恋愛
夜中に目が覚めることが多い。
多いというか……ほぼ毎晩……。
大体、流産の夢を見て目が覚めるのだ。
心臓の鼓動が確認できないエコー画像と産婦人科の診察室。
診察台に横になっているあたしとエコーを眺めている先生を……なぜかあたしはほかの視点から眺めている。
聞いた話によると、流産なんてけっこうある話……らしい。
それはお腹の赤ちゃんの生命力が弱いので起こってしまうわけで、実は自然なことなのである……なんてことは頭の中ではよく理解できる。
だけど……。
どうしてそれがあたしの身に降りかかるのだ。
みんな普通に元気な赤ちゃん産んでいるじゃないの。
どうしてあたしだけ?
どうして?
どうして……
一度目が覚めてしまうとなかなか眠れない。
あれやこれや考えてしまい涙が止まらなくなって眠れない。
夫の吉希が心配そうにこちらを見ている。
『大丈夫?』
吉希はあたしの背中をさすってくれる。
するとなんだかまた泣けてくる……。
考えても仕方ないことをいつまでも考え続けて、重い気持ちを引きずって……こんな真夜中に夫にまで迷惑をかけている自分が嫌で自己嫌悪に陥る。
それと同時に、どうして自分だけ……と思ってはまた落ち込む。
この繰り返し。
気が付けば朝になっている……。
だから昼間が眠くなる。
そういえば最近、鏡の前に立つと、あたしの顔は目の下にクマができており、肌はガサガサでひどい状態になっていた。一応簡単な化粧はするものの顔色の悪さは否めない。
こんな不健康そうな三十路の女に自分の悩み事を話したいと思うだろうか。
実は相談室では基本的に悩みを相談に来る社員がいない限りやることは少ない。
それに相談室自体、ついこの間、設立された部署でもあるから、相談者も少なく、そんなこんなで暇なのだ。
一応、報告書なるものの書式を作成したりと開設したばかりでも仕事はある。
だけど、今はそれを作成する気にもなれない。
それでもなんとか、石岡くんの一件は報告書にまとめた。
守秘義務もあるので所属部署と名前はふせて報告書の作成をしておいたのだが、これでよかったのだろうか。あたしにだけはその相談は石岡くんからのものであることが分かるようにしている。
ここのところの相談者は石岡くんだけだ。
そんなわけで、相談室にいても暇を持て余している。
だから、昼間から椅子に座ってうつらうつらすることも可能で、いけないこととは自覚しているものの、気が付けば無意識のうちにあたしはしっかり昼寝をしてしまっている。
結局、毎日、職場で昼寝するから夜眠れないのかもしれない。
昼夜逆転している感じではある。
完全に悪循環で心と身体のバランスを崩してしまっているような気がする。
考えたくないけど……
もしこの症状が続くようなら人の相談に乗る前にあたしがメンタルクリニックにお世話にならなきゃならないなあ……なんて、自分のことなのに半ばやけくそな気持ちで他人事のように思いながら、その日も自分では気づかないうちに、長椅子に座ってまどろんでいた。
こんこん
久しぶりに……運命が扉をたたく音がした。
あたしはノックの音を聞いて、相談室に小さい音で音楽をかけようと思った。
最初、眠くて仕方ないあたしは眠気を少しでも覚まそうと思い、ラジオをつけていた。
でも……やめた。
それはたまに聞こえるラジオのメッセージの中に赤ちゃんが生まれた話が聞こえてくるからだ。ラジオの向こうの誰かが経験した嬉しい出来事を本当なら一緒に喜んであげたいと思うはずなのに……今は地獄のようにどす黒い気持ちが自分の中に湧き出してくるのだ。
それがたまらなく嫌だった。
だから今は相談室は無音。
静かな空間だ。
運命が扉を叩く音がする。
そうだ。クラシックを聴こう。
ノックの音を聞いて、完全にベートーベンを思い出すようになったあたしは眠たくて回らない頭をゆるゆると回転させながらもそんなことを考えた。
『どうぞ……』
あたしが返事をすると相談室の扉を開けて入ってきたのは作業着の若い女の子だった。
背が低くて目元がパッチリしている可愛い子だ。あたしは女性にしては少し背が高いからどうしてもこういう子が来ると見下ろしてしまう形になってしまう。
身体が少し大きくてよかったな……と思っていたのは学生時代にソフトボールをやっていた時ぐらいで、今はむしろこの子や杉浦さんのように小さい女性にあこがれてしまう。
あたしの場合、けっしてモデル体型ではなく、どちらかと言うと肉付きのいい方だから、体型に関してはちょっとしたコンプレックスがあるのだ。それもこれもキャッチャーなんてポジションだったからかもしれないが。
それにしても、この相談室は若い子の方が来やすいのかな?
