16.君の遺した消えない傷痕 5
扉の向こうには屋外プールがあった。
以前に兄の忍から星辰学院のプールは屋上にあると聞いていた青花は、ここがそうなのかとプールサイドと水面をぐるりと見渡す。
濃い蒼が揺蕩う水辺に、銀の月が光を落とす。
あの日もこんな夜だっただろうか……と想像しながら、そういえば土砂降りの日と聞いたのを青花は思い出した。
(大丈夫、私は違う)
青花は相違点に少しだけ安堵する。
自分は神無木命ではなく、玲生も多分、そのときの当事者ではない。
(でも何か知ってる?)
「神無木ちゃんはさー、あのフェンスを乗り越えようとして、誤って落ちたらしいよ?」
玲生は月光を背に受け、ひたひたとプールサイドを歩く。その足はある場所でぴたりと止まった。
多分そこが、神無木命の……。
「ありえないよねー」
「天木さん……さっき、神無木さんが呪われたって言いましたよね」
「ああ、そーだったね」
どうでもいいことのように答えると、玲生はフェンス越しに遥か地上を見下ろした。そこには何もないはずなのに、玲生の瞳は暗い深淵の先に赤黒い肉塊を映しているかに思えた。
「便宜上『呪い』って言ってるけど、要するに攻撃されたんだよ。まー敵さんだって馬鹿じゃないからさー」
「敵」
「僕も天木家に伝わる伝承以上は知らない。いるんだよ、この学院に。良くないもの。禍々しいもの。時を経て訪れるもの。凶星。太歳。まー呼び名は何でもいいんだけどねー」
「……そ、んな」
「奴の『呪い』には力があってもなかなか対抗できないんだよ。妹ちゃんにはわかるよねー? ほら、今の僕も」
言霊が畏れを引き寄せるのか、玲生の周囲の空気が重く揺らいだ。黒い靄が天辺から指先まで、滲むように涌き出ている。
「……死にたいんだ」
玲生はぽつりと呟く。
青花は凍りついたように動けなかった。
「ずっと死にたくて死にたくて堪らないんだ。わかってるよ。これは『呪い』だ。僕の本心じゃあない。言祝木の奴が無意識にクラスの女子たちに振り撒いてたのと同じもの」
「それって……言祝木さんファンの自殺未遂の件、ですか?」
「おー、よく知ってるねー」
玲生はわざとらしく感心してみせた。
「ならわかるかなー? この『呪い』はね、正確には僕が受けたんじゃないんだよ? 本当はどんなものなのか、君にも理解できそー?」
「えと、死にたくなる『呪い』じゃ……?」
「不正解」
出来の悪い子どもを諭す口調で、玲生は言った。ここでようやくフェンスの外に向けた身体を、くるりと反転させる。
「……!」
思わず青花は息を呑んだ。
黒い靄はすでに玲生の顔全体を覆っている。
それだけでない。特に左胸、心臓の付近からは傷口から血が噴き出すように、歪な闇が溢れ出ているかに見えた。
手遅れ、という容赦なく残酷な言葉が青花の脳裏に浮かぶ。
「天木さん……!」
「何の『呪い』だって、本当はどうでもいいけどねー。どうせもう神無木ちゃんはいないんだし」
幾度も幾度も神無木命の名を口に出して、玲生はその都度痛そうに胸を抑えて掻き毟った。青花はそこに抉れた傷痕の幻を見る。
「神無木ちゃん……そもそも神無木ちゃんが悪いんじゃあないか。僕せいじゃない。僕のせいじゃないんだよ。だから」
「天木さん、駄目」
呑み込まれていく玲生に、青花は声を振り絞る。
「駄目だよ……!」
「君に何がわかるの」
玲生は青花を認めなかった。
「本質もわからない未熟者のくせに生意気だね。いいよ? 教えてあげよっか。あの『呪い』はね、呪われた当人を死なすものじゃないんだよ」
「え……」
「対象者のことをを好きになってくれた相手に、死の渇望を与えるんだ」
「つまり、味方を奪って孤独に陥れることを目的としてる。受けた者が二重に苦しむように編まれた『呪い』なんだ。まったく性格の悪い奴が考えた嫌がらせだよ」
「す、好きって?」
「もちろん恋愛感情に限るけどね。だから、実は神無木ちゃんに惚れてた僕とかは最初から超ヤバかったってのに、必死に耐えてたわけ。これでも六根の一、簡単に負けるのはプライドが許さないし?」
「じゃあ……天木さんは、ずっと前から……?」
「まーね。でも知らなかったよ。まさか神無木ちゃんが死んじゃった後も効力が消えないなんて……」
あははははは、と玲生は乾いた笑いを立てた。
青花は怖かった。恐怖のままに、一歩二歩と距離を取る。その分だけ玲生は歩幅を詰める。
「そーだよ、僕は死にたいんだよ。神無木ちゃんはもういないんだ。『呪い』なんてなくったって、僕はとっくにどん底にいるっていうのにね。ねえ妹ちゃん……、僕は、僕はね、この世で一番大事なものを失くしてしまったんだよ?」
だからもうどうでもいい、と自ら発した投げ遣りな言葉に囚われ、玲生は絶望を深めていく。
「妹ちゃんさ……僕と、死んでよ」
「は?」
脈絡もなく心中を仄めかされ、青花は驚愕を通り越して混乱した。
「いや、何言って……」
「妹ちゃんは神無木ちゃんとは違うけど、ちょっと近いから」
「いやいやいやいや!」
「うん、だからいいよ。君なら僕を助けてくれるだろ? ねえ?」
「天木さん!」
殆ど黒い塊となった玲生は、欲望のまま猛然と青花に襲い掛かる。
駆け寄ってくる不浄の気配に耐えられず、青花は数歩後ずさった。
――来る。
(嫌だ。駄目)
「来るな……!」
青花は叫んだ。
だが正気でない相手にはまるで伝わらなった。
拒絶の意思は虚しく宙にかき消える。
逃げる間もなく迫り来る恐怖に、それでも青花は必死に抵抗した。
「知るか!」
「神無木命とか『呪い』とか、全然私の知ったことじゃないんですよ! 死にたいとか何なの。死ぬなら勝手にしろ。こっち巻き込むな、畜生!」
玲生は止まらない。
青花は覚悟を決めて、右拳をぎゅっと握った。
その刹那に起こったことを、青花は巧く表現できない。
黒い靄――「呪い」に心臓まで支配された天木玲生は、一心不乱に青花へと向かっていた。
それを遮るかのごとく、横から玲生を取り押さえた者がいた。
「おい、てめえ天木! 何やってんだ!」
「……っ!?」
「言祝木さん……!?」
いつの間にか現れたのだろう。制服姿の言祝木蓮が――星辰学院の副会長にして先日ライブハウスで一波乱あった攻略対象者のひとりが、同じ生徒会メンバーである玲生を、必死の形相で背中から羽交い締めにしている。
その更に横から、よく知った声が聞こえた。
「青花ちゃん!」
「星乃先輩……」
「青花ちゃん、今のうちだ!」
星乃に促され、青花は自分の右手を改めて見遣る。手の中には大事な――もしかしたら切り札になるものが在る。
「すみません、天木さん……!」
拘束から逃れようと暴れる玲生を、青花は真正面から見据えた。蓮が押さえている今しかない。
(お願い、ストラップ!)
手に中で鈴がりんと鳴った。
青花は大きく拳を振り切る。
「うらぁっ!!」
そしてそのまま、勢いだけで渾身の右ストレートを玲生の左頬にめり込ませた。
次話より「回想シーンは慎ましく」
 




