年末
12月になると何もなくてもせわしなく感じることが多い。
街を歩いていても心なしかみんな何かに急いでいるような気がする。
実際に忙しい人も多いのだろう。
というのも……
残った仕事で年内に処理できるものは処理してしまおうと思うのかもしれないし、年末年始は長期休暇に入ってしまうからやれることはすべて早めに片付けてしまおうとするからかもしれない。
確かに総務にいた時は仕事が立て込んで本当に意味で忙しかった。
12月にはクリスマス企画でのセールがあるし、同時にお正月に向けて新春の大売りの準備がある。
年末は、それらの準備でうちの会社の各部署は忙しくなる。
企画部が立ち上げた企画を営業が取引先に提案し、その企画に合わせて製造はいつもよりも多く、しかもいつもとは少し違うものを作る。
それらの仕事に連動して、経費もかかれば、必要な物品の発注も多くなる。
だから総務のてんやわんやの大忙しなのだ。
ただ……
あたしは今年から相談室勤務。
だから、社内が忙しくてもあたしは暇である。
忙しいような気はするが……それは気のせい。
実際にはまったく忙しくない。
月1回の『相談に行く日』を作ってからはこの相談室も人の出入りが多くなった。
ただ、新たな相談がここに持ち込まれることはなく、月1回の勤務をこなしながら、昼休みには志保ちゃんとお弁当を食べ、あの飲み会以来、時折そこに石岡くんや杏奈が混ざったりして、そこそこ楽しく毎日を過ごしている。
そんな毎日も、12月は少し違う。
というのも、会社全体が忙しいわけで、相談室を使うなんていう余裕などないからだ。
お昼休みには志保ちゃんはお弁当を持ってランチに来たりもするのだけど、1時間いることはなく慌ただしく食べて、少し話してすぐに帰っていく。
一日の内……
ランチの時間だけがあたしが仕事をしている時間になっている。
お昼の時間が終わるとまた静かな相談室にあたし一人。
なんだか自分だけ取り残されたような気がする……。
仕事はあまり好きではないので積極的に仕事をする方ではないのだけど……何もないというのはやはり苦痛である。
自分から他部署の仕事を手伝おうかとも思ったりもしたのだけど、よく考えてみると他部署の仕事を手伝ってそのために相談室の仕事がないがしろになってしまっては元も子もない。
相談室の仕事というのはできれば常に余裕をもって行わなければならないような気がする。
他部署が忙しく動き回っている時でも、ここだけは時間軸が他とは違うように動かなければ、仮にこの時期に何かの悩みを抱えて相談室の扉をノックするような人がやってきたとしても、忙しさにかまけてきちんと相談の乗ってあげることなどできないのではないか……そんなふうに思う。
この余裕のある時間を使ってあたしは少し相談業務のシュミレーションをすることにしている。
これはロールプレイと言って相談を受ける際に相談者と援助者、その他の関係者になり切って演技することにより立場の違いにより見える風景を知るというのがこの勉強方法の一つである……とどこかで読んだ。
本来であれば援助者がたくさん集まってグループで行う勉強方法なのだけど、残念ながら相談室にはあたししかいない。
だからあたしは独りであたしの相談に乗る。
数か月前のあたしはどんな気持ちだったのだろうか。
彼女の気持ちをどうやったら理解することができるのだろうか。
案外、自分のことでも時間が過ぎてしまえばちゃんと理解できていない……。
『あの……』
数か月前のあたしはたぶん自分の本当の気持ちを表に出すことさえ辛かっただろう。
自分自身のことなのに忘れているという事実に軽く驚いてしまう。
しかし忘れることがなければ、辛い事実があったことで負ってしまった心の中の大きな傷は癒えることはないだろう。
こうやって自分自身と向き合うことは何も辛い事実を思い出したいわけではない。
できれば何事もなく忘れてしまいたい。
でもそんなことはできない。
完全に忘れてしまったように見えても、あの事実は消えやしない。
『毎日寒いですね……』
『あ……はい……』
あたしは心の中で数か月前の自分と会話をする。
『こう寒いと温かい物が美味しいですよね』
そんなことを言いながらあたしは過去の自分に温かいコーヒーを差し出す。
気持ちが萎えている時はなぜか温かい物が美味しい。
冷たい物を飲むと心まで冷えてしまいそうな気がする。
たぶんそれは気のせいなのだけど。
『辛いです……』
過去のあたしはいきなり目の前で泣き出した。
ああ……
確かにこんな感じ。
何かに甘えることができるのなら、そこに寄りかかってしまいたい気持ち……。
シュミレーションを終えることにする。
なんだか言葉を失ったから。
なんの言葉をかけても彼女の心には届かない気がした。
気がした?
いや自分自身だからよく分かる。
あの日のあたしには言葉はいらない。
ただ……
一緒に泣いてくれれば良かった。
『はああ……』
ちょっとため息。
午後の昼下がり。
相談室の時計は15時前を指している。
相談室の仕事に就いてから、あたしは自分なりにカウセリングの仕事について勉強した。
もちろん学校に通って専門的な勉強をしているわけではない。相談室にやってきた相談のうち、専門家の元に行った方がいいものはそこにつなげるのが、相談室の仕事であるとあたしは思っているので、あたし自身に高い専門性は要求されていないということは分かる。
しかし要求されていないとは言え、人の相談に乗るのだからそれなりに勉強は必要なのだ。
だから、本を購入したりして独学で勉強したのだ。
カウセリングの仕事は『相談援助技術』というらしい。
年末の忙しい時間はこうやってあたしは相談室での仕事のための勉強をすることに時間を費やしている。
『コーヒーでも飲もうかな……』
あたしはパソコンの前に空になっているマグカップを手に取ってインスタントコーヒーを入れた。
空のマグカップは思ったより冷たくてちょっと気持ちが冷えそうになる。
『今年も終わりか……』
温かいコーヒーの入ったマグカップを持って相談室のオフィスから見える街並みを眺める。
いかにも空気が冷たそうだ。
街路樹には昼間は光らず、夕方になれば冬の夜を彩る予定の電飾が木々に巻き付いている。
今年はいろいろあった……
正直、流産のことがあったのでいい年だったとは思わないが、新たに任せられた仕事はなんとかこなすことができたわけだし、昨年は5位と振るわなかった阪神タイガースも今年は前半戦だけでも首位争いをしてくれて楽しませてくれたわけだし……公私ともにトータルで考えるとプラスマイナスゼロ、つまり『まあまあ』な一年だったと言えそうだ。
カレンダーを眺めると12月の文字が見える。
今日はすでに1週目の木曜日だ。
ああ……早いなあ。
あっという間だった……。
ため息交じりにそんなことを考えていたら、運命は扉をたたかずに突然、訪問してきた。




