第1話 法廷 Ⅱ
検察側の求刑は無期懲役だった。
これは、かなり苦しい。
滝は明確な殺意をもって十八人を殺害した。
その事実だけに鑑みれば、極刑以外はありえないからだ。
「志藤検事……」
私は口の中で呟いた。
彼の胸中を慮って。
現在、世間の批判は検察に集中している。
二十四名もの女性を救った英雄を罪に問うのか、と。
お前らには人の心がないのか、と。
「いっそな……滝は現場から逃亡してくれれば良かったんだよ……」
不意に私は、志藤検事がこぼした愚痴を思い出した。
あれはいつのことだったか。
逮捕直後だったか、それとも公判に入ってからだったろうか。
「あんなクソムシどもが死んだところで世人は嘆かない。むしろ快哉を叫ぶだろうよ」
苦々しい声だったのを憶えている。
訪れる人もほとんどいないような奴らのアジトだ。滝がそのまま立ち去ってしまえば、わざわざ通報する人間などいない。
つまり捜査の初動が大きく遅れるということだ。
「こんな言い方は許されないと判っているんだが……彼を死なせるくらいなら、俺は捜査の手を抜くように指示したよ……」
顔の前で、まるで祈るように指を組んでいた。
思い出した。
逮捕からしらばらくのときが経ち、公判の日取りが決まろうかという時期だった。
私は志藤検事に呼び出されたのである。
たまには一緒に飲まないか、と。
どうせまた無茶な「お願い」をされるのだろうな、と、私は身構えながら日本橋にある彼行きつけのバーへと向かった。
そしてきかされたのだ、世間を騒がせている大量殺人犯の横顔を。
私は息を呑んで聴いていた。
犯人である滝は、異常者でも何でもなかった。
まさに英雄だったのだ。
「英ちゃんにはさ、記事を書いて欲しいんだよ」
だから情報をリークするのだと語る。
公判が始まるまでに、可能な限り世間の注目を集めるのが目的だ。
自分が、検察が悪役になるのを承知の上で、世論を動かそうとしている。
そして私は彼の思惑に乗った。
滝という人物についてまとめ上げ、被害者とされている野獣どもの悪行を白日の下に晒し、食い物にされていた女性たちの証言も添えて世に訴えた。
むざむざと彼を死なせて良いのか。
この英雄を失ってい良いのか、と。
絶大な反応があり、国民の多くがこの裁判に興味を持ってくれた。
もちろん、滝や女性たちに同情的な意見ばかりではなかったが、これは仕方がない。
どれほどの善行に対しても文句を言う人間はいるからだ。
災害時の支援活動すら批判する輩もいる。
そういうものなのだ。
しかし、ほとんどの人は、滝を死なせるなという意見を持ってくれた。
助命嘆願のための署名は百万名を超え、まだ増える見込みらしい。
風はたしかにこちらに吹いている。
そして無期懲役の求刑が、検察にできる精一杯の援護射撃だ。
「弁護人、被告人は、最後に何かいうことがありますか?」
初老の裁判長が最終陳述を促す。
彼の顔も、非常に苦しそうだ。
この何から何まで異例尽くしの裁判を、ずっと取り仕切ってきたのだから。
「裁判長。被告人の行動は正当防衛によるものです。よって無罪を主張いたします」
秋城弁護士の声が凜として響く。
一貫してこの主張だ。
堂々と、滝のどこに罪があるのかと問いかけ続けている。
ことの一面だけみれば、たしかにその主張も判るのだ。
なにしろ十八人ものナイフ等で武装した男どもと、徒手空拳で戦ったのだから。
ただ、やはり無理はある。
そこに出向いたのは滝自身の判断だし、そもそも殺すつもりで挑んでいる。防衛ではまったくない。
通るわけがないのだ。
本来であれば、こんな主張をするのではなく、情状酌量や減刑を求めるような法廷戦術を採るべきだろう。
百戦錬磨の秋城弁護士ならなおのことだ。
「あえて申し上げます。被告人が殺さずに無力化しなかったのは、被害者が武器をもって抵抗したからです。たった一人を相手に。十八人もが雁首を揃えて。それは何故か」
秋城は言葉を切り、ぐるりと法廷をみる。
「奴らは怖れていたからです。捕まって罪に問われることを。無力な女性たちを陵辱することはできても、法や正義と正面から戦う度胸はなかったのでしょうな」
毒々しい嘲笑を浮かべた。
裁判長はたしなめず、軽く頷いた。
聴いている、という意思表示にみせた同意だろう。
被害者たちがいかに卑劣で、恥知らずか、ここまでの証拠調べて嫌というほど明らかになっている。
この期に及んで「被害者たちが可哀想」などという偽善的なおためごかしを口にする人間など、この世に一人もいない。
奴らは死に値するだけのことをした。
しかし、もし仮に殺されずに逮捕されたとしたら、少年法が邪魔をして、まともな刑罰を科すことはできなかっただろう。
鑑別所送りがせいぜいだ。
数年で出所し、保護監察つきで社会に復帰する。
そして、ほぼ間違いなく再犯するだろう。
婦女暴行犯の再犯率を論うまでもなく。
昭和時代の終わりにおきた、女子高生コンクリート詰め殺人事件、あれの加害者のうち、再犯しなかったものが何人いる?
だからあのとき死刑にしていれば、とは、言ってはならないことであるが。
賭けても良いが、奴らが真人間になることなどない。社会に寄生する害虫として、国民の義務すら果たさずに生きてゆく。
反社会的勢力の一員として。
もうすでに、その片鱗が現れているのだから。
私だけでなく、ほとんどの人間が同じ未来を想起している。
奴らが今までやってきたことを考えれば当然だ。
「ゆえに、私は滝被告に何の罪があるか、と問いかけます」
なにが「故に」だったのかは、問うまでもないこと。
そして裁判という公的な場では、口に出してはいけないことだ。
害虫を駆除しただけではないか、とは。
しかし全員の共通認識ではある。
「以上です。裁判長」
弁護士が、優雅にすら見える姿で一礼した。
これで出揃った。
検察側の求刑は無期懲役で、弁護側の主張は無罪。
ここからは裁判所の判断となる。
求刑以上の刑罰が科せられる、ということは滅多にないから、これでひとまず滝の命は助かったといって良いだろう。
事態は次の段階に移る。
つまり、私人逮捕をどこまで拡大して解釈するか、という点だ。
この一件によって、人々が考える契機となったろう。
私はこのとき、そう確信して安心していた。
本当に、安心していたのだ。