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犬神ギフト  作者: 巳影 樹生
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01話 私があなたの犬神です

 ぽっかりと穴が空いたように崩れ落ちた天井に縁取られた、綿雲の敷き詰められた空を、瓦礫の中に埋もれるように横たわったまま、見上げている。

 抜け落ちた天井の狭間から見える、雲の切れ間から射し込む白い陽の光に照らされる、金色に輝く波打つ髪が揺れる彼女を見上げる。

 その彼女は、自分の体の上に跨ったまま、白いフサフサとした毛皮のコートの赤く染まった豊かな胸元に、自分の伸ばした左手に手を重ね包み込み、緑色の瞳でこちらを優しく見つめながら、血の滴る真っ赤な唇を開きこう言った。


「ご主人様に受けたご恩に報いるため、ご主人様との約束を果たすために!ご主人様の望みに応えるため、犬神になって生まれ、帰って来ました!私がご主人様の望みに報います!」


 その頭にはピンと立った犬の耳が、その背では大きなふさふさとした尻尾が左右に揺れていた。


01話 私があなたの犬神です


 彼女は一体誰なんだ……。

 滴る雫が頬を打ち、冷たさに闇の中に居ることに気がついた。。

 目が開いているのか閉じているのかもわからない暗闇の中、身動きが取れず、自分の背中の固く冷たい感触に気づく。

 その冷たさは少しずつ体の中に浸み込んできて、体が埋もれているのか漂っているのかもわからず、冷たさの中に自分が溶けていく。

 このまま暗闇の中に溶けてしまうのだろうか。

 なら、暗闇の中にいることに気づかず、ただ眠っていればよかった。

 誰か――。


 もしも、知らせてくれた誰かが居るなら、ここから助け出そうとしてくれる誰かがいるのなら……。そう望み、発せられたのかもわからない、自分にも聞こえない言葉をつぶやく。

 すると、冷たさに浸されていた体の上に、何か暖かく柔らかいものが乗ってきた。

 その暖かく柔らかいものに触れられることで、暖かいものとの境となる、自分の体の感触を取り戻していき、体を浸していた重く冷たい感触は取り除かれたかのように軽くなっていく。


 誰かが、自分を冷たい場所から掘り起こしてくれているのだろうか。


 手が動いているのか、動くのかもわからない。

 それでも暗闇の中の誰かを求めて手を伸ばす。

 すると、その手を何かが暖かく包み込んでくれた。

 その暖かなものは指の間に滑り込むように。手の形を確かめるかのように優しく包み、撫でてくれると、何か柔らかいものに手を埋もれさせた。

 柔らかい毛皮のような感触、暖かさと脈打つ鼓動。

 その誰かの感触に自分の鼓動が早くなるのがわかる。

「……さま、……さま」

 その誰かの、自分を呼ぶ声が聞こえる。

 その言葉が、自分の耳元でささやかれるのがわかる。

 自分を大切に思い、冷たい闇の中から掘り起こして、温めてくれている誰か、その誰かは……。


 自分の額に、熱く柔らかい、濡れたものが触れた。

 

 その感触に頬が熱くなっていく。

 その濡れたものは、こめかみを、頬、顎を、鼻を拭っていき。

 そして、唇に触れる。

 熱い感触が注がれるかのように全身に熱が満ちていき、動かなかった体に力が入り、その誰かを見たいと、眼を開く!


 その誰かを求め開いた目を、眩しい白い光に刺された。

 それでも右手を伸ばし光を遮りながら、瞼をゆっくりと開けていくと、右手の指の隙間から緑色の瞳が見つめていた。


 眩しさに耐えながらゆっくりを右手を退けていくと、自分の上に乗っていた誰かの姿が見えてくる。

 金色の長い波打つ髪に、やさしく見つめる緑色の瞳。白いコートを身にまとい、赤く染めた豊かな胸元に、誰かを求めて伸ばした自分の左手を優しく手を重ね包み込んでくれている。

 その彼女は微笑みをたたえた赤く染まった唇を開きこう言った。


「ご主人様に受けたご恩に報いるため、ご主人様との約束を果たすために!ご主人様の望みに応えるため、犬神になって生まれ、帰って来ました!私がご主人様の望みに報います!」


 犬神……?


