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人事異動

 春は『出会いと別れの季節』と言う。

 卒業や入学のこのシーズンは確かに新たな出会いがあり、別れもあるのだろう。


 あたしは妊娠から流産を経て約1か月で職場に復帰した。

 特に妊娠して仕事を休んでいたわけではないのだが、少しずつ減らしながら、休暇を取ろうと思っていた矢先の出来事だった。だから復帰と言う言葉は少し違うかもしれない。実質は1週間ちょっとしか休んではいないわけだから……。


 全身は重だるくちょっと動くのもやたらと疲れるし、正直な話をすると身体の状態ははっきり言って思わしくないのだが、そんな状態でなぜ職場に復帰するかと言うと第一には家計がそれを許さないという事情がある。

 

 あたしの実家は父が4年前に、そして母は2年前にそれぞれ亡くなったから実家の援助に頼るわけには行かないし、夫である吉希(よしき)の実家は遠方である。

 そして何よりこの不景気に旦那だけの稼ぎでは食べていけないというのは事実なのである。


 調子が悪い……


 それは身体の状態もそうなのだが、精神的な状態がはっきり言って最悪な状態である。何を見ても灰色に見えるし、何を聞いても上の空になってしまう。

 仕事を休んでいる間はずっと泣いていた。

 もう身体中の水分という水分は涙から出てしまったのではないかというぐらい泣いた。

 目はいつも真っ赤にはれ上がっており、それでも泣いた。

 泣くだけでなくヒステリックに吉希(よしき)にもやつあたりしてしまったりもした。


 自分でも分かっている。

 誰も悪くない。

 仕方ないことということはよく分かっている。


 でも……仕方ないこと……で済ましてしまうにはあまりにも切なすぎる。

 そう思ったら涙が止まらないのだ。


 『どうしてあたしだけがこんな目に合わなければいけないのか』という思いがいつも頭を駆け巡っている。


 産婦人科医からは、身体には異常はないから仕事はいつから始めてもいいと言われるのだけど……

 こんな状態で仕事なんてできるのか……と言われれば少し自信はない。

 それでも何もせずに家でじっとしていると本当にこのまま何もできなくなりそうな気がしたので、自分の気持ちに鞭打って仕事に行くことにしたのだ。

 

 職場は独身の頃から結婚後も勤務し続けていた家具のメーカーで、あたしは総務の仕事に就いている。長年続けてきた職場で、ありがたい話だが副主任の仕事もさせてもらっている。おかげさまで人間関係も良好なので居心地は悪くない。

 大手ではないが小さくもない中堅どころの会社ではあるが、少しずつ大きくなりつつあるこの会社で正社員として働き続けているという事実を考えると何も手に職もないこのあたしがここにいるのはありがたいことなのかもしれない。

 だから、今は家で一人でいるよりは、少なくともこんなあたしでも必要としてくれるのだから、職場の方が居心地がいい。


 休みが明けて出勤した日には、その理由が分かっているので、周りも気を使っていてくれた。

 しかし、数日経つとあたしが流産したことなどなかったかのような普通の生活に戻っていた。


 それはなんともさみしかった。

 いなくなってしまった赤ちゃんの存在までなかったことにされたような感じがしたから。


 それも仕方ないことなのだ。

 周りは別にそんな風に悪意のある気持ちはない。

 ただ、みんな流産なんて悲しい出来事にはずっと触れていたくないのだ。

 あたしだってみんなの立場なら同じように反応するだろう。

 理屈ではよく分かる。


 でも……頭で理解していても渦中にいるあたしはみんなのように悲しい出来事を見てみないふりはできない。この悲しい気持ちといつまでも戦い続けなければいけないのだ。


那珂(なか)さん、ちょっといい?』

 上司があたしを呼んだのは、ちょうどあたしが職場に復帰して一週間が経った頃だった。

 総務主任の杉浦さんは営業からこちらに異動になってきたキャリアウーマン。年齢はあたしと親子ほど違う。

 この人のすごいところは家庭を持っているところだ。

 そしてキャリアウーマンと言うと男勝りな強い女性が真っ先に思いつくが、この人の性格は真逆である。とにかく母性の塊のような性格で彼女が誰かに強い口調で何かを言っているところは見たことがない。


 那珂(なか)というのはあたしの名字。

 下の名前は心音(ここね)

 那珂心音(なかここね)……漢字にしてみると何だか難しいイメージがする。

 なんだかお経のような感じの名前だが、それは旦那の名字が那珂(なか)なんだから仕方ない。

 名前の『心音』は死んだ父がつけてくれた名前。

 『人の痛みや喜びなどを共感できるように、心の音が聞こえるような気の利いた女性に育ってほしい』と名付けてくれた。あたしはこの名前が好きだ。

 ただ……気が利くかどうか……と言う話になると名前負けしている感は若干否めない。


『はい』


 杉浦さんに呼ばれたあたしは別室に行った。

 別室と言っても会議室なのだが、総務に会議などそうそう必要ではなく、この部屋はいつも遊んでいる状態であった。

 他の部署の会議は……といえばそれはキチンとした会議室があるわけで……はたしてこの部屋はなんのために作られた部屋なのか、というのはうちの会社の不思議の一つではある。

