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腹を刺された男が駆け込んで来たんです!

作者: 仲瀬充

「こんなの初めて!」

ウエイトレスが運んで来たしゃれたスイーツを見て女の子たちは一様に胸の前で手を組んだ。

何度目の初めて? と井上は突っ込みを入れたくなる。

33歳の自分とそれほど離れていないのに今時の女性にはついていけない。

仕事は刑事だと自己紹介すると拳銃を見せてと言われたこともある。

誘ってくれた友達には悪いが今日の合コンは一次会だけで切り上げることにした。

最寄りの駅で電車を降りて帰る途中、交番の前を通りかかると顔見知りの若い巡査と目が合った。

「井上さん、今お帰りですか? ご苦労様です」

「帰りは帰りだけどね、今日は非番なんだ」

井上が独身だと知っている巡査はお茶でも1杯と引き留めた。

10月も半ばになると夜は少し肌寒く、酔いもさめていたのでありがたい。


井上がお茶をすすっていると同年配くらいの男がふらついた足どりでやって来た。

初めて入った店で飲んでいたら腹を刺された男が駆け込んで来たと言う。

ろれつが回らずひどく酔っているようだが、井上と巡査は一応行ってみることにした。

男が案内した先は狭い路地にある「リリー」というスナックだった。

入ってみると中年の女の客がカウンターに座っている。

マスターによれば、今日の客は開店以降その女一人だけとのことだ。

だから腹を刺された男はもちろん、井上たちを案内してきた男も知らないとマスターは言った。

そんなはずはありません!と男は言い張った。

紙くず類が入った灰皿が女性客と離れたところにもあるのが気にはなったが、井上たちは男をなだめて帰した。


井上が自宅マンションに帰り着くと、待っていたかのように署から緊急招集の電話がかかってきた。

たった今ひき逃げ事案が発生したとのことだった。

現場に急行すると先輩刑事の萩原と救急車が既に到着していた。

道端に倒れている被害者の顔を見た井上は驚いた。

「この男はさっきの、」

「浩二、知っているのか?」

萩原刑事は井上を名前で呼ぶ。

井上は交番及びスナックでのいきさつを話した。

「そうか、それよりも浩二、これを見ろ」

萩原刑事は手袋をはめた手でつまんだセロハン紙の小さな袋を井上の鼻先に突きつけた。

「これはもしかして?」

「ああ、恐らく覚醒剤だろう。身元確認のため被害者のポケットを探ったら出てきた」


夜が明けると井上と萩原刑事は鑑識課員を連れて被害者宅に向かった。

被害者の安藤貞夫(36歳)は、妻の友紀(33歳)と小学生の耕介(9歳)との3人家族ということだった。

「奥さん、ご主人は?」

「意識が戻らないんです。今病院から帰ってきて子供を登校させたところです」

「私は井上といいますがこの町内に住んでいます。実は昨夜ご主人にお会いしたんです」

井上が昨夜の出来事を話すと友紀は首をかしげた。

「主人はお酒に強いんです。いくら飲んでもふらついたりろれつが回らないなんてことはありません」

実はですな、と萩原刑事が口をはさんだ。

「ご主人のポケットに封が切られたLSDの袋がありました」

LSD? 友紀はまた首をかしげた。

「覚醒剤の一種です。井上が言ったご主人の様子は覚醒剤の服用によるものかもしれません」

覚醒剤と聞いても友紀は小さなため息をついただけで取り乱しはしなかった。

萩原刑事は友紀に令状を見せて家宅捜索を開始した。

しかし覚醒剤に関連したものは何も見つからなかった。


翌日の午後、井上が安藤宅に向かっていると路上に数人の小学生がいた。

井上が近づくと一人を残して他の子たちは逃げだした。

泣きべそをかいている子を家まで送って行くと、その子は安藤家の一人息子だった。

事情を話すと友紀は礼を言った。

「昨日の家宅捜索が近所で噂になっていますし、新聞にも主人の名前が出たので耕介もいじめられるんでしょう」

「私も近所なんで今後も気をつけておきます。ところでご主人は?」

「まだ意識が戻らないままです。あの、覚醒剤の件はどうなるんでしょう?」

「ちょっと気になる点がありはするんですが血液検査でLSDが検出されましたからこのままいけば覚醒剤の所持及び使用で書類送検になるかと」