 よく見ると彼女の頭にはピンと立った髪の毛と同じ金色の犬の耳と、背中で大きなふさふさとした金色の尻尾が左右に揺れていた。

「さあ、私に何でも望んでください!」

 頭の犬の耳を、背中の尻尾を、ともにピコピコとゆらしながら、やる気の笑顔でそう言った。

「犬神?」

「はい!ご主人様が助けてと望まれたので、ご主人様に恩返しをするために、ご主人様を助けるために犬神として生まれ、助けにきました」

「私があなたの犬神です!」


 犬が恩返しに神様に生まれ変わってきたということだろうか。

「そして埋まっていたご主人様を掘り返しました!」

 と自分の上にまたがっている犬神は得意げに報告する。

「とりあえず体の上から降りててくれるかな?」

 いくら気持ち良くても、乗っかられたままというのは気まずい。

「わかりました!」

 そう言うと彼女は自分の体の上から降りてくれた。どうせなら起こしてくれると……。

「ご主人様、お手を」

 と起こして欲しいと頼む前に、彼女は手を差し伸べてくれた。

「ああ、ありがと」

 礼を言いながら右手を伸ばすと、その手を両手で握りしめて、勢いよく引っ張った。引っ張られた体はよろけると、彼女の胸元に顔を埋めてしまった。

「ああっ、ゴメン」

 慌てて離れて彼女を見るも、彼女は気に留めていない様子。

 赤い唇で微笑みながら、緑の瞳でこちらを見つめている。

 赤い唇から、赤いかけらが剥がれ落ちた。

 その唇だけでなく、口元も、顎も、赤いかけらがポロポロと零れ落ちている。

 そんな彼女の胸元の赤いもの、それは白い毛皮を染めているのではなく、何かで赤く染まっていた。

「これは……血!?怪我をしているのか?」

「はい、ご主人様が怪我をしていたので、舐めて治していました」

 彼女ではなく自分が!?言われてみれば

 自分は生き埋めにされていたのだから、どこかを怪我していて当然か。

 そう思い自分の顔を撫でてみると、ぬるりとした感触とともにパリパリという音ともに固まった血が剥がれ落ち、手の平を赤黒く染めていた。

 よく見れば手のひらにも小さな切り傷が複数できていた。傷口からはまだ血が滲み出ていて。

 傷があるとわかったとたん傷口の中から痛みが襲ってきて、止まらない血の量に恐ろしくなる。

 すると、犬神は傷ついた血まみれの手を手に取ると、顔を近づけ舌を伸ばして舐め始めた。

「うわっ!」

 突然の感触に、その行為に驚き声を上げ、手を引っ込めようとするも、手を離すどころか動かすこともできない。

 犬神は気にすることなく手のひらを舐めると、指を一本ずつしゃぶり舐め上げ、手全体についた血を全て舐めとると、顔を離して唇についた血を指でぬぐい、真っ赤な舌で舐めあげた。。


「はい!治りましたよ!」


 治りました、その言葉に手のひらから痛みが引いていることに気づく。

 舐め上げられた、血まみれだった手を確かめると、手のひらには血のしみ一つなく、傷口もなくなっていた。

 舐めて治す、じゃあ……。

「はい!ご主人様の体も、頭も、いっぱい怪我をしていたので舐めて治しておきました!」

 と犬神は、尋ねるより早く答えた。

 あの感触は、頭だけでなく全身を舐められていたのか。

「もーっと舐めますね!」

 そう言いながら犬神は、しっぽをふりふり長い舌を出して、顔を近づけてくる。

「いいから!もう治っているならもう舐めなくていいから!」

 と必死でさえぎる。

「ご主人様がそう言うなら……」

 と犬神は、残念そうに身を引いた。

「とりあえず、ここはどこで自分は……」

 誰だ?自分は一体何者で、なぜこんな場所にいるのか?

