第一章『彼(か)の名』
――君は僕の名前を知っているの?
彼は問うた。
――いいえ、知りません。
彼女は答えた。
沈黙が流れた。
それは、彼が真に望んでいた答えだった。
彼は、もう何もいらなかった。
縛られたくない。誰にも、何にも。
――ましてや、名前など。
(そう……僕は、僕を捨てたんだ)
僕であることを。
存在の隠滅。過去の抹殺。
いっそ、もうなにもかも――消し去ってしまいたい。
ふと、思った。
彼女も消せないだろうか……?
いや、その必要はない。
だって、彼女は僕を知らない。
名前も――容姿すら。
光をけして通さないことを確認するかのように、彼女のまぶたに触れる。
その時――彼女は言った。
……みえる、と。
「……何が?」
僕は平静を装って聞いた。
「……ひかり、が」
彼女は僕の頬に手を伸ばした。
「……ひかり。あなたから届いた、あなたの放つ、まばゆさが――わたしのひかり」
ああ。
盲目の少女。
君は何を知っているの?
この真っ赤な掌がみえないんだろう?
僕の身体から、全身から発する死の香りと、いっそ、もうすでに僕自身とも言えるこの罪の証がわからないとでも?
(……君は、どうしてそんなに――)
きり、と彼女の首が鳴る。軋む。
当たり前だ。
僕が君の首を絞めているからだ。
赤黒い水滴とともに、君の真っ白な襟元が染まってゆくのも無視して。
僕は。
「……な、いてい、るのです……ね……」
途切れ、極限までかすれた声で彼女が言った。
僕はいまさら気づいた。
僕の冷え切った頬に、少女の手が添えられているのを。
でも。
「泣いて――……なんかいないよ?」
僕はもう一度無視した。
あごを伝い、したたり落ちるその水滴を。
涙なんていうのさえおこがましいそれを。
君が動かなくなって、僕はつぶやいた。
ああ、僕は泣いている。確かに、泣いていた。
そして最期に――その汚い雫を、君はその痩せた手で拾ったんだ。
ああ。
君はなんて穢れを知らない。
――君は……。
僕は掌を緩めた。
そうっと、着衣におさめた。
僕はその日から、無作為にヒトを壊すのをやめた。
なぜ、といわれてもわからない。
ただ、そのぬくもりが、ひどく儚くて。
ああ、喉が渇いた、と思ったんだ。
ずっと、乾いていたんだ。
乾ききっていることに気付かないほどに、求めていたんだ。
その、真白き掌と、この、失われゆく柔らかな温度を。
だからかな、と思った。
この限りなく水に近いなにかが溢れた不思議が、ひどく腑に落ちた。
この掌の穢れた刻印は消えないけれど。
せめて君に花を贈ろう。僕が屠った、幼い、尊すぎた命を悼むために。
マグノリア。僕は、僕のために生きる。
生きて、生き抜いて、僕自身が枯れ落ちるまで、君にその花を贈り続ける。
それは君の掌のように繊細で、君の心のように真白く、いまにも手折られてしまいそうな、尊い命。
君は僕を、よく知らなかった。
僕も、君のことを知らない。
それでも忘れたりしない。
否、忘れたくない、と思った。
「あの日」以来、はじめて願った。
覚えていたい。
君の掌、君の閉じた瞳、君の言の葉のすべてを――。
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――やがて時は過ぎ、荒地に花が咲いた。
まるでちいさな天からの御使いのように可憐で、はかないその一輪を、人々は愛した。
荒廃したその地は、いつしか一面の花畑となっていた。
彼らは歌う。さる穢れなき少女の石碑を建てた、美しくも惨い咎人の物語を――。
物語は、こうして終わった。
少女の物語は、あっけなく幕を閉じた。
終わらせたのは、「彼」……そう、「僕」だ。
しかし、本当にそうだろうか?
果たして、「彼女」の生は終わったのだろうか?
僕は、その答えを知っている気がする。
忘却の地平線を、僕は歩く。
そう、いつか、「彼女」に出逢うために――。