弓道場の怪異④
「どうした?朝矢」
青年──有川朝矢はなにもない空間に視線を向ける。
すると、彼のすぐ足元に白銀の毛並みをもつ狼らしい生き物が怪訝そうに見上げていることが認識できた。日本にはめったに見ることのできない狼。しかも、人語を発しているというのに、朝矢は驚くこともなく、確認しただけですでに視線は先程ぶつかった少女のほうへと向けられる。
少女の姿はもうない。急いでいたようだから、すでにどこかへ行ってしまったのだ。
「彼女がなにか?」
狼が訪ねる。
「あの子……」
「すみません。お待たせしました」
朝矢は言いかけた言葉を飲み込んで、別の方向からの声に振り返った。本館の方向から小太りの男性が額の汗をハンカチで拭いながら、小走りに近づいてくるのが見えた。
「あの神楽骨董店の方ですね?」
「はい」
朝矢が答えると、小太りの男が疑いの目を向ける。
「おれ……いや、僕はバイトです」
「バイト?」
「はい。大丈夫ですよ。腕は確かです」
慣れない敬語と一人称に内心こそ痒く思えてならない。それに先ほどから狼の笑い声が聞こえてくる。
(そがんも笑わんでよかやろう(そんなに笑うなよ))
心の中で狼に突っ込みを入れる。それを口にすることができないのが悔しい。けれど、それを発したら説明することが面倒だ。なにせ、狼は朝矢の目の前にいる男には見えないからだ。存在はしている。けれど、認知することができない。
朝矢は横目で金色の狼を見る。
そこに存在している。
自分のすぐ隣。銀色の輝きを持つ獣。狼と呼ばれるその存在が確かにある。けれど、それを認知できるのは、朝矢だけだ。
金色の狼の眼が笑っている。狼にとっても、朝矢の外交的な話し方がおかしくてならないだろう。朝矢はふいに自分をこの学校へと派遣した神楽骨董店の店長のたれ目が思い出された。
「わかりました。とりあえず、こちらへ」
朝矢は小太りの先生が背を向けると、となりにいた狼に耳打ちをした。
「どうした?」
「さっきの女のところへいってくれないか?」
「どうした?惚れたか?」
「バカをいえ。女にはうんざりしている。ちょっと、気になるところがあってな」
「今回の依頼と関係するのか?」
「……」
「……。御意。主の仰せのままに」
狼は先ほどぶつかった少女の向かった教室棟のほうへと走り出し、締め切っていた扉を開けることなく、すり抜けていく。
「あの……」
「あっ。すみません。いまから、向います」
朝矢は狼を見送ると、小太りの先生の後ろをついていった。