「さあ、私はついさっき犬神として生まれてきたので」

「恩返しって言ってたよな?ご主人様なんだから名前とかわかるんじゃないか?」

「ご主人様の名前……覚えていません。でも、ご主人様が私のことを『わんこ』と言っていたことは覚えていますよ」

 名前を覚えていない、犬だから人間の言葉がわからないのか、それでも犬は名前を呼ばれると答えるし、主人の名前くらい覚えているものなんじゃないか?

 知らないものはしかたない、とりあえず血のシミがついたマウンテンパーカーのポケットをさぐると、小銭と保険証の入った財布と、スマホが出てきた。

 財布からはレシートとキャッシュカードが出てきて、レシートには12月22日22時22分に肉まんを2つ買ったことが記載されていて、おそらく今日はその翌日以降だということがわかり、キャッシュカードからは自分の名前が『イナリ キミヤ』ということだけはわかった。

 スマホの方は電源ボタンを入れても、画面には『充電してください』の表示がされて起動せず、まずは充電しないといけないようだ。

 どうにかしてスマホを充電して、情報を集めないと。

 そのためにもとりあえず……。

「ご主人様!出口はこちらです!」

 と犬神は自分より先に部屋の外に出て、はやくはやくと手招きしている。

 

 犬神を追って部屋から出ると、そこには外から差し込む光に照らされた、薄暗い荒れ果てた広間の二階に出た。

 すぐ目の前には階段が下の階へ伸びていて、階段から降りた正面には出入り口らしい大きな扉がある。

 不気味な廃屋だ、ゾンビでも出てくるんじゃないかと思いながら、先に階段を降りて出口らしい扉を開いて はやくはやくと手招きして急かす犬神の元へと階段を降りていく。

 階段を降りきった時、背後から湿った空気とともに、唸り声のような声が聞こえた。

 振り返りたくないけれど好奇心には勝てず、振り返ってみると、風は階段の裏から吹いてくるようだ。

 階段の裏を覗いてみると、そこにはさらに下に続く階段が伸びていて、光のささない階段の奥には闇だけが詰まっていた。

「ご主人様、そこにはなにもありませんよ。はやく外にでましょう!」

 確かに、闇を覗いていても仕方が無いので、さっさと外に出るとしよう。


 廃屋から出て振り返ると、そこにはツタに覆われた大きな二階建ての館が立っていた。

 自分はなんでこんなところにいたのだろうか。


 ふと自分の服についた血のシミを見て考える。

 とりあえず、自分も犬神も血で汚れてしまっているのをどうにかしないと。このまま人前に出たらゾンビ映画か殺人事件かと騒がれる……。

「ご主人様!こちらで体をきれいにしましょう!」

 尋ねる前に察したのか犬神は、ヒモのようにねじれた葉っぱの生い茂る森の中の、獣道のようなところに入って手招きしてきている。

 どうやらあっちに水場でもあるようなので、犬神についていくことにした。

 高い木々に囲まれた森の中、白々とした光が射し込むなか、白いもやの漂う中を、ヒモのようにねじれた葉っぱの木をかき分けながら、犬神の後を追っていく。

 ゆるい下りを探りながら進んで行く。その足元には木の根が這い回り、柔らかい落ち葉が踏みしめる足を捉え、枝が手足を引っ掻き叩く。

 顔を叩かれないように、アウターの襟を立てて顔を隠して進む。

 そんな歩きにくく不気味な森の中を、先に行く犬神は耳をピンと尖らせて、しっぽをふりふり躍らせながら、白いコートをひるがえし、わんわんとハミングしながら、森の奥へ奥へと進んで行く。そんな犬神の後を追い、自分も森の奥へ奥へと進んで行く。

