本多君のこと
本多くんが死んでからもう25年ぐらいは経つだろうか。今では僕にも息子がいて来年は中学1年生、ちょうどこの話の僕と本多くんとの間の出来事と同じ年になる。
本多くんが死んだっていう連絡をもらったのは中学を卒業してもう8年ぐらいたった時のことだった。当時僕は医学部の4年生だった。いついつどこそこで通夜と葬儀があるという内容の連絡だった。電話をかけてきたのは確か中学のバレー部の同級生だった。僕は全く気乗りしなかったが、その頃はまだ中学時代からずっと引きずっていた呪縛のようなものにとらえられていて、バレー部の集まりなら行かなければいけないと思い、仕方なく通夜に行った。通夜に行くのは気が重かった。本多くんも「お前なんか来るなよ」って思っていたのかもしれない。
通夜にはバレー部の同級生が全員来ているものと思い込んでいたが、行ってみると意外にも来ていたのはそのうちの半分以下だった。そして、故人を偲ぶと言うのとは少し違う、けれども通夜だということもあるためいかにも同窓会というような盛り上がりもない、なんともあっさりとした雰囲気だった。今思えば本多くんはバレー部の中でもやや浮いた存在で、みんなから少し距離を置かれていたんだと思う。おそらくそのせいで、来ていた同級生もそれほど重苦しい雰囲気にもならなかったんだろう。今思えば。
中学生だった当時の僕にとってはバレー部内での人間関係は、自分対バレー部の同級生のやつらっていう構図しか頭になかった。僕と僕をいじめ抜いた奴らとの関係、他には何もないと思っていた。けど考えてみればバレー部の同級生は15人もいたので、僕を除いた14人が一枚岩で一致団結していたなんてはずがない。14人で一致団結しなければいじめられないほど僕は強い人間ではないし。14人の間でもいろいろと人間関係はあったんだろう。でもたぶんいじめを経験した人はみんなそうだろうと思うけど、いじめられている当人にしてみれば、自分以外は全員みんな一致団結して自分をいじめてきているんだと思い込んでしまう。だから、もうそうなったら自分以外のやつが何を考えているのかなんて全くわからなくなってしまう。そして、結局全部自分の行動に責任があるものと思い込んでしまう。大人になった今思えば全くそんなはずはないのに。
中学3年の時に本多くんの担任だったヤマシタっていう教師がニヤついた顔で僕に声をかけてきた。「医学部に行ってるんだって?オレの肝臓治してくれよ」この教師は当時から自分が肝硬変だと言っていた。今思うと、こいつはひどい暴力教師だった。お前たちがオレを怒らせると肝臓が痛むんだよとか言って苦しそうな顔をして肝臓のあたりを抑えながら生徒を殴ったり蹴ったりしていた。3年間で一度も殴られたことなく卒業できたやつはおそらく一人もいなかった。僕も何度か殴られた。授業中に教科書を忘れたと言ったら殴られた。教科書を忘れるなんて僕ぐらいだったから余計に腹を立てたのかもしれない。教科書は必ず家にもって帰れ、人に借りるな、忘れたら正直に言え、たいそうご立派な教えだが、それを忠実に実行して絶対に忘れなかったら超がつくぐらいの優等生だろう。他のみんなはうまいこと人に借りたり、教科書を学校に置きっぱなしにしたりしていた。僕はまったく馬鹿正直だった。殴られた瞬間顔が真後ろを向いていた。僕も殴られ慣れていたから、ショックを吸収するためにうまく顔を回したんだろうと思う。まったくいいことを学ばせてくれる教師だった。ヤマシタは僕が医学部に行っていることをどこで知ったんだろう。まあ狭い町だし、公立中学から医学部に行くやつはそう多くはなかったからどこかで知ったのだろう。医学部で学んでからは、あの当時ヤマシタの言っていた肝臓話はかなりウソが混ざっていたんだと確信したけど、そのヤマシタがあいかわらず嘘くさい事を医学部の学生である僕に言ってくる。おそらく自分でもどこまでが本当でどこまでが嘘だかわからなくなっていて、しかも病気のこともよくわかっていなくて勝手に自分が重病人だと思い込んでいるんだろう。中学の教師なんてそんな程度なんだ。でも中学生にとっては社会を構成しているのは親と友達と教師と、その他の人達。決して小さくはない存在。しかもこいつはまるでDV夫のように、普段は冗談を飛ばしたりして授業も面白くて、生徒の心をつかむのが上手だった。それがちょっとしたことで怒り出し、ささいなことで怒鳴り、暴力をふるう。だから多くの生徒はうまく洗脳されてしまって、殴られたり蹴られたりするのも暴力とは思わずに、自分たちがいけないんだから殴られるのは仕方がないと思い込んでいた。
