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第一話 : 炎のランナー

おおよその文字数にして、一話を7000~12000字程度に収めるようにしています。

きっとこれが読み易い文字数…………の、はず!!

 

 

 少しだけ、時間はさかのぼって話す必要がある。



 おれは焦っていた。


「はっ、はっ、はっ、はっ……」


 全力ダッシュである。

 まさかの全力ダッシュである。


 新学期早々、こうもあっさり遅刻するなんて思ってもいなかったのだ。

 大学の二年生にもなって「目覚まし時計が壊れて遅刻」なんていう、途轍もなく不運で不名誉な理由でおれは、考えうる限りの最短ルートで家から大学までの道のりを走り続けていた。


 現在大学生の方々や、昔大学生だったご諸兄姉(けいし)、果ては大学受験を控えているような皆様方なら、こう考えるかもしれない。


 なんで、コイツはこんなに急いでいるんだ? と。

 大学の授業なんてのはそれなりに緩いんだから、ちょっとぐらい遅刻しても全然大丈夫じゃね? と。


 でもダメなんだ。

 おれだって本当は、こんな朝っぱらから猛ダッシュなんて疲れることはしたくないし、コンビニにも寄りたい。


 ついでにドラッグストアにでも寄って、そろそろ桜も咲くくらいに気温も上がったせいで、おれの住んでる一人暮らし向けのアパートでも気配をうっすら感じるようになった黒いアイツら(ゴキブリ)対策の装備、最新鋭の対G設置型トラップ(ゴキブリホ○ホイ)と対G決戦兵器(ゴキジ○ット)を買って、部屋に配備しておきたい。あの頼れる相棒達がいないと、おれは日夜黒い影に怯え続けるハメになってしまう。。


 しかし、今寄り道するのは絶対にダメだ。

 理由は単純に、二つある。


 まず、一つ目は、今日の最初の授業があの『榎ノ(エノモト)教授』の地質学の授業であるということ。

 榎ノ本教授の、というワードが重要だ。

 彼の人となりを説明するために、授業を受けた学生たちの、含蓄のある言葉を紹介しておこう。


「テストの範囲が、予告していた範囲と違った」

「いや、違ったどころか、テストをやるとすら言っていなかった」

「そもそもまともに授業をしていたのか怪しい」

「その割に成績はやたら厳しくつけてる」

「学食のテーブルを一人で占拠してくつろいでいた」

「老人のくせに妙に足が速い」

「授業中前に座って板書を取っていると、凄い近くでノートを覗いてくる」


 ……などなど、うんぬんかんぬん。

 これが学生たちの忌憚のない意見である。

 恐ろしいほどの酷評だ。Amaz○nの辛口レビュアーでもここまで風当たりは強くないと思う。もはや評価する人数は86人とか凄い人数になっているのに星の数は1と2の中間、というレベルの壮絶な低評価である。

 ちなみに最後の意見はおれの意見だ。


 おれの通っている大学で、このように榎ノ本教授の悪評高さはもはや不動の地位にある。

 良く言えば研究科肌、悪く言えばヒネくれている大学教員たちの中でも彼は別格なのである。


 そしてさらに問題なのは、おれがその榎ノ本教授に目を付けられているということ。

 

 ……いや別に、授業中に騒いでたとか不真面目なことしてたわけじゃないよ?

 去年初めて授業を受けた時にも、かの教授のヤバさは前評判にも聞いていたし、授業中もなるべく目立たぬよう白羽の矢が立たぬように息を潜めていた。

 周りの学生も同じように振るまっていたために、他の教科では騒がしい教室が、授業が始まった瞬間まるで法廷のような静けさに包まれていたのはちょっと見ていて面白かった。


 心当たりがあるとすれば、授業が終わった後、判らなかったところを訊きにいった事ぐらいだ。

 その時は普通の受け答えをしていたハズなのだが、次の授業の時間におれがのこのこと登校して来ると、早い時間に来ていた教授はこう言った。


「君はここに座りたまえ、ホラ」


 最前列の中央を指差された。

 ようは教授のど真ん前である。


 そこからが本当の地獄だった。

 おれが妙に教授の授業に熱心な学生だと思われてしまったのだろう、教授はその授業の間、事あるごとにおれに質問を投げかけ、話の確認をし、意見を求めてきた。字を書くのが面倒だったのか、しまいには黒板への板書をおれに任せてきた。おれはノートを取ることもままならず、必死こいて黒板と格闘した。


