翻弄される母の少しの後悔
私の息子は、結構出来がいい。運動神経は父親から受け継ぎ、勉強もそこそこできる。顔も親の欲目ながらなかなか精悍な若人だし、性格も悪くない。
だけれど、ふとした瞬間に「しくじったー!」と頭を抱えたくなる瞬間がある。それは例えば今まさにこの瞬間だったりもする。
「たーくん! お願いだからそういうのやめてって言ったでしょ!」
「だって絵美が可愛いから悪い。それに今までだって普通にやってたのにどうしてダメなの?」
「だ、だって……それは、今までは、だって……」
「今までは?」
「そ、その、付き合ってないと思ってましたごめんなさい!」
「じゃ、今は?」
「お付き合い……してる、よ?」
「っ! 絵美、大好きっ!」
「だ、だーかーらー! 急に抱き着かないでってばー!」
「分かった、ごめんね。じゃあ絵美、抱き着くね」
「そ、そういう問題じゃ……。とりあえず、離れてぇ」
「無理。絵美が可愛くて愛しくて僕の彼女だって確かめたい。頬ずりしたいしキスしたい。嫌なら嫌って言って」
「い、いやじゃないけど……。はずかしぃのぉ……」
「絵美……。絵美、僕たちは恋人同士なんだから、スキンシップなんて当たり前なんだ。恥ずかしいことなんかじゃないんだよ?」
「でも、でもぉ……」
これを母親の前で堂々とやる息子。絵美ちゃんの方は、確実にパニックのあまり私がいることを忘れているだけだが、我が息子は私の存在をきちんと認識した上でいちゃついている。いっそ天晴なほどオープンな愛だ。
この、いついかなる時も全力で獲物を仕留めにいく性質は、どこから受け継いだのだろうか?
我が息子は、とても一途だ。一人の女の子だけを十数年、一心不乱に見つめている。これだけを聞くと、良いことじゃないかという人も多いだろう。
爽やかスポーツマンだった父親がチャラ男だったため、そんな男に育ってほしくなくて、息子にはたった一人の相手を見つけるよう教え込んだ。赤ん坊の頃からSNAPの『十六ハート』や、Blueeeの『輝石』なんかの一途な恋を謳う歌を聞かせたりもした。
そんな我が子が幼稚園から帰るなり、興奮した様子で「ぼくの運命を見つけた!」と言った時には頭が真っ白になった。
普通、幼稚園生くらいで運命の相手は見つからない。せいぜい○○ちゃんがかわいい、好き、程度だ。それをきっぱりと運命と言い切ってしまうそこに、チャラ男の血を感じたのた。
とりあえず、運命の相手は一旦見つけたらそうそう変えられるようなものではなく、その子が好きになってくれなかったからといってすぐに諦めちゃうのは禁物と伝え、様子を見ることにした。これで二、三日で別の運命が現れたら、危険な兆候だと注意することにして、問題を先送りしたともいう。
その時は、幼稚園の間に出会った運命が五十人とか言い出さないといいな、とひっそりと切実に願っていたのだが。父親と違い真面目だったらしい息子は、ずっと一人のことを気に入っており、ほっと胸をなでおろした。
ある日、幼稚園から電話があった。今日は息子がバスに乗ることが難しいので、すまないがお迎えに来てもらえないだろうか、とのこと。一体何事かと聞くも、詳しい話は園で、と言われる。何でも、園の女の子達が怖がって、バスに乗るのを拒否してしまうのだという。
怖がるって? 女の子「達」って!? と思いながらも、慌てて駆け付けた。
園に入ると、先生に抱っこされた絵美ちゃんが目に入る。我が息子の想い人である絵美ちゃんは、残念ながら我が子のことはあまり好きではないようだが、私に会うとにこっと笑って手を振ってくれるくらいには打ち解けている。だから、いつものように軽い気持ちでひらひらっと手を振ったのだが。
「いやぁぁーっぁ! おとーさん! おとーさん、おかあさぁーーん!!! 助けて! おとーさん! ころされるぅー!!!!」