その晩見たヤマシタは中学生の時と同じようにこれが豹変して暴力をふるうとは想像もつかない、人なつっこい顔つきだった。今でも生徒に暴力をふるっているのだろうか。今考えると、この時会うまではまだあれを暴力だとは思っていなかったかもしれない。でも8年の歳月で僕もそれなりにいろいろな大人を見てきたので、ヤマシタのことも、そのいろいろな大人のうちの一人として見ることが出来た。だからたぶん、あの通夜の時にヤマシタを見てからだろう。あれは暴力だったんだって自信を持って言えるようになったのは。なんだかヤマシタに対する怒りというよりは、こんなやつに支配されていた自分のちっぽけさ加減に虚しさを覚えた。
通夜はあっさりと終わって、僕はさっさと帰った。誰よりも早くその場を後にした。中学の時には部活の練習が終わって誰よりも早く一人でさっさと帰るなんて、そんなことは出来なかった。同級生がみんな帰るまで残っていないと不安だった。後で何を言われるかわかったもんじゃなかった。今はさっさと帰っても誰にも咎められない。残った奴らでさっさと帰りやがってとか文句を言っていようが知ったことではない。年月は少しずつではあるが確実に傷を癒してくれていた。
帰り道、車を運転しながら本多くんのことを思った。忘れていたわけではないけど、なんとなくその記憶を避けているところがあった。本多くんがもういなくなったからなのか、あるいはあの場所から抜け出せてほっとしたからかもしれないが、あれこれと本多くんのことが思い出された。
小学校1-2年の時、僕は本多くんと同じクラスだった。その頃の記憶はもうほとんど残っていないけど、理科の実験で糸電話を作ったことがあった。その糸電話で僕は本多くんと会話した。あの時の本多くんはニコニコしていた。本多くんの家に遊びに行ったこともあった。あの頃の僕の記憶に残っている本多くんは優しかった。あの頃から本多くんは体が大きかったんだけど、大きくて優しい感じだった。3年から6年までの間には一緒のクラスになることがなかったから、会話することも、見かけることすらほとんどなかった。
中学で、僕はバレー部に入った。僕は小学校でスイミングクラブに通って水泳が得意だったので本当は水泳部に入りたかったんだけど、同級生の原口っていう今思い出しても腹が立つほど嫌な奴のせいでバレー部に入ることになってしまった。いや、本当はそいつのせいなんかじゃないんだろうけど、とにかく嫌なやつだった。その話は機会があったらまた書きたい。それでバレー部に入ったら本多くんもいた。久しぶりに会った本多くんはあの優しい感じだった本多くんとは別人のような、とがった感じだった。とげとげしかった。4年の歳月で何かが少しずつ変わってしまったんだろう。あいかわらず体が大きくて、そこにとげとげしさが加わって、上級生をもビビらせるような存在になっていた。実際バレー部の上級生が本多くんを生意気だって言っているのも何度か耳にしていた。
バレー部は僕のいた中学のなかでもとびきり練習のきつい部活だった。顧問のサトウはヤマシタに勝るとも劣らない暴力教師だった。その暴力ぶりは他校にも知れ渡っていて、大会の時には他校の生徒もサトウには近寄らないようにしていた。うちのバレー部は全国大会にも出るような強豪で、僕はレギュラーどころかベンチにも入れない球拾い用員だったんだけど、それはともかく、高校に入った時、別の中学のバレー部から僕と同じ高校に行ったやつが言っていた。「お前の中学さあ、試合で勝ったのに先生からぶっとばされてて、見ていて気の毒だったよ。」そういう暴力がまかり通る部活なので、当然のようにイジメや先輩からのしごきがあった。
