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月光

『心音さん、また明日……』


 松沢さんは人懐こい笑顔であたしに言って、昼休みが終わる時間に相談室の扉から、自分の仕事場に帰って行った。

 前にも言ったが、あたしは人から下の名前で呼ばれることが多い。

 そう呼んでいる人に言わせると苗字の『那珂(なか)』よりも名前の『心音』の方が呼びやすいそうだ。

 そんなに変わらないような感じがしないでもないのだが……。


 でも『那珂さん』と呼ばれるより親近感があるので嫌な感じはしない。

 少し仲よくなったら下の名前で呼び合うのもいいのかもしれない。あたしも今度から『松沢さん』と呼ばずに『志保ちゃん』と呼ぶことにしよう。


 さて……仕事。

 時計の針は13時を指している。

 午後からの仕事は広報の担当者との打ち合わせだ。

 杉浦さんが担当者に話を通しておいてくれたから総務から担当者がやってくるはずだ。

 ちなみに社内報も書くことがないらしい。担当者からは『毎月枠をあけておくので何か書いてほしい』と言われたらしい。


 毎月って……

 そんなに書くことあるかなあ……


 あたしは苦笑しながら、パソコンのCDを起動させてベートーベンの『月光』をかけた。

 何か物を考えるときはこの曲が一番いいような気がする。


 月の光には何か不思議な力があるのかもしれない。


 魔女は月の光でいつもよりも大きな力を得ると聞いたことがあるし……

『月に向かって打て!』なんて言葉もあるし……


 もちろん、あたしは魔女ではないが、月の光に照らされて物事を考えると、自分が思慮深く思えるような気がする。

 ただ実際仕事をしている時間帯には月が出ているわけではないから月光を聴いてその気になっているだけなのだが……。


 あたしはここにきて、ちゃんと仕事ができているのだろうか……。

 パソコンの前の椅子に深く腰掛けてあたしは目をつぶりながら考えた……。

 意識が遠くなっていくのが分かる……


 ……病院の玄関。

 あたしは吉希(よしき)と一緒に出て行こうとしている。

 何が起こったのか分からない顔をしている二人。

 そう。

 冷静にあたしはあたしを見ている。


 ああ……。

 いつもの夢だ……。

 嫌な夢だ。


 あたしたちの前に病院を出たご夫婦と駐車場のところですれ違う。

 幸せそうな笑顔で二人は何か話していた。


 どうしてあたしたちだけ……。

 

 ビクリと身体が痙攣(けいれん)して、いつものように目が覚める。

 昼寝というのは眠りが浅いので、どうしても夢を見てしまいがちなのだろう。

 目をつぶったら絶対に寝てしまうことは分かっているのについつい目をつぶってしまう。そして気が付けば今日のようにうとうとしまうのだが、悪い夢を見るので気持ちが休まらない。

 最近では少し頭痛までするようになってきた。


 折からの寝不足が祟ってランチのあとはどうしても眠くなってしまうのだが、後味の悪い夢を何度も何度も見てしまうのは重症なのかもしれない。

 おかげで夜は眠れない。

 あの夢を見てしまうかと思うと怖くなって眠れないのだ。


『はあ……』

 あたしはパソコンの画面を見ながら大きなため息をついた。


 こうやって相談室に一人でいるとすぐに嫌なことを考えてしまう。

 辛い出来事を思い出すのも嫌なのだが、いつまでもこんなことを考え続けている自分も嫌だ。

 過ぎたことは仕方ない。

 誰が悪いということではないのだ。

 だからいつまでも落ち込んでいる必要なんかない。


 だけど……


 よりによってあたしだけ……という気持ちはぬぐえない。

 どうにもこうにもスッキリしないこのもやもやした灰色の気持ちが胸のところにたまっていてそれが吐き出されないでいるうちは……


 あたしはダメなのかもしれない。

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