公爵令嬢(6)、今日も威厳を保ちたい!
ユーフィリア・クレイジオ――
この名を知らぬ者は、王国の上流階級にはいない。
彼女は公爵家の一人娘であり、王太子の婚約者であり――
そして何より、社交界を牽引する存在であった。
艶やかな金糸の髪、氷のように澄んだ青い瞳。
容姿の端麗さはもちろん、その才知と礼儀作法の完璧さから、彼女は「威厳の化身」とさえ呼ばれている。
一歩、彼女が舞踏会の床を踏みしめれば、貴族たちは自然と道を空ける。
一言、彼女が微笑めば、侯爵夫人たちが息を詰める。
そして、ひとたび視線を投げれば、若き騎士たちがその場で硬直する。
――それほどの令嬢であった。
そんなユーフィリアが、ある朝。
目を覚ますと――
「…………え?」
視界がひどく低い。
寝台がやたらと大きく見える。
そしてなにより……自分の手が、信じられないほどぷにぷにしている。
「お嬢様、そろそろお目覚めの――」
扉が開き、侍女たちが部屋に足を踏み入れた。
直後、一瞬で世界が静止する。
「……え?」
「お嬢さま……?」
「ち、ちいさい……え、ええええええええええええええっ!!???」
部屋が悲鳴に包まれた。
家令も慌てて駆けつけ、扉の向こうでは「きゃああああっ!」という侍女の声が反響する。
寝台の上に座っていたのは――
ふわふわの金髪と、あまりにもあどけない顔立ちの、六歳ほどの幼女だった。
もちろん、それは他でもない。ユーフィリア本人である。
本人は驚きこそしたが、眉ひとつ動かさなかった。
なぜなら、彼女は公爵令嬢。
多少の異常事態などで、威厳を失うわけにはいかないのだ。
「じじょうは分かりましぇんが、公爵令嬢たるわたくちが、この程度でどうようするとでも?」
舌足らずな声で、威厳たっぷりに言い放つ。
しかし、「ぱちん」と鳴らした指先は「ぺちっ」と頼りない音を立てただけだった。
「エルザ!」
「はっ、はいっ! お嬢様っ!!」
「登校じこくでしゅ、しょうきゅうにしゅたくをなさい!」
「さ、さすがですお嬢様! ただいまご支度をっ!!」
侍女エルザが叫び、他の侍女も家令も崩れ落ちる。
震える声で「かわいい……」と誰かが呟いた。
――その日、公爵邸は一瞬で天国になった。
***
馬車が石畳の上を進む。
窓の外に広がるのは、整えられた街路樹と、朝の澄んだ空気。
ユーフィリアはいつも通り、背筋を伸ばして座っていた。
本人は「いつも通り」のつもりだったが、実際には――ふわふわの金髪が陽の光を受けてきらきらと輝き、真っ白なドレスの袖が小さな肩に揺れている。
到着した学院の門前では、生徒や教師たちが登校していた。
銀の扉が開く。
そして――
「……え」
「……あれ、ユーフィリア様じゃない?」
「え、ちいさい……」「尊い……」「まぶしい……」
騒然となる中、ユーフィリアは一歩を踏み出した。
ちょこちょこと小さな足音が響く。
本人は凛と歩いているつもりだが、傍から見れば完全に“歩く天使”である。
「ごきげんよう、みなさま」
舌足らずな挨拶が響いた瞬間、生徒の何人かが胸を押さえて崩れ落ちた。
護衛の騎士まで顔を背け、目頭を押さえている。
そこへ、王太子がやってくる。
一瞬で彼の瞳が見開かれた。
「こ、これが……あのユーフィリア……?」
ぽつりと漏れた言葉は、朝の空気に吸い込まれていく。
「か、かわいい……天使じゃないか……」
そして次の瞬間、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ち、違う! 違わないけど違う! ボクは幼女趣味じゃないっ!!」
騎士の一人が肩を震わせて吹き出した。
ユーフィリアは当然、そんなことには気づいていない。
彼女は“いつも通り”、堂々とちょこちょこ歩いて学院の中へと進んでいった。
***
午前の授業。
教室に集まる貴族子女たちの中で、ユーフィリアは当然のように最前列に座っていた。
机に座る姿は……ちょこん、と言う以外に表現のしようがない。
「では、この問題を――ユーフィリアさん、お願いできますか?」
教師が指名する。
教室がざわつく。
「わかりましたわ、せんしぇい」
立ち上がったユーフィリアは、短い足で黒板に向かう。
んしょ、んしょ……と一段一段、階段をのぼるようにして前へ。
そして、ぴたりと黒板の前で止まった。
