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幸せのベール

『やっぱり結婚なんかするんじゃなかった!!』


 杏奈のイライラが最高潮に達していることは表情をみれば分かる。

 少し……いやかなり短気な彼女は明日にでも離婚届を出しかねない勢いだ。


 彼女のこの悪い癖だが……彼女自身には自覚があるらしい。

 だから彼女は普段からこういう不満を、怒りに任せてぶちまげるようなことを誰にでもやっているわけではない。なるべく我慢するようにはしているらしいのだが……。


 残念ながら、周りからすると彼女のイライラはすぐに分かる。

話しかけるとつっけんどんで早口になるし、自分からは何も話さなくなる。

イライラは顔にも出るし、そのショートカットの髪の毛をかき上げる動作が多くなる。

はっきり言って誰の目から見ても明らかだ。

それを隠せていると思っているところが彼女のなんだかかわいいところなのだとあたしは思っている。


 こうやって周囲から見たら不満をガマンしてため込むようには見えない杏奈だが、実はそうではない。自分が不満を外に出すと際限なく『怒り』という凶器と共に不満を吐き出してしまうことを彼女は自分でも理解している。

 だから、あれでも内に秘めているのだ。


 内に秘めるタイプであるから、すべて吐き出しているように見えて、よくよく話を聞いてみると、肝心なところで、本音を言わないことが多い。


不満はぶちまげるが問題の本質は自分で抱え込んでしまうのだ。


 そこに関しては自覚はないのかもしれない。

 もしかしたら彼女は『山月記』の李徴(りちょう)と同じように、自身の有能さから他人が本当の意味で信頼できていないのかもしれない。

 今でもイライラしながら話をしにきたが、すべては晒さないはず……。


『やっぱりって??』

 あたしはあえて『やっぱり』という言葉に注目してみた。


『やっぱり』という言葉を使っている以上、以前からある程度予想はしていた……ということである。

 こういう小さな言葉の使い方を見逃さないようにするのは相談の基本のように思える。こういうことから話の本質を見抜けることが多いのだ。


『あたしはもともと結婚なんかしたくなかったのよ。あれこれめんどくさいし……』

杏奈は髪の毛をかき上げながら言った。

表面的には攻撃的だがその内面はきっと泣きたくて仕方ないのかもしれない。


 確かに……言われてみると結婚はめんどくさい。


 しかし結婚する前に、そのめんどくささが分からないかと言えばそうではない。

 ある程度、そのめんどくささは想像できるので、そこは覚悟して結婚するのだが、その『覚悟』は結婚式の不思議な『幸せのベール』に覆い隠されて分からなくなってしまうのだ。


 ところが結婚式が終わるとそんな『幸せのベール』はどこかに行ってしまう。

 ウェディングドレスを脱いだ瞬間から、結婚生活は始まるのだ。

 そうすると……時間の経過と共に、独身時代にはなかった相手への不満とか生活の悩みとかが次から次へと噴き出してきて、杏奈の言うように『やっぱり結婚なんてするんじゃなかった』と感じるようになる。

 少し前に流行った『成田離婚』なんて言葉はまさしくこのことの代表的な事例だろう。

 

『そうなの??』


 既婚者のあたしは、結婚生活のめんどくさいあれこれは百も承知だがそれを『知っている』と言ってしまうと話は終わってしまうのであたしはあえてそう答えた。


『そうよ。ほら……結婚する前にあたし相談があるって言ってたでしょ?』


いつもの杏奈なら……

あたしが『そうなの?』と答えたら、笑顔で『何言ってんのよ、ここちゃんが一番知ってるでしょ』と突っ込んでくるはずだ。


しかし今の彼女はそんな余裕もない。

杏奈は不満を吐き出すときの怒りで冷静ではなくなってしまうことが多い。


 確かに『相談がある』とは言っていた。

 こんなことかな……となんとなく予想はしていたのだけど。


 ただあの後、杏奈はあたしのところに来なかったのでそのままにしておいたのだ。

 この手の相談事というのは当人が自分で『相談したい』と思わない限りそのままにしておいた方がいいのだ。


 結婚式の前は前述したとおり、不思議な『幸せのベール』に包まれる。

 そんなときに結婚後の不安など相談したいと思うだろうか??