「お~い、犬神!お~い」

 と呼びかけると。

「なんですか〜、なんですか〜、ご主人様〜?」

 と先行く犬神は振り返る。

「少し待ってくれ、歩きにくい」

 森の中は枝や落ち葉で歩きにくいし、ざわざわ言ってるのもまるで何かが唸っているようで不気味だ。

「でしたら私が、この森を楽しくしますね」

 頼むよりも早く犬神は応えると、目を閉じ自分の腹のへその辺りに両手を重ね当てた。

 すると、そのへその辺りが光り出し、眩しい光が溢れる中から金色のボウルが出てきた。

 犬神はそのボウルを片手で抱えると、空いた片方の手で自分の波打つ金色の髪に指を絡め滑らせ、何本か抜けた髪の毛を金色のボウルに入れた。

 すると、ボウルの中に入れた髪の毛は片手で掬える程の量の、白い米粒のようなものに姿を変えた。

 犬神はボウルの中に手を入れ白い米粒をかき混ぜ出す。すると白い粒は弾けて白い液体へと姿を変えて、ブクブクと虹色に泡だち、ボウルいっぱいの白い泡だつ液体へと姿を変えた。

 犬神は泡立った謎の白い液体が入ったボウルを両手で掴むと、

「たのしくな~あれ♪たのしくな~あれ♪」

 と歌うように唱えながら、ボウルの中身を思いっきり辺りにばら撒いた。

 辺りにボウルから飛び散った泡が漂っていくと、不気味な森の雰囲気が一変した。

 白い霧は金色のカーテンのように輝き揺れて、不気味な唸り声のようだった木々のざわめきは、遠くから聞こえる楽しげな笑い声に、揺れる木の枝はクリスマスツリーのように、金銀の星やベルやモールや赤いボールで飾られて、落ち葉や木の根が這い回る地面は舗装された光る石畳になった。

「楽しくしました!さあさあ、早く行きましょうご主人様!」

 そう言うと犬神は、再び坂を下っていく。

 辺りから聞こえてくる楽しげな笑い声に背を向け、犬神の後を追いかけて下っていく。

 光る石段を下金色のレースのカーテンのような霧をかきわけ、木の枝が絡み合ってできたアーチの下をくぐり、ようやく平らな開けたところに辿り着いた。

 

「ご主人さま、ここです!」

 犬神が指すのは、25mプールほどの大きさの広さの、すりガラスのように白い水面の泉だった。凍っていた。

「こんな氷の中に入れるか!」

「大丈夫ですよ、これを、こうすれば」

 どうするのかと見ていると、犬神は先ほどの金色のボウルを取り出すと、凍った水面に叩きつけた。金色のボウルは湖の表面の氷を粉々に砕き、澄んだ水をあふれさせた。

 このままじゃ氷水のままで、こんなところで服を洗ったら手が痛くなりそうだ。

 そんなことを考えていると、犬神は森のなかでやったようにボウルの中に白い泡だつ液体を作り出し、そこに泉の水を汲み入れた。

「さあご主人様、汚れた服をこの中に入れてください」

 言われるままに上着を脱ぎボウルに入れると、犬神は服をこねまわし始めた。

「きれいになあれ~きれいになあれ~」

 ボウルの中の白い液体は染み出た血で赤くなったかと思うと、ピンク色の泡となってはじけて消えていき、やがて泡も液体も無くなり、綺麗になった服がだけが残った。

「できました!」

 と犬神が言うので、ボウルから服を取り出すと、きれいさっぱりと赤黒い血のシミが消えて無くなっていた。それだけではなく、服はすっかり乾いていてまるで新品になったかのように破れほつれも直っていた。

「どうですかどうですかご主人様!」

「すごいな……」

 綺麗になった服に袖を通し、裾を持ち上げて確認していると、何やら赤いシミがみつかった。よくよく確かめると、着る時についたもののようだ。

 いくら服を綺麗にしても、血まみれの頭と体を綺麗にしないと服がまた汚れてしまうな。

「ご主人様はボウルに入りきりません。だからこの泉で洗いましょう!」

 注文するより早く犬神は、再び髪の毛をかき取りボウルの中にいれかき混ぜて、白い泡だつ液体を作りだすと、そのボウルに泉の氷の浮かぶ水を汲み入れた。

「あったかかくなあれ♪あったかくなあれ♪」

 犬神が歌いながらボウルの中身を片手でかき混ぜると、、ボウルの中の氷がたちまち溶けだし、ボウルから湯気が出たかと思うと、ボウルから溢れ出た湯気の立つ水が泉に注がれていく。

