予定日
相談室が開設して約半年が経った。
あたしが相談室に異動になったのが3月の終わりごろで、実際に辞令があったのが4月。
ふと外を見れば、空が高い。
出勤の時には、夏の名残を感じることもあるが、時折吹き抜ける風が冷たい。
テレビを賑わわせた夏の全国高校野球も終わり、日に日に夏の終わりが近づいてきている。
時が経つのは早いものだ。
気が付けば……あの夢を見ることも少なくなってきている。
あたしの寝不足も回復しつつあるのだが、それでもやっぱり……何かのきっかけであの日のことを思い出しては少し涙ぐむこともある。
流産した時は『すぐに赤ちゃんができるよ』と声をかけてくれた人もいたが、そんな気配は一向にない。
9月1日はもし流産しなければ予定日になっていた日だ。
あたしは過ぎ去ったカレンダーの9月1日という日付を見てはため息をついていた。
もう、思い切って子供のことはあきらめてしまえば、気持ちも切り替えられるのだろうけど……しつこくそんな気持ちを持ち続けているからため息などついてしまうのだろう。
仕事をしているときや、他のことをしているときは忘れられるのだが、妊婦を見たり子供を見かけたりするたびに、気持ちがチクリと痛くなるときがある。
夕方の帰りの電車の中でお腹の大きな妊婦が『マタニティーマーク』を堂々と見せて、座席に座っている疲れ切ったサラリーマンの男性に『ちょっと!あたし妊婦なんですよ!! ゆずってください!』と言っているのを見かけた時はさすがにげんなりした。
そのサラリーマン風の男性はいい人で、『これは気が利かなくてすみません』と謝って、すぐに席を譲っていたが、その後もつり革につかまりながらうとうとしていた。
きっと本当に疲れ切っていたのだろう。
お腹の赤ちゃんのためには無理できないというのはよく分かる。
でも席を譲ってもらうというのはあくまで周りの良心の問題である。
マタニティーマークに気づかないときだってあるだろうし、疲れ切っているときだってあるだろう。
本当にきついときは、譲ってもらって当たり前という顔をするのではなく、丁寧に事情を説明して『お願い』するのもやはり『マナー』なのだ。
こんな話がある。
ある高齢の男性が優先席に座っている若い女性を怒鳴った。
優先席は高齢者に譲るべきだと言うのだ。
確かにその通りということもあるが、その女性は怖さもあり平謝りして席を立った。
その場を去る女性はびっこを引いていた。
なぜ、彼女がびっこを引いていたかは分からない。しかし彼女は何らかの事情で足が不自由だったのだ。もしかしたら義足だったのかもしれない。
そこに座っている、一見元気そうな人たちにもそれぞれの『事情』がある。
だから、『マタニティーマーク』みたいなものは、周りの良心に訴えかけるものであり、自分で主張するものではないし他人に強要するものでもない……とあたしは思うのだが、そんなことを思ってしまうのは、もしかしたら自分に子供が生まれてこなかったから、他人の不幸を願っているように見えて嫌で仕方なく……その日はぐったりと疲れてしまったのだ。
自分のことを考えすぎないようにすれば、以前のように眠れないということもなくなったので、あたしは元気を取り戻しつつある。
相談室にはいくつかの相談がくることはあるけど、そんなに忙しいというほどではなかった。
ランチの時間には製造課の志保ちゃんがお弁当をもってやってきていろんな話をして帰っていく。その大半が恋の話である。彼女は恋に恋しているのだろう。特定の彼氏はまだいないらしい。
そういえば、この相談室が開設してすぐにやってきた営業の石岡くんもちょくちょくやってくるようになった。飲み会には参加して先輩とは打ち解けてはいるらしいのだが、そもそも、マイペースで少しぼんやりしたところのある彼の性格では基本的に営業マンのノリには向いていないのかもしれない。
彼は仕事の合間にやってきては仕事の不満を言って帰っていく。
彼は彼なりにそうやってここで不満を吐き出すことによってストレスを解消しているのだろう。
石岡くんとは恋の話にはならない。彼はプライベートの話はしないから私生活はよく分からない。とにかく最初に聴いた『家でのんびり』以外には何も知らないのだ。
一度、休み時間に本を読んでいるのをみたことがある。もしかしたら読書が趣味なのかもしれない。
今度、聴いてみようとも思うのだが、彼はここにきて自分の不満だけ話していくからそういう類の話ができないでいる。
そういえば……杏奈からの相談はまだ受けていない。
そんなこんなのうちに彼女は結婚してしまったから、あたしはあの相談はたいしたことなかったんだ、と自分の中で結論を出していた。
あれからあたしは相談室を月に一回、解放して、こちらから『話に行く日』を定めて、社員にまんべんなくこの相談室を使ってもらえるようにすることにした。
『話に行く日』とは、あたしが社員を相談室に呼び出すのである。
もちろん無作為に呼び出すわけだから、呼び出された相手は悩み事なんか抱えているわけがない。
忙しい仕事の合間を縫ってきてもらうのは申し訳ないのだが、そこは室長としての権限を使わせてもらうことにして、各課の管理者にお願いしてきてもらうことにしたのだ。
もちろんいきなり来てもらうのではなく1か月前に通知しておいて時間を空けておいてもらうわけだが……。
この仕事は案外楽しかった。
普段あまり知らない人と話すのがこんなに楽しいことだとは知らなかった。
何と言っても話をしていると気がまぎれるのである。
自分のことを考えるより、他人の話を聞いている方が……今は気が楽だから。
あたしはこの会社では総務でしか働いたことはないが、他の部署にはいろんな仕事とそれに伴う苦労があり、同時に人間関係も複雑である。普段知らない世界の価値観に触れることができるのはけっこう楽しい。
通知して、きてもらった人もそういうことを楽しんで帰っていく。
相談室とは雑談をしてもいいところなんだ……普段言えないことをここで話して気持ちの整理を付けることなんだと認識してもらえれば言うことはない。
こういう地道な努力のおかげで相談室にもぽつぽつと人が来るようになってきている。
おかげであたしはここのところ社内で『相談室の心音さん』と呼ばれているらしい。
総務にいた頃には全く名もないちょっと薹が立った女子社員だったのに。
人生何が起こるか分からないものだ。
相談室の仕事は朝、出勤して相談室に入るとまずパソコンの電源を入れ、それからベートーベンの『運命』をかけることから始める。
クラシックは癒される音楽だからいいんじゃないか……というのは自分への言い訳で本音はこの曲が好きになっているからかけているのである。
全部聴きとおしてみるとこの曲、第一楽章もいいのだが、第二楽章の何とも言えない荘厳さもまたいい。
ただこの曲に『荘厳』という賛辞がふさわしいかどうかは素人のあたしには分からないが……。
『運命』を聴きながらコーヒーを飲んで、今までここに来た相談者の名前と相談内容を記録していく。
相談内容と言っても悩みではなく雑談が多いが……。
大体、一回相談室に相談に来ると、同じ人がもう一度来る場合の方が多いので、あたしは朝いちばんで一度来た人の記録を読んでおくことにしている。
そういえば昼寝をすることは少なくなった。
あの嫌な夢を見ることが少なくなったので、夜もそれなりに眠れているからだ。
ただ……赤ちゃんを抱いた母親や妊婦を見ると目を背けてしまう。
どうしてあたしだけ……と思ってしまうからだ。
そんなふうにいつまでも考えても仕方ないと分かっていることを、いまだにうじうじと考え続けている自分が嫌で仕方ない。
もしかしたらあたしには母親になる資格なんて最初からなかったのかもしれない。
これで良かったのかもしれないな……と自虐的に自分の中で思うことも少なくない。