『どう?? 調子は??』

『ありがとうございます。大分よくなっては来ました』

『そう。あ……ちょっと待ってね』

 杉浦さんが話があるとき……あまり良くない話の場合は引っ張らずにいきなり話すこともあるが、大抵の場合は本題にすぐに入ることはない。


 その口調は柔らかくゆっくりしており芯の強さがある。


 彼女は給湯室からコーヒーを二つ持ってきてくれた。

 6畳ぐらいの部屋だろうか。

 大きな机が真ん中にあり窓からは外の街の様子がよく見える。

 日当たりもよく、窓を開けたら気持ちのいい風が吹き抜けそうな部屋だ。

 杉浦さんはあたしにコーヒーを手渡して言った。

『砂糖とミルクは??』

『……大丈夫です』

 結婚前までは必ず入れていた砂糖とミルクだが、吉希(よしき)が入れないのでそれに付き合っていたらいつの間にかあたしもブラックで呑むようになっていた。

 これはこれでコーヒーの香りが楽しめていい。

 あたしがコーヒーに口をつけるタイミングで杉浦さんは話を進めた。

『実はね。うちの会社でも社員のメンタルヘルスに力を入れたいという声が上がっているの』


 メンタルヘルス……。

 要は会社において、社員のうつ病の予防のために、相談室を設けそこでカウセリングを行い、必要があれば精神科につなげ退職に至らないようにする部署のことだとあたしは理解している。

 昔で言う5月病というものの対策でもある。

 最近では中堅社員が合わない部署に配属されたということで起こってしまう『6月病』というものもあるらしい。


 メンタルクリニックに通った方がいいよ……という話かな……とあたしは思った。


『はい……』

 あたしは少しあいまいな返事をした。

 なんだか複雑な気分だったからだ。


 確かに今の状態は辛い。

 仕事をしていても、手を停めると気が付けばため息などをついている。

 もしこの状態がつづくなら精神科を受診すべきだろう。

 なんとなく自分では分かっているつもりだ。

 分かっていてもできない……そんなことが人生には一体何回あるのだろう。


 勉強しなきゃならないのにできない。

 宿題を先にすればいいのに後回しにしてしまう。

 無理をすれば後で体調を悪くしてしまうのは分かっているのに遊んでしまう。


 もしかしたらこんなことの繰り返しなのかもしれない。

 しかし、そんなあたしの不安な思いも杉浦さんの言葉で一気に吹っ飛んだ。

『那珂さん、大変な時期に申し訳ないんだけどあなたに相談室勤務をお願いしたいの』


 相談室勤務。

 正直その答えは予想していなかった。


 てゆうか……相談室というのは通常、ちゃんとカウセリングの資格を持つ人が行うものであってあたしのような素人に勤まるものではない……と思う。

 あたしは辞退させてもらいたいと思った。

 内示の今の段階ならそれも可能だろう。


『え……え――と……その……』

 咄嗟(とっさ)のことにあたしは適切な答えが思いつかなかった。

『相談室って言われると心配よね』

 杉浦さんは椅子に座って言った。

 どうやら時間をかけてゆっくり説明してくれそうな雰囲気ではある。

 ただ……とにかくあたしには自信がない。

 そもそもあたしは仕事のできるタイプの人間ではないのだ。

 相談室勤務なんてとんでもない。

『心配って言うか……その……有資格者じゃなくていいんですか??』

『確かに有資格者の方がいいのだけど、この部署は会社が独自で作った部署だからそういう制約はないのよ』

『そう……なんですか……』

『そう。それにね。相談室の設置に関してはあたしが会社に強く推した手前、予算もかけられないのよ』


 つまり杉浦さんが会社に言い続けていたことがようやく通ったわけだが、会社としてはそんなに力は入れていない。だからなるべく金をかけずにやってくれ……ということなのだろう。

 それにしてももう少し人選を考えた方がいいような気がする。

『あたしは那珂さんが一番適任だと思う。だからお願いしたいの』

 杉浦さんはあたしの手を包み込むようにして握って言った。

 背の低い彼女がそうすると、どうしてもあたしは彼女を見下ろしてしまう形になってしまう。

 小さくて、少し冷たい手。

 飾り気がなく、長い間、家庭と仕事を両立させてきた手。

 この手に握られるとなぜか心が落ち着く。


 何か……

 自信はないけど引き受けてもいいかな?

 いや……引き受けてあげたい……とさえ思ってしまう。


『え?! でも……』

『那珂さん、よく総務に来る人の相談に乗ってたじゃない』

 確かに総務に何らかの手続きに来る人が何かを愚痴ったときに話を聞いてはいた。でもそれはあくまで聞いているだけで役に立てているかどうかは分からない。

『でもそれって話を聞いているだけで役に立ててはいないですし……』

『役に立てなくていいのよ。相談業務って』

『え??』

 相談を受けたからには役に立つ答えを返さなければいけない、とあたしは思っていた。

 今まで、総務に来た人たちの相談に乗っていたと杉浦さんは言ったが、あたしの方には相談を受けているという自覚はなく、ただ話を聞いていると言う認識だったのでこの杉浦さんの話は意外だった。

『実はね。あたし、この話を上と交渉しているときから、那珂さんは相談室の勤務をしてほしかったの。なんとなく醸し出すオーラが癒されるというか……』

『そ……そう……なんですか……』

『それにね。あたし自身思うのが、この会社だけでなく社会全体においてこのメンタルヘルスの分野って遠回りなようで仕事を効率化させることのできる分野だと思うのよ』

『はあ……』

『成果が出れば相談室もしっかりさせていこうと思ってる。産業医も正式にお願いして、あなたにもキチンと勉強してもらって不安のないようにするつもり』

 と言われても不安は不安だ……。


『何かあったら相談に乗るから……』

 杉浦さんのゆったりとした柔らかい口調にやられてあたしは最後には妥協してこの話を受けてしまった。

 こうなったら、どこまでできるか分からないが相談室業務をやるしかない。


 それにしても……今のあたしは人の相談に乗っている場合なのだろうか。

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