結婚
こんこん……
運命が扉をたたく音がする……
あたしが『どうぞ』と言うと、上下紺のパンツスーツを身に纏った見るからにキャリアウーマンを絵にかいたような女性が書類を持って部屋に入ってきた。
総務で社内報を担当している坂口杏奈だ。
あたしは彼女と年が近いので、総務にいた頃はよくおしゃべりした仲だった。
『お疲れ様』
『お疲れ。時間とってもらってありがとね』
『大丈夫よ。相談室もまだまだ認知度が低いからそんなに忙しくないから……』
杏奈はあたしが椅子を薦める前に座った。
いつも自信満々な感じの杏奈はあたしとは対照的な女性だ。
あたしが結婚してほわんと仕事しているのに対して、彼女は独身でバリバリ仕事をこなしている。
そういえば体型もそう。
彼女がメリハリのある非常に魅力的な体型をしているのに対し、あたしはなんとなくぼんやりとした体型である。
目はパッチリしており、目元できりりと少しつっている……いわゆるネコ目で、あまり化粧をしなくてもキレイな顔立ちである。まったくもってうらやましい限りだが、外見から醸し出す雰囲気と同じく、彼女は押しが強く、人の話を聞かずに一方的に話を進めてしまうことが多い。
総務に来る前は営業にいたらしい。
営業では、相手の話をのんびり聞いていては商品の紹介や売り込みはできないのかもしれない。
そういえば石岡くんのことは知っているかしら?
杏奈は総務ではちょっと浮いている存在だ。
総務の社員……とくに女子社員は彼女のようにバリバリ仕事をこなすタイプはいない。そんな総務の女子たちとは対照的に杏奈は与えられた仕事がどんなものであっても残業してでもこなすようなタイプだ。
それに杏奈のように早口でどんどん自分のペースで話をする女性は同性からは嫌われる傾向にあり、彼女自身もそれを自覚しているような感じではある。
営業にいた頃に彼女は今の上司……つまり杉浦さんと一緒に仕事をしていたので、引っ張られるような形で総務に来たわけだ。
彼女は杉浦さんのような上司でないと合わなかったのだろうとも思う。
相手が男性だろうが誰だろうが、言うことははっきり言うような性格である杏奈は営業にいた時も同僚と何度かぶつかっていた……と自慢気にあたしに話していた記憶がある。
確かに仕事において意見をはっきり言うことは重要なことだが、言い方ややり方がある。とくに女性が男性……そして年齢が上の男性にものをいう時は言い方を考えないと『女のくせに』と鼻であしらわれることも多いのだ。
そんな反応にいちいちまともにぶつかっていけば状況はさらに悪くなることは目に見えて分かる話ではある……とあたしは思うのだが、彼女はそれに気づいていない。
そっちがそういう見方をするならば、こっちは徹底的に戦うわよ! という考え方で、その考え方に疑問を覚えることはないらしい。
『ここちゃんだけだったよね。あたしと話してたのは……』
懸命に仕事をしている彼女は前述したとおり、総務では浮いた存在で、仲の良い友人もいないようだった。あたしは席が隣ということもあって、一緒に食事をしたり、時折、休日には食事に行ったりして仲良くしていたのだ。
違うタイプのあたしたちがどうして仲良くなったか……と言われると何とも説明のしようがない。
そのあたりが人間関係の面白さなのかもしれない。強いて理由をあげるなら……『うまがあった』ということだろうか。
仕事をきびきびこなす彼女は一見すると近づくと斬れそうなナイフのような冷たさがあるように見えるが話してみるとそうでもない。男勝りでサバサバしている反面、すごくナイーブな女性らしい一面もあるのだ。
ただそういった彼女の清楚な女性らしい一面は、特定の人間にしか見せない。
鼻っ柱が強いその性格は、彼女が学生時代、テニスをやっていたという事実にも関係があるのかもしれない。スポーツをやっているとどうしても負けず嫌いになりがちだからだ。
あたしと話があうのは、あたしも彼女と同じようにスポーツに夢中になった青春時代を送っていたので、物の考え方はアプローチの仕方は違えど、実は性格は似通っている……と自分では思っている。
それを全面にだすか出さないか……という違いはあるが……。
『そうだったかしら?』
あたしはとぼけてそう答えた。
彼女が自分でも自覚している通り、確かに杏奈と話しをする社員は少なかった。業務上、仕方なしに話すことはあっても彼女とランチに行ったり、プライベートなことで盛り上がってる人はあまりいない……というよりあたしか杉浦さんぐらいしかいなかったかもしれない。
総務という職場は営業と違い少しのんびりとした風潮がある。
仕事に対して妥協を許さないタイプの杏奈は総務のそんな風潮とは合わなかったようにも思える。上司が杉浦さんでなければきっと彼女は総務ではうまく行かなかっただろう。
『そうだよ。あの頃から聞き上手だったじゃない。ここの勤務、あたしが推薦したのよ』
なるほど……。
推薦した……というのは本当の話だろう。
もちろん一方的に推薦したというよりは、杉浦さんからこの話をきいて一緒に人選したのだろう。
誰もが話したがらない杏奈と仲よく話しつつも他の社員ともそこそこにやっているあたしを見て杉浦さんはこの相談室に抜擢したのかもしれない。
でも……あたしは、さほど人間関係を構築するのがうまい方ではない。
思い通りに行かないとすぐにへこむし、気持ちも折れやすいのだ。
その証拠に今だって……考えても仕方ないことをウジウジと考え続けて一人で落ち込んでいる。
ただ、自分の希望や気持ちを伝える最適な言葉や、タイミングは知っているつもりだ。これを間違えると、他人からは『わがまま』だ、とか『自己中心的』だ……ととられてしまうから。
言葉の選択とかけるタイミングの重要さはソフトボールのキャッチャーをやりながら野球部のマネージャーをやっているときに気づいた。
気づいたのがその時で、社会に出てからも失敗しながらも努力し続けたので今はそんなに間違えることも少なくなったのだ。
ただ……それだけなのだが……それでも、そういう努力を杉浦さんや杏奈には評価してもらえていたんだと思うとなんだかうれしい。
『そんなに聞き上手だったかなあ……』
あたしは自分が聞き上手だという認識はない。なるべく自分の話だけにならないように相手の話を聞くようにはしているのだが、それでもついつい自分の話だけをしてしまうことも多々ある。
『あたしの相談にはよく乗ってくれたじゃない』
杏奈は懐かしそうに言った。
確かに相談にはよく乗った。それが解決に導くような会話だったかといえばそうでもなかったような気がしないでもないが……。
杏奈の相談は基本的に恋愛の相談が多かった。
彼女は美人すぎるのと、持ち前のあの切れ味が災いして男が寄り付かないのだ。
『でもね……結婚したって大変だよ。案外独身の方が楽しいかもよ』
それは既婚者のエゴだ……と言われるのを覚悟して、率直に杏奈にそう言ったのを覚えている。
『そうかなあ……』
『そうよ。仮にあんちゃんが結婚したとして、相手の男性が仕事に出ることを許してくれるとは限らないでしょ』
杏奈は仕事が好きだから結婚しても仕事は続けたいと言っていた。
結婚しても生活が苦しいから仕方なく仕事をしているあたしとは違うのだ。彼女にとっての仕事は生きがいに近い。
それに、結婚しても仕事をしてくれるのは本当にありがたい……といってくれるうちの吉希のような男性は少数派だ。
大抵の男は女に家にいてくれることを望む。
『それにこうやって食事行くことだって気を使うし、毎日一緒にいると価値観の違いで喧嘩になったりなんかしょっちゅうだよ』
未婚の人にはあまりピンと来ないことなのだが、結婚すると相手のちょっとした行動が許せないことがある。
あたしは吉希がところ構わずおならをするのが未だに許せなかったりする。