 少なくともあたしは相談したいとは思わない。

『相談したい』と思わないのにこちらから話を聞きに行くのは『大きなお世話』である。

 もちろん、話の内容によってはこちらから聞きに行くこともある。

 それでもそのさじ加減はすごく難しい。


『うん。言ってたね』

『あのとき、あたし結婚しようかどうか迷ってたの』

『そうなんだ……』

『結果的にあのときの不安が的中したわけ』

『そのときはどんなふうに不安を感じていたの?』

『どんなふうに?? なんとなくよ……なんとなく。直感みたいなもんかな。でも結果的にあたしの直感は当たったんだけど』

『なんだか大変そうね。ちょっと落ち着いてコーヒーでもどう?』

 あたしは矢継早に不満をぶち曲げようとする杏奈の会話を柔らかくさえぎってコーヒーを入れた。

 いい香りが部屋の中に立ち込める。

 杏奈の不満を吐き出すペースに巻き込まれると話の本質は見えなくなってしまう。

 あえてあたしは少し話をそらす努力をしてみた。

『名刺いる??』

 それは、目先を変えるため……というか……興奮気味な杏奈に少しクールダウンしてほしかったのだ。

 そんなときに毎月のように作っているイラスト入りの自作の名刺は使える。

『え? 名刺??』

『うん。あたしが作った自分の名刺。けっこう好評なんだって』

『へええ……』

 杏奈はまったく興味がなさそうだった。

 旦那の山本さんは、もうもらったにもかかわらず、さらにもう一枚もらっていったことを考えると杏奈とは対照的だ。


 こういう趣味の違いが山本さんと彼女の大きな(へだ)たりになっているのかもしれない。

 でもこういう隔たりというのは当初はイライラするものでも、夫婦の時間を少し続けていると面白く感じられる時がくるのだ。要は自分は相手に対してどれほど譲歩してあげられるか……ということが重要なのである。


『うちの旦那はこういうくだらないもの集めるの好きなのよね』


 あたしが差し出した名刺を見て杏奈は遠い目をして言った。

 もちろん彼女に悪気はない。

 あたしはそれがわかるからいちいち気にしない。

 杏奈は少し、そういう気遣いができないところがある。彼女が『くだらない』と言ったのはあたしに対して言ったわけではない。旦那である山本さんがそういうちょっとしたものを収集することに対して『くだらない』と言ったのだ。

 しかしこれは相手があたしでなかったら誤解を生む発言でもある。

 もしかしたら結婚生活でもこういう一言が夫婦の間で亀裂を生んでいるのかもしれない。


『収集癖のある男の人って多いね。まあ……あまりに度が過ぎると困りものだけど……』

『うちのは度が過ぎるのよ。掃除しても掃除してもきりがない……』

 杏奈は吐き捨てるように言った。


 そんな言い方しなくてもいいのになあ……。


 確かに収集癖のある男性は主婦の大敵だろうとは思う。

 ラジオでも有名なある経済アナリストはなんでもかんでも集めてしまう収集癖のあることで有名だが、ラジオの放送を聴くたびに『この人の奥さんは大変だろうな……』とあたしは思っている。

 大体、収集癖があるということは『物を捨てない』ということだから……イコール『片付かない』ということだ。


 そう考えると杏奈はどちらかと言えばシンプルに生きている。


 服装だって、仕事用のスーツが何着かで、あとはプライベート用はそんなに持ってないといっていたし、メイクに関しても、見苦しくない程度にしっかりはしているもののそんなにお金をかけているという感じではない。