 完全にターゲットされている。

 もうヘイト上がりまくりのタゲられまくりだった。


 他の学生たちは薄情なことに、運の無いやつだと憐れみの視線を投げつつ、地質学の授業では自分に火の粉が降りかからないようにとおれを犠牲の(スケープゴート)にしてだんまりを決め込んでいた。


 つまりは、一学生が捕まって、おれは体の良い助手扱いにされてしまったということ。

 一年生の最初にして、平穏な大学生活は急速にコースアウトしていったのだ。


 けれども、これだけが大学に遅刻しては行けないという理由ではない。

 おれに全速力での登校を強いている理由の二つ目は、今さっきからずっとマナーモードで震えているポケットに入れたケータイにある。


 走る速度を緩め、ケータイを取り出した。

 案の定、『着信:明宮 灯』の文字がタッチパネルのディスプレイ上で激しく主張している。

 これがもう一つの理由。


 若干いやいやながらも、電話の受話器マークのボタンに触れた。


『いったいドコに居るのよ!?』


 どう控えめに聞いても怒っているとしか思えないキンキン声。

 出なきゃ良かったと言いたいところだが、それを言ってしまうと、更にこのキンキン度は増すだろう。

 キンキン度という言葉は他にもガリ○リ君などのアイスの冷え具合にも使うことができて、なかなか便利で応用の幅が広い。だからどうした。


『兄貴!? 聞いてんの!?』


 またケータイ越しに聞こえる大きな声。

 そう、兄貴である。


 電話の向こうにいらっしゃる、大学に遅刻出来ない二つ目の理由。


 それが彼女、おれの妹の明宮灯(アケミヤ アカリ)である。

 ちなみに、おれが明宮光(アケミヤ ヒカリ)である。

 もう少し個人情報を述べてしまうと、我が明宮家の家族構成は父、母、おれ、妹、猫の、4人+1匹になっており、今はおれだけ明宮家の両親のご厚意によって大学近くで一人暮らしさせてもらっている。妹のアカリとおれは一歳差だ。

 なの、だが。


「……聞いてる聞いてる!

 ハッ、ハッ、もしもし、アケミヤですけど」

『知ってるよ!!』


 知ってたらしい。

 当たり前だ、そりゃ向こうも明宮さんちの娘さんだよ!!


 …………少し落ち着こう。考えてる事がおかしくなってる。

 走っているために息が整わないせいだ。


「ハァ、ハァ、ごめんごめん、今ちょっと落ち着くから待って!」


『待てるか! 何時になったら大学の教室に着くのよ!? 

 もう授業始まっちゃうじゃない!』

「ハァ、今っ、大学に向かってメッチャ走ってるから!」


 そう。

 アカリは今年遂に、おれと同じ大学に入学した。まあ彼女の成績ではこの大学は余裕だっただろう。

 彼女はおれみたいに一人暮らしではなく、一時間弱かけて自宅から通うそうだ。


 入学式はもう数日前に終わったらしく、両親も式は参加してきたようだ。

 おれにデジカメの画像まで送ってきた。おれは呼ばれなかった。


 見ると、ご近所ではなかなかの美人だと評されるドレスをキメた我が母親と、ボサボサの黒髪にヨレヨレしてるスーツが冴えない父親との間に、ほぼ母譲りの面立ちの妹が写っていた。

