序 ある英雄の最期
「主文。被告人を死刑に処す」
裁判長の声が響いた。
静まりかえった法廷に、かつんと音が響く。
それが、私の落としたペンが床にぶつかった音だと私自身が気づくまで、一拍のときを必要とした。
次の瞬間、法廷が悲鳴と怒号に包まれる。
前者は傍聴席から、後者は弁護側と検察側の双方から。
死刑判決は、誰ひとりとして予測していなかった。
最悪でも無期懲役。検察官も弁護士も、私でさえもそう思っていた。
彼を死なせてはならない、と。
被告人の名は滝雄一という。
罪状は殺人だ。
殺人……やつらを人間と称していいなら、殺人だろう。
殺されたのは十八人。
すべて未成年で「未来ある若者」ということになる。
どんな未来が待っていたのか、私には想像もつかないが。
あの外道どもに。
やつらは、下は十二歳、上は三十二歳までの女性二十四人を食い物にしていた。
……いや、この言い方はずいぶんとオブラートにくるんだものである。
同じ男性として、人間として、絶対にしてはいけないような辱めを女性たちに与え、あげく売春を強要していた。
あるとき、陵辱の限りを尽くされ、泣きながら帰宅する女性に滝が出会った。
それが事件の始まりである。
女性に助けを求められた彼は、なんとそのまま外道どものアジトに乗り込んだ。
四名を撲殺し。殺した相手から奪ったナイフで、残りの十四名を刺殺した。
ボスだったA……未成年ゆえ名前を記せないのではない、私自身が汚らわしい獣の名前を口にしたくないのだ……もまた、肝臓を刺し貫かれて、苦悶のうちに死んだらしい。
ことが終わると、滝は自ら警察を呼び、その場で逮捕拘禁された。
当初、事件は異常者による大量殺人というものであった。
流れが変わったのは、やつらに辱められていた女性たちが訴え出たからである。
裁判で証言したい、と。
そういう女性が、次々と現れ、外道どもの罪が白日の下に晒されていった。
耳を塞ぎ、目を覆いたくなるような蛮行を、やつらは繰り返していたのだ。
証言台に立った女性たちの話に、裁判員の幾人かは泣き出したり、口を押さえて席を立ったりしたほどである。
いつしか、滝は英雄視されるようになっていった。
十八匹の鬼を殺し、二十四名の女性たちを解放したのだ。
これを英雄と呼ばなかったら、世に英雄などという言葉は必要ない。
法も警察も、彼女たちを救うことはできなかったのだから。
裁判長に再考を求める声を、弁護士と検察官が同時にあげている。
こんなことは空前のことだろうし、おそらく絶後だろう。
そして、それを沈静化させたのが被告人だというのも前代未聞だ。
拘束されたままの両手を、彼は高々と挙げる。
「検事さん、弁護士さん。どうか落ち着いて」
音楽的にすら聞こえるバリトン。
まるで牧師に優しくたしなめられた子供たちのように、喧噪が鎮まってゆく。
「裁判長」
それからおもむろに、滝は正面に立つ法衣の男に呼びかけた。
「は、はい」
二十以上も年下の青年に、裁判長は声をうわずらせる。
滑稽なこと、とは誰も思わなかった。
裁判が始まってから、滝は一度もこの温和でありながら堂々とした態度を崩したことがない。
だから、この場にいる誰より立派に見えたし、威厳があった。
「あなたは法を司るものとして、あたりまえの判断をしただけです。そんなに苦しそうな顔をしないでください」
「滝くん……」
「私は、私の正義に基づいて行動しました。彼女の涙は、あの野獣どもの命より重いと考えたわけです。しかし」
彼はそこで、一度言葉を切る。
「しかし、それは法治国家においては許されないことです。どんな人間でも、裁くのは法廷でなくてはいけない。罪を決めるのも刑を決めるのも法廷でなくてはいけない。そうですよね。裁判長」
私は必死にペンを走らせていた。
彼の言葉を、たった一言でも書き漏らしがないように。
「滝くん……きみは……」
「あなたは法によって私を裁いた。それが法治国家の正義です。そうでなくては鼎の軽重を問われることになる」
どんな人間でも、どんな人間でも。
それがたとえ外道でも、彼のような英雄でも。
法は神か!
人間が定めた、便宜上の物差しに過ぎないではないか。
彼はゆっくりと法廷に視線を巡らせる。
「弁護士さん。控訴はしません。私はこの国の正義に従います」
「滝くん……ダメだ……」
法廷の左から、嗚咽混じりの、苦渋に満ちた声が聞こえる。
それから、滝は傍聴席を振り返り一礼した。
「お嬢さん方、申し訳ありませんでした。私がもっとはやく察知できていたら、あなたたちにこんな苦しみを味わわせることはなかったのに」
詫びる。
自分が助けた女性たちに。
もっと早く助けられなくて済まなかった、と。
数人の女性が泣き崩れた。
「裁判長! 検察は控訴しますぞ!」
「検事さん。無理はなさいませんよう。検察が被告人の減刑を求めるなんて、きいたことがありませんよ」
検察官の声を、柔らかく滝は遮った。
「きみを死なせるわけにはいかないんだ。判ってくれ」
ぎり、と、奥歯を噛みしめる音が傍聴席まで聞こえる。
こんなことがあって良いのだろうか。
この場にいる誰一人として、彼の死を望んでいない。
にもかかわらず、この国の法は彼を殺さなくてはいけないのだ。
「ここで私を許したら、法はその意義を失います。個人が恣意によって罪を裁いて良いなら、皆は何を判断の基にすれば良いのですか」
むずかる子供を諭すように微笑みかけ、彼はふたたび裁判長と向き合う。
「私の正義はすでに貫きました。次は、あなたたちの正義を貫いてください」
それが、ある英雄の最期の言葉だった。