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きっかけ

『そういえば、山本さんと杏奈さんってどうやって知り合ったんすか??』

 4杯目のビールを飲みながら、少し赤い顔をして石岡くんは言った。酔っている様子はない。

 意外なことに彼はお酒が強い。


 それにしても、いい質問だ。


『イッシーは知らなかったっけ?? あんちゃんはもともと営業だったんだよ』

 山本さんが自分の妻をどう呼ぶのか……実は興味深々だったのだが、『あんちゃん』だったか……。少々、蛇足気味ではあるが、営業部では石岡くんは『イッシー』と呼ばれている……。

『そうだったんすか……ボクが入社する前の話ですよね』

『おお……そうか。言われてみれば、もう結構経つんだなあ……』

 遠い目をして山本さんが言った。


 確かに、杏奈が総務に異動になったのが2年前。

 石岡くんも入社してそろそろ半年以上がすぎようとしている。

 こうやって考えてみるとあたしが流産した時期と石岡くんが入社した時期はかぶっていたことに気づいた。彼が入社して、数か月で相談室に来たときは、あたしもげんなりしていた。

 世界の不幸はあたし一人で背負っているのだ……というぐらい辛かった。


 今も落ち込んでいないか……そう聞かれると、あのころに比べれば落ち込んではいない。

 でもやっぱりふとした瞬間に寂しくなる時はある。

 胸が痛くなる時がある。

 だから……落ち込んでいないというのは嘘なのかもしれない。


 この飲み会で明るく話す石岡くんを見ているとあたしも少しは変わることができたのかな……と思う。


 悩みは人それぞれ……。

 だけど、そういう悩みは時の流れと共に痛みだけは消えていく。

 気が付けば『悩み』は『いい思い出』に変わっていることも少なくない。

 あたしのことだって少し年配の女性であたしと同じ経験をした人に聞けば、時の流れが解決していくと思うはずだ。


 ただ……

 その時その時に本気で悩み、心に傷を負うからこそ、その悩みは『経験』として生きるのだろう。


『どんなきっかけで付き合うようになったんですか――?』

 甘えた顔で志保ちゃんは杏奈に言った。


 そうそう。

 その話。

 あたしも聞かされてない。

 すごく気になる。


『え――。この場で言うの……』

『そりゃ言うでしょ。言うならいつ??』

 あたしが酔った勢いで言うと、志保ちゃんは乗ってくれた。

『今でしょ――!!』

 杏奈は照れながらも山本さんを見た。

『え? オレが言うの??』

『だってあたしが言うの恥ずかしいじゃない』

『オレだって恥ずかしいよ』


 そんなことを言いながらも意を決したかのように山本さんは呑みかけのビールを一口飲んで話始めた。

『いやね。一度、あんちゃんが仕事で挫折してた時があってね……』

 山本さんの話を心底恥ずかしそうに聞く杏奈。

 みんなは彼の話に夢中になった。


 要はこんな話。

 ある日、まだ付き合いのない取引先で新製品の仕事の話が決まりそうだったのだが、その仕事を担当していたのが当時の杏奈だった。

 仕事が決まりそう……というのは、何度も何度も杏奈がその取引先に顔を出しては挨拶して、パンフレットから商品の良さを説明しつつ、料金に関しても取引先の希望に添えるよう、原価をどこまで抑えることができるかどうか、製造や設計と相談して……長い時間をかけて、ようやくそこまでこぎつけたのだ。


 そして契約書を交わす段階になって、取引先の担当である中年の男性はこう言った。

『男の担当者を連れてきてくれ』

 と……。


 杏奈の性格では黙っていられるわけもないのだが、さすがにお客さん相手なので何も言えずガマンしたらしい。しかしその日、杏奈は悔しくて悔しくて会社に帰る途中で人目もはばからずに泣いていた。

(この泣いていた……というところに話が及ぶと、彼女は恥ずかしかったらしくトイレに行ってしまった。)

 泣いていた杏奈を会社近くで見つけたのが山本さんだった。


『そんな時間に喫茶店で何やってたんすか??』

 石岡くんは不思議そうに聞いた。

『時間調整してたんだよ』

『時間調整?』

『ん? まあ……その……つまりさぼりってやつだ』

『え??』

 石岡くんにとってこの飲み会はまたいい勉強になっただろう。四角四面に真面目に仕事することだけがいいことではないときもあるのだ。

 こうやってみんなうまく『時間調整』をしてストレスを軽減して毎日仕事している……という側面もある。


 山本さんは杏奈を呼び止めた。

 いつもは勝気でツンツンしていて、仕事もバリバリこなす杏奈を見ていたから山本さんは、心底驚いたようだ。

『どうしたの?? お茶でもして落ち着いた方がいいよ』

 彼はそう言って杏奈を喫茶店に連れて行き、これまでのいきさつを聞いたらしい。


 あたしが知る限りの杏奈は仕事のいきさつを上司以外に報告することなど、あまりなかったはずだ。

 よっぽど悔しくて悲しかったのだろう。

『すごいじゃん。まったく新規で仕事がとれるなんて、たいしたもんだよ』

『でも男の担当者じゃないと契約してくれないって……』

 杏奈は悲しそうな顔をしていったが山本さんは気にも留めずにこう言ったらしい。

『契約なんて誰が交わしたって関係ないよ。この仕事はまぎれもなく君がとったとオレは思う。もっと自慢していいんだよ!!』


 その一言で杏奈は気持ちが楽になり、涙を拭いて会社に戻り、一連の事柄を上司に報告して、契約は無事にとれたのだが、そのときから杏奈も山本さんもお互いを少し意識するようになったという……そんな話。