 羨ましい。彼女が親父から受け継いだ部分なんて、髪がちょっとトゲトゲするクセっ毛くらいなものだろう。


 ちなみにおれは父親率100%らしい。

 本人が「ヒカリは俺そっくりだなぁ! 父親果汁100%だ!」って言ってたから間違いない。


 果汁ってなんだ。


 まあいいや。


 それで、今日はアカリが初めて、月曜の朝一番に控えている授業…………。

 『あの地質学』の授業を受ける日である。


 妹が大学生活の初っ端からあのヤバさ満点の教授の授業を受けるのに、それを看過してしまうのはあまりにも忍びない。

 兄として妹を守る義務もあり、おれも一緒に授業を受けることにしたのだ。

 アカリと一緒に授業を受けたかったという気持ちも、何割かはあるけど。

 まあ、割合にして十七割くらいだろう。


 こちらは地質学の授業単位はもう取っているのだが(一応あの教授もその点は普通に評価してくれたらしい)、君は四年間この授業を取りなさい、と榎ノ本教授に強制されているという事実もある。

 なんという不条理がまかり通っているんだろうか。


『また大学にも着いてなかったの!? 授業もう始まっちゃうよ!?

 信じらんない、目覚ましくらいしなさいよ!』

「目覚ましさんは死んだ! もう居ないんだ!」


 まさか最後に目覚ましアニキを見た姿が、時計の針を逆走させてる姿だとは思わなかったけれども。

 すごい勢いで時間が過去に戻っていた。


「もうすぐ着くから! ハァッ、もう電話切っていいかな?」

『兄貴、なんでハァハァしてるの?』

「走ってるからだよ!?」


 ひどい言い方だなおい!!

 こんなに急いでる人になんて事言うんだ!

 その言い方だと大学の教室で待機してる他の学生達に、おれが妹にハァハァしてる変態だと思われるじゃん!!


 だが、ふと考える。


「アカリはもう今、教室いるのか?」

『いるよ! 早く来なさいよ!!』

「えっと、言いづらいんだけどさ?」


 一泊、間をとる。


『なに!? まさか授業に来ないー、とか言うんじゃないでしょうね?』

「お前お前、教室でそんなに大声で叫んで大丈夫?」


 向こうの反応がピタリと止んだ。

 そのまま数秒。おれの足音と荒い息遣いだけが朝の静かなご町内に響く。


『電話切っていい?』

「どうしたどうした」

『いや……。なんかさ、周りの人がこっち見てるよ…………』


 トーンをかなり落とした小さな声。

 おれは妹が周りに他の学生がいることも忘れて怒鳴っていたのを頭のなかで想像した。

 そしてようやくそのことを思い立ち、周りの視線を浴びて赤面するアカリ。

 

 いいね!


 おれは妹にハァハァした。

 もちろん息切れ的な意味合いにあらず。


「我が妹ながら、アホカワイイな!」

『アホってなんだ!! 兄貴の方がアホでしょ!!』

「失礼だ! ちょっと頭が悪いね、とはたまに言われるけど!」


 あと幸薄そうな顔だね、とか。

 ネジが……抜けてるのか…………!? とか。


『もっとヒドイこと言われてたんだ!?』

「いやいや、教室でアニキアニキ叫んでるアカリには負けるかな?」

「~~~~ッ!! バカーーーー!!」


 そこから少し、電話越しにすったもんだの問答|(罵り合いともいえる)が続いて。


「まあ、もうそこの通りの突き当りの角曲がったら大学だから」


 いい加減話しながら走るのにも疲れてきた。

 日々の糧である妹分も補給できた事だし、電話を切ろう。

 あとは大学で会えば良いや。


「たぶんすぐ着く、よ…………?」


 そう。もう大学にはギリギリだが、このまま何事も無ければ、きちんと着いたはずだったのだ。

 何事も無ければ。


 なんだあれ。


 変なものが見える。

 

 今言った大通りの突き当りの二つほど前の交差路。

 交差路を曲がったすぐの所の民家だろう。

 通りからはその場所はよく見えないが。



 ――――建物の上の方に、煙が立ち上っていた。



「ごめんアカリ、やっぱり遅れるかも!!」

『えっなに? どうしたの?』

「榎ノ本教授の授業はなんとか一人で耐えてくれ!

