弓道場の怪異⑥
「弓道場に戦国時代の武将の霊が出るという噂は昔からありました。けれど、つい最近になって、目撃情報が相次ぎまして」
先生がそう言いながら、弓道場の扉の鍵を開ける。
「見えただけならいいのです。目があった瞬間に矢を向けられて、弓道部員の中でもけがをした人もいました」
それだけ聞けば、幽霊の仕業とはいい難い。ふざけていて矢に刺さった可能性もある。
戸が開き、道場へと足を踏み入れる。靴を棚に入れて、矢を引く場所である射場へと足を踏み入れも、特に人の気配はない。
弓道に使う道具がきれいに整頓されている。どこか殺風景の場所に太陽の光が板張りの床を照らす。
「話を聞いたときは、あり得ないと思いました。その生徒のただのでっち上げ。本当はふざけていて、矢が刺さったのだろうと……。しかし、彼らのいうことは正しかった。それは、私自身がこの目でみたのです」
先生の顔が青ざめる。その時の光景を思い浮かべているようだ。先生が靴を脱がずに玄関のところで一瞬足を止めた。
首を横に振ると、靴を脱いで射場へと上がる。
朝矢は、それを一瞥したのちに視線を正面に向けた。
自分たちのいる入り口付近から最も遠い奥の壁。
横に掛けられた弓が一本。
ずいぶんと年期が入っている。
「あれは、部ができたときに献上された弓です。何でも室町時代のものだそうです」
朝矢は弓のほうへと近づくとそれに触れる。すると、なにか光ったような気がして、咄嗟に手を遠ざける。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
朝矢がそれを見ていると弓を握る手があった。青白い手。それについているはずの体はない。手のみが壁から飛び出して弓を掴んでいた。
朝矢がじっと見つめていると、先生が怪訝な顔をする。
「なにかみえるのですか?」
朝矢は先生を一瞥すると、再び視線を弓のほうへと注ぐ。
どうやら“手”が見ているのは、朝矢だけらしい。
先生がそう尋ねるのは、朝矢が何者なのかを知っているからだ。
いわゆる霊能力者と呼ばれる類の人間。
常人には見えることのないモノをみることのできる力を有する者。
超常現象の対処に特化したもの。
そういった人間の一人だ。
霊や魔物、あるいは妖という目に見えぬ存在は、ただの幻想の世界。実際には存在するはずがない。けれど、存在していた。ただ人が認知していないだけで、太古昔からすぐ傍らにいた。
認知されない。
認知されないように生きていた存在。
それでも、一度認知してしまえば、その存在を無視することができなくなる。忘れない限り、認知し続けるのだ。
そして、いま“手”を認知していのは朝矢だけ。先生には認知ではない。どんなに目を凝らそうとも、意識するにはまだほど遠い。
手が弓をしっかりと掴む。弓が持ち上がる。
「わっ」
ようやく先生が悲鳴を上げた。
「弓が……。また……」
先生が見えているのは弓だけ。
弓が勝手に宙に浮かんでいるようにしか見えない。
けれど、朝矢にははっきりとその弓を掴む青白い腕が見えていた。
弓を必死に握る“手”が震えている。
腕から徐々に全貌が姿を現していく。
武将だ。
甲冑を身に纏った年若き武将がこちらを見ている。
「ヒィィィ」
どうやら先生にもはっきりと見えてしまったらしい。先ほどよりも顔が青くなっている。尻餅をついたまま、全身を震わせている。
具現化したのか。
それとも……。
「……」
朝矢は周囲を見回した。すると、矢の入った筒を見つける。
「あの……」
「弓と矢。借りるぜ」
「はあ」
