相談室
自信がないのに相談室の勤務を受けたあたしには数日後、すぐに辞令が下った。なんでそんなに早いんだ……と思えるぐらいめまぐるしく早い人事異動だった。
幸か不幸か……
あたしは相談室勤務となり『メンタルヘルス相談室』という札のついた個室があたしの職場になった。
内示の時点では知らなかったのだが、この人事……一応、昇進扱いらしい。
あたしがそのことを知ったのは相談室に配属された当日のことだった。
『あの……別にその……気にしているとかじゃないんですけど……なんでお話してくれなかったんですか??』
あたしは『相談室室長を命ずる』と仰々しく書いてある事例を見ながら、不思議に思って聞いてみた。通常で考えれば人事異動の話をするときには相手にとって都合のいい話は絶対するものである。言わないというのは通常なら少し考えられないことだ。
『ごめんなさいね』
杉浦さんは上品に口元を抑えながら含み笑いをして言った。
『那珂さんはそういうことには興味がないと思ったから……』
そういうこと……つまり昇進や昇給のことである
確かにそれは当を得ている。
あたしは昇進や昇給することよりも、長く気持ちを楽に仕事を続けていけることを重要視している。それは自分だけではなく、夫の仕事に対してもそう思っている。
だから……相談室の勤務。
はっきり言って未だに自信のない勤務ではあるが、じゃあこれが昇進でお給料も上がるからやってくれ……と言われてあたしは首を縦に振っただろうか?
否。
多分、頑として断り続けただろう。
それよりも杉浦さんの相談室に対する思いや、あたしに対する思いを、正直に安心のできる仕方でぶつけてくれたからこそ、自信はないものの根負けして受ける気になったわけだ。
もしかしたら、相手の心の物差しで物事を測れることこそ、杉浦さんが長年、家庭を持ちつつもキャリアウーマンとして働き続けることができる要因の一つなのかもしれない。
そんなわけで、あたしの肩書は総務部の副主任から、相談室室長に昇格となり、実はこれは非常に喜ばしいことなのだが、お給料も少し上がった。
人生楽ありゃ苦もあるさ……
悪いことの後には良いこともある……
なんて言葉がつい口について出てきそうなそんな出来事だった。
もっともあたしの場合は楽よりも苦の方が大きかったわけだが……。
相談室は個室といっても総務の奥にある使っていない小さな部屋を片付けて、部屋の真ん中に少し大きめのテーブルが置き、椅子が一脚と、部屋の隅にはあたし一人分のデスクとパソコン、そして電話が引かれているという簡単な作りの部屋だった。
ちなみにこの部屋こそあたしが杉浦さんから内示を受けた部屋であり、うちの会社がほとんど使うことのない不思議な会議室でもある。
内示を受けた時も感じたことだが、この部屋のいいところは窓際であり、外の様子が見れることだとあたしは思っている。
悩みを抱えている人間というのはついつい自分でも意識しないうちに、自分の殻にこもってしまう傾向にあるからこうやって外が見れると気分も少しは晴れるのではないか……と思うからだ。
その反面……。
窓際に立つと『窓際族』という言葉が頭をよぎる。
こうやっていざ異動が決まってみるとあたしは会社にとって不要な人材だから窓際に追いやられたのかな……とも思ってしまう。
杉浦さんもこの相談室の設置には相当な時間を要したそうだし、会社としてはあまり賛成というわけではないみたいだし……。
それは杞憂だ……。
どう考えても、この不景気な中、窓際族を作るほど会社も愚かではないだろう。
分かっているけど……心はぐらぐらと不安定に不安要素の方に傾いてしまう。
初日はそんなに仕事もないだろうから適当にネットでも見て時間を過ごした。
これが失敗だった……。
最初はネットニュースを見たり、音を小さくしてYouTubeを見たりしていたのだけど……気が付けば『稽留流産』とか『妊娠』とかそんなところを見ている。そしてあたしは小さな相談室の片隅で一人、溜息をついている。
これじゃあダメだ。
あたしはそう思った。
一応、昇進したのである。それなりに……いやしっかりと『相談』について自分なりに勉強しよう。そんな気持ちがあたしの中でむくむくと湧き上がったので、その手のサイトを探していろいろ読んでみることにした。
大体……。
良く考えてみれば……いや良く考えて見なくても……今のあたしに人の相談に乗れるだけの余裕なんかないはずだ。
なんでこんな人事を……。
仮に杉浦さんの言う通り、あたしが適任だとしても、今はどう考えても無理だ。
なんで今の時期に??
もしかして……そのあたりのことは何も考えていないのか??
『っふ……ふふ』
そう思ったらなんだか笑えてきた。
相談室での初日の仕事は少しだけいい気分で終えることができた。
これからあたしはどうなっていくのだろう……。