盗難
大事な、大事なかばんが、見当たらない。
都心の一角、やけに薄汚れてはいるが機器はずいぶん最新鋭の高層ビルの地下一階駐車場で、私は車の助手席の下に隠しておいたバッグがないことに気が付いた。
朝から旦那と一緒にエアコンの取り付けに来ていた私。
何度も作業のために車に行き、戻り、現場に行き、戻り、を繰り返し、そのたびに肩から提げているかばんがばすんばすんと壁や天井に当たってドタバタしており、うっとおしいといわれて少々憤慨していた。
邪魔だから車に置いて来いといわれ、じゃあ車にかぎかけてよと言ったのだが、車に施錠することをめんどくさがり、誰もいないんだから平気だよと反論されて…ひと悶着。
「どうせ盗むもんなんて何もない、そのかばんが作業の邪魔になって時間がかかるんだって。気になるなら隠しとけば。」
納得できないものの、揉めて時間を取られることを考えて、しぶしぶおいてきたところ、ばっちり盗まれてしまったのだった。
「そんな馬鹿な。今まで作業中に物を盗まれたことなんか一回もない!どっかで落としてきたんじゃないの。」
「ずっと作業中だったんだよ、さっきまであったし。」
途中、昼ご飯を車の中で食べたときは、確かにかばんはあったのだ。
ご飯を食べて、作業に戻り、点検口に入るのに邪魔だからカバンを置いて来いと言われ、車のロックを頼んで断られ、旦那の指示にしたがって、このありさまだ。
結局さ、自分が納得しないことってのはさ、しちゃ駄目なんだって。
かばんはずっと肩からかけておくべきだったんだ。
・・・後悔したところで、後の祭りってね。
「とりあえず、警察呼ぼう。」
ものの五分で警察がやってきて、事情聴取をされる。
「で、とられたものは何なんですか。」
「肩掛けカバンです。中身は…。家の鍵と、自転車の鍵、三文判に、免許証、保険証に通帳が一冊、あとコンタクトレンズにお守り、銀行のカードが三枚と、クレジットカードが一枚、会員証が五枚くらいと督促状が五通にあと手紙が二通ほど…財布も入ってますけど、中身は300円くらいですね。」
この大都会の高層ビルの地下駐車場で、犯人は何を思ってカバンを強奪したのであろうか。
ハイエースにみっちり詰まったエアコン取付道具を見て、これは金持ちの車に違いないと踏んだのであろうか。
犯人が、大喜びで?持ち去ったかばんの…中身。
入金作業はすべてやるから手を出すなと言われて1年、忙しいという理由で引き落とし口座に現金を預け入れするのを忘れに忘れ、督促状が毎週届き、ついには電気が止まってしまった本日…入金するべく持ち歩いていた振り込み用紙が五枚。
同じく、娘の給食費引き落としができておらず、早急な振り込みをするようにという連絡の手紙と、振り込み用紙が入っている封筒。
郵便貯金の通帳は…簡易保険の掛け金分ぎりぎりまで引き出された記録、マイナス残高がズラリと並んでいる。
いよいよ意味がないと、今日の帰りに入金する予定だった。
コンタクトレンズはハードレンズで、5年前に作った年期ものだし、カギは最近回らなくなって買い替えを予定している。
財布には更新期限が来週に迫った免許証と使用期限が来月に迫った保険証、一円玉が20枚ほどと十円玉が20枚くらい、あと100円玉があったような。
はっきり言って、金になるものがない。
奪われたものは、ほぼ無価値、それどころか負の財産ばかりである。
盗んだ犯人、振り込みなんかしてくれたりするわけ無いよね。
くそぅ、電気は今夜使えそうにない。
スーパー銭湯に宿泊決定だ。
「盗難届出してくださいね。免許証で借金されちゃうかもしれないから、十年くらいは覚悟しといてください。保険証もね。」
「そんなに?」
「盗難届だしてあれば何とでもなるから。」
…エアコンをとりつけ、警察にいき、手続きを済ませた、あの日。
何とかなったかどうかはわからないが、3年たっても、特に被害は出なかった。
・・・知らないだけで、海外では私を名乗る誰かがいるのかもしれないけれど。
あの時盗まれたかばんは見つかっていない。
犯人も捕まっていない。
あれ以来私は肩掛けカバンの愛用を一切やめて、ヒップバッグを愛用するようになった。
かばんは誰かにいわれて手放すものではないと学んだのだ。
かばんは常に身につけておかねばならないものなのだと。
旦那は車に鍵をかけるようにならなかったが、今のところ一度も盗難被害にあっていない。
…なんだかとっても理不尽だが、これが現実だ。
「ちょっと!!また督促状が届いてるじゃん!!」
「忙しくてさあ、今から振り込んでくるから。」
相変わらず旦那はルーズな管理をしており、先週もWi-Fi止まったしガスも止まったし、ほんと勘弁してほしい。
「…なんでちゃんとやんないのにさあ、通帳管理やりたがるの?」
「人にまかせるのがいやなんだってば!!」
旦那は自分の稼いだお金は自分で動かしたいタイプなのだ。
自営業ってのはいろいろとめんどくさいのに、こんな適当なことでいいのか。
…良くないから毎月会計事務所から催促の電話がかかってくるんだろうなあ。
なんか、巻き込まれるのめんどくさいなあ・・・。
この時、私は、家業手伝いを見限ることをようやく決めたのだ。
給料も出なければ持ち物も盗まれ、突如自分のパソコンは使えなくなりお湯も出なくなるとか、小学校から電話がかかってくるとか。
体調悪くても休めないし、変な接待に連れて行かれるし、やったことのない溶接やらされてやけどするし、うん、自分で働いたほうが絶対にいいな、これはってね。
あんな目に遭っておきながら、私は実に三年もの間、のらりくらりと家業を手伝い続けていた。
…私は、ずいぶん、決断力にかけていたと思う。
家業と手を切ったことで、少々自分の時間は減ったものの、心配事はずいぶん減り、穏やかな日々を過ごせるようになった。
あの日、かばんが盗まれなかったら、今も家業を手伝っていたのかもしれない、そうしたら、どうなっていたのだろうか。
自分が働きに出ることで知り合った、たくさんの仲間。
自分が働きに出ることで知った、いろんな世界。
自分が働きに出ていなかったら、私は今頃。
何がどう人生を変えるかわからない。
私はあまり過去を振り返るタイプではないけれども、たまに、昔の事を思い出す。
あの日、あの時、私のかばんが盗まれたのはきっと…私には必要な、出来事だった。
あの日、あの時、私のかばんを盗んだ犯人は、今頃どうしているのだろう。
明らかに貧しい人から、貧しさの塊を奪って行った犯人。
何かを思って、何かを学んだのか。
苛立ちを覚えて、投げ捨てたのか。
…何も学ばない人は、何も学ばずとも生きて行くのだな。
「ちょっと!この督促状何!」
「今から振り込むやつだってば!」
何一つ変わらない旦那の横で、私は相変わらず、青息吐息をついたので、あった…。