 犬はその泉の中に足を踏み入れると、泉の中にボウルを入れて搔きまぜる。

「あったかくなあれ♪あったかくなあれ♪」

 すると犬神のいる場所を中心に氷が溶けていき、辺りには湯気が立ちこめてきた。

 「できました!」

 辺りには暖かな湯気が漂い、泉の淵には花が咲き、泉の周りはまるで春か夏のような青々とした草花に囲まれた金色の湯気のたちこめる温泉になった。

「さあご主人様、お風呂に入りましょう」

 犬神は白いコートを水面で揺らしながら振り向いてそう言った。

「生き返る~」


 服を脱いで湯に入り、血で汚れた服を泉につけて洗う。

 すると瞬く間に服に染み付いた血は流れ出し、まるで血など初めから付いていなかったかのように綺麗になっていく。

 湯から上げた服をねじって絞り、岸辺に生えている横に枝の張り出した葉っぱの垂れた木に服をかけると、大きくしなりながらも地面に落ちることなく、濡れた重い服からはポタポタ滴がたれていく。あとは乾くのを待つだけだな。

 泉の対岸では犬神も、血で汚れた毛皮のコートを脱いで、湯に浸りながら服を洗っている。

 さっきは自分の体を洗おうと服を脱がせにきて焦ったけど、そこを動かず、こちらを見ることなく、服と体を洗うように!と命令したので大丈夫だろう。

 望みを叶えると言っているのだから、命令もきいてくれるはずだ。


 それにしても、犬神はすごいな氷が張るような泉でも、あっというまに温泉に変えてしまう。犬の神様か……。

 と犬神に目を向ける

 あっちには犬神が入ってるのか……。

 自分では見るなと言ったけれど……、見たい……けど、見てはいけないよな。 

 いくら自分の望み通りに従ってくれるとはいえ……、それはダメだよな……。


 犬神が気になりつつも、体の血の汚れを落とすべく、湯に浸かって体を洗いながら考える。

 これは夢なのか現実なのか、夢にしてはリアルだし長い。現実なら犬神といい、廃墟や森をきれいにしたり、凍った泉を暖かい温泉に変えたり、あまりにも非現実的だ。


 頭についた血は落としにくい、頭に湯を手でかけながら洗うのは手間なので、湯に頭を浸して指に絡まる感触を頼りに頭を洗う。


 それにしても、瓦礫に埋もれていたのは事故だとして、なぜ自分は廃墟の中にいたのか。自分は犬神にどんな恩を与えたのか。


 息が続かなくなり湯から頭を上げ、顔を拭い水面を見る。落ちる水滴はほんのり赤く、まだ血の汚れが落ちきっていないようだ。

 潜りながら頭を洗うのは難しいな、シャワーみたいに浴びながら頭を洗えれば……。

 と考えていると、いきなり頭に暖かい湯が注がれた。それは途切れることなく頭に注がれ続ける。


「そうそう、こうやって頭にかけてもらいながら洗えば楽で……なんでこっちに来てるんだ!」

 注がれる湯から頭を上げて正面を向くとそこには、一糸まとわぬ犬神が、ボウルから湯を溢れさせながら立っていた。

「服も体も洗い終わったので、ご主人様をお手伝いするためにボウルをもってきました!」

 そう言いながら犬神が掲げていた湯のあふれるボウルを下げると、その胸元があらわになり、自分は慌てて背を向けしゃがんで肩まで湯に浸かり、身を隠した。

 すると、背中に柔らかい感触が触れると共に、

「近づくなって言っただろ!」

 水面の水鏡越しに、自分の頭の後ろから、こちらを覗き込む犬神の様子が見える。

「でもご主人様は私が近づくのを望んでいたから」

 確かに望んではいたけれど。

「私はご主人様の望みを叶えて差し上げるために生まれてきた犬神ですから、私の体を望まれているのなら、私で望みを叶えてください。そのために犬神として生まれてきたのですから」

