お礼
あたしが石岡くんの相談に乗ってから数日が経った。
相談と言っても、ただ世話話をしただけで『相談』なんていうそんな大仰なものなのかどうかは甚だ疑問ではあるけど。
あれからどうなったかは気にはなるけど……石岡くんをわざわざ呼び出して聞き出すこともどうかと思うのでそうはしていない。
当然のことだが……相談室にはそういう業務のマニュアルはない。
実はその業務マニュアルのことだが……あたしが自分で作る必要がある。
何といっても会社としても新たに創設した部署なのだ。
マニュアルがないのは当たり前のことである。
そして今後のためにそういうマニュアルを作っておくのもあたしの仕事ではないかと思う。
また、マニュアルだけではなく報告書も必要だ。
というのも仕事というものは仕事しているという証拠を残さなければいけない。
この相談室で言うなら『月に何件、こういう相談にのりました』という書類を作成し、提出することが求められたらいつでも提出できるようにしておかなければならないのだ。
そういうマニュアル的なものは他の部署には既存のものがあるが、当然ながら相談室にはない。
何かを始めるというのは案外手間がかかるものだ。
よく考えてみればあたしは総務の副主任などをやっていたからこそそんなことも思いつくわけで、ある程度の立場で仕事をしていないとこんな発想は思い浮かばない。
会社としてこの相談室をどう思っているのかは分からないけど少なくともやるべきことはきちんとうやらなければいけない。
マニュアルをはじめ、報告書の作成など、案外やることはたくさんある。
やらなきゃ……と思うのだが……
周りに人のいないこの相談室で一人、パソコンに向かいながら書類作成の仕事をする気にはなれない。
嫌なことばかり考えてしまうからだ。
あの時、辛いものを食べなければよかった、とか……
あの時、無理して外出したからいけなかったのかな……とか……
もう流産については、いくら考えてもすでに起こってしまったことでとりかえしがつかないことだと分かっているのにまだ考えてしまう。
そんな鬱々とした時間がゆっくりと過ぎていく。
あのあと……。
つまり石岡くんが相談室に来てからだが……。
メンタルヘルス相談室をノックする人はおらず、週が明けた月曜日のお昼前になってもまったく閑古鳥がないている状態だった。そもそもこの部署がそんなに忙しいのも困りものだが、あたし自身、この部署に配属されてなにも仕事がないというのもすごく不安といえば不安だった。
確かにこの不景気に、会社には窓際族がいるような部署を作る余裕なんかないのは分かっている。しかしみんなが忙しく働いているときに自分だけ暇だと少し不安にもなるものだ。
というか……暇だ暇だと言っているが、やらなければいけない仕事はある。
それもやらずにあたしはいつも一人でこの相談室でつまらないことばかり考えている。
もしかしたらこんなあたしは会社にとって必要ではないのかもしれない。
なんてことを……違うと知っていても、つい思ってしまい……部屋で溜息を一つついたときだった。
相談室の扉がノックされたのは……。
『どうぞ』
あたしが言うと背の低い中年男性が入ってきた。
髪の毛は少し薄くなっており、お腹に貫禄が出てきたあたり世間でいう『おじさん』を絵にかいたような姿だ。
相談室に入ってきたのは営業部の恩田さんだった。
実はあたしは女性にしては少し背が高く……157㎝ほどある。
157㎝のあたしと目線がほとんど一緒の恩田さんは昭和の日本人の代表的な体型で男性にしては背が低い。
彼とは会社の慰安旅行などの企画の際に何度か一緒に仕事したので話したことがある。テキパキと仕事をこなす営業部の部長である。
『聞いたよ……残念だったな……』
言い出しづらそうに恩田さんは言った。
『残念』というのは流産のことだろう。男性には少し話しづらい内容の話かもしれない。それでも気遣ってくれるその気遣いはありがたい。
彼は部下に対する気遣いのできる人だ。
一緒に仕事した時も、既婚のあたしを気遣って、残業の時間が長くなり過ぎないように気をかけてくれたり、会社からの各課への通達をあたしがやることになった時に『それは女性では厳しいだろ』と言って引き受けたりしてくれた。
見方によればこれは女性をバカにしていると取る人もいるかもしれないが、何かの企画に対して社内全体をまとめて行かなければ行かない場合、あたしは女性よりも男性の方がそういう仕事は向いていると思う。
それにその時の恩田さんの言い方は『女だからそれは無理』というバカにした見方で言った言葉ではなく、ただ苦労させてはいけないという気遣いの方が強い口調だった。
そんな出来事があったから、あたしはこの人は気遣いのできる人だと思っている。
まあ……大体からして管理職たるもの部下に対する気遣いがちゃんとできない人間には人はついて行かないから当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
しかし……当たり前のことができない人間は多い。
当たり前のことがすごく難しかったりもするわけだから……やはりこの人はすごいなあ、とあたしは思うわけである。
『ありがとうございます……もう大丈夫です』
あたしは素直にお礼を言った。
前も言ったが……みんな、流産になんて触れたくないのだ。
暗い話題は空気を重くする。
自ら重い空気にして会話をしようなどと誰しも思わないだろう。
しかも女性同士ならあたしのような人間にもいろんな慰めの言葉がかけられる。
母性本能のある女性にしか分からない感覚的なものという部分を考慮すると、この手の話題は特に男性には厳しい話題だろうと思う。
要は……なんと声をかけていいか分からない場合が多いのだ。
そんな中で少しでもこうやって声をかけてくれることは本当に誠意を感じるしありがたいと思う。
