Qaqqu河童です。
Qaqqu。久しぶりという意味だ。
木々の中、川のせせらぎが響く。青年は、岩をとびとびに進み、一際巨大な岩の裏を目指す。巨大な岩は、青年の二倍くらいの身長と、樹齢千年の楠よりもさらに太い横幅を持っていた。そして、緑の苔がびっしり生えていた。
昼下がりの太陽が、青年の健康的な体を照らしていた。だが、白装束のような病院用の袴を着ている。青年は病院を抜け出してきた。精神科の大病院からだ。
苔に触らぬように、岩の影をまわる。そこには人影があった。いや、形が違う。
「Qaqqu」
その影から発せられた言葉だった。それを聞くと青年の顔が自然と綻んでいた。青年も同じように言葉を返す。
薄い緑の皮膚を持ち、その癖、この時期には暑苦しいスーツを羽織っていた。眼鏡をかけた河童だ。黄色いくちばしがわずかに歪む。不気味に笑っている。(そう見えるだけかもしれない)
青年と河童は、一カ月周期に会っていた。十五夜の月が出る日にだ。青年は、トントンと岩を飛び越え眼鏡河童の前にある、岩に飛び移る。滑りそうになりながらも着地する。眼鏡河童は水を滴らせていた。スーツも水を吸っている。眼鏡河童は苔の生える岩によじ登る。川に面する側の斜面は比較的なだらかだ。青年も少しためらったが眼鏡河童に続く。青年と眼鏡河童は、同じ高さに座ると、他愛もない会話を始めた。毎月、ここで河童に会っていたのだ。そのことを親に話し続けると、精神科送りにされたのだ。昔読んだ河童という芥川龍之介の作品を思い出す。
いつものように、他愛もない話を始めた。もちろん、河童語だ。(そもそもkappaとは、人間が勝手に発音したもので、河童界では河童自身のことはkaqquという。発音はもう少し違うが、英語で表すとこれが限界のようだ)
眼鏡河童は、いつものように話すことがあった。自分は月の研究に携わっていると。そして、
河童が月を目指していると。研究ノートも青年は見た。水中に住む河童が月を目指す。妙だものだ。人間の世界も、月を目指している。眼鏡河童の話しを聞く限り、月への進出は河童の世界の方がわずかに早そうだった。だが、河童たちは勝手に月に着地する気はないらしい。河童の道徳で、月になんらかの生き物が居るとしたら、それはその土地に無断で侵入しているのと変わらないから気が引けるらしい。ちなみに、支配するのはもってのほからしい。故に、河童は川辺から出ようとしないし、人間に技術で勝っていても支配をしようとしない。たいしたものだ。
青年も、そんな河童に影響されてか、うっすらとだが、月を目指していた。とは言っても、まだ学生の身であった。
どうやら、河童の世界でロケットに乗るのは、超河童(身体的に優れる河童)と呼ばれる河童と決まっていたらしい。人間の世界と同じ原理のようだ。
青年も、人間の世界のことを色々と話した。河童にとっては興味のある世界なので、黄色く鈍い光を放つ目を輝かせて聞いていた。病院から学校に通っていること、寄り道をしたこと、眼鏡河童の話すことに比べれば、日常的でつまらない話だが、眼鏡河童は聞いた。青年にとって、今や河童は家族よりも大切な人(河童)になりつつあった。そもそも精神科の病院では、青年は既に親からも人扱いされていない。
いつものように話しこんでいると、眼鏡河童の服は乾き、いつの間にか日が沈んでいた。今まで、天照に隠されたいた十五夜の満月が、川の流れを光らせていた。満月が、南中する前には帰らねばならない。病院の身周りが青年の部屋にまわってくる。青年はいやいや苔のついた腰を上げた。
「Qukku Qukku」