井上はひき逃げの捜査状況についても話した。

「監視カメラに写ってはいたんですが、盗難車だったので被疑者の特定には時間がかかりそうです」

ここで井上はふと思いついて言った。

「奥さん、差し出がましいかもしれませんが自動車保険の証書があれば見せていただけませんか?」

友紀は立ちあがって証書を持ってきた。

「ああ、よかった。ここを見てください」

井上が証書の補償欄を指さすとテーブルを挟んで向かいに座っていた友紀が顔を寄せた。

鼻先に友紀の額が接近し香水も香って井上はドキリとした。

「人身傷害に車外補償が付いていますから、ひき逃げの加害者が見つからない場合でも治療や休業損害、死亡や後遺障害などに対して保険金が支払われます」

「そうなんですか、ありがとうございます。さっそく保険会社に相談してみます」

顔を上げた友紀に見つめられて井上はまたドキリとした。


その翌日、井上が署を早めに出て帰宅していると下校途中の耕介がうつむいて歩いていた。

「どうした耕介、またいじめられたのか?」

耕介はかぶりを振ったが顔色がさえない。

井上が一緒に歩いて元気づけるうちに耕介はわけを話し出した。

井上は少し気が引けながらもその話を友紀に会う口実にした。

「また送っていただいてありがとうございます。どうぞお上がりになってください」

リビングに通された井上は耕介が2階の部屋に上がるのを見てから送って来たいきさつを話した。

「そしてですね奥さん、ママには内緒だよと言われたんですが好きな女の子に振られたんだそうです」

「まあ、そうでしたか。やっぱり主人のことが影響してるんでしょうね」

「その辺は分かりませんが女は薄情ですからね。初恋は実らないっていいますが、たいていは女のほうに原因があります」

「あら、井上さんは女性に恨みでもあるんですか?」

「刑事さん」でなく「井上さん」と呼ばれたことが井上は嬉しかった。

「ええ。私は母一人子一人で高校卒業後すぐ警官になったんですが、全く同じ境遇で看護師になった同級生がいました。その子と付き合ってたんですがトンビに油揚げをさらわれました」

「と言いますと?」

「彼女は医者と結婚したんです」

「彼女さんが玉の輿(こし)に乗ったんでひがんでるんですか?」

「ひがみじゃありません。高校時代、会社の社長の息子が彼女に告白したんですが彼女はそいつを振ったんです。その時の言い草が、あなたとは住む世界が違うってことだったんです。それなのに手のひらを返したみたいに医者と結婚ですよ」

むきになる井上を見て友紀はふふっと笑ったので井上は頭をかいた。

「すみません、個人的な話をしてしまいまして。今日はこれで」

「またお寄り下さい。耕介も喜びます」

そこへ耕介が2階から降りてきた。

「おじちゃん、まだ居たの。ちょうどよかった、ゲームやろうよ」

手を引かれて井上は耕介の部屋に上がった。

耕介とひとしきり遊んで井上が階下に降りると友紀が紅茶を用意して待っていた。

「井上さん、再来週のハロウィン、よろしかったら一緒に見に行っていただけませんか?」

「え?」

「近年はすごい人出なので耕介と私だけじゃ不安なんです。ご迷惑ですか?」

井上には願ってもない話だった。

警察官が犯罪の被疑者の身内と親密に交際するのは禁じられている。

しかし、保護、監視、情報収集等、何とでも言いわけはできるだろうと井上は自分に言いわけした。


数日後、井上は安藤貞夫の私物を返却するために友紀を訪ねた。

「覚醒剤の入手ルートの捜査でご主人のスケジュール帳を調べたんですが、Kという人物にかなりの頻度で会っています。心当たりはありませんか?」

「愛人じゃないかしら」

友紀はぶっきらぼうに言い放った。

その言い方に井上はひっかかった。

「一つ気になっていることがあるんですが、最初にこちらに伺った時、ご主人の覚醒剤の話を聞いても奥さんはそんなに驚きませんでしたね」

友紀は顔を曇らせた。

「私たち、夫婦仲がよくないんです。1年くらい前から主人に女ができたみたいで。直感で分かるんです。どうせごまかすでしょうから問い詰めませんでしたが腹いせに事あるごとに夫に冷たく当たって離婚も考えました。それで主人も飲んで回るようになって覚醒剤に手を出したりもしたんだろうと……」

友紀は言葉を切って泣き出した。

井上は立って友紀の横に座り、慰めるように友紀の肩に手を回した。

この夫婦が別れることになったら自分が友紀と耕介の面倒をみよう。

そう思いながら井上は友紀の肩を抱く手に力をこめた。


友紀に同情し夫の安藤貞夫への憤りも加わって井上はこれまで以上に捜査に精を出した。

しかし、その結果判明したのは思いもかけない事実だった。

井上は調査結果の報告に友紀の家を訪問した。

「ご主人の手帳のKというのは桜田克子という女性でした」

「やっぱり愛人がいたんですね」

友紀は眉をひそめた。

「そうではありません。この前、僕が振られた話をしましたがご主人はその逆でした」

「どういうことなんですか?」

「桜田克子はご主人が中学3年の時からつきあっていた女性です。しかし、ご主人は大学に入るとあなたと交際を始めました。面白くないのは桜田克子です。そして皮肉なことにと言いますか、彼女は今はご主人の営業先の部長夫人なのです。その立場を利用して1年前からご主人に不倫をもちかけていたようです。あなたがたの家庭を崩壊させたいんでしょう」

「それで主人はどうしたんですか?」

「彼女の誘いをむげに断って仕事に支障が出ると困るし、あなたを裏切りたくもないしで悩んでいたそうです。それで桜田克子に誘われた時はわざと嫌われるように振る舞って彼女が愛想を尽かすのを待っていたようです」

友紀の目に涙がにじみ出した。

「しかし奥さんに話しても信じてもらえないと思って、夜な夜な辛い酒を飲んでいたみたいです」

「ああ、私ったら何にも知らずに突き放して……、主人はさぞ私を恨んだでしょうね」

「いいえ。これまでの話はご主人の親しい同僚から聞き込んだのですが、桜田克子の話のついでにご主人はこうも言っていたそうです。『俺の目に狂いはなかった、やっぱり友紀を選んでよかった。何度生まれ変わっても友紀を探し出す』と」

友紀は手で顔を覆ってすすり泣いた。


友紀が落ち着くのを待とうと井上はテーブルに目を落としていたが、菓子類の個別包装に使う透明なプラスチック製の包み紙が細く折りたたまれて結ばれているのが目に入った。

ちょうど木の枝に結びつけるおみくじのような形に引き結ばれている。

井上はどこかで同じようなものを見た気がした。

「奥さん、これは?」

「さっき食べてたキャンデーの包み紙です。癖でこんなふうに結んでしまうんです」

井上は心臓の鼓動が高まるのを感じながら勢い込んで言った。

「ご主人も同じようにしますか?」

「ええ。私がやっているのを見て面白がって」

井上は急いで署に戻った。


井上と萩原刑事がスナック「リリー」に行くと、店には「閉店」の貼り紙があった。

隣りの店から折よく出てきた店主に聞いてみると1週間ほど前にバタバタと店をたたんだと言う。

ちょうどひき逃げ事件があった頃だ。

「それよりも刑事さん、中を調べてみてくださいよ。生ゴミだかなんだか、臭くてかなわない」

言われてみれば確かに異臭がする。

しかも刑事にはなじみの腐敗臭だ。

不動産屋に連絡して鍵を開けてもらい2階に上がると中年の男が死んでいた。

覚醒剤の組織的売買で指名手配されている園田という男だった。

署に連絡を入れると二人は当初の目的である階下に降りた。

「よかった、片づけてない。やっぱりありました」

「浩二、よく覚えていたな。感心だ」

カウンターの灰皿につまみの菓子の包み紙が細く引き結ばれて入っていた。


鑑識に回した結果が出たところで井上は友紀の家に行った。

「菓子の包み紙からご主人の指紋が検出されました。ご主人があの店に行っていて刺された指名手配犯を見たのは事実でしょう。私と交番の巡査が駆け付けた時にいた中年女はその情婦と思われます」

