第1話
深い深い眠りの底はなんて気持ちがいいんだろう。
大切な人の膝の上は心地よく、安らぎを私に与える。
誰が何と言おうが、ここは私の場所。あげたりなんてしない。
私の大好きな彼は、そう。大切な旦那様なのだ。
今日も今日とて帰りが遅い。
家事が苦手な私は、時間が空いても何をしていいのかすらわからない。
朝起きて弁当を作り、二日に一度洗濯をして、そして食器を洗えばもう後はどうしていいのやら。
ちなみに掃除は彼の仕事で、どうも私には向いていないらしい。
仕事はしないのか?子供はいないのか?と問われれば、体の弱い私にはどちらもドクターストップなのである。
まあ絶対に、という訳でもないのだが。
正直に言うと弁当は夜に作ることもある。いつも朝に調子がいいとも限らないからだ。
こんなダメダメな主婦を養ってくれる彼は本当に神様だと思う。きっと誰もがそう思うだろう。
実は私は世界を守る魔法使い、だとか
実は異国のお姫様で身分を隠して日本にいる、だとか
そんな話も一切無い。
ご近所付き合いというのも、昨今ではなくなりつつあるし、本当に私はダメダメなのだ。
少し雨の音がする。今日はそんな予報だっただろうか。
玄関に行き、傘の本数を確認すると、しっかり全部揃っていた。これはいけない。
充電していたケータイを手に取り、メールを打つ。
するとすぐに返事が来た。
「それは大変!まだ一時間くらいかかりそうだけど、止むかな?」
彼の勤めている会社から家まで一時間程。丁度良い、迎えに行くとしよう。
「大丈夫、私の魔法でちょちょいのちょいだよ。」
返信し、支度をする。今日はまだ夕食の支度をしていなかった。
あわよくば外食デート等と考え、私は黄色のワンピースに着替える。するっと着れて、かつ可愛い。
薄く化粧もして、私は玄関へと向かった。
今度は傘を二本取り、掛けてあった鍵を指に引っ掛けると我が家を後にした。
外に出るとまだ小雨だった。まだと言っても元々雨の予報では無いはずだから、すぐに止んでしまうかもしれない。
用意した傘を片方差し、駅に向かって歩く。少し時間が遅いせいか人が少なく感じた。
駅まではそう遠くない。長いのは電車の中での時間だ。
大丈夫、ちゃんと暇つぶし用の本は持ってきた。
駅に近付くにつれて道が明るくなってゆく。飲み屋街を抜けて改札を通ると、ホームと椅子に座った。後五分程で電車が来るらしい。
持ってきた本をカバンから出し、開く。物語というのは自由に想像できるから良い。自分が登場人物になり切ればなんだってできる。
制約の多い生活を送っていると、バーチャルに憧れを持ちやすいのかもしれない。バーチャルで合っているだろうか?頭はそんなに良くないのである。
数ページ読んだところでホームにアナウンスが流れる。
しおりを挟み本を閉じると、私はそれを手に持ったままホームの黄色い線まで進んだ。
どうせすぐ読むのだ。しまうこともないだろう。
私は電車に乗り、空いている席に座ると、再び本を読み始めた。
四十分程たっただろうか。やっと会社の最寄り駅に着いた。ここから歩いて七分程で会社に着く。何故詳しいか?元々私も社員だったからだ。
社員といえど派遣。それも週に二日の事務仕事。
そのくらいでないと働けないような体なのだ。まったく、不便である。
彼の会社の前には公園があり、入り口を見渡せるベンチもある。
まだ仕事終わりのメールは着ていないから、きっと社会にいるはずだ。
流石に本を読んでいては気付けないため、ウキウキしながら入口の方を眺める。
…まるで不審者ではないか。
濡れたベンチの横に立ち、私はきっと一人にこやかに待っているのだろう。
そういえば近いうちにトマトソースを使った料理が食べたいと言っていた。
料理はあまり得意ではないが、私なりに調べて何とかしよう。
ホールトマトくらいなら使っても怒られないだろう。
そんなことを考えていると、不意に頭がぼーっとする感覚が私を襲った。
今はベンチが濡れていて立っている状態。このままではよくない。
しかし頭は働かず、体は勝手に濡れたベンチへと体重を預ける。
貧血だろうか。
横になってはいけない。ここは外だ。何とか耐えろ。
そう言い聞かせるも、重い体は抵抗する。
なんだか遠くの方で大きな足音が聞こえた気がした。誰かに気付かれただろうか。それはよくない。
「どうした?大丈夫?」
最近は落ち着いていたのに。どうしてだろう。
「とりあえず、落ち着くまではここにいよう。ちょっと待ってね、タオル借りてくるから。絶対動いちゃだめだよ。」
そういうと彼は目の前の会社へ入った。タオルなんて誰から借りてくるんだろう。もう事務さんもいない時間なのに。
頭はどんどんと重くなり、意識が持っていかれそうになる。
せめて、彼が戻ってくるまでは今を保たなければ。
そう思いはすれど、私の意識はあれと二度目に会う前には途切れていた。
