運命
気が付けば時計は午後の14時を指していた。
あたしは相談室の部屋で一人、総務の社内報に出す記事作りをした。
いくつか……杉浦さんと話し合った内容を書類の形にしておかなければならない。
パソコンの画面を見ていると眠くなってくる……。
ランチを食べて、ちょうど眠い時間である。
少し眠りたいな……と思った途端、目の前の景色がボンヤリし始めて、何度か首を振ったが……抵抗むなしくあたしの意識は夢の中に飛んで行った。
こんこん。
運命が扉をたたく音がする。
これは夢であることは十分わかっている。
職場の夢を見るなんて初めてだ。
『どうぞ』
夢の中でも眠たそうな顔をしているあたし。
扉を開けて入ってきたのもあたし自身だった。
相談室にいるはずなのに、灰色のぼんやりとしたはっきりしない場所にいる感覚。この灰色があたしの今の精神状態なのかもしれない。
それにしても夢と分かっていても嫌なものだ。
『失礼します』
『どうぞ……そこのおかけください。』
相談に来た方のあたしは泣きながら口を開いた。
『……赤ちゃんが……』
この言葉を聞いた途端、あたしの身体に何か電撃のようなものが走って、ビクリと痙攣し……そして目が覚めた。
夢と言うものは、はっきりとした話であることが少ない。
とにかく辻褄があわないことが多いし、さっきの夢にしても冷静に考えればよく分からない夢ではある。
ただ『赤ちゃんが……』という言葉を聞いて身体がびくっと痙攣して目が覚めたという事実はあたしにとっては気持ちのいいものではない。
気が付けばあたしは泣いていた。
泣くつもりなんてなかったのに……。
泣きながらあたしは時計をみた。
15分ぐらい寝ていたらしい。
あたしは急いで涙を拭いた。
そして『はああ』とため息をついた。
通常、ランチの後の時間に15分ほど昼寝をすると頭がスッキリして作業効率も上がるのだが、あんな夢を見てしまっては余計に疲れてしまう。
一体、あたしはいつになったらこの空虚な寂しさやつらさから解放されるのだろう……。
あたしは会社の異動で仕方なくこの相談室に来たが……
はたして人の相談に乗れるだけの力が今のあたしにあるのだろうか。あたし自身、誰かに助けてもらわなければいけないんじゃないだろうか。
パソコンの画面を見ながら進まない文面をぼんやりと見つめてみる。
文章を書くこと自体は嫌いではない。
しかし、今は相談室のことより自分の中の灰色の悲しみの方で頭がいっぱいだ。
あんな夢を見たから……。
『はあ……』
あたしはまたため息をついた。
言葉が出てこない。
自分の気持ちが自分なのによく理解できない。
悲しいことなんだけど……なにかよく分からない怒りのようなものも覚える。やり場のない不満が怒りという感情になっているのだろうか。
かといって誰かにあたるわけにもいかない。
もはや悲しいのかなんなのか……自分のことなのに自分の気持ちがよく分からなくなっている。
要は不満があるということは分かる。
でも不満を抱いてもその不満が解消されることはないだろう。
この空虚な気持ちから解放されるにはどうすればいいのだろうか。
あたしは気分を変えるためにコーヒーを飲むことにした。
インスタントしかないがコーヒーの香りを嗅ぐと少し気持ちが落ち着く。
『この部屋、音楽があればいいわよね』
杉浦さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
そうだ。
クラシックをかけよう。
お腹に赤ちゃんがいた頃には胎教のために……モーツァルトのピアノソナタを棚から適当にとっては聞いていた。そもそもあたしは音楽にかかわるような何かをしたことがないのだが、クラシックは大好きだ。
クラシックを聴くと心が落ち着く。
それに、どんな場合もクラシックならまず会話の邪魔にはならない。
とくにモーツァルトがあたしのお気に入りではあるのだが……。
でも今はなんとなくモーツァルトを聞く気にはなれない。
『交響曲にしよう……』
家から持ってきたクラシックのCDを見ながらあたしは聞きたい曲を物色した。
先ほど、パソコンで音楽をかけると言った。
そういえばこの相談室のパソコンにはi-Tunesはまだダウンロードしていない。CDをいちいちかけるのはめんどうだからi-TunesにCDを入れておけばいつでも聞けるはずだ。
そういえば……。
この相談室の扉をたたく音を聞いたときすぐに思ったのが『運命が扉をたたく音がする』というベートーベンの言葉だった。
交響曲第5番ハ短調『運命』作品67
確かこの曲を作ったとき、ベートーベンは難聴を患っており、もしかしたらそうした深い悩みの中にあったのかもしれない。
そもそもこの曲を『運命』と呼ぶのは妥当ではないという意見が定説であると読んだことがあるが……難聴により音楽家として終焉を迎えてしまう直前に彼はその『運命』に抗おうとしたんだとあたしは思う。
以前は……この曲が好きになれなかった。
名曲というのは分かっていたけど……なんか暗いイメージが付きまとうので敬遠していたのだ。
でも今は違う。
あたしは『運命』のCDを見つめて思った。
もしかしたら今のあたしの心境にぴったりなのかもしれない。
運命に抗う……。
結婚してからあたしの周りには悪いことが続いた。
両親は立て続けに逝ってしまったし、子供もダメだった。
良いこともあったはずなのに、その良いことが思い出せないぐらい悪いことが重なった。
こういうとき……。
つまり悪いことが起こったときに関してのみ、その状況を納得するために『あれは運命だった』という言葉を使ったりする。
あれは『運命』だったのだろうか……。
もしあれが……あたしに定められた『運命』だったとしたら、それはなんて残酷なんだろう。
この曲を作ったときのベートーベンはどんな気持ちだったのだろうか。
難聴という致命的な病気を抱えてしまった彼はその時、何を思っていたのだろうか?
『運命が扉をたたく音……か……』
あたしはパソコンにCDを入れて再生した。
静かな部屋の中をおごそかな旋律が埋め尽くす……
長椅子に腰掛けて目をつぶり、あたしは音楽に身を委ねた。
『運命は自分で切り開いていくもの……』
自分に言い聞かせるようにつぶやいてみる。
運命が扉をたたく……『運命』とは定められた何かではなく、人生における大きな分岐点とも言える出来事なのかもしれない。
かもしれない?
いや、そうだと信じたい。
悪いことばかりは続かないと信じたい。
あたしはコーヒーを一口飲んで、一息ついた。
さあ……やろうか……。
あたしは気持ちを入れ替えてパソコンの画面を見つめた。