複雑な心模様
これも仕事だ……。
ただ……育児の事が分からないあたしにも、それが大変なことであることは容易に想像はできる。
まして彼女の場合、本来なら助けてくれるはずの旦那もいない。なぜ旦那と離婚したかについては恐らく今回の相談内容とは関係がなさそうなので聞くつもりはない。しかし支えてくれる存在が少ない中で仕事と育児と家事を一気に自分一人でやらなければいけないのは相当な労力だったに違いない。
『最初はそのぐらい大丈夫。自分ならできるって思ってたんです。でも……やってみたら自分の時間がなくなってけっこうしんどくなってきて……』
『まったく一人で全部やってたの??』
『はい……。最初は……ですけど』
『それはすごいね……』
あたしは素直な感想を言った。
育児と家事と仕事……これ全部一人でやる……少しの間だけでもあたしには無理だ。
想像しただけで目が回ってしまう。
『そうですか? でもやっぱりダメで実家の両親に頼ることにしたんですよ』
芳川さんはさらっと言った。
なるほど。
さらっと……何事もないかのように言ったけど、それはたぶんすごいことだと思う。
一人で子供を育てることだけでも大変なのに、仕事も家事もやって、それが自分一人で難しいことに気づいた途端、今度は切り替えて、周りに協力してもらう。
恐らくこれらのことは彼女が総務にいたときにやっていたことではないだろうか。
近くであたしは彼女を見ていたが、悩む素振りなどなかった。
自分一人ではできないと思ってすぐに助けてくれそうな人に頼ることに考え方を切り替えたのだろう。
だからそんな素振りがなかったのだ。
彼女がやってきたことは周りをしっかり見回すことができない難しい。
あたしには目の前にいる自分より若い彼女がまぶしく見えた。そしていつまでもあのことを引きずって悲しい気持ちになることがある自分がなんだか恥ずかしかった。
『ただ……先日、父が入院しまして……。まあ、若くもないですからね。母から夜はなるべく早く子供を迎えに来てほしいと言われてしまいまして……』
『そう……。それは大変だったね……。それにしても早く帰るって言ってもねえ……』
『そうなんですよ。この忙しい時期に早く帰れるわけないし……』
『定時で帰れるようにテキパキと仕事をこなさないとだね』
『いや……まあ、それもそうなんですけど……。自分の仕事が終わったからって帰れないですよ。みんな忙しそうに仕事しているし』
芳川さんのこの言葉は多くの社員が思っていることだろう。
だから会社が忙しい時期は半ば早く帰ることをあきらめている。
自分の仕事が終わっても周りが忙しく仕事している中、自分だけが『お先に失礼します』などとはなかなか言えないものだ。
まあ、あたしは言うけど。
『ダメなの? 自分の仕事が終わってやることないんなら帰ればいいと思うけど……』
『理屈ではそうなんですけどね』
『何もなければ会社が認めてるんだし残業すればいいと思うけど……芳川さんの場合は娘ちゃんが待ってるじゃん』
『まあ……そうなんですけどね……』
しばらく沈黙……。
ショパンの幻想即興曲が静かに部屋の中に流れている。
あたしは先程淹れたコーヒーを一口飲んで話を切り出した。
『で、名前はなんていうの??』
『優理ですけど……』
『いや……あなたの名前じゃなくて……』
『娘の??』
あたしはうんうんとうなずきながら言った。
なんだかこうやって子供の相談を受けると、自分の子供みたいに感じてしまうのはなぜだろう。
最初、子供の話をされたときはチクリと胸が痛んだが、話しているうちにその痛みは緩んできている。それはきっと、自分が少しでも頼りにされているからなのかもしれない。
『心です。』
『へえ……心ちゃん……可愛い名前ね。あたしと同じ心の字を一文字使ってるのは嬉しいなあ。はい』
あたしは名刺を芳川さんに渡した。
さっきから感じるふわふわしたような昂揚感はなんなのか自分でもよく分からない。もしかしたらこういう相談が来るのをあたしは待っていたのかもしれない。
自分でも自分の気持ちをコントロールできていないのがよく分かる。
嬉しいような悲しいような変な気持ち。
嫉妬の気持ちと、頼られてうれしい気持ちとが、変な具合にまじりあってあたしの脳の中をかけめぐって……あたしはどんな感情を表に出していいか分からずに、ただただ……顔はへらへら笑っている。




