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第六章『彼(か)の幸福(しあわせ)』【後編】

――その日は、荒れ狂う風が、まるで残酷な運命のごとく、すべての花を散らしてしまっていました。

 すでに彼のいる家はからでした。


 いったい彼はどこに?

 もしかして、もういなくなってしまったの?


(もう、二度と、会えないのですか……?)


――いやです。それでは……それでは、あんまりです……!


 恥ずかしがる私に、はじめて微笑みかけてくれた春の朝――。


 子ども達と遊んでいたあの日、花冠をそっとかけてくれた夏の昼――。


 母を亡くし、泣き暮れる私の涙をぬぐってくれた秋の夕暮れ――。


 そして――あの日のように、涙した私を、彼の気持ちも考えず勝手な恋情をぶつけた私を、嫌わないで、今までのように接してくれたあなた――。


 私は、冷たい雨風が吹き付けるなか、必死で駆けました。

 髪や服は完全にはりつき、どんどん体の熱を奪いました。


――それでも私のこの想いまでなくすことなんて……できません!


 ずぶぬれになりながら、ぼろぼろになりながら、私は彼を探しました。

 かすんだ視界の向こう、そこに……。


 荒れ果てた花々と、うずくまるように倒れた彼をみつけるのでした。


――やがて目覚めた彼の言葉を、いまでも鮮明に覚えています……。


「――僕は、救われてはいけないんだ。一生、この罪を背負っていく。奪ったすべてのぶんまで、この命のすべてを費やし、償い続ける。……そう決めたんだ」


 朦朧としながらも、そう言った彼の横顔は、弱弱しくも、力強く、とても美しいものでした。


 ですが、私には、わかりました。

 隠したその本心を。


 彼をずっとみてきた私には、それは確信と呼べるものでした。


――彼は、このままでは死んでしまう――。


 自らの後悔と苦悶に溺れて、そう遠くない未来、自らの手で息絶えてしまう――と。

 いったい、彼をここまで苦しめ、襲う「罪」とはなんなのでしょう。


――知りたい。


 でも、それを聞いたらいけない気がして。

……それを聞いたら最後、彼はこの村を去ってしまう気がして……。


 私は、ただ固唾かたずを飲みました。

 私には、たぶんどうもできないことだと、わかっていました。


 聞くまでもなく、彼の表情が……まるで地上に投げ出された魚――。


 いえ、後悔に身を焼かれた「人魚」のように……苦しそうで、すべてを悔いてなお足りないその苦悶くもんの表情が、すべてを物語っていました。


 ですが……。


「――リシアン。私は、それは違うと思います」


「…………?」


 彼は、無言で問い返しました。


「たとえどんな罪を犯したとしても、幸せになる権利はあると思います。確かに、罪は罪です。一生をかけて償うべき重みです。ですが……」


「私は、そんなあなたに寄り添いたい。たとえあなたが生涯しょうがい、悲しみ、苦しんでも、そんなあなたの隣で……あなたの苦しみを癒したい」


「……そんなこと……」


 彼は、ぎゅっと、眉根まゆねをひそめました。


「――できるはずないと思いますか? ――いいえ。私には、わかるんです。あなたは、ほんとうは優しいひと。清らかな心のひと。――だから、きっとだいじょうぶ」


 私は、微笑みました。

 これまでの生涯で、一番美しく。


 そう。

 彼が、どれだけ私たち村人のことを思っているか。


 雨の日も嵐の日も――……。


 病めるひとあればその手を握り。


 泣く子どもあれば頭をなでてやり。


 悲しむひとあれば、ただ黙って隣にたたずみ、話を聞いて、うなずく。


 そのひたむきさ。

 その、純朴じゅんぼく真摯しんしさは……まるで、「ものがたりの聖人」のようでした。


 光が強ければ闇もまた深いように、彼のそのとほうもない清らかさは、もしかしたら――同時に、とほうもない「罪」をもあらわしているのかもしれません。


 ですが、そんな彼だからこそ――。


「私が幸せにします。あなたの隣にいます。いえ……たとえ今この瞬間に死んでも、かまいません。永遠にあなたを想いつづけます――」


――私は、どうしようもなく、好きになったのです――。