目の前にいる女の子は、先日来た石岡くんとそんなに変わらない年頃だ。
確かにあたしも含めて少し上の世代の人間は『相談室』とか『メンタルヘルス』という言葉に変な偏見を持っていることが多い。そんなところにお世話になるのは頭がおかしくなった証拠だ……という見方をする人も少なくないのだ。
ただ若い子になるとそうでもないのかもしれない。
というのも、こういう分野が世間的にも『普通のこと』として認知されてきたのがつい最近のことだからだ。
『どうぞ……座って』
あたしは彼女を椅子に座らせた。
『コーヒーでも飲みますか??』
『あ……はい……。ありがとうございます』
作業着を着ているところを見ると製造の仕事をしているのだろう。
一言に家具の製造と言ってもいろんな工程がある。
詳しいことは家具屋の社員であるにもかかわらず恥ずかしながらよく分からないでいる。
通常、女性社員は製造には配属されない。
というのもそういう技術を持っている女性は少ないし、製造関係の学校を出てここに就職するのは大抵、男性が多いからだ。さらに製造の仕事は力仕事も多い。女子社員が少ないのは偏見ではなく、単に製造の仕事は女性には向かないというのが主な理由だろう。
そんな中で彼女は作業着を着て製造の仕事をしている。
人事のことはあたしの知るところではないが彼女を目の前にすると、並々ならぬこだわりのようなものを感じざるおえない。
それにしても美人は何を着ても美人というが……若くてかわいい女の子が着ると地味な作業着も先端のファッションに見えてくるのは気のせいなんだろうか……。
あたしはコーヒーを入れて彼女の目の前に置いた。
当たり前のことではあるのだが、ここに来る人は椅子に座らされると自信なさげに下を向いてしまう。そもそも相談室に来ること自体、かなりの勇気が必要だったはずなのだから。
話を始める前にコーヒーを薦めて一息入れるやり方は実は杉浦さんのやり方を模倣している。一息おいて話を始める空気感をそうやって作り出すのだ。
あたしは彼女こそここにふさわしい人間だと思う。
柔らかくも強い彼女の口調はどんな本音でもうけとめてくれそうな気がする。包み込むような優しさは母性なんだろうか。
後で聞いた話なのだが、彼女はそれどころではなく多忙で、相談室勤務は不可能だったらしい。
そもそも彼女は役員だ。
そしてあたしの知っている限りではその他にもいくつか仕事を兼務している。
総務部の主任を兼務していることは以前からであり、そこの後任を選任しなければならない。
そんな仕事も残されている。
元は企画部にいた杉浦さんは、営業を経験して総務に来た。
しかし、どこの部署にいても当たる企画を考えだして売上を伸ばしている。成果を上げることができる有能な社員なのだ。
多分、この相談室も彼女の『企画』の一つなのだろう。
まあ『企画』という言葉が相談室にふさわしいかどうかは定かではないが……。
実は相談室への来訪は、業務時間内でも手が空けばいつでも来てもいいことにした。
上司に報告義務はないがあまり長いとここにきていることは部署にも分かってしまうだろうから、相談時間は15分~30分ぐらいにして、その上で本人がまた来たかったら時間を変えてまた来るようにしてもらうことにしている。
上司への報告義務をなくしたのはあたしの発案である。
各部署の上司でもみんながみんな恩田さんや杉浦さんのように話の分かる連中ばかりではないのだ。杉浦さんがあたしの意見をしっかりくみ取って上と掛け合ってくれたおかげで了解をとることができた。
そのことは広報を通して社内にも知らせた。
暇ではあるものの、一応お給料をもらっている以上、あたしもやるべき仕事はしているのだ。
いつもいつも昼寝をしているわけではない。というより昼寝もしたくてしているわけでもなく気が付いたら無意識のうちに、うつらうつらしているというのが正直なところだ。
相談室を利用する際の細かな決め事は、すべてあたしが自分で決めなければいけない。