当時はスポーツドリンク専用の、プラスチック製でふたにストローのついた水筒が流行っていて、練習のときはみんなその水筒にスポーツドリンクを入れて凍らせて持って来ていた。僕の家はそういう流行のものは一切買ってくれないような家だったので、僕はみんなが持ってくるそれをうらやましそうに見ているだけだった。
バレー部に入って3ヶ月ぐらいたった7月のある日、練習が終わって着替えて帰ろうと更衣室に行くとある先輩が「これ全部飲んでいいよ」ってスポーツドリンクを僕に渡した。まだ冷たいスポーツドリンクがたっぷり入っていた。僕はびっくりして「いいんですか?」って聞き返した。「いいよいいよ、これ持って帰んなきゃなんないから、全部飲んで」。僕は先輩が水筒を早く空にして早く帰りたいんだろうと思い、と同時にすごくのどが渇いていたのと、そういうスポーツドリンクを飲んでみたいって言う願望がすごく強かったせいもあって、息も継がずにひたすら飲んだ。冷たくて喉にキーンと来たけど、おいしかったし、こんなことはめったにないことだと思って、とにかく飲んだ。
そこへ本多くんがやってきて「ああっ!!」って大きな声を上げて僕から水筒を奪い取った。「なんで飲んじゃったんだよ!」本多くんがものすごく怒った顔で、水筒の蓋をあけて中を覗き込んだ。背中が震えている。先輩はニヤニヤしている。僕はとっさに状況を飲み込んだ。えらいことをしてしまったと思った。殴りかかられるんじゃないかってちょっと怖かった。とにかく謝らなければいけないと思い、「ゴメン」って言った。先輩が飲めって言ったからって言うと「じゃあてめえは先輩がやれって言うことはなんでもやるのかよっ」って。僕ももう開き直って「飲みたくて飲んだわけじゃねえよ、とられた自分が悪いんだろっ」って言い返した。
それっきり、本多くんとは一度も口を聞かなかった。次の日に謝ったんだけどまるっきり無視された。最初のうちは何度か話しかけたけど、毎回完全に僕の存在を無視するので、僕ももう話しかけないようにして、なるべく距離を置くようにした。結局中学を卒業するまで本多くんは僕のことをずっと無視し続けた。そしてそれから8年、そんなわけで、これが再開と言えるのかどうかもわからないが、再開した時も結局僕は本多くんと口を聞くことはできなかった。そしてこれからも永遠に会話することはできない。
あの時の、更衣室でのことはきっと死ぬまで思い続けるんだろう。もう許してもらう機会は永遠に失われたわけだけど、許してもらいたかったかっていうとそんなこともない。バレー部では僕もさんざん嫌な目にあったし、本多くんも僕を無視しつつ、バレー部全員でよってたかって僕のことを責め立てていた時にはそこに本多くんも加わっていた。出来ることなら本多くんとのことも含めて、中学のつらい思い出は全部リセットしてしまいたいけど、でもそれをリセットしたところで、別のどこかで同じような嫌な目にあうだけの事なのかもしれない。きっと、それぐらいよくある話なんだろうし、もっとつらい目にあっている人はたくさんいるんだろう。イジメで自殺しちゃった子達はきっと僕なんかよりもずっとずっとつらい目にあったんだろう。
今思えば、本多くんが死んだことを知った時、僕は心の中のどこかでほっとしていた。これから先本多くんとどこで会うかもわからないし、その時どうすればいいのかわからないっていう不安な気持ちが心の奥で淀んでいた。本当は再会して、「そんなことあったなぁ」なんて笑い話にして和解できたら一番良かったんだろうけど、そんな風になるはずはないって思っていた。いや、今でもそう思っている。和解なんて必要ない。全員と仲良くしなければいけない理由はないし、全員と仲良くするなんて不可能なんだって、今は思う。