瞼の向こうに白さに、私は少し安堵する。まだ、生きてる。
ゆっくりと目を開けるとそこは病院だった。救急車で目が覚めなかったのが悔やまれる。
「あ、起きたんだね。気分はどう?」
目の前の彼はにっこりと笑い、私は尋ねる。
もう慣れたのだろうか…落ち着いた様子だ。
「うん。まだ少しだるいけど、大丈夫そう。久しぶりにやっちゃったね。」
「いいんだよ。それよりも傘ありがとう。アクシデントはあったけど、仕事終わりにすぐ会えて嬉しかった。」
また彼は笑った。こういう人なのだ。とてもいい人。大事な人。
私も笑った。重い瞼に、体に負けずに。
「目が覚めたら帰れるって?」
「うん。許可は出てるよ。ゆっくり支度して帰ろうか。今日はタクシーでもいい?」
私は頷くと、ゆっくり体を動かし立ち上がる。途中、ナースステーションに寄り、あいさつした後私たちはタクシーに乗ったのである。
今回は大事にならなくてよかった。また入院などと言われたら彼と一緒にいる時間が減ってしまう。それはだめだ。
二人で長生きすることが夢とはいえ、今だって一緒にいたい。
そりゃ、治して寿命を延ばせるのならばそれはそれでいいが。
未来を取るか、現在を取るか。難しいのである。
明日は土曜日。本当なら夕食を食べ、お酒でも飲んでいたのだろうが、もう24時近くになっていた。
日をまたぐ前に帰ってこれてよかったと思う反面、少し悔しい。
なぜ急に頭がぼーっとしてシャットダウンされてしまうのか、それは医者にもわからないそうだ。
私の場合、それだけではない。風邪をひきやすかったり、また拗らせやすかったり。体力もない。
昔からとはいえ、付き合っていくのは大変なものだ。
家の前に着くと、料金を支払いタクシーから降りる。
「はい、どうぞ。」
差し伸べられた手を取り、そのまま自宅へと入った。
靴を脱ぎ、リビングへ向かうと、脱いだ背広を受け取る。
「もう遅くなっちゃったけど、夕食はどうする?やめておく?」
彼はネクタイをほどきながら答える。
「何か用意してあるなら食べるよ。そうでないなら、今日は無くてもいいかな。」
「分かった。作る前だったから何もないの、ごめんね。」
背広をハンガーにかけ、クローゼットへしまう。まだ体は少し重かった。
「気にしないで。仕事中に沢山お菓子食べちゃったし、大丈夫。そんなことより、今日はゆっくり休もう。」
私は彼の言葉に従い、すぐに就寝の準備に取り掛かる。
といってもおふろに入って肌の手入れをする以外には何もない。
「あぁ、そうだ。食器洗っちゃいたいから、お風呂先にどうぞ。」
「了解。」
洗う食器などそんなに沢山は無かった。ただ、体のだるさのせいか、あまりお風呂に入る気が起きない。
私はキッチンへ向かい、水道に手を伸ばす。すると伸ばした手は痣だらけになっていた。
「なに…これ。」
さっき気を失った時だろうか。手の甲と腕にもいくつか痣があった。倒れたのだ、痣くらいあってもおかしくないだろう。
私はあまり気に留めず、食器を洗った。
「お風呂どうぞ。」
キッチンの後ろのドアが開き、頬を指でツンと触られる。
「先に寝室行ってるね。無理しちゃだめだよ。」
そういうと彼は私に一度ハグをして寝室へ向かった。
さて、私もそろそろ準備をしよう。洗った食器を乾燥棚へ立てかけ、お風呂場へと向かった。
そこで私が見たのは、全身痣だらけの自分の体だった。
記憶の欠如。それが彼女の病気を悪化させる。
入院していても、ふと自分の置かれた状況を忘れ、家に帰ってしまう。
閉鎖病棟にいた時は、ここはどこと混乱し、そして泣き崩れる。誰も寄せ付けない。
今は少し体がよくなっているため自宅にいるが、彼女の病気は確実に命を奪っていくだろう。
しかし彼女は何も覚えていない。
都合のいいことは忘れてしまうのだ。
昨日病院で彼女の体に有る無数の痣を見た。
入院も近いかもしれない。だが、それは避けたい。
愛する彼女の近くにいるのは僕でなければならない。
そう、ありたい。
彼女は言ったのだ。僕の膝枕が大好きと。しかもその事を覚えていてくれている。
一緒に生きるためには彼女を病院へ入れなければいけない。
体も、心もすべて元に戻って、そしてまた幸せな日々を送るのだ。
しかし僕ときたら、今でさえ幸せに感じてしまっている。
彼女の心配をするのも、彼女が何か大切なことを忘れてしまっていたとしても。僕は今が幸せでなければならない。
彼女を治すには、彼女を苦しめる他無い。そんな時、僕は傍にいてあげられない。
治療費もかなりかかってしまう。
そう考えると、僕は決断できない。なんて無常で自分勝手なのだろう。
僕たちに両親はいない。今の彼女が置かれている状況を知る人も恐らくはいない。
医者には治療費が払えないと伝えている。実際、通院費だけでいっぱいいっぱいなのもある。
僕ができることは、医者の言うことをできるだけ聞くことと、そして彼女の傍にいること。
それだけのはずだったのだ。