笑い話のようだが、こんなくだらないことでもそういう細かいことがすりあわないと『一生この人と生活しなくちゃならないのか……』と重く感じてしまうのだ。
これは結婚して何年経ってもあることだと聞いたことがあり、あたし自身、未だに感じている実体験でもある。
そんな誰にでもできる話をあたしは杏奈にした。
あの程度の話はアドバイスでもなんでもなく、単なる経験談でしかないのだが、杏奈はなぜかすごく納得してくれていたようだ。
あの日以来、杏奈は前にも増して仕事をこなすようになった。
彼女の言う『相談に乗った』ということが、そのことかどうかは分からない。
だけども一事が万事そんな感じで、あたしは杏奈が総務に異動してきてからずっと仲良くしてきた。
『そうそう。社内報の記事なんだけど、この相談室がやっていることだけでなくメンタルヘルスの内容とかこれから相談室として取り組んでいきたいと思っていることなんかも記事にしてくれるとありがたいな』
『あんちゃんならそういうと思ったよ』
あたしはそう言って、そのような内容の記事をあらかたまとめておいたものを手渡した。
これで相談室に訪れる人は多くなるのだろうか。
てゆうか……本来なら悩みなど抱えず、気持ちよく仕事ができるに越したことはないので、あたしの仕事は暇な方がいいのではないか……とも一瞬思ったりなんかもしたが、久しぶりに杏奈と話していくうちにそんな思いはどこかかなたに消えていった。
『そうだ』仕事の話を終えて、杏奈は思い出したかのように言った。
『あたし……結婚することになったの』
『結婚……って!! ええ!! 結婚?!』
唐突な告白は実に彼女らしい。
それにしても、あたしは心底驚いた。
杏奈はもう結婚なんかしないのだと、どこかで決めつけていたところがあったからだ。
考えてみれば、非常に失礼な話である。
『うわ――。嬉しいなあ。おめでとう!!』
杏奈のおめでたい報告にあたしは気持ちが少し癒されていくのを感じた。
幸福というものは他人の幸せを心から共に喜んであげられる時に強く感じるものなのかもしれない。
今は……。
あくまで今だけだが……。
大変申し訳ないが出産や子育ての話は聞きたくもない。
だけど結婚の話はおめでたいしいい話だと感じる。
もちろん出産だっておめでたい話である。
そういう話を聞いたら嫌でも『おめでとう』と言うしかない。しかし今のあたしには心から『おめでとう』とは言えないのだ。どこかにどろどろとしたどす黒い妬ましい気持ちが湧き上がってしまう。
人間の感情とは勝手なもので、あたしは今、流産したばかりだからこのように感じるのだが、そうではなく結婚したくてもできない独身だったら……
この結婚の話には……素直に心から喜べなかったかもしれない。
それはやっぱり不幸なことだ。
一時的ではあっても、出産や子育てを共に喜んであげることのできないあたしはやはり不幸で悲しい人間なのかもしれない……。
『で……お相手はどんな人?』
『営業の山本さんよ』
『へええ。よかったねえ』
営業の山本さんは何度か総務にいた頃、仕事でかかわったことがある。
一度、若い子の失敗を彼がフォローしているところに遭遇したことがあるが、そのフォローの仕方にあたしは彼の懐の大きさを感じた。
身体の大きな山本さんは聞くところによれば高校時代は野球をやっておりポジションはあたしと同じキャッチャーだったらしい。
あたしも学生時代ソフトボールをやりながら野球部のマネージャーもやっていたので彼とは一度そんな話で盛り上がったのを覚えている。
『実はその……結婚の話なんだけど……実は相談に乗ってほしいことがあって……』
杏奈らしくない切れ味の悪い言い方だった。
『うん。どうしたの?』
『いや……まあ……今じゃなくてもいいから。また今度ね』
あたしはこの時、杏奈のこの態度に少し違和感を感じていたものの、この相談については取りたてて重くは考えていなかった。