ばいばい、という意味だ。河童も少しなごり惜しそうだったが、返した。青年は消毒液の臭いを思い出す。顔をしかめながら、苔の蒸せる岩を滑り降りた。川の背後で、森が不気味にざわめいていた。
それから一カ月。再び巡ってきた十五夜。青年は嬉嬉と緑岩に向かっていた。そしていつも通り岩影をまわる。川のせせらぎは相変わらず穏やかだった。青年はマイナスイオンを胸一杯に吸い込む。いつもの昼下がりだった。前と同じ、白の袴を着ていた。今日は青年の方が早かったようだ。青年は、緑岩をよじ登り相変わらずの白装束のような袴を折って座り、空を眺めていた。曇りで、日差しが少ない快適な環境だった。瞼を閉じ、待つ。どんなことを話そうか考えていた。
一際強い、水をはじく音が聞こえた。にやけそうになるまだ髭の生えて無い口元を押さえ、青年は瞼を開く。
そこにいたのは茶色い皮膚を持った河童だった。紺の袴を着ている。眼鏡河童ではなかった。水の滴る河童は申し訳なさそうに、近寄ってきた。その河童は申し訳なさそうに青年に河童語で告げた。
眼鏡河童が死んでしまった、と。
青年はただただ絶句した。河童は袴の中から一冊の本を取りだした。それを押しつけるように青年に渡すと、耐えきれなかったのだろう。水しぶきを散らし川に飛び込んでいった。本は水をはじいていた。河童の技術は想像以上に高いらしい。そんなことはどうでもよかった。
早送りのように満月が昇ってきた。いつの間にか水面に合わせ鏡のように満月は写っていた。すでに、満月は南中していた。青年はいつしか目を閉じ、眠りについていた。
夢は見なかった。
あの後、病院の看護婦が気付いたのだろう。青年は薬品臭に包まれていた。白いベット、白い壁、白い袴。白が支配する病院だ。戦争中だが、精神病院は極めて快適で、それゆえか患者は多かった。光が反射する。 ぼぅ、と昨日のことをゆっくりと思いだす。
ノート。弾かれたように起き上がる。ベットの辺りを見回しても白が広がるばかりであった。青年はすぐさま窓から病院を飛び出した。病室は一階にあった。素足のまま、川を目指す。幸い、地面は土であった。
段々と川の鳴き声が近ずいてくるのがわかった。似てもいないホトトギスの鳴き声が河童の鳴き声にも聞こえた。青年は、眼鏡河童の死因を知ることができなかった。木の根に引っかからぬように足をいたわりつつも、ようやく川辺にたどり着いた。青年は岩と岩をまたぐ。四つ目の岩で、こけてしたたか頭を打ちつけてしまった。呻きながらも何とか青年は起き上がる。危なげに体が揺れる。それでも、緑岩の影を通り、苔をむしる様に、緑岩を登る。
無い。
青年は髪を掻き毟る。何本か髪が風に流されながら、落ちていった。阿呆、青年はそう叫びたくなった。吐き気すら覚えた。青年は岩を滑り降りようとした。すると、本当に滑ってしまい、背中が岩に叩きつけられてしまった。悶える。
岩を這う虫のようにノートを探した。
だが、青年は、結局ノートを見つけることは出来なかった。
今までぼんやりと月に行きたいと思っていただけだったが、あの日を境に考えが変わった。ひたすら月を目指した。十五夜の夜ごとに眼鏡河童を思いだし、ひたすら勉強、運動ともに打ち込んだ。一日の睡眠時間は三時間。食事、排泄の時間すら、勉強にあてた。必ず一番初めに出るロケットに乗る。それが、青年の原動力だった。情報では、後十五年もすれば、月行きのロケットが完成するらしい。ひたすら岩に噛り付いた。いつの間にか、精神科からは出され、一つの家をもらい、有名大学に通っていた。更に十年間で。青年は、いつしか一人の男となり、ロケットの打ち上げを行う組織に辿りついた。眼鏡河童の死を原動力とした男は、すこぶる優秀だった。ついに初めての打ち上げに乗車する権利を手に入れた。
