5 あたたかさ
「今湯浴みの準備をしているから、それまでリビングでくつろいどくれ。私は仕事に戻るんでね」
「ありがとうございます」
礼を言うと、カイリさんは黙ったままうなずいて、もと来たドアへと戻っていった。
廊下を通り、一族の母屋だという建物に連れていかれた。
リビングには大樹のきりかぶでできた大きなテーブルがあり、その前に牛革のソファーがあった。広々とした部屋の奥は、窓がなく壁全体が開け放しで、巻き上げられたすだれがあり、遠くに海が見える。
「私、この窓から、いつも向こうの海を眺めているんです」
と、ラナナルさんは言った。
先ほどの使用人の少女が廊下を通る途中でリビングを覗き込み、「どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」と言うとまたパタパタと走り去っていった。スーという名前だったか。
それを見送った後、俺はソファに座って一息ついた。
(疲れた……)
この世界に来てまだ数時間しか経っていないというのに、いろんなことがありすぎた。
正直わりと、もう限界に近い。これからどうしたらいいのか……。
まずはこの世界のことを知る必要があるだろう。しかしどうやって? パソコンもスマホも、それどころか電気製品をまだ一つも見かけていないこの場所で、ネット検索などできるはずがない。
ひとつひとつ、誰かに聞いていくしかないな……。
文化を尊重するクリエイターの俺ゆえ、現地のマナーを破るのは気が引ける。なるべく早く環境に順応しなくては。
気が付くと、隣に控えめに腰かけているラナナルさんがいた。
「それで、アオさんはこの島に来た時のことを覚えていらっしゃらないんですか?」
「えっと……」
正直言って何もわからなかった。
ただ、倒れたら海にいて、ここが自分が住んでいた地球という場所ではないということだけは、はっきりわかる。
ラナナルさんは心配そうに俺に話しかける。
「思い出せることをなんでも教えて下さい」
「わかりました。えっとまず、俺の住んでいたところは日本っていう国で……」
「ニホンというのは聞いたことがない国名ですね」
「そうですか……」
じゃあ、ここが少なくとも地球じゃないのはやはり本当のようだ。
「ミナミ様はその国のどこに住んでいましたか?」
「東京という街です」
「トウキョウ……やはり聞いたことのない土地名です」
その後、ひととおり、広告代理店で起きたことや、日本に住んでいた時のことや、家族のことなどを話した。ラナナルさんはとても熱心に聞いてくれた。でも世界が違いすぎて、半分以上伝わらなかったかもしれない。
元の世界に戻るすべを見つけないといけないという不安が、だんだんと俺に重くのしかかり始めた。
「俺、なるべく早く、元の世界に戻れる方法を探します」
「そう、ですよね……。アオさんは元の世界に帰らないといけませんものね」
なんだか俺よりも沈んだ声で、ラナナルさんが呟いた。
窓から、ふわりとした湿気と、いい香りがする。
お湯が沸いたようだ。
スーが戻ってきて、風呂まで案内すると言った。
「では、またあとで」
ラナナルさんと別れ、俺はスーについてリビングを出た。
離れのような建物につくと、スーは脱衣所でてきぱきと俺に指示を出し、棚に畳まれた服を指さした。
まだ小学生くらいの子供に見えるが、立派な働きぶりだ。
「その服も洗濯しないといけませんから。着替えはこちらをお使い下さい」
「そんなことまで……ありがとうございます」
俺は風呂場で、変わったレンコンのようなシャワーヘッドからでてくるお湯を浴びた。
この島の井戸水らしい。少し塩気があったが、気持ちがよくて肌に染み渡るようだった。
体が清まったところで、風呂から出た。
そこで、洗面台にある鏡を真正面に見て、驚いた。
俺の顔が、俺の記憶と全く違うのだ。
現実の俺は三十六歳だったはずだ。鏡にはどう見ても二十歳くらいの青年が映っていた。
日本人であるのはなんとなくわかる顔立ちなものの、むしろ……イケメンと言える雰囲気がある。
タオルをたくさん抱えて入ってきたスーが、腰にタオルを巻いただけの俺を見るなり「ひゃん!」といってひっこんだ。
用意されていた服を着る。
裾や袖口が切りっぱなしでピラピラしていて多少動きづらいシャツだが、生地は上等な麻だ。
ズボンは膝下までのゆったりとしたつくり。
リビングに戻るとラナナルさんが待っていてくれた。
「父の服です。やっぱり大きいですね」
「すみません」
「いえ、よく似合っていますよ」
彼女は笑ったが、俺は少し恥ずかしくてうつむいた。
自分の見た目が大きく変わっていること、言うべきだろうか……?
でも、別の世界から来た話に加えてそこまで言うと、いよいよ頭のおかしい人間だと思われるんじゃないだろうか。
「今夜はここでお休みになってください。部屋を用意させますから。」
「本当に何から何まで、ありがとうございます……」
俺は見知らぬ島の人の親切に、涙がこみ上げる思いだった。働きづめだった昨晩まで、こんな温かい経験、すっかり忘れていたぞ。
用意されたベットは布の中に藁を積んでいるものらしい。ふっかふかで、南国のリゾートホテルに来たのではないかと錯覚してしまう程だった。
小さな窓の、すだれごしに月の姿が見える。
──ん?
俺は窓辺に駆け寄った。そしてすだれをめくりあげてみた。
月が……二つある。目をこしこし擦ってみたが、どう見ても、多少大きさが違う青白い月が二つ夜空に浮かんでいる。
もはや銀河の規模で、ここがどこだかわからない。
簡単には元の世界に戻れそうもないことを、ひしひしと感じ始めていた。