 髪型も手入れが少なく済むようになのか……いつもショートだ。


 一緒に食事に行ったりしたことはあるが、その時もオシャレなレストランに行くよりも安くて美味しく、しかも敷居の低い居酒屋に行くことの方が多かった。

 服装にしても、メイクにしても、食事にしても……。

 それなりに凝ればお金もかかるし、持っているものも多くなる。

 お金がかかることは嫌ではないのだろうけど、物を多く持つことは彼女は好まない感じがする。


 『生き方をシンプルに、楽しみ方もシンプルに……』というのが彼女の生き方のようにあたしには思える。そんな彼女が結婚した旦那の収集癖を許せるわけがない。

 大体、彼女の生き方は収集癖とは対極にあるものである。

『言っても捨てないの??』

『逆ギレされるわよ』

『そうなんだ……』


 逆ギレ……と杏奈は言ったが本当は少し違うと思う。


 この手の問題はどちらか一方が悪いということはまずない。大体、どちらにもそれなりの問題はあるのである。しかし今の杏奈にはそれが見えなくなっているのだ。

『どんなふうに逆ギレしてくるの??』

『俺の唯一の楽しみさえ奪うのか……って言ってくるのよ。大体、唯一って何? ほかに楽しみないわけ??』

 ついに杏奈は烈火のごとく怒りだした。

 嫌なことを思い出したら気持ちに火がついてしまったのだろう。

 『山月記』で言うところの虎になってしまった感じだ。


 人の心に潜む虎のような凶暴なもの……とはよく言ったものだ。


 杏奈は途中で口をはさめないぐらい怒っていたので、あたしはずっと話の合いの手を入れるのが精一杯だった。

『ただでさえあの人は汚いのよ。帰ってきても手は洗わないし、ごはんを食べても食器はちゃんと水につけてくれないし!! 挙句の果てには台所で手鼻をかんでるのよ!!』

 えんえんとすごい勢いで不満を語る杏奈は一見すると怖いのだが……いつものキャリアウーマンの迫力はなく、なんだか流産してヒステリックに泣いて周りを困らせていた時のあたしとだぶって見えた。


 彼女もきっと気持ちのはけ口がないのだろう……。


 帰ってきて手を洗わないことや、食器をちゃんと水につけないこと……台所で手鼻をかむこと……。

 こんなくだらないことが本当は許せないわけじゃない。

 いや、実際は嫌なんだろうけど、許せないというほどのことではないのだ。

 問題の本質はそんなくだらない違いではない。


 そのくだらない違いに『くだらない』と気づくことができないことが実は大きな問題なのだ。


 いや……もしかしたら『くだらない』ということには気づいているのかもしれない。

 ただ『くだらない』ことと分かっているのにイライラしてしまう自分が嫌になってしまう。


 大体……。

 結婚生活というものは、住む世界も育った環境も違う二人が突然共同生活をするのだからそのぐらいの違いは仕方ないのだ。それをどこまで許せるか……というところに結婚生活はかかっている。

 それでも……

 分かっていてもイライラしてしまうのが新婚の頃なのだ。


『台所で手鼻かんだりすることとかを指摘しても逆ギレするの??』

『するする!! 「分かってるよ!」って怒鳴ってきたり……もう最低よね!!』

『じゃあさ……。そういうこと言うのを3回に1回ぐらいにしてみたら?』

『え?! だってそんなことしたらますます治らないじゃない!』

『でも言ったからって治す気ないんでしょ? ご主人』

『ん……まあ……そりゃそうだけど……』

『だったら毎回毎回イライラするだけ損だよ』


 過ぎ去ってしまえばくだらないことでも、実はその当時は大問題だったりすることが多い。

 『なんであんなことで悩んでたのかな?』と後になって思うことはよくあることだ。


 杏奈のことは他人事(ひとごと)ではない。

 あたしだってそうだ。

 考えても仕方ないことでくよくよ悩んでいる。

 もしかしたら人生とはそんなことの連続なのかもしれない。

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