先生の返答など聞くよりも早く、立てかけられていた弓と矢を掴む。一本を武将へと渡す。武将はそれを手に取る。弓の弦に引っ掛けると、正面にある的へと視線を向けた。武将は構えると弦を引っ張り、放つ。弓が飛ぶ。しかし、的に当たる前に地面へと突き刺さった。
「へたくそ」
朝矢が愚痴る。
すると、自分もまた弓を構える。
「あの……」
先生は何をしているのか理解できずに成り行きを見守る。
「こうやるんだよ」
朝矢が弦を弾く。そして、弓を放つ。
弓はまっすぐに的へと飛んでいく。見事に的の中央に突き刺す。
「おおお」
先生は先ほどの恐怖心を忘れたかのように感嘆の声をあげる。
「こうすればいい。そしたら、目前の敵を倒すことができるはずだぜ」
弓で射貫かれた的を見ていた武将が朝矢を振り返ると、頭を縦に振る。
再び構える。
すると、声が聞こえる。すさまじい咆哮。走る馬と人の足音。重なりあう金属音。
切り刻まれる肉。飛び散る赤い液。
「ナッ……」
その光景が先生にも見えたらしい。
おそらく先生がそれなりに霊力をもっているのかもしれない。それか一般人にも認識できるようにする“具現化”できるほどの能力をもっているかだ。それなら、霊力ゼロでも認識できる。
(霊力ゼロのやつがいたら、一発なんだけどなあ)
朝矢は脳裏に一人の男を思い浮かべる。
「ちっ、面倒なことをする」
朝矢が舌打ちをする。
眼の前に広がるのは、学校の弓道場ではない。どこかの戦場。戦国武将らしきものたちがお互いに刀で切り合っている。血が流れる。
多くの屍が転がる。
「ひいい」
先生が顔を青くして、朝矢にしがみついた。
屍が立ち上がる。
血まみれの屍
弓が刺さり、刀で切り裂かれた跡
眼のないモノ
腕のないモノ
ユラユラと体を揺らしながら、朝矢たちのほうへと近づいてくる。
「ひいいい」
さらに強く朝矢に抱き着く。
「うぜえよ」
朝矢は強引に先生をはがした。
すると、そのまま仰向けに倒れる。同時に屍たちが先生に覆いかぶろうとした。
「来るな。来るなあああああ」
「面倒なことするんじゃねえ」
朝矢が思いっきり、屍に蹴りつける。
屍はそのまま飛ばされ忽然と消え去る。
いつの間にか、先生は目を回して気絶している。
「そのまま、気絶してもらったほうが面倒じゃない」
いつの間にか屍たちが朝矢の周囲を囲んでいた。
「ゾンビ襲来かよ。バイオハザードかよ。おい、そこのお前」
弓を持ったまま、震えている武将を指さした。
「早く消せ」
武将は右往左往した。
「ええい。何度も言わせんじゃねえ。こうするんだよ」
再び弓を取ると、矢を放つ。こちらへと向かってくるゾンビたちを横切り、矢は的へと貫ぬく。すると、ゾンビたちが的のほうへ集まってくる。
「こうすればいい」
武将はなおかつ不安そうな顔をする。
「見ろ。お前の宿敵があそこにいるぞ」
朝矢が指をさす。その方向には、一人の武将の姿。甲冑姿でその背後には幟。大きく家紋が描かれている。
「徳川……」
武将がつぶやく。
「徳川。徳川。徳川。憎き、徳川」
武将は弓を構える。
「死ね。徳川家康」
そう叫ぶと矢が放たれる。そのまま、”徳川家康”の心臓をつらぬく。直後、”徳川家康”の体が破裂するように消えていく。同時にゾンビたちが奇声を上げながら溶けていき、戦場だった光景が消え去る。
ただの弓道場へと変わる。古びた弓が元のようにかけられており、矢だけが草むらの上に散らばる。
ゾンビの姿はない。ただ武将の姿のみが朝矢の眼の前にあった。武将は振り向く、顔を覆い隠すほどの大きな傷。体中無数の刀傷。
「やっと……討てた。――様の敵を討てた。――様の願いを叶えることができた」
「それはよかったな。さっさと行きな」
武将は満足したように光に包まれ、溶けるように消えた。