 場合によっちゃ消防車を呼ばなきゃならない、お兄ちゃん電話切るぞ!!」

『ちょっと待っ……!』


 電話を切って、今まで以上の勢い突っ走って前の四辻よつじを左に曲がる。

 ちょうど大通りに面していないので、パッと見には目立たないけど、間違いない。


 小奇麗な金属のアーチ状の柵、それと同じ色の門扉。

 その先の庭を少し歩いた所にある玄関。

 別段おかしな所もない、変わり映えの無いといえばそれまでの民家。


 だが、一つだけ違う所がある。

 それは、



 家の一階、その中が真っ赤になっていて、半開きの扉から、また窓からも、大量の煙が出ていること。



「かっ、火事だぁぁああああああ!!」


 思いっきり叫ぶ!


 だが、こうかはいまひとつのようだった!

 しかし、たすけはあらわれなかった!


 ……ッ、じゃなくて!!


 おれの目の前にある家、燃えてるよ!

 ボウボウって音がしてるよ!!

 

 だけど周りには誰も居ない。

 全く人の気配がしない。


 あれ……?

 大通りにはまだ、通勤するリーマンの方々や店開きの準備する店員とかが居たハズなんだけど……?

 少し待つが、やっぱりこちらに駆けつける人は誰もいなかった。


 くそっ、誰も来てくれないのか!?

 なら自分で呼べばいいじゃない!


 おれは手に持ったままのケータイを素早く操作し、流れるような動作で消防署への連絡を試みた!



『午前8時、55分をお知らせしま』



 違った!!  これ時報だ!!

 おれはまだスマホの扱いに慣れていなかった!


 ……焦りすぎているせいもあるかもしれない。

 深呼吸を一つ。

 今度はちゃんと消防署に繋がった。


「すみません、火事です!」


 すると場所と目印を聞かれたので、それをもどかしい気持ちで答えた。

 他にも幾つか聞かれた気がするが、前で燃えてる家が気になって仕方ない。

 速攻でこちらに来てくれるそうだ。おれは様子を見つつ近寄らないように、との事だった。


 五分ほど待ってみるが、消防車のあのサイレンの音はまだ聞こえない。


 ……しかし、何もしなくて良いのだろうか。


 聞いたことがある。消火活動というのは本来、個人で出来ることは少ないそうだ。

 おれみたいな一般市民なら尚更だ。


 確か『天井に火が達しているかどうか』が、個人で消火器を使って火を消せる範囲のボーダーラインらしい。

 そのラインを超えると、素人の手には負えないと聞いたコトがある。


 目の前にある家を見ると、ドス黒い煙はその量を増していた。

 火は家の右手奥の方でゴウゴウと燃えている。

 あれは最早、天井にまで余裕で到達しているだろう。おれがどうこう出来る問題ではない。


 ……よく考えると、家の扉が開いているんだよな。

 住んでた家の人はもう外に避難して、中に人は居ないんじゃないか?


 それなら安心だ。消防車が来るまでおれがここで見張ってれば良い。

 家の他に被害が出るのは、教授の授業を受けているアカリくらいだ。後でひたすら謝ろう。


 その割には、周りが騒ぎになっていないのが不自然だな。

 というか、今もまだこの火事に気付いてるのはおれ一人だけみたいだ。

 さっきから何度か叫んではいるのに、何も誰も反応がない。

 どういうことなんだろうか?


 まあでも……、消防士(プロ)の人が言うんだから、おれが出しゃばる必要もな


 ――――――えっ?


 気のせいだと思いたかった。

 だが、目を凝らすと良く判る。

 燃えている場所のちょうど二階だと思う。



 窓の中に、人影があるのが見えた。



「いや、いやいやいやいや!!」


 さすがに家の二階という事もあってシルエットしか窺えないが、あれは紛れもなく人影だ!

 机にでも向かっているのだろう、壁に対してイスに座っている、といった風な感じの人影が見える!


 …………つまり家の中に、まだ人が居る!?


 おれはそこに思い至った時、手提げカバンを地面に放り出し、既に家の庭を走っていた。

 残念ながら、後先なんて考える余裕はもうない。


 あの窓越しの影はまるで、二階の子供部屋に居て、勉強机に着いている子供であるかのように見えた。

 そしてそれはきっと、大きく予想を違えてはいないだろう。


「なんで子どもだけ取り残されてるんだ!?