 その言葉に思わず。

「望みたくても望んじゃいけない、叶えちゃいけない望みもあるんだよ!」

 という言葉が口をついて出た。


「望んでいるのに叶えてはいけない……」

 水鏡の中の犬神の顔がゆらぎ、遠くなる。

「ご主人様の望みを叶えるために犬神として生まれてきたのに、望みを叶えてはいけないだなんて、いまもご主人様は私を望まれているのに、その望みを叶えられず、私も叶えることができないだなんて……」

 犬神の顔を直接見れないけれど、その声と水面の揺らぎからは悲しみが伝わって来る。


 確かに体は望みを叶えて欲しいと感じてるけど、頭がその望みを叶えてはだめだと言っている。

 たとえ、それが望みを叶える、犬神自身が言ったことでも……。

「それじゃあ、望みを叶えられなかったら……私が、犬神として生まれてきた意味が無くなってしまいます……」


 その言葉に、返すことができない。

 自分が犬神の恩返しを認めれば、それは犬神を自分の欲望を果たすための道具にしてしまう。

 しかし、自分が犬神の恩返しを、自分の欲望を否定してしまえば、それを叶えようとする犬神の、恩返しをしようと生まれてきてくれたことを否定してしまう……。

 自分が認めさえすれば、いっそ体に正直になって犬神を望めば自分も楽になり、犬神も喜ぶかもしれない。けれど……。


 犬神として――。


「犬神ってのは名前じゃないんだよな?」

「はい、私は犬神。ご主人様の望みを叶えるためのものです。」

「お前は自分の名前は覚えていないのか?」

「はい、自分の名前も忘れてしまって……。それでも、ご主人様へ恩返しをするために、犬神として生まれてくることができました。そしてご主人様のために働ける、それだけで嬉しいのです」

 

 恩返しのために望みを叶える神様としてかえってきた犬。

 生き埋めになっていた自分を助けてくれた恩人でもある。

 犬神は自分の望みを叶えることで、恩返しとして成り立つ。

 だから恩返しができないと、生まれてきた意味が無くなってしまう。


 それなのに、自分は犬神のことを思って言っているようで、自分が犬神のことを望んだことをしてくれる便利な道具や機械のように扱っていた。

 大切にするために自分の望みを否定して叶えないでいながら、大切にするだけで自分の望みを見ていなかった。


「犬神、お前には恩返ししてもらってばかりだし、呼ぶための名前をつけていいかな?」

「名前……ですか?」

 ワンコと呼んでいたみたいだけど、それは違うよな……。

「『ノゾミ』なんてのはどうだ?」


「『ノゾミ』……私は『ノゾミ』、ご主人様の『ノゾミ』……。ご主人様!」

 いきなり頭を抱えられたかと思うと引き寄せられて、柔らかいものに顔が埋められた、これは!

 抱きしめるノゾミの手を引き剥がして改めて注意しようとノゾミの顔を見ると、瞳から涙をあふれさせながら、こぼれそうな笑顔で、しっぽを勢い良く振り喜んでいる。

 そんなノゾミの顔を見ながら、告げる。

「望んではいけない、叶えてはいけない望みは、叶えられた後で、望んだ側も、従った側も必ず後悔するんだ。それが相手が喜ぶことであっても、自分が喜ぶことであっても、望んじゃいけないんだ。……だから。

 ノゾミに恩返しとして叶えて欲しい、本当の望みを叶えてくれないか?というわけで……おあずけな」

 お預けという言葉にノゾミは一歩退くと。

「はい!ご主人様!」

 と笑顔で元気良く返事をした。


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