「……」
しばしの沈黙ののち、潤んだ瞳でこちらを振り返る。
「せんしぇい、申し訳ございません……黒板に届きませんの……(涙目)」
ズキューン
教室中に何かが刺さったような音がした。
「か、わっ……すぐに台座を用意させます!」
教師が理性崩壊しかけて慌てふためき、生徒たちは胸を押さえる。
小さな踏み台の上にちょこんと立ち、チョークを握って問題を解くユーフィリア。
その姿は、もはや罪であった。
「……あれが、あのユーフィリア様……?」
「真面目なのに、かわいすぎる……」
「いや、むしろ真面目だからこそかわいい……!」
教室中がざわつき続けた。
***
放課後。
ユーフィリアは予定通り、自身が主催する茶会の会場にいた。
本来ならば、この茶会は社交界でも一目置かれる「格式高い」場である。
だが今、その席の主催者は――小さなティーテーブルにちょこんと座った幼女だった。
「ごきげんよう、みなさま。本日はお集まりいただきありがとうございます」
参加者たちが一瞬で昇天した。
貴族令嬢も令息も、あまりの破壊力に目を見開く。
「まぁ……」「かわいい……」「尊い……」「これは事件……」
本人は真剣そのものだった。
震える手でポットを持ち、少し背伸びして紅茶を注ぐ。
その一生懸命な姿が、逆に人々の心を鷲掴みにする。
「……さすがユーフィリア様ですわ」
「(いや、意味が違う)」
会場の外。
植え込みの陰から、誰かが覗いていた。
(婚約者の状態を視察しなければ……! 断じて可愛いからではない!)
「……かわ……いや違う! 違うのだ!」
王太子である。
モブ生徒が「今、王太子じゃなかった?」と小声で囁く。
しかし、ユーフィリアはそれにも気づかず、きらきらとした目で茶会の進行を務めていた。
***
茶会は滞りなく――いや、むしろ想定以上の盛況をもって幕を閉じた。
ユーフィリアはすべてのカップを整え、ゲスト一人ひとりに丁寧な言葉をかけ、完璧な公爵令嬢としての役目を果たした。
たとえその姿がちびっこでも、たとえ一部の言葉が舌足らずでも――彼女は、ユーフィリア・クレイジオなのだ。
参加者は一様に頬を赤らめ、感極まったようにため息を漏らしていた。
茶会の空気は甘く、とろけるような“幸福”に満ちていた。
――本来、そんな会合ではないはずなのだが。
夕刻。
橙色の陽が地平に傾くころ、ユーフィリアは馬車に乗り込んだ。
日課である“本日の反省会”が頭の中で開催される。
(なぜか小さくなってしまいましたが、今日も公爵家の令嬢として、威厳を保てました……!)
胸を張るつもりが、ぽすんと背もたれに沈み込む。
短い足をぷらぷらさせながら、彼女は小さく満足げにうなずいた。
けれど――
「……ふぁ」
瞼がしぱしぱと重くなる。
陽の光と温もりに包まれて、彼女の表情はあっという間にぽやぽや顔になっていった。
「……エルザ」
「はい、お嬢様!」
「ん……だっこ……(ねむねむ)」
「っ……!!」
侍女エルザの顔が真っ赤になった。
その場に崩れ落ちかけながら、彼女は馬車の座席の前にひざまずき、震える声で宣言する。
「はい、お嬢様、こちらへ」
(おおお……! お嬢様……この命に代えましても、馬車からお部屋まで誠心誠意お運びいたします……ッ!!)
「むにゃ……エルザ、お願い、ね……」
(ははあああああっ!! 可愛いいぃいいいッ!!)
その時だった。
馬車の扉が勢いよく開き、執務を放り出した父、クレイジオ公爵が現れた。
「フィはどこだ! わしが運ぶ!!」
「だ、旦那様!? お嬢様は私にお願いを……!」
「ええい! 雇用主の意向に逆らうのか!」
「旦那さま! さすがに職権乱用です……!(泣)」
馬車の中で繰り広げられる、抱っこ権争奪戦。
ユーフィリアは目を半分閉じたまま、ふにゃふにゃの声でつぶやいた。
「……むにゃ……うるちゃいでしゅ……」
「「ごめんなさい……」」
天使の一言で、二人の大人が同時にひれ伏した。
公爵家の威厳など、そこにはなかった。
その夜――
王都には、ふたつの噂が流れた。
クレイジオ公爵家に、天使が舞い降りた。
そして――
王太子が植え込みから盗み見していた、と。
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