 親御さんは何してるんだよ!?」


 そんなことは無いだろうとは思うが、もしかすると、大人はもう先に脱出してしまったのだろうか。

 または、両親が共に外出して子どもが一人で留守番している時に火の気が、とかかもしれない。むしろこっちの方が可能性としては高い気がする。


 おれは半開きの玄関に辿り着き、思いっきり開けた!!

 本当はマンガで火の中に飛び込んでいく人がよくするように、バケツに入れた水を自分にバシャーっとかけて服が燃えないように、とか火の対策をしておきたかった。

 だがしかし、庭に水道的な物は見当たらなかったので諦めている。


 ドアを開け放つと――――、そこは地獄だった。


「うぐっ! ゲホゲホッ!!」


 煙が凄い!!

 息がうまく出来ない!!


 家に入ってしまったことを一瞬で後悔した。


 これは………………。


 何のシャレでもなく、死ぬかもしれない。

 目の前に広がる致命的に鮮やかな赤い色と、他のものを全部自分の色に染めてしまいそうな黒い煙。


 生き物としての本能のような恐怖を覚える。

 外に出たい。

 出ておとなしく消防車の到着を待って、それで良いじゃないか。


 ……けれど。

 けれど、取り残されてる、二階に姿が見えた子どもはどうなる?


 すぐ消防士は来ると行っていたが、ここの近くに消防署は無い。大学とおれの家の間にあるここの辺りの地理は、一人暮らしを始めて一年でそれなりによく知っているハズだ。

 すると消防車が到着するのは、2分3分ではきかないだろう。もしかしたら5分を回ってもまだ来ないかもしれない!

 

 それまで、あの二階の子は無事でいられるだろうか?


「お邪魔します!!」


 もちろん中から答える声はないけれど。


 思いっきり姿勢は低くした。

 ついでに着ているヨレヨレのパーカーの前も閉じ、フードをかぶる。


 小学校や中学校でやった覚えがある防災訓練を思い出す。

 あんなの適当にしか受けていなかったけど。

 訓練では校庭に皆で避難したりもしたが、周りのクラスメイトと喋ってるぐらい不真面目だったし、先生ですらもそこまで真剣に参加してる人なんて居なかったと思う。

 まさかこんな所で、本当に防災訓練で教わったようなことをしなきゃならないとは思いもしなかった。


(確か、煙を吸い込むのがマズイんだったよな……?)


 口を出来るだけパーカーの肘で塞ぎ、煙を吸わないようにする。

 なんとか呼吸が出来た。

 そのまま低い姿勢で玄関の靴置きから奥にそろそろと進む。


 すると、火元が判った。

 やはり外で見えた通り、廊下から入ってすぐの所に居間があって、その右手側の奥に直接キッチンがある。


 いや、キッチンなのだと思う。確証はない。


 もう既にコンロがあったと思しき所はほとんどが黒ずみ、その上で炎が踊っていてよく見えないのだ。

 居間の右奥はもう完全に炎のテリトリーになっていた。

 あれでは、出火元をどうこうする、というレベルではない。

 消防士の方が、君は何もしなくていい、と言った理由が判った気がした。


 また、煙の方は既に家全体に回っているようだった。

 ここまで煙いのは、もうだいぶ火が広がっているのもあるが、窓が完全に閉じられている所為でもあるだろう。


(いや、子どもが一人で留守番してるなら、窓閉めとけばそりゃ防犯にはなるだろうけど……!)


 今はその行為が余計だった。

 煙が全く逃げずに居間に溜まってしまっているのだ。視界もかなり悪い。

 目が染みる! 息が吸えない!!


 必死に周囲に目を凝らすと、良かった、火元から遠い左手の方に階段があった。

 おれは前に丁度良くあったリビングテーブルの上に載った、絵本だろうか、薄っぺらい本を手に取り、火を見ないようにして左へ向かった。


 そのまま階段をほとんど這うような姿勢で上って行く。多少煙は薄らいだが、危険度で言えば二階の方が高いだろう。

 煙は上に行き易い性質から、民家や学校でも上の階層ほど充満していると聞いた。

 ……これも、防災訓練で聞き流してた話だったな。


 持って来た絵本をバタバタ扇ぎ、前の煙を出来るだけ払って進んだ。

 階段の途中であった、窓を開け放つ。これで外に煙を出して、少しはマシにならないかな?

