43.君に想いを 1
清らかな光は空を突き抜け、溢れるように地に還る。風が渦巻き、プールの水面がワームホールを作って波を上げた。
鈴の音は鳴り続けている。
白い粘膜に覆われた物体は、光に反応して縮小する。封じの力が水中に開いた次元の穴へ、その巨体を吸い込んでいくのがわかった。
「ア、オ、カ……」
呑み込まれる細胞のひとつひとつから、苦しげな呻き声が聞こえた。いつまでもいつまでも青花の名を繰り返す。
忍の声ではない。忍ではない。
青花は堪えて鈴を振る。
(兄……ちゃん)
挫けそうなほど辛かった。
あともう少しで封印は成る。
青花は必死に顔を上げる。
ふと、視界の淵に人影のようなものが映った。
プールの上に浮かんで見える。
それも――ふたり。
(神無木命!)
間違いようのない少女の幻影、或いは亡霊は、もうひとり小学生くらいの男の子の手を引いていた。
(あれは……兄ちゃん? 本物の? 幽霊?)
幻の少女は頷いた。
少年は笑った。
ああ、と青花は瞳を伏せる。
神無木命も空木忍もこの場所で生命を落とした。
地が穢れ侵されたままでは、彼らは永遠に縛られどこにも行けない。封印は同時に解放の役割も果たすのだ。
青花はもう迷わなかった。
何度も何度も鈴を鳴らし、ありったけの力を込める。ワームホールが吸引力を増す。輝きが邪を完全に捉える。凶星が沈んでゆく――。
ごぼごぼっ、とぽっかり開いた空間の穴へと水が流れた。
(閉じる!)
六芒星を結ぶ光が点滅する。
青花のみならず、封印を支える6人全員が持てる力をすべて注いだ。世界の外側に敵を追い出せたのであれば、次は穴を塞ぐ必要がある。この世界はもう二度と災厄を受け入れない。
完全に滅ぼせる訳ではない。もしかしたらあれは、数多の世界を渡って甦り続ける存在なのかもしれない。この世界を去ったとしても、また別の近似世界で呪いの言葉を吐き続けるのだろうか。
(だとしても、私たちのできることはひとつだけ)
最後の鈴の音が一際大きく鳴り響いた。
その直後――。
かしゃん、と鈴は青花の手の中で壊れ、金色の砂塵と化した。
◆ ◆ ◆
この感覚を人間は何と名付けるのだろう。
もしも自我の奥に心というものがあったならば、理解できたのかもしれない。けれど、そこには空洞しかなかった。
この世界でたまたま近くにいたあの子は、とても不思議な存在だった。そう、最初に会ったときはまだ幼体でしかなかった。
小さく弱々しかった。
煩くて騒がしかった。
妙になつかれた。
人間の感情に擬えてみよう。
微笑む顔が良いと思った。
くるくる変わる表情が好きだった。
愛らしいとか言うのだろうか。
――共にいるのがとても楽しかった。
日々はとりとめもなく過ぎてゆく。
時が経つにつれ、焦燥だけが行動を支配した。
厄介な力を持つ女には人間に化けてすぐに気づかれた。速やかに始末した。
女の後継者であり、因縁の相手である小娘は長く見つからなかった。その間に年月は星の巡る12年を経過していた。
思い出したことがある。
こことよく似た別の世界では、擬態しているこの男の妹には会わなかった。いや――確か男の嘆きを聞いた憶えがある。いつだったか小娘に告白していた。妹を救えなかったという話を。
傍を彷徨くあの子は、騒々しくて鬱陶しくて面倒くさい。だが、喪われるのも何か嫌だった。
だったら簡単な話だ。影に日向に見守って、すべての不幸から逃せばいい。
あの子も成体に至る途中くらいまで、どうにか無事に生き延びた。男の言っていた時期はとうに過ぎているだろう。
安心したところで、例の小娘が現れた。
相も変わらず敵意を露わに、こちらの領域に踏み込んでくる。
腹が立った。嫌がらせで呪いをかけた。誘き出してから、ふと思いついて、以前にいた世界について教えてやった。
小娘には兄がいた。
別の世界で無謀にも挑んできたために返り討ちにした人間によく似ている。かつてはこの兄のふりをして小娘を騙したこともあった。こちらの世界では未だ健在のようだ。
嘲笑って選択を迫った。
小娘が犠牲になれば兄は生き残るかもしれない。だが、逆はどうだ。おそらく運命の鎖は、小娘の代わりに兄を生贄とするだろう、と。
迷った小娘の隙をついて、雨空に放り投げる。
襤褸切れのように舞った。
愉快だった。
ようやく意趣返しが叶ったというものだ。
それからしばらくは平和に過ごした。
しかし長くは続かなかった。
急にあの子の様子がおかしくなった。こそこそと何かをやっている。これまでは手に取るように把握していたのに、今は何も読めない。
とても嫌な予感がする。小賢しい羽虫に纏わりつかれているせいなのか。或いは……違う、違う。この匂いは何だ。
気がついたときには手遅れだった。
あの子の傍には何故か小娘の兄がいた。更に小娘の守護者どももわらわらと集まってくる。
――何ということだ。
絶望する。よもやまさか、という思いが全身を憤らせる。信じ難いことに、慈しんできたあの子が忌々しい小娘と同じ力を継いでいたのだ。
腹立ち紛れに呪いを蔓延させ、連中を始末しようと試みる。一番目障りな小娘の兄を陥れようと画策する。……すべて失敗に終わった。
ああ、残念だ、残念だ。
可愛いあの子は悟ってしまった。
またしても封印に囚われる。
世界に弾かれる。拒絶される。
いいや、いいや。
そんなことより、あの子に手を払われたのが悲しかった。そうして再び独りになってしまうことが、何よりも……。
そうだ、もしも心というものがあったならば。
この想いを――寂しいと名付けるだろう。




