相談室の心音さん
『相談室の心音さんですもんね』
芳川さんはあたしが手渡した名刺を見つめて言った。
その呼び名は企画でも有名らしい。
『やっぱりみんなが残業して忙しいのに、あたしだけ帰れませんよ。そこは理屈じゃないです』
『まあ……それもそうよねえ』
17時になれば帰ってしまえばいい……という考えで仕事をしているのはこの会社でもあたしぐらいなものだろう。てゆうか……必要な仕事があれば残業もやむを得ないが、周りが残業していて会社が忙しいから雰囲気で残業してしまうのはあたしはキライだし、会社にも不利益だろう。
『でも、この場合は芳川さんの仕事が終わってたら帰っていいんじゃないかな?』
『それはそうだと思いますけど……ほかの人の仕事を手伝ってあげたりした方がいいのかな……とか考えちゃうんです。やっぱりなんだかそういう雰囲気じゃないというのもありますけど』
『そっか……』
あたしは黙り込んでしまった。
『残業』とか『仕事』という言葉は急にあたしの感情を制御してくれて、さっきまでのもやもやとした変な気持ちはどこかに消えて行くのがゆっくりと感じられた。
頭の中の霧が晴れていくような感覚……。
これは仕事。
そういう思いがあたしを冷静な感覚に引き戻していくのが分かる。
それはもしかしたら強がりなのかもしれないけど……。
なんとなくすっきりしてきた気持ちの中であたしは問題を整理して考えることができた。
仕事が終われば帰宅……これは当たり前のようで当たり前ではない。
特に芳川さんみたいに若い子になると、残業もせずに早く帰ろうとすると、それ自体では怒られることはないが、何か嫌味を言われたりすることにもおびえなければならないのだ。
『どうすればいいかな?』
あたしは逆に聞いてみた。
相談の大半は自分のしたい方向性が定まっていることが多い。
今回の相談に関してもざっくり言えば、早く帰りたいか否か、ということである。
『どうすれば……? う――ん……』
芳川さんはあからさまに『それが分からないからここに来たのに』という顔をしている。
分からないということは絶対にない。『こうしたい』という希望は間違いなくあるはずだ。
結論は出ているはずなのだ。
ただ……
本人がそれを実行する勇気があるかどうかだ。
『早く帰らなきゃならないんだよね?』
『はい』
『なんのために??』
『え……』
なんのために? と聞かれた芳川さんは少し驚いた顔でこちらを見た。
恐らく、なんで同じこと言わせるんだ、と思ったのだろう。
『早く帰りたいのはなんのため? 遊びに行きたいからなの?』
大事な質問なので追い打ちをかけるように聞いた。
あえて間違いの答えまで添えて。
『違います。さっきも言ったように子供のためです』
『心ちゃん、待ってるもんね』
『はい……』
『仕事と心ちゃん……どちらが大切??』
本来この問いかけはしてはいけない問いかけでもある。
仕事も大事だし、子供も大事。この両者は天秤にはかけることはできない。
余談になるが、女性はよく男性に『あたしと○○とどちらが大事なの?!』と問い詰めてしまう。
かく言うあたし自身も旦那にそう言ってしまったことがあるから分かるのだが、そんな答えのでないことを聞くものではないのだ。
女性はとにかく、男性から自分が一番大事にされていると思いたいものなのだが、男性にとっては仕事だって大事なのだ。
それに仕事しなければ生きていけない。
言われた方からすると、自分が必死になってがんばっているのに、そんな比較をされると、普段のがんばりを否定されたように感じてしまう。
これは○○の中が仕事ではなく趣味の場合でも同じ。
普段はこんなにがんばっているのに、どうしてこのぐらいの趣味でくどくど言われなきゃならないんだと感じるわけだ。
大事なものとそれと同じぐらい大事なものを比較してどちらが大事? という問いかけに結論などない。
どちらも大事なのだ。
だから……あたしがしたこの問いかけは本来はしてはいけないものなのである。
しかしこの二つの内、どちらかを選ばなければならないとしたら?
そして明らかにどちらを選ぶか……結論が出ていたなら?
そういう場合、話は変わってくる。
母親にとって、子供と仕事なら間違いなく子供の方が大事だ。
芳川さんの本音は『子供のために早く帰ってあげたい』のだ。そうでなければこんなに悩むことも、わざわざ休暇までとって会社の相談室に来ることもしないだろう。
結論から言えば子供のために早く帰ってあげたいと思っているのなら、なにも考えずに残業などせず堂々と帰宅すればいいのだ。
悩むことはない。
それに、言っちゃ悪いが、仕事と言ってもやってもやらなくてもいいような付き合い残業である。
自分の仕事はちゃんと終わっているのだ。
そんなもんどう考えても子供の方が大事に決まってる。
仕事と子供。
今、芳川さんはどちらかを選ばなければいけない。
それでどちらを選ぶか……
結論ははっきりしている。
でもその結論に従って行動する勇気がでない。
それはいろんなしがらみがあるから。
だからこそあたしは本来やってはいけない比較をあえてやったのだ。
彼女の背中を押すために……。