 あんまり意味は無いんだろうな……。


 そして、ようやく二階へ。


 二階は完全に煙で満ちていた。

 これは、大きく吸ったら一瞬で昏倒してしまいそうだ。

 ただ、目標の子供部屋があると思われる所は、ドアが閉まっていたのが幸いといえば幸いだった。

 あれならもしかしたら、部屋の中はまだそこまで煙が入っていないかもしれない。


 おれは覚悟を決めた。

 匍匐ほふく前進の格好から、一気にクラウチングスタートの姿勢になり、息を止める!

 そして、煙が染みる目を閉じて前へ走る!!


(くぉおお頼む頼む、部屋の鍵とか掛かっていませんように!!)



 やたら長く感じる数秒間の後。


 おれは扉に激突するようにして運良く鍵が開いていたドアを押し開け、無理な態勢でドアをすぐさま閉めた。


 ……息を少し吸ってみる。


 それまでとは違い、頭がぐらっとしたりすることは無かった。目も多少薄目で開けても問題ないみたいだ。

 真下が燃えてるためか、かなり足元が熱いけど。

 これなら少し口を開けても大丈夫だろう。


「大丈夫か!!」


 怒鳴る。


 が、返事がない。

 煙を吸って昏倒しているのだろうか?

 それとも…………!


 最悪の考えを否定するように振り払って、窓際へ近寄った。


「おい…………?」


 イスに座っているその子の肩に手を置く。すると、柔らかい感触がして。



 そのまま、前の机にドサッと力無く倒れこんだ。



「おい!! なあ、おい!!」


 ここまで来たのに。

 ここまで来たのに!!


(間に合わなかったのか……!?)


 まだ信じたくなかった。

 気絶しているだけかもしれない。


 おれは左手の絵本を置いて、その子を掴む。軽い。

 床にだらりと仰向けにさせた。顔を覗きこむ……、と…………!


(なんでだよ……)


 思わず心で叫ぶ。


 そこに居たのは、もうだいぶ煤けて、火事によって熱だけは持っていた――――、





 ――――――クマのぬいぐるみ。





 マジメな雰囲気が音速で消し飛んだ。


「って、なんでーーーーーーー!?」


 ついでに言葉になって出た。


 いやいやいや、いやいや!!


 ダメだろ。

 それはダメだろ!!


「おれの命がけを返せーーーーーーー!!」


 あとシリアスな雰囲気を返せ!!


 おれは、クマのぬいぐるみ相手に、必死に呼びかけ、すげぇ形相で肩を掴み、尚且なおかつ優しく介抱をしていたのだ!

 これじゃシリアスどころか、ただのシュールだ!

 ここまで来たおれが、ただのアホな子みたいじゃんか!!



 兄貴の方がアホでしょ、アホでしょ、アホでしょー…………、と、アカリの声が頭でリフレインした。


「ち、ちくしょぉぉおおおおお!!」


 じだんだを踏む。

 くまの表情がニタッとした感じの笑みなのが、更に憎らしい!


 ――――その時。


 ベゴっと音を立てて、足元が歪んだ。


「あっ、マズイ!?」


 そうだ! もうすっかり忘れてたけど!

 おれって今、家事の家の火元の真上に居るんじゃ!?


 更に歪みが増す。

 ヤバイヤバイヤバイ、このままじゃ。

 火の中に落っこちて!!


 イヤだよ、なんで意味もなくこんな所で焼け死なにゃならんのさ!

 このままだと、『本日の今朝、~~市で火災により死者が一名…………』みたいにニュースに載っちゃう!

 しかも死因が、ぬいぐるみを助けに行ったためである。


 余りにも悲しい事実に、涙が出そうになった。

 決して煙のせいではないと思う。


「こんな所で死ねるか! おれは外に出るぞ!!」


 自分で言ってなんだけど、これって死亡フラグじゃん!