そう考えると決めなきゃいけないことはかなり多くあるわけだから、来月にはまた社内報に相談室の新たな決め事を知らせなければいけないのかもしれない。
何せ何一つ決まっていないのだ。
『はじめまして。相談室の那珂心音です』
初めてここに来る人で初対面の相談者には必ず名乗る。これはあたしの中での決め事だ。
パソコンで手作りの名刺を差し出すのは今回から始めた。
名刺には可愛いクマのイラストを入れて『相談室室長 那珂心音』とある。
左下には内線の番号と『仲よくしてね。』というメッセージがある。
メッセージはあたしの遊び心。
一回に名刺を作れるのが8枚までだから、9人目の名刺からメッセージやイラストを変えてみようかなと思っている。
『あ……製造二課の松沢です』
『よろしくお願いします……』
それだけ言うとあたしは不謹慎にもあくびをしてしまった。
『あの……大丈夫ですか??』
松沢さんが『大丈夫?』と聞いたのはあたしのひどい顔を見てのことだろう。
本気で心配してる様子だ。
これではどっちが相談に乗ってもらっているか分からない。
『ごめんなさい。ちょっとここのところ眠れなくて……』
『そうなんですか……』
『そういえば……眠れないことってある?』
こんなあたしが人のことを言えた義理ではないが、悩みが深いと眠れなくなることが多い。
静岡の『富士モデル』といううつ病予防事業では眠れなくなることに着目してうつ病を発見し精神科医につなげるように書いてあった。
あたしは話をしながらそのことを思い出した。
言っておきながら『唐突に聞きすぎたかな??』とも思ったが……。
それにしても『眠れるか眠れないか』という話は聞かれて答えるのが嫌だという人はいないだろう。こうやって唐突に話しても答えがかえってくることが期待できることを考えれば、『富士モデル』はすごい。
『いや……さすがにそれはないです』
『そう。それは良かった。眠れないと病気になっちゃうからね』
『え?? じゃあ那珂さん……眠れてないの、やばくないですか??』
『大丈夫、大丈夫……。あたしのは一過性のものだから』
あたしは無理に笑顔を作って言った。
本当に一過性なのだろうか……。
時間が経てばキズが少しずつ癒えるよ……なんてよく言われるけど、そんなことあるのだろうか?
『そうですか……』
松沢さんはあたしのそんな心中を少し垣間見るような、ちょっと不安そうな顔をして言った。
『熱いうちにどうぞ』
あたしはコーヒーを薦めた。
相談者にこちらの心の不安定さを見透かされるぐらいなのに、あたしはここで何をしているのだろう。
あたしの中に真っ暗な雲のような不安がのしかかろうとしていた。
これも仕事だ……。
即座にそう思い、あたしは一時気持ちを切り替えた。
仕事。
仕事。
仕事。
あたしは心で少し念じた。
真っ暗な雲を振り払えるように。
入れたてのコーヒーを目の前に、松沢さんはしばらく何も話さなかった。
あえてあたしも何も話さない。沈黙というものにはキチンと意味がある。
相談に乗っているからと言って沈黙がいけないわけではない。その沈黙の時間には相談者の迷いや葛藤がある。
沈黙には意味がある。
だからむやみに沈黙を恐れて無理に話そうとしてはいけない。
ここに来たからにはこちらから聞かなくても話してくれるはずだし、もし話さなかったとしても、自分が話したくなるまでこちらは待てばいいと思う。
たとえば……
あたし自身、今の正直な気持ちを他人に話す気にはなれない……。
というよりあたしの場合はちゃんとした言葉にもならないような気がする。
悩みの種類は違えど、目の前にいる松沢さんも同じだろう。自分の悩みに対してどう話せばいいか、どう向き合えばいいのか……そこが自分自身にも分かっていないのかもしれない。
もっとも……あたしの調子の悪そうなひどい顔とあくびのおかげで信頼をなくしてしまい、『この人に相談しても大丈夫なんだろうか??』と値踏みされているだけなのかもしれないけど。
『あ……ミルクと砂糖……いる??』
あたしはコーヒーを一口呑んでから気づいた。
自分がブラックでしか飲まないものだから呑んでから気づいた。
『大丈夫です』
『そう。良かった』
『あの……』
『はい』
『あのお……その……ここってどんな相談でも乗ってくれるんですか??』
『常識の範疇の相談ならなんでも受けつけてますよ。あ……もちろん仕事と関係ないことでもね』
仕事に関係ないことは基本的には受け付けないというのは会社向けの方便で、社員の相談は仕事に関係することばかりとは思えない。プライベートでぶつかってしまった出来事が大きな悩みとなってのしかかり、それが仕事の効率を低下させている場合だってあるのだ。
実際、あたし自身、今がまさにそんな感じだ。
あたしの悩みは人に話してどうにかなるものではないけど、それでも誰かに聞いてもらいたいと思うことはある。
だから相談室に来る人も可能な限り悩みを吐き出して行ってほしい。
『あの……その……なんて言ったらいいのかなあ……』
松沢さんは少しはにかみながら言った。
こんなちょっとした表情もかわいらしい子である。
はにかむと八重歯が見えるのがチャームポイントだ。同性のあたしでさえ可愛いと思ってしまう。
『あの……いい恋ってどうしたらできますか?』
『え??』
少し面食らった。
もちろんふざけているような様子はない。
彼女の顔は至極真面目だ。
下を見てバツ悪そうにしているところを見ると本当に悩んでいるのだろう。
なんと答えればいいのだろうか……。
まずこれって『常識の範疇の相談』なんだろうか??
ほんの数秒だろうか……
あたしが考えている間もバツが悪そうに下を向いている松沢さん。
彼女にとっては本気の悩みなのだろう。
『こんな相談……ダメですよね……すみません。しつれいします』
松沢さんはあたしが何か言う前に立ち上がって相談室から出ていこうとした。
『待って!』
あたしは慌てて彼女を引き留めた。
ここで働く様になってからなのだが、あたしは別に何の相談もなくて、なんだかやる気が出ないからという理由でも、この相談室にきてもいいのではないかと思うようになった。
悩みと言うのは人それぞれだ。
他人からみたらちっぽけなことでも当人にとってはすごく大変なことだったりもするのだ。
一概に『そんなふざけた相談には乗れません』とは言えない。
『松沢さん。大丈夫よ。ここはそういう相談を受け付けてるの』
あえてあたしは『そういう相談も大丈夫』とは言わなかった。
むしろ『そういう相談を待っている』という言い方をした。
それは松沢さんにとっては心に影を落とす大きな問題だから。
あたし自身が、この相談室で一人、いろんなことを考えては、答えの出ないことに悩んで、毎日しんどい思いをしている時に、こんなつらさを一人で抱え込んでいて……果たして良い仕事ができただろうか……と考える時がある。
あたしにとって流産は未だに心に大きな影を落としている。
毎日がしんどい。
朝起きるのでさえ辛い。
食欲もあまりわかない。
こんなに悩んている問題を数ある問題の一つとして扱ってほしくない。
だから……
それは目の前の彼女も同じだろうと思ったのだ。
『ホントにいいんですか?』
訝しげに松沢さんは言った。
『大丈夫よ。てゆうかむしろ仕事の悩みなんかされても分からないこともあるしね』
『え――。それじゃダメじゃないですか』
彼女は笑いながら言った。
ここに入ってきたときのような緊張感が解けた様子だ。
『まずさ……。いい恋愛ってどんな恋愛だと思う??』
なんだかあたしは少し楽しくなってきた。
自分の若いときを思い出すようだ。
女子は恋愛の話が好き。
これはあたしのようにいい年齢になっても同じ。
『え??』
『つまりね。いい恋って人によって違うじゃない。松沢さんにとっていい恋ってどんなものなのかが分からないとなんとも言えないかな』
『はあ……いい恋愛……ですか?? う――ん。そうですねえ』
あたしは松沢さんの顔を見ながらふと昔を思い出した。
あたしが彼女ぐらいの頃……。
独身だったあたしも彼女と同じように恋がしたかった。彼氏もおらず、家と会社を行き来する平凡な毎日がすごくむなしくてつらかったのを覚えている。
でもそれって漠然とした悩みだった気がする。
漠然とした変わり映えのない毎日に鬱々していた時があたしにもあった。
もしかしたらこの松沢さんもそんな鬱々とした気持ちを誰かに打ち明けたかったのかもしれない。
それにしても……いい恋……。
どんな恋なんだろう。
夫の吉希に出会った時もそんなに楽しい恋をした記憶はない。
少し前のことだから忘れているだけなのかもしれないが……。
『やっぱりイケメンが現れて……』
『イケメン? どんな??』
『瑛太くんみたいな……』
俳優の瑛太のような細マッチョが好みなら……先日来た石岡くんなんかどうだろうか……。
でも彼女の言う『いい恋』というのが、実際に彼氏ができることを意味しているのかどうかは分からない。そしてイケメンという外見の部分でも彼があてはまるかどうかは分からない。そもそも外見の好みなどは人によってかなり違うのだ。
『どんなふうに現れるの??』
『どんなふうでもいいんだけど、あたしと付き合ってくれたらいいなあ……』
やっぱり漠然とした悩みなのかもしれない。
恋に恋しているのだ。
相手は自分の好みの男性ならだれでもいいのかもしれない。
とにかく平凡な毎日に刺激があればいいのだ。休日に予定があればそれでいいのだ。
と言っても、もし予定ができたところでこの悩みは自分自身が人生の楽しみを見つけない限り答えはでない。
その答えは恋人を作ることとは限らない。
もしかしたら彼女は人生においての非常に大きな難問にぶつかっているのかもしれない。
そしてその答えも彼女自身しか分からない。
人生において非常に大きな難問。
自分で答えを見つけなければいけない問題。
それはあたし自身にも言えていることかもしれない……。
『じゃあさ……もしそういう彼氏が見つかって、彼が松沢さんと付き合うことになったら一緒に何がしたい??』
『え、え――と……なんだろう』
『デートに行くとすれば……だよ』
『あ……はい……』
彼女が上目使いでこちらをみる。
こういう視線の使い方に慣れているのか……それともいつも自然にこうなのか……。
いずれにしてもこの視線の使い方でモテない感じには思えない。もしかしたら、彼女自身気づいていないだけで、想ってくれている男性はいるかもしれない。あと、彼女のこういうかわいらしい仕草をよく思わない同性もいるだろう。
同年代の同性からは嫌われるタイプの女の子だ。
時計を見ると彼女がこの相談室に入ってきてすでに30分は超えている。
すでに相談というより恋愛の話をしにきただけみたいになっているが、彼女にとってはこの曖昧な恋愛観こそ、大きな悩みの一つなのだろう。思い切ってここに来てみようと思ったのは、製造課には女子社員が少ないこともあるのかもしれない。
『時間、大丈夫?? もし嫌じゃなかったら明日、ランチでも食べながらこの話の続きをしない??』
ちょっと図々しいかとも思ったけどあたしは思い切って松沢さんをランチに誘うことにした。
『相談』という固いスタイルよりも『雑談』という肩の力を抜いたスタイルの方が彼女の本音を聞き出せるかもしれないと思ったのだ。
食事をしながら話すという行為は比較的、本音が聞き出せる場合が多い……ということを過去に誰かから聞いたか、本で読んだかしたことがある。
それに、あまり長い時間、工場を離れていては仕事に差し支えもあるだろう。
もちろん相談室に来ることはさぼりではなく、会社も公認していることなのだが、誰にでも晒せるわけではない悩みをここに話に来ているわけだから、同じ部署の人間には知られたくないだろうし……そんなことを踏まえて考えるとあまりに長すぎる面談は辞めた方がいい。
そんなわけで、あたしは明日、松沢さんとランチの約束をした。
『ありがとうございました』
松沢さんはここに来た時よりも心なしか明るい顔をして出て行った。
『良かった』と本当に思える瞬間である。
30分程度、話しただけで、少し楽になれたのならあたしもまだ捨てたものでもないのかもしれない。