「あの、覚醒剤のほうは?」と友紀が不安げに聞いた。

「それが肝心なことでしたね。LSDは飲み物に混ぜて飲ませることも可能ですからご主人は罠にはめられたのでしょう。自分で服用したのなら交番に来る危険を冒すはずはありませんから。現在、マスターと園田の情婦の行方を追っています。ひき逃げ犯のほうはまだ特定できず申し訳ありません」

井上が友紀に頭を下げると、友紀は明るい顔で言った。

「主人が悪いことをしていなかったことが分かっただけでも感謝です。私と耕介はこれから顔を上げて生きていけますから」


友紀の夫の近藤貞夫はとうとう意識が戻らないまま亡くなった。

友紀への愛情を引きずる井上にとっては複雑な感情を抱かせる知らせだった。

その数日後にスナック「リリー」のマスターと指名手配犯園田の情婦が逮捕された。

二人の取り調べを終えて井上は萩原刑事と共に友紀の家に赴いた。

「麻薬密売人の園田は仲間とのもめごとで腹を刺されて顔見知りのリリーに駆け込みました。マスターはとりあえず園田の情婦を呼んだんですが、指名手配中ですから病院に連れて行けず出血多量で死んだそうです。園田が血を流しながらスナックに来た時、マスターはご主人にハロウィンの練習だと言ってごまかしたということでした。そしてご主人の水割りにLSDを入れて残りをこっそりご主人のポケットにしのばせたんです」

「どうしてそんなことを?」

ここで萩原刑事が説明を引き継いだ。

「ご主人が警察に密告した時に、ご主人のようすから覚醒剤の常習者と思わせて密告をでたらめだと思わせるためでしょう。実は最初から気になっていたんですがLSDの袋はマスターの指紋だけでご主人のは付いてなかったんです。その点を追及したら観念してマスターはご主人を盗難車ではねたことも自供しましたよ。ご主人がまっすぐ家に帰っては元も子もありませんからな。救急車で運ばれれば身元調査で所持品を調べられるので念には念を入れてという計画です」

友紀は丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございました。これで主人も浮かばれます」


そろそろおいとましようかと萩原刑事が井上を促した時、友紀が言った。

「井上さん、いろいろお世話になりました。主人のことなんですが、人は死ぬ直前に意識が覚醒するって本当なんですね。『先に逝って待ってるけどゆっくりおいで』そう言って主人は穏やかに息を引き取りました。それまで苦しそうな息づかいだったのにまるでドラマみたいな最期でした」

友紀はその場面を思い起こすかのように目をつぶった。

そして目を開けて続けた。 

「いいえ、ドラマみたいなではなく私にとっては本当に最高のドラマでした。これから耕介と二人でしっかり生きていきます。ありがとうございました」

友紀の夫が臨終の間際に結び直した夫婦の(きずな)は井上には眩しすぎた。

萩原刑事が先に玄関を出たので、井上は靴を履き終えて友紀に言った。

「明日のハロウィンですが、急に署の当直が入りましたので行けなくなりました。すみません」

とっさに思いついた言いわけだった。

「いいえ、もともとこちらからの勝手なお願いでしたからお気になさらないで」


安藤宅を出ると既に日が暮れていた。

お!と空を指さして萩原刑事が立ち止まった。

見上げると流れ星が夜空を横切るように流れていた。

「浩二、何か願い事をしたか?」

「いえ」

井上の願いはさっき消えたばかりだった。


「お前、あの奥さんに惚れているんじゃないのか?」

にやりと笑ってそう言うと、萩原刑事は返事も待たずに「じゃな」と手を挙げた。

「お疲れ様でした」

萩原刑事の後ろ姿を見送ると井上も自宅へ歩を進めた。

途中で一度だけ友紀の家を振り返った。

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