男は、ロケットに乗り込み、人類初となる月への進出を果たした。
ロケットの中から見る月が、えくぼにも似た月のクレーターが、段々と近ずいてくる。夢にまで見た月が、すでに手の届く場所にあった。長く夢に見てきた、人類初の月への進出。
ロケットは着陸態勢に入った。震度六の地震よりも強い揺れが、男の体を襲った。脳みそが掻きまわされた。しばらく揺れが続いたが、一際大きな振動ののちに、ぴたりと揺れがやんだ。
扉が開く。
宇宙服の中から見るクレーターだらけの月。男の他に、乗務員は五人いた。
「Qaqqu」
デジャブに襲われた男はそう呟くと、一番初めの第一歩を踏み出す。砂埃がわずかに舞う。地球より明らかに遅い速度で地面に落ちてゆく。人類初そして河童初の一歩を。河童たちは、すでに月に到達しているだろう。だが、着陸はしていないはずだ。
光る星星、そして、地球。地球は、緑、白、青からなる、丸い地図のようだった。それ以外の色は、無い。他の乗務員も男の後に続いてきた。酸素が注入される音以外、何も聞こえない無の世界。何もいないのだろうか。広がるのは、砂漠のような黄色い大地。
男の手には、月と地球の刺繍が入った旗が握られていた。この旗は普通の布でできてはいない。ちょっとやそっとのことでは破れないような、素材を使い、特殊な加工を行っている。
この旗を月に打て。司令部の命令だった。男は、旗を掲げた。その時、ふと地球の青が目に入る。青。水の青。河童。眼鏡河童。
眼鏡河童は、言っていた。河童達は、月に来ることができても、着陸はしないと。男は、そんな河童たち、そして、眼鏡河童の代わりにここに来たつもりだった。
だが、今自分がしようとしていることは。この軽い旗が……支配の証。
頭の中で嵐のように思考が巡る。
河童たちは、支配することを断固として拒絶していた。
しかし、司令部の命令は絶対。
男は、ふと気付いた。いつしか、男自身、人間になっていると。眼鏡河童といた頃。病院に縛られ、親からも人間として見られなかった。今はどうだ。家族は掌を返し、優しく接してくれている。男も、いつしか親孝行をしていた。
今、男は、着陸どころか、月を支配しようとしている。月には月の生命がある。例え、それが、目に見えなくても。もしかしたら、男の足元にすら、居るかもしれないのだ。
宇宙服の中、男の筋肉質な、髭の生えた顔が醜く歪んだ。青い地球にいる眼鏡河童が、今の男を見たら笑うのだろうか、蔑むのだろうか。
そう、自分は、人間になった。人間は、他の物から奪うことでしか繋がりを持てない。汚い人間に。
悟った。
男の迷いは消し去られた。
月と地球の刺繍がなされた旗。足、腰、肩全ての部位を使い踏ん張る。六分の一の重力の中、旗を地球に力のまま向け投じた。男は人間を捨て、河童の道徳を守った。そして、出来ることなら河童になりたかった。
焼却場に捨てられていたみすぼらしいノート。
Qaqqu。(以下も河童語)きっと読んでいるだろう君へ。
このノートには、見ての通り月に関して、僕が調べたことが全て書いてある。河童の寿命は約四十五年か約二百年のどちらかだ。これは、普通の河童か超河童かの差だ。僕は、普通の河童。もう寿命が来ていることはわかっていた。なのでこれを残そう。好きに使ってくれてかまわない。
そして、僕の言いたいことは一つだけ。
君は人間だ。だから、君は人間として生きてくれ。それがどんなに汚い世界でも。これが、僕の最後のお願いだ。
初めまして。月夜霊 夜空と申します。
小説を書きたい盛りの人間です。
ただの原子からできた人間ですが、よろしくお願いします。