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1 波の音だけ、聴いて暮らしていく

 修羅場の時期は俺たちは当たり前のように会社に泊まるので、デスクの下に寝袋が置いてある。

 それを足でもふもふと踏みながら、後輩たちからの差し入れのお菓子を無心に食べていた。霞む目をこすり、今朝のミーティングで四案に絞られたプロジェクトのコピーを検討していく。


 今回進めている仕事は、自由な人生、早期リタイア、第二の人生のために資産運用をしようという大手投資ファンドの夏期広告プロジェクトだ。

 自由な人生? 早期リタイア? ……第二の……人生……?

 俺にはそんなものわからない。

 地獄のような就職氷河期に幸運にも内定をもらえたのだから、この広告代理店で一生頑張るのだ。

 概念はわからないけれど、ターゲットユーザーの気持ちになって広告を作るのはもちろん得意だ。


 メンバー各位から提出されたコピーの最終的な決裁権はディレクターの俺に一任された。締め切りは明日。

 プリントアウトした四案のコピーの音を確認するため、ぶつぶつと何度も声に出しながら、俺は最終案を絞った。


『波の音だけ、聴いて暮らしていく。』


 これだな。このコピーが一番いい。新人の女子社員が出した案を、俺が編集したものだ。

 クライアントがターゲティングしている今の日本の三十代や四十代。彼らは一九九〇年代の子供の頃に、『南洋幻想ブーム』やら『エコロジーブーム』を経験している。

 俺も好きだったからよく覚えているが、当時は民法テレビにも多くの自然ドキュメンタリー番組があったものだ。バブルの崩壊後の暗い空気も背負っているから、俺たちの世代に刺さるのはそういう広々とした自然風景を思わせるビジュアルとコピーだろう。

 クライアントのコーポレートカラーは青色。南国のイメージにもぴったりだ。


 俺はうまくまとまりそうなプロジェクトに安心し、「よし、よし。やったよお」と、デスクの上のガシャポンフィギュアのネコ一家に話しかけた。ちなみにネコのお父さんは、病みがちな後輩のところに単身赴任している。


 休む前についでに、最終プレゼンのためのビジュアルを用意しておこう。

 パソコンでブラウザを開いて商材写真販売サイトにアクセスすると、すぐに南国の素材を検索した。

 沢山並んだ南の島の写真から、トップ人気の一枚のサンプルを開いてみた。


 白い砂、群青の空。遠くにちらちらと飛ぶ海鳥たち。たぶんタヒチかパラオ、モルディブといった観光地の写真だろう。

 アクアグリーンの浅瀬には手前から奥へ伸びる大きな桟橋があり、その先の高床の土台にハッとするようなコントラストの白い布製のコテージが立つ。

 そしてそこで、日焼けしてこれまた真っ白な服を着た一組のカップルが楽しそうに食事をしている。女性の方は、髪にハイビスカスを飾っているようだ。


(……うらやましいな)




 勉強勉強! 仕事仕事! の人生を送ってきた俺にとって、恋人との旅行はおろか、異性との優雅な昼食さえ想像もつかない。

 そもそもどうやって出会うんだ?

 思春期には、頭や素行がよくない同級生がなぜか軒並みモテているのを見て、不愉快に思っていた。

 なぜまじめで優しい人間は評価されないのかと訝った。

 恋愛して結婚するような平凡な人生を軽蔑すら……していた。

 平凡に真の幸福があるかもしれないという予感を封印して。


 童貞にも年季が入り、中学時代に唯一貰ったラブレターらしきものがどんなに貴重なフラグだったか気付いたのは、就職活動と親の急死が重なって疲弊し始めた頃からだ。

 そんなこと、今さら言ってもどうしようもないけれど。俺は、なによりもまずクリエイターなのだから。


 元々美術大学からイラストレーターとしてこの会社に入った。アートディレクションを手掛けるようになったあと、近年の俺はコピーライター、総合ディレクターとしても仕事をしている。

 人々が普段街中で見かけるポスターやCFだって、俺が作ったものかもしれないのだ。

 身体はしんどい仕事だけど、恋愛以外はホントに人生充実してるって思うこともあるんだけど……な……。


 十数年勤めても、広告代理店での忙しさは変わらない。

 管理職だからといって、もともとのクリエイティブ業務をおろそかにはできないのだ。つまり仕事の絶対量がどんどん増えていく。

 企画書の下部に書かれた、『プロジェクトリーダー・総合ディレクター みなみ 亜生あお

 という文字列に、身の引き締まる思いがする。




 オフィスの壁の時計を見やると、深夜の三時を回っていた。

 コピーも、ビジュアルの方向性も決まった。


(そろそろ寝袋で仮眠するか……)


 パソコンをスリープにして、椅子から立ち上がる。

 ガチガチになった肩甲骨をギギギと動かし、大きく伸びをした。気持ちいいな。

 と、その時。

 俺の後頭部で、何かがブチッと音をたてた。

 そして、冷えた粘液が降りてくるようにトロリと、肩の片側の感覚がなくなった。

 そっち側の腕を見ると、ダランと垂れ下がったまま。驚いて手をあげようとするが微動だにしない。

 異変を感じて警備員を頼ろうと思い、デスクからドアへ向かおうとしたが……。


(あれ、床が、縦になってる……?)


 もう視界に垂直に、床のタイルマットが見えた。

 直後に側頭部に衝撃を受け、俺の視界は虹色にスパークしたあと、真っ暗になった──。







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