第29話 ぎこちなく
「ダンテさま、こちらはどういうことなのでしょう」
正面には大きな黒板が設置され、それを中心にして弧を描くように長机が階段状に設置されている。
勉学にのみ集中できる静謐な空間の中で、アンジェリカが羊皮紙をの一か所を指差し、隣に座るダンテへと問いかけた。
「ああ、それはだね……」
授業で教えられているのは算術で、アンジェリカならばさほど引っかかるような問題ではない。
分かっていて、その上でダンテに甘えるための理由しているのだろう。
「この公式を使って……」
「……はい……」
その証拠に、アンジェリカは数式が書き記されている石板ではなく、説明しているダンテの横顔を見つめていた。
「アンジェ、私じゃなくてこちらを見て」
「は、はい、ごめんなさい」
ダンテはアンジェリカに体を寄せると、小さなおとがいを人差し指で持ち上げ、優しく石板の方へと向ける。
「私も、見つめてもらって嬉しいんだけどね」
「えっ」
せっかく石板へと目を向けたというのに、ダンテの一言でアンジェリカは再びダンテへと視線を戻してしまう。
「ほ~ら、勉強しなきゃダメだろう?」
もちろんその言葉はわざと言ったもので、ダンテは注意しながらも、クスクスと声を抑えて笑った。
「も~……ダンテさまったら」
アンジェリカは口をとがらせて不満をあらわにするが、彼女の瞳は笑いに満ちている。
傍から見れば、仲睦まじい恋人同士の戯れに見えるだろう。
「んんっ」
教壇に立つ、紺のローブをまとった禿頭の男性講師が咳ばらいをする。
さすがに授業中まではやりすぎであったかと、ダンテは軽く会釈をしてから問題の説明に戻った。
しばらく小声で問題をかみ砕いて解説していると、アンジェリカは満足したのか礼を言ってダンテを解放する。
ダンテも「どういたしまして」と笑顔で返した後、自分の課題をこなしていった。
「そこまで。それでは解答へと移るので各自確認を」
ダンテは石筆を置いて解答を記した石板を眺める。
講師が朗々とした口調で解答と解説文を読み上げていく。
アンジェリカに教えられるほどの頭脳を持っているダンテは、当然のように正解しか無かった。
「…………」
講師の解説はまだ途中であったが、それ以上話を聞いている必要性を感じなかったダンテは何気なく視線をさまよわせる。
いや、さまよわせたのではなく、ずっと意識し続けていた相手へ視線を向けたのだ。
ダンテとアンジェリカは、前から三列目の中央当たりの席に座って授業を受けているのだが、そんなダンテから少し離れた席、最前列いちばん左端にベアトリーチェは座っていた。
ベアトリーチェは背後から見ていても分かるほど、食い入るように石板を見つめている。
彼女の成績は決して悪くはないのだが、ダンテの様にとても優秀というほどでもない。
いくつか問題を間違えてしまったのだろう。
「……ふぅ」
ダンテは自分のしている行動の意味に気づき、大きく息を吐いて視線をベアトリーチェから引きはがす。
気づいたらいつもベアトリーチェの事を目で追いかけてしまっていた。
終わりだと宣言してから既に2週間以上の時間が流れたというのに、まだ未練が残っているのかと軽い自己嫌悪に陥ってしまう。
ベアトリーチェとダンテは、もう赤の他人なのだ。
少なくともダンテはそのつもりで行動していた。
ふと、教室のドアノブが小さな音とともに回り、音を立てずに三人もの人が入ってくる。
そのうちの一人はダンテも見覚えのある事務員の男性だったが、残りの二人は全く見覚えがなかった。
貴族にしては質素で控えめの服装の男女で、年齢はふたりともに三十台後半から四十代前半に見える。
男性の方は薄い金髪に青色の瞳で、いかにも優しそうなおじさんといった風貌をしている。
女性の方も、似たような色の髪にとび色の瞳を持っていて、少し勝気そうな顔つきにわんぱくな少女を思わせる雰囲気をまとっていた
教室に入ってきた三人の大人たちは、静かに教室の一番後ろにまで移動すると、そのまま見学を始めてしまう。
知らない人たちから見られていることを意識した生徒たちは、奇妙な緊張を覚えて各々居住まいを正す。
それから授業が終わるまで、生徒全員が居心地の悪さを感じていたのだった。
「それでは、本日はこれで終了。教科書はいつも通りまとめて返却しておくように」
講師はそう告げると、見学に来ていた二人のことなど気にも留めず、自分の荷をまとめてさっさと教室を出て行ってしまう。
あとに残された生徒たちの間には多少弛緩した空気が漂うが、背後の異物が気にかかり、未だ解放された気分を味わえないでいた。
「と、とりあえずみんな、教科書を持ってきてくれ。今日の当番は誰だったかな」
ダンテの掛け声で、教室の生徒たちが動き出す。
後方から順に教科書が手渡されていき、20冊近くの古めかしい本の山がダンテの前に築かれた。
「おとといはランディだったから……」
当番とはいえ、本人が持っていくわけではない。
大概、侍従が図書館へ返却しに行く。
ちなみにダンテがこの当番制を提案するまでは、いつもベアトリーチェが持っていくことになっていた。
「今日は、私です」
冷たい敬語がダンテの心臓に突き刺さる。
ややぎこちなく顔を横に向けると、ベアトリーチェが教科書を胸元に抱き、寂しそうな表情を浮かべて立っているのが視界に入った。
「……そうか」
ダンテは浅く呼吸をしてから、ベアトリーチェのために教科書の山を整えて、彼女の目の前に置く。
「ひとりで持っていけるかな?」
本は羊皮紙を使っているため、数まとまれば結構な重さになる。
以前のベアトリーチェならば、二回に分けて教室と図書館を往復していたため、かなりの労力だったのだ。
ダンテはそれを案じたのだが……。
「持っていけないって言ったら、ダンテさんはどうしますか?」
ベアトリーチェはすがるような目つきで問いかける。
ダンテの脳裏には、ベアトリーチェが以前口にした「他人になりたくない」という言葉が再び浮かび上がる。
それはダンテ自身認めたくないことであったが、確かにそれを望んでいる心は存在していた。
「……アルに手伝わせよう」
「……アルフレッドさんに?」
授業が終われば従者が迎えに来る場合もあるが、アルは大抵下調べに動いていることが多いため、これはダンテの言い訳に近かった。
「ダンテさんは一緒に――」
「ちょっと」
ダンテとベアトリーチェのやり取りに、アンジェリカが割って入る。
アンジェリカは腕を組み、不機嫌であることを隠そうともしなかった。
「ダンテさまが困ってらっしゃいますの、分かりません?」
アンジェリカの語調は強く、ベアトリーチェの意見など聞く必要もないと言外に語る。
「あなたは早くご自分の仕事をなさい」
「でも……」
「私に逆らうつもりですの?」
アンジェリカの高圧的な態度を前に、ベアトリーチェが黙り込む。
長年いじめられてきたからか、ベアトリーチェの体は恐怖で小さく震えだしている。
目線は机よりも更に下まで下がり、細い腕はきゅっと教科書を抱きしめた
ベアトリーチェは過去の経験によって本能にまで恐怖が刷り込まれてしまい、アンジェリカに一切逆らうことが出来なくなってしまっている様だった。
「は、はい……わかり、ました」
「返事など要りませんわ。行動で示してくださる?」
アンジェリカは軽く顎でしゃくる。
ベアトリーチェは泣きそうになりながら、教科書をかき集め始めた。
さすがに見かねたダンテが、アンジェリカを注意しようと口を開き――。
「ちょっとよろしいかしら?」





