなく、建物の壁沿いへ歩いていった。そして表通りと交わる地点の物陰から、人目を避けるように顔だけを出して通りを歩く人々を覗いてみる。
顔をのぞかせるために軽く前かがみになると、横髪が前に流れて自身の胸の上に乗り、その存在感を一層強調するが……それは当人の気にするところではない。
表通りには、二足歩行で歩いている人影が大勢見える。それらの誰を見ても……みな獣めいた頭部をした、人型の姿をしている。
犬? 狼? みたいな人? その後ろは……馬の要素がとても強い。というか完全に馬面……あ、その次の人はほぼ人間のような顔つき? だけど頬から首にかけてキリンみたいな網目模様が見える。それに首自体も他の三倍くらい長い。
しかし、顔のつくりや体の大きさにかかわらず、全員が二本脚で直立して歩いている。あっ、あの白毛の猫かわいい……
……四肢の構造は、人間に似ているのだろうか?
手はよく見えないけど、足は……長靴やサンダルらしきものを履いている人もいれば、獣の素足を出してる人もいる。
それに、行き交う人たちを目で追って比べてみると……時々、普段の人間の歩様とは違った……つま先立ちのような格好で歩いている人がいる。けど、見た目にはぎこちなさも、不都合そうな感じもまるでしない。ヒールの高い靴を履いているわけでもないのに。
他の人と見比べても……少し歩きが速い、くらいの違いだろうか。
もしかしたら、それぞれ骨格が違う……のだろうか?
うーん、謎だらけ。まさに、百聞は一見にしかず……ね。
メイは事前に、この異界について「様々な獣人が魔族と争いつつも内部に穏やかな社会を構築していた世界である」との説明を受けていた。
確かに一言で表すなら「様々な獣人」と言うのが妥当だろうが……実際に見てみるとその情景に驚かされ、情報量に圧倒された。
霊長たる種……即ち『ヒト』が画一的な進化をしていない世界。言い換えれば異なった身体構造を持つヒトとヒトとが共存する世界。それが、各界の根源であり、私たちが住む『礎界』……の他にもあったなんて。
来て早々、自身の常識をひっくり返された。
そして、一時的な異物としてではあるものの、そこに加われた……さっそく起きた異界ならではの経験に、テンションが上がる。
いきなり楽しいなこの異界、いいじゃん!
次は、ただ眺めるのではなく、人々の歩く流れに混じってみることにした。
するとあちこちから視線を感じたが、それとは別に様々な声……話し声やうめき声が聞こえてくる。
辛そうな声……?
確かに顔を見てみると、元気のない表情をしてる人がちらほらいるみたい。
ま、社会の全員が常に幸福なんてことはあり得ないし……そんなもんでしょう。
……との、メイの気楽な思考の腰を折るかのように、
「自動翻訳ver.1.0、構築完了。言語野ヘノ適用ヲ推奨シマス、ゴ裁可クダサイ」
わざとらしく人工的な声が頭に響いてきた。
「十カウント内ニ適用許可サレナイ場合ハ、記録ヲ破棄シマス」
「……干渉を許可します」
メイはその声に応えるようにつぶやいてから、唾を飲む。
アプリの操作には、発声が必須というわけではない。ただ、メイは発声が自身への意識付けとなることを何となく知っている。
また意識付けをする理由は……なるべく、できるだけ……覚悟を決めたいのだ。アプリの干渉によるものと思われる、辛い頭痛を耐えしのぐために。
何かが頭の中に染みこんできて、そこにそのまま棲み着いたかのような重く鈍い痛みが来るから。それを耐えるために。
だから、あえて声を出した。
……あの片眼の技術官は「気のせいだろう、実際に脳細胞や神経がダメージを受けてるわけじゃない。安全性を示すデータも十分あるし、そこからさらに安全係数ドン! で余分なほどマージンを取ってあるさ」なんて笑ってたけど。
「ま、気にしなければいいんじゃないか?」なんてシブい声で煙草ふかしながら言われても……痛いものは痛いの。
頭痛は嫌いなの。
街中で余計な注目を集めるのは得策でない。メイは表情や声に出さないよう意識して歩き続け、結果仏頂面になってしまった……ものの声は漏らさず、よろめくこともなく痛みに耐えた。
そうして、しばらく人の流れに沿って歩いてから……一旦裏路地へそれた。
ふう、少し休憩……
街並みの雰囲気からすると、文明レベルは機械化以前というところか……私の知識ベースで言うなら、『ルネッサンス』よりも前という感じだろう。
しかしそのくらいの文明レベルにしては、獣人たちはみなとても穏やかで規律正しいように感じる。
混じって歩いてみて分かったけど、ウサギやリス? のような小柄な草食獣が警戒した様子も見せずに……狼や熊のような肉食獣と横並びでも、彼らが背後にいても……平気な顔で歩いている。
つまり、おそらく両者は捕食被捕食の関係でない……そういう暴力を恐れる必要のない社会として、うまく成り立っているのだろう。
ここは……確かに穏やかで、精神的に成熟したヒトの、社会の異界なのだろう。
と、少し休みつつ思考を整理してから……もう一度人混みの中に踏み込んでみる。
「ああ……ハラ減ったな……」
と、ふと聞こえた翻訳済みのつぶやきが気を引いた。
メイは改めて周囲を見渡してみる。すると街を往く者のうち暗い表情をしているのは、みな肉食獣の顔をした者だということに気が付いた。
飢えている……? あ、そういえば、私も……この異界の食べ物は、どうなっているのだろう?
興味とともに、自身の空腹を思い出していた。
まずは異界グルメ……もとい食料事情の調査、としゃれこんでみましょうか。
顔の形からして多種多様なこの世界の人たちが、どんな料理を食べて生きているのか……想像がつかない。
文明レベル的に、質への期待はそこそこにしとかなきゃだけど……何が出てくるのか、ちょっと楽しみ。