大絶叫だった。先生から転げ落ちそうになるのも構わず暴れながら助けを呼ぶその姿に唖然とする。先生に「お、お母様、早く。たかしくんを!」と叫ばれ、はっとして先生の ――正確には絵美ちゃんの―― 足元に纏わりついていた我が子を無理矢理引きはがす。
別室まで連れて行き、事態を尋ねてみるも「だってユミカちゃんたちがいやがらせをしたんだ」「エミちゃんがぼくにちかづかないでって泣いちゃったんだよ」と要領を得ない。
挙句の果てに「ぼくがエミちゃんをたすけてあげないと!」と絵美ちゃんの元へと行こうとする。まて息子。今絵美ちゃんが泣いているのは確実にお前のせいだ。
必死に息子を押し留め、やってきた先生にお話を伺う。
どうやら、息子を好きな女の子達が息子を一人占めする絵美ちゃんをいじめていたらしい。そこで、絵美ちゃんの怒りがうちの息子の方へ向かい、先述の「エミちゃんがぼくにちかづかないでって」言ったに繋がる、と。
絵美ちゃんの怒りにあった息子は、絵美ちゃんをいじめていた女の子達を集め、怒鳴り散らしたらしい。好きな子に怒られ怯えた女の子達が泣いているところに通りがかった先生が息子を諫め、反省した息子は仲直りをした。
その先生は、息子が女の子達と握手するのを見届けた後、男の子同士の喧嘩を止めている先生の助っ人へと向かったのだが……。
実は自分が悪いとは思っていなかった息子。大げさに騒いで邪魔されたことを反省した後、今度はにっこり笑って確実に皆を仕留めていったそうだ。
先生が気付いた時には、泣きながら助けを呼ぶ絵美ちゃんと、立ち上がる気力すら奪われてしくしく泣き続ける女の子達、絵美ちゃんのご機嫌を取ろうと必死な息子という構図が出来上がっていたらしい。
息子ーーー!!! な、何その切れ方!
到底子供が考えられるとは思えない冷静な粛清方法。そんな真似、一体どこで……、と考えていたところに、ふっと頭をよぎった言葉。
『おかあさんはなー、本気で怒るとにっこにこ笑いながら穏やかに静かな声で怒るんだ。真っ赤な顔してぐわーって怒られるより、よっぽど怖いぞ、気を付けろ~』
あれか! あの話を覚えて学習してみせたのか! それに思い至った瞬間、目の前がすっと覚めた。
チャラ男め。よくも、子供の前では決して切れるような真似せずに一つ一つ諭していくという努力を台無しにしてくれたな……。
今夜、潰す。何が何でも潰す。絶対にだ。
私は夫への静かなる決意を押し隠しつつ、息子に何と説明すべきかを考えた。
その後、命の危機を感じた夫のなりふり構わない謝罪の一幕なんかを挟みつつ、息子に相手の気持ちを考える大切さを説いた。そりゃもう必死に説いた。自分の怒りを周りに向けるような短絡さは絵美ちゃんに嫌われ、二度と会えなくなるぞと脅しを十分に用いて説得した。
息子は、絵美ちゃんが二度とお話してくれなくなる可能性に恐怖し、きちんと状況を理解できていないうちから決めつけることの間違いに気づき、むやみやたらと怒ったりしないことを誓った。
その甲斐あって、息子は以降、どんな理不尽な状況でも事実をきちんと確認し、問題解決のために必要な行動を取ろうと努力するようになった。幼いころはそれでも相手の立場を考えきれずにから回ることもあったが、こと絵美ちゃんに関してだけは力の限り理解し許容しようと努力していた。
一時は近寄るだけで過呼吸になりそうなほど絵美ちゃんに嫌われていたが、そこから必死に挽回して、幼稚園卒園時にはともすれば母親である私よりも長く一緒にいるのが普通になっていた。
それだけ常にセットだった二人。まだ確定ではないとはいえ、将来家族になる可能性が大変高い二人だったので、自然両親同士も仲良くなった。
