背後に迫る影⑦
「離れろ」
樹里から声が漏れる。
けれど、なにかが違う。
くぐもった声は、なにか呪いの呪文を唱えているように思える。
憎悪
悲哀
様々な負の感情があふれ出ている。
「近づくな」
声。
けれど、違う。
いつもの彼女の声ではない。
「江川?」
「離れろ。女」
直後、園田先輩の身体が飛ばされ、秋月の下から離れる。
園田先輩が地面に叩きつけられると同時に樹里の身体が大きく飛翔し園田先輩の上に覆いかぶさろうとした。
彼女の見開かれた眼球にある瞳孔がまるで猫の目のようにとがっている。薄っすらと緑色のモノが皮膚に現れ、彼女の五本の指からは緑の爪が飛び出してくる。
口も切り裂かれていき、少女の面影が別の何か。
得体のしれない何かに変わろうとしている姿が見えてくる。
食われる。
園田先輩には、自分に覆い被さる少女が江川樹里ではない別のなにかに見えて仕方がない。異形の存在。
そう告げたならば簡単だが、そうでないなにかと重なり、いままさに自分を殺そうとしている。
「きゃぁああ」
死が近づいていると自覚しながら、ただ叫ぶしかできずに目をきつく閉じた。
「江川」
弦音が一歩踏み出そうとした瞬間、影が動く。
「消えろ」
「いやあああ」
しかし、園田が殺されるような事態にはならなかった。
その間に割り込んだものがいたからだ。
変貌をはじめようとしている樹里の爪が食いこんだのは一人の男の腕。
朝矢だ。
朝矢の右腕に樹里の緑色へ変貌を遂げた爪が食い込んでいる。
朝矢の腕から血が流れて地面に落ちる。
痛みで一瞬顔を歪めた彼だったが、すぐに樹里を睨みつける。
彼女は愕然とした顔で動きを止める。
そのまま、しばらく時間が経過する。
「邪魔するな」
彼女から声が漏れる。
もう片方の腕が朝矢に振りかざされる。左手で腕を掴む。
彼女は、はっとする。
「あのバカ店長め。聞いてねえぞ」
朝矢は愚痴りながら、彼女の腕を引っ張り、地面に背中からたたきつけた。直後、彼女にまとわりついていた緑色が徐々に消えていき、ひどく伸びていた緑の爪も短くなっていく。
見開いていた目は少しずつ閉ざされ、そのまま動きを止めた。
「いててて」
朝矢は痛む腕を支えながら、起き上がった。
「大丈夫か?」
座り込んで放心状態になっている園田のほうへと視線を向けた。
園田はガクガクと体を震わせながらも首を横に振る。
弦音もようやく我に返ると、樹里の元に駆け寄る。
彼女の顔色は戻っている。
穏やかな表情をして、ただ眠っているだけだった。
いったい何が起こったというのだろうか。
先ほどの樹里の姿。
あれは別人。
いや人ですらなかったように思える。
「江川。おい。江川」
弦音の声にようやく我に返った麻美が戸惑いながらも友人の元へ近づく。
「……樹里……」
どうