流星はゆく
まるで絵本の中から抜け出てきたような、現実とは一切剥離した、そんな光景だった。行き交う人々は騒然とし、テレビも緊急報道特番で事態の異常さと深刻さを声高に叫んでいる。かくいうトミ子もまた、信じられないといった様相で、それを見つめる一人であった。
しかし、実のところ彼女のそれは他の者たちのそれとは違うものであった。皆はただ恐れ、驚いているだけである。トミ子の思いは、もう終わったことのはずだ、そういった類のものである。
完成したばかりのスカイツリーの頂上に、異形の怪物が現れた。その怪物が一瞥をくれただけで、まるで爆撃があったかのごとく焼け野原が出現した。警察も、自衛隊も役に立たないであろう。いや、立たないのだ。それを、トミ子は知っていた。
公園で仕事をさぼっていたサラリーマンは、すでに珈琲が冷め切っていることにも気付かず、タブレット端末でことの次第を確認して呟いた。
「……出撃した米軍の戦闘機が撃墜された……?」
で、あろう。そんなものではどうしようもないのだ。
「……どうなっちまうんだ、一体? ああ、でもこれで会社休みになるかな? バグ潰し、しなくて済むかな? はは……」
その声は、多分に絶望をはらんでいた。どうにもならないであろう。世界は滅ぼされてしまう。このままでは。
彼女は、あの怪物を知っていた。魔王クーバザク。彼女が、かつて倒し、封印した。
トミ子はかつて、元魔法少女であった。
世界を滅ぼそうとしたクーバザクは千の軍団と百万の魔族の軍勢を率い、トミ子たち魔法少女と戦ったのだ。幾人もの魔法少女がその人知れぬ死闘の中で命を落とした。幾人もの友の死を乗り越え――それを力にすら変え、トミ子は魔法の野望を阻止したのである。もう、三十年以上も昔のことだ。
魔族にはミサイルや爆弾といった兵器は通用しない。魔族に対抗しうるのは魔法少女だけである。しかし、魔王を封じて世界に平和が訪れると、彼女たちは一人、また一人と魔法少女の世界から去って行った。自身もまた、その一人である。
そう、もう、自分は違うのだ。関係のない人間だ。あれから三十年以上がたった。やがて自分も結婚し、子供を授かり、人並みの幸せを謳歌してきた。もはや、自分はただの更年期障害の中年女性である。
「そうですとも、私はもう、関係ないんですから」
足早に、その場から逃げるように家へと向かう。自分の幸福はそこにあるのだ。きっと、次世代の魔法少女も育っていて、彼女がどうにかしてくれる。そう、自分に言い聞かす。
落ち着きなくテレビをつけ、その後の続報を確認した。クーバザクは変わらずスカイツリーを自分の玉座とでもいうかのように、そこにいた。
「今新たな情報が入りました! スカイツリーの怪物に近付く飛行物体が確認されたそうです! 軍の新たな部隊でしょうか!? ……いや、あれは、少女?」
やはり大丈夫だったじゃないかと安心し、カーテンを開けて外を見やる。ここからでは見えるはずもないのだが。
しかし、期待はかくも呆気なく霧散することとなった。トミ子の知らない、まだ年若い魔法少女たちは練度も低く、また経験も全く足りていなかった。その割に善戦はしたものの、彼女たちは世界を救うことに失敗した。
嘆息。そしてもう一度嘆息。いつの間にか、日は落ちかけてきていた。
左手を見つめる。結婚指輪が薬指に光った。確かに、これが今の自分の幸福の象徴である。しかし、魔王を放っておけば、この幸福も失われるのではないか?
ふと、忘れ物を思い出したかのように。頭に電撃が走る。今更に気付く。気付いた後は、電光よりも迅速であった。
トミ子は魔法少女に変身し、夜空に飛び出していた。先ほどの新兵とは違う、三十五年前の叩き上げの、精強なる元魔法少女の――異な、魔法少女の力の輝きは、満天の星空のどの一等星よりも眩しかった。
ブランクなど心配は要らない。あの時と違い、今の自分には明確に守るものがある。反抗期真っ只中の、息子と娘と、あとついでに夫のために戦うのだ。
トミ子は夜空をかける流星となって、魔王の元へ向かったのだった。世界を、家族を救うために。
ただひとつ、知命近くにもなってこの魔法少女の格好は流石に酷いと、我ながら思った。
― 了 ―