小学校に上がっても中学校に上がっても変わらない二人。この息子が絵美ちゃん以外に興味を示せるとは思えなかったため、親同士で二人を婚約者として認めた。
主に、押して押して押しまくってるせいで流されている絵美ちゃんが、うっかり別の人を好きになっちゃったりして我が息子がストーカーと化しても困るためだ。
基本、絵美ちゃんはうちの子がいることを普通に受け入れている。温度差はあれど、このまま似合いの夫婦になるだろうと思っていたのだが……。
ある日、息子が死にそうだった。何があったか知らないが、とりあえず絵美ちゃんに連絡でも取ろうかと思っていたら、絵美ちゃんの方から来た。
携帯ではなく家電なんて珍しいなと思いつつも、これで安心と思っていたら、息子が出られないという。あの息子が。絵美ちゃんからの電話なのに。あの息子が。
とりあえず、息子はもう寝てしまっているという言い訳をしてみたが、絵美ちゃんは信じていないよう。
何があった、二人に。
根掘り葉掘り聞きたいところだったが、二人はもう高校生。流石に過保護すぎるだろうと、暫く静観の方向で。ご飯だけはきちんと食べるように言いつけ、そっとしておいた。
次の日。
家に帰ると、絵美ちゃんがいた。まぁ、うちの子が何日も絵美ちゃんと微妙な仲になんてなってられないわよね、と思っていたら、息子が満面の笑みでこう言った。
「僕たち、付き合うことになったから」
…………はい?
待てこら。今までの二人は付き合ってなかったとでも?
いや、それはない。息子が絵美ちゃんのためにどれだけのことをしているか知っている。
デートのために色々な場所をリサーチしたり、彼女と毎日話すために我が家と高坂家の両方に携帯所持の許可を取り付けたり。
いつでも絵美ちゃんの理想の結婚式を実現出来るようにするため、ブライダル関係の情報収集も欠かさないし、服装にあまり興味のない絵美ちゃんのため、ファッション雑誌も常に揃えている。
お泊りの日に、寝ぼけたふりしてひっそりぎゅむっと抱き付いてるのも知ってるし、万が一、億が一の淡い可能性のために、ベッドの脇の棚にひっそり隠されているものも知っている。
息子は完全に彼女としてしか見ていない。幼稚園時代から「僕の運命」と言い切ってしまうほどの相手なのだから。
ということは、つまり……。
私は、昨日の息子の絶望ぶりを理解した。多分、絵美ちゃんの高校の友達と一緒の所にでも会って、友達から「ねぇねぇ、この人絵美の彼氏?」とでも言われたのを、絵美ちゃんが「ううん違うよ、ただの幼馴染」とでも答えちゃったのだろう。
それで、息子の方は彼女だと認識していたという事実を知って、一晩考えた絵美ちゃんが、お付き合いを了承した、といったところだろうか。
いやぁ、確かに二人の想いは息子からがだいぶ重く、絵美ちゃんの方が軽いだろうな、とは思っていたけれど、……まさか、付き合ってすらいない認識とは思わなかった。
一応、丸く収まったから良いか、とも思いはするのだが、息子はきっちりとトラウマを植え付けられたようだ。
それ以来、愛情表現もスキンシップも大変に過剰だ。もう、遠慮したら絵美ちゃんに振られると言わんばかりに息つく暇もないほど愛を告げまくる。家ならまぁ好きなだけどうぞと思うけれど、この息子に限って、外で遠慮するという選択肢はないだろう。
外でもこれかと思うと、周りの皆様の心労いかばかりか。
どなたか。私の息子の辞書に「躊躇、適当、いいかげん(良い加減)」という言葉を書き込んでもらえないだろうか?
全力疾走しか知らない息子に、一息つくことの素晴らしさを説いてくれる人を、切に願うばかりの今日この頃である。
子供は、望んだ通りには育たないということですね。それでも、どんな子に育っても子供は可愛いから心配も尽きないのです。困ったものなような、それが幸せなような。