 急いで窓に駆け寄った。

 部屋に置いてあった布団を外に放り投げる。


「おらぁー!!」


 ついでにくまも放り投げる!!

 後はおれが布団の上に飛び降りられれば……。


 瞬間。


 家が、傾いた。


「うわっ!?」


 ガクンと態勢を崩す。

 バギっと言って、窓のサッシ部分が歪んだ。

 枠の中央が大きく内側にねじ曲がり、通れなくなる。


 窓から、出れなくなった!?


 クマによってあんな事になったが、ここは正に火災の現場。

 本来、本職の消防士でさえ命の危機を覚悟する所なのだ。

 そこで、一瞬であっても気を抜くと、果たしてどうなるか。


 窓から離れたと同時に、窓側のフローリング床が裂け、ヒビ割れ、崩れ落ちた。

 地割れの所から炎の塊とでも言うべき火が上がり、おれの目の前の空間を焼く!


「うわぁあああああ!?」


 煙の吸引によって動きの悪い身体を動かし、部屋の入り口に向かう。だが。

 ついに、足元が(ひし)いだ。


 と、同時に地面が白く輝き、目も開けていられない程の閃光で視界が覆われる!


 更に同じくして、ガラスが振動する時のようなビリビリという強烈な振動音!!


「なんだぁぁあああああああげほっ!?」


 思い切り煙を吸い込んだ。

 肺が真っ黒になったかと錯覚するほどに、濃い煙がノドに絡む。

 またもや下から出現した煙によって目が激痛に染み、開けていられなくなる。


 部屋のドアに掴まった所で遂に態勢を崩した。

 頭の中で強烈に『死』の文字を意識する。


(こんなところで、おれは――――?)



 だが、薄く開けた目で、


 地面に走る、白く輝いている幾重もの光の線と、


 その中心にある絵本の表紙が、わずかに見えたような気がした。



『ゆうしゃ ~~~と ~~~~せかい ~~ ものがたり』





 視界、暗転。







 --------------------





 わたしは、サイレンの鳴っていた所まで辿り着いた。

 息を整える。


「確かここら辺だったような気がするけど……?」


 四つ角を曲がった所に消防車があるのを見つける。

 駆け足で近寄った。


「すみません!」


 声を張り上げて、車の近くに居たオレンジ色のゴワゴワする服を着ている人達に呼びかけた。

 こっちを見とめる。

 なんだか困ったような顔をしていた。


「ここら辺で、火事がありませんでしたか!?」


 その様子に構わず聞く。


「あー……」


 返答も要領を得ないものだったけど、


「通報は受けたんですがね……」


 一人の消防士が指差す。

 その指差した方を、わたしも見た。


「…………え……?」


 見たら。



 ――――何も無かった。



 いや、何も無かった、というのは正しくないかも。

 地面が大きく黒ずんで、そこだけクレーターが出来たみたいになっている。


「何が、あったんですか?」

「さあ、私共もここへは先程着いたばかりで……」


 消防士の方達を見ると、やはり状況をよく飲み込めていないような顔だった。


 と、ふと―――――。


 停めてある消防車の奥に、変な物があるのを見つけた。

 そちらへ向かう。


「…………何、これ?」


 呆然とした。言葉も出ない。

 そこには…………、やたら大きいクマのヌイグルミがあった。


 しかも、何故かキチンと折り畳まれた布団の上にどっかりと座っている。


「ええぇえ…………?」


 もうワケが判らない!

 なんで兄さんを探しに来て、ヌイグルミを見つけることになるのよ!?


 なんだか無性に腹がたって、近くに人が居ることも気にせずくまを全力で蹴り飛ばした。

 もふーん、という音を立ててニヤケ顔のくまが転がっていく。布団もズレた。


 と、その下から黒い革紐が見えた。

 引っ張り出す。すると布団の下から、


「これって……! 兄さんの!?」


 出かける時にいつも持ってたバッグが出てきた!

 ……遂に目の前にある状況が、私の理解できる範囲を超えた気がした。


「どういうこと……?」



 兄さん……………………?


 

 

お読みいただきありがとうございました。

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