「……だから――」


「ハンナ……」


 彼の、その時の表情は、忘れようもありません。

 泣いていました。透明なしずくが頬を伝い、まるで、私が知りえない、「あの時」のようでした。


――そうです。

 これは、私とリシアンの物語ではありません。


 あの盲目の少女と彼の、想像しようもない闇と光に、ただの村娘である私が、かなうわけがありません。


 ですが……それでも、これだけは言えます。

 その後の彼はきっと、しあわせだったと。


 たとえ知りえなくても、かなわなくても、私と、愛しいリシィが、不幸になんてさせません。

 私たちは、その後ずっと彼のそばにいて、一番の笑顔を届け続けました。


――まるで、彼が真白き花に、懺悔ざんげと後悔をこめたように。


 私たちは、笑顔という、この世でもっとも美しい花を贈り続けました。


 彼が、おぼれた村人を救って――若くして死ぬまで。


 私たちは、彼の「希望(ひかり)」でありつづけました。


 すべてを塗りつぶすタールのような、この世の終わりのような、とほうもない闇の――一筋の「救い(ひかり)」でありつづけました。


 いまなら、そう断言できます。


――いつか、そう……私たちが出会って三年目の冬、彼がいいました。


「確かに、僕はわずかな人を救いもした。だが、それが果たして正しいことなのか、今でもわからないんだ」


 彼が弱音を吐いたことに、私は少なからず驚きました。

 ですが、すぐに納得しました。


 あの幻のような嵐の日――意識を失い倒れていた彼。

……あの時のおはなしの続きなのだと。


――そうです。いくら償えど、どんなにい行いをしようと、犯した罪が、たちまち消えるわけではありません。


 ですから、彼のその悲しげな微笑は、その後もやはり、消えることはありませんでした。


 ですが――柔らかな微笑を、ほんのり色づいた春の花のような微笑を、彼が知ることになる日は、けっして遠くはなかったのです。


――そうです。

 私は何度でも、言いましょう。宣言し続けましょう。


 どんな罪を背負っても、幸せになる権利はあると。

 神は、罪にはじまり、罰で終わるような、そんな狭量きょうりょうな人生を贈りはしないと。


 だって、「生きる」とは、ほんとうは、とっても素晴らしいプレゼントなのですから。

 終わりゆく命のるつぼで、刹那、生きる権利を与えられて、この世に、生まれ落ちてくる。


 その幸福は、何にもかえがたいものです。


 時に悲しむこともあるでしょう。

 時に、絶望し、後悔に溺れ、もう終わりにしたくなることもあるでしょう。


 その痛み、苦しみ……それらは、本来、私などが、軽々しく語ってはならないのでしょう。


――ですが、そこであきらめてはならないのです。


 あなたが生まれてきた意味……生きる喜び……それらを知らずに死ぬなんて、そんな寂しいこと、言わないでください。


 だって、あなたのなかには――まだみぬ「幸せの種」が眠っているのですよ?


 そしてそれは、あなたにしか育てられないのです。

 生きて、生き抜いて、愛し、愛されて、はじめて育つ大輪の花なのです。


 ありふれた日常だとしても、かまいません。

 悲劇にまみれた人生でも、かまいません。


 今ここに生きている。

 その幸せに、いつか気づくまで……けっして、その(ひかり)を消してしまわないで。


 自分の人生は、自分だけのものです。

 訪れない朝などありません。


――どんな闇が世界を包もうと、どんな悲しみが襲おうとも。

 あなたのなかに、命が輝く限り、終わりなどではありません。


 罪のせいにしないでください。

 ひとのせいに、しないでください。


 たとえどんなもっともな理由も、どんな環境も、誰の言葉も、あなたの幸せを奪う権利はありません。

 神は――……そして私は、そんなものを望みはしません。


 だからあなたに言います。


 何度でも、言い続けます。


「だからリシアン、……私と一緒に、幸せになってくれませんか……?」


 その、真白き誓いの言葉を――……。 


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