『そうか……まあ……無理するなよ』
『はい。ところで恩田さん……今日はなんでまた?』
『いや何……ちょっと昇進祝いを兼ねて御礼を言いにきたんだよ』
『御礼??』
恩田さんに御礼を言われるようなことは何もしていないと思う。
ちなみに『昇進』というのは、あたしの相談室勤務に関しては『相談室室長』という肩書がついて昇進扱いの人事だったからだ。
なんで昇進したのかはよく分からないのだが、一応昇進は昇進ではある。
それにしてもなぜ昇進までさせて、あたしのように何もできない人間を相談室に配属したのか……というのは分からない。
杉浦さんはあたしのことを買いかぶりすぎている。
そういうことを会社は分かっていないものだからこういう人事になったのかもしれない。
しかも折も折……。
あたしは人の相談に乗れるような精神状態ではない……。それにあたしは仕事熱心な方ではないのだ。
『石岡のこと……相談に乗ってくれたんだってな』
『石岡くん? ああ……相談に乗ったというよりは、雑談しただけなんですけどね』
そういえば石岡くんは営業部だった。
それで来たのか……。
恩田さんは。
気遣いのできる恩田さんらしい行動である。
『若いやつの考えていることは少し理解できないところもあるからな。オレがあいつにここに行くように言ったんだ』
『そうなんですか?? でもあたしにだって今の若い子の気持ちなんか分かりませんよ』
『いや……まあ、分からなくたっていいんだよ。育った時代も環境も違うんだから。でも同じ営業部の先輩や上司には言いづらいこともあるだろうと思ってな』
さすがは恩田さんと言うところだ。
ある程度年齢を重ねると自分の経験を優先して他人を信用せず、言うことを聞かなくなる人は男性にも女性にも多い。しかし恩田さんはそうではない。
いや……もしかしたら彼にもそういうところもあるのかもしれないけど、恩田さんはそういう自分を自覚しながら、自分の経験で分からないことは思い切って信頼できる他を頼るということができる人なのだろう。
そんな恩田さんに信頼されているというのは本当にうれしい。
それに石岡くんのあの悩みは同じ営業部の先輩には言いづらいだろう。
ただ……。
それは言いづらいことであっても、同じ部署の先輩や上司に相談してもいいのだ。
相談してもいいということを理解している若い子もいる。
特にスポーツをやってきて体育会系の厳しい上下関係でもまれてきたような若い子や、逆に散々親を泣かせてきたようなやんちゃをやってきたような子なら本能的にそういう相談ができる。
自分たちは新人で失敗しても当然だから……といういい意味での開き直りができているのだ。
『失敗上等!』というやつだろう。
しかしそうはいかない場合も多い。
それは石岡くんのように真面目な子の場合が特にそうなのだ。
彼のように真面目な子は『こんなことを相談しては怒られてしまう……』と思ってしまい自分を追いつめてしまうのだ。
そういえば石岡くんはあれからうまく行っているのだろうか。
『石岡くん、どうですか?? うまくやっています??』
『おう。それだよそれ。あいつな。急に営業部でやってる飲み会に来てな』
『行ったんですか? それは良かった』
『薦めてくれたのか??』
『ええ。』
恩田さんは意外な顔をしてあたしを見た。
社内で飲み会への強制参加を辞めさせることを労働組合に言い出したのはほかでもないあたしたち女性社員である。あたしは労働組合のその活動にはそんなに積極的には参加しなかったけど、お酒が飲めない子は飲み会への参加は苦痛でしかないのだ。
強制参加はよくないだろう……という意見がでたときにはあたしも賛同した。
それに対して真っ向から反対意見を述べてきたのが営業部だったのだ。
『いやいや……。まさかその……』
恩田さんはちょっと気まずそうに言葉を選んでいた。
『恩田さん、あたしは飲み会、大好きですよ。でも好きな人ばかりじゃないってことをあの時、杉浦さんは言いたかったんですよ』
『そ、そうだな。なんかあの時のショックが少し残っててな……』
確かに今まで飲み会に強制参加、それも仕事のうち、と教育されてきた恩田さんが、時代が変わって女性社員たちにやりこめられてしまったのだ。
あ……もちろんやりこめられたのは恩田さんだけではないが……。
『昔みたいに強制参加にするのはちょっとですけど、でも若い子にはああいう席も必要ですよ。呑んだ席なら……勢いでいつもは聞けないことが聞けたりもするじゃないですか』
『そうだな。』
恩田さんの顔を見ればなんとなくわかる。
石岡くんは飲み会に行っていろんなことを先輩や上司から聞くことができたのだ。普段は厳しい先輩の意外な面などをみて、きっと自分も完璧を求められているわけではないことを感じたのだろう。
『あいつ、先週、いきなり飲み会に参加して、それからというものいきいきと仕事しだしてな』
『そうでしたか……』
それは本当によかった。
多分、あの時の石岡くんに必要だったのは先輩の厳しい顔以外の側面を見ることだったんだと思う。
あたしが彼に飲み会への出席を薦めたのは、飲み会の席で先輩のそういう顔を見ることができれば、かなり彼は楽になるだろう……そう思って言った言葉だったが、どうやらうまく事が運んだようだ。
そもそも……これは新人にありがちな悩みで、あたし自身も新人の頃はずいぶん悩んだからなんとなく石岡くんの気持ちが分かったのだ。
『よかったですねえ……。ホントによかった……』
恩田さんが出て行ったあとの扉を見つめながらあたしはつぶやいた。
あたし以外の人間はみんな幸せになっていく……
あたしだけが一人取り残されているような気がする……
それは違うと分かっているのにそう思ってしまうあたしには……もしかしたら元から母親になる資格などなかったのかもしれない。
いつかあたしにもこの悲しさから解放される日が来るのだろうか。