『いい話……』

 志保ちゃんはうっとりした顔で言った。

 あたしもそう思う。

 山本さんの懐の大きさが見えた話だなと思う。

『そうかな――。ちょっと恥ずかしいなあ』

『恥ずかしくなんかないですよ。つらい時に励ましてくれる人って素敵どと思います』

 顔を真っ赤にして恥ずかしそうに話す杏奈をうっとりしながら見る志保ちゃん。


 また始まった……。


 まあ、でも今回はちょっと彼女にとっては進歩かもしれない。

 どんな人と結婚したいか、どんな人と恋愛したいか……彼女の中で少し具体的になれば彼女も成長できるだろう。


 山本さんと杏奈の話が終わって、話が止まるのかな……と思ったところで志保ちゃんは思い出したかのように言った。

『そういえば石岡さんはなんでこの会社に入ろうとしたんですか?』


 なかなかこのメンバー。

 お互いのことをそんなに詳しく知らないからそれぞれに知りたいことが多くて盛り上がるメンバーではある。ただ酒が入っているせいか話がどんどんとあちこちに飛んでいく。

 そうであっても、当初、少しぎこちなかった感じの集まりが、少しずつ和らいでいっているのはあたしにはよく分かった。

『なんでって言われてもなあ……』

 こちらは少しキレの悪い答え。

 志保ちゃんはやりたいことがあって入社したわけだから、石岡くんの気持ちは分からないのかもしれない。

『なんでって学校を卒業したら社会人にならないとだもんね』

 あたしはすぐさま石岡くんの代わりに答えた。


 本人は答えづらいと思う。

 というのも(こころざし)もなにもないからだ。

 そして、特に就職難の昨今では、仕事を選ぶこともできない。

 適当に『下手な鉄砲数打ちゃ当たる』作戦で、試験を受けた多くの会社の中から、やっと内定をもらった会社に就職する……それが多くの若者のスタイルで、その理由は『学校卒業して、やりたいことはないけど、働かなきゃならないから』という理由だ。


 あたしの時も例外なくそうだったし、山本さんにしても……そして今では仕事が大好きになっているものの、杏奈だって最初はそんなもんだったに違いない。

 志保ちゃんのような子は景気の良し悪しにかかわりなく珍しい存在なのだ。

『ん……まあ……そうにはそうなんだけど……』

 石岡くんはバツが悪そうに答えた。

 それに対して志保ちゃんは意外なことに少し神妙な顔をして呟くように言った。

『そうなんだ……。やっぱり、なんかあたしって変なのかなあ』


 変ではない。

 志保ちゃんは健全で賢い考え方を持っている。自分がやりたいと思える仕事に一直線に向かって行けるその強い気持ちはむしろ才能だ。

 変なのは多数派のあたしたちであって、本来なら自分のやれることの範疇(はんちゅう)でやりたいことを見つけて社会に出なければいけないのに、そんなことを考えずに若い時を過ごしてしまう場合の方が多い。多数派が『普通』であることは確かだが、いつでもその『普通』が正しいわけではない。

 物事は多数の人間がそう行動するから正しいとは限らないのだ。


『変じゃないと思いますよ』

『そうですか? 友達には「よく作業着なんか着て仕事する気になったね。変わってるよね。」って言われること多いんですよ』

『いや、逆にそれって個性があると思います』

 あたしもそれと同じ意味のことを言おうとしたところを、石岡くんに先に言われてしまった。

『個性??』

『ええ。みんなと同じようにすることが良いことじゃないですし、こういう仕事がしたいって思いながら毎日仕事するなんてすごいじゃないですか』

 石岡くんは志保ちゃんに気を使ってそんなことを言ったわけではない。

 彼自身、仕事に対する自分の立ち位置が見えないのだ。

 入社して1年目なんてみんなそうである。

 しかし目の前に自分とほとんど同期の……しかも女の子でそういうものをしっかりと見据えて仕事をしている人がいる。

 そのことを悔しく妬ましく思う人も少なくはないだろう。

 しかし石岡くんにとってそのことは嫉妬ではなく、尊敬の気持ちが大きかったのだろう。


 石岡くんのいいところはそういうところだ。

 相手がだれであれ『すごい』ことは『すごい』と認められる。

 だからこそ彼の上司である恩田さんは彼に目をかけるのだろうし、先輩の山本さんからも好かれるのだろう。


 君も自信をもっていいんだよ。


 あたしはそんなことを思いながら場のみんなに何かを夢中になって話している石岡くんを見た。

 志保ちゃんも石岡くんも……そして山本さんも杏奈も……気が付けばみんな少しずつ前に進んでいる。


 あらためて……

 あらためて……あたしはどうなんだろうか。

 前に進めているのだろうか。

 一歩踏み出せているのだろうか。


 確かに前のように気持ちが重くなることは日に日になくなってきた。

 あの時の記憶はきっと一生忘れられないだろう。

 時には寂しい気持ちになるけども……

 あの時……

 一生、立ち直れないと思った絶望的な痛みはもう感じない。


 痛みがなくなれば少しは……ほんの少しは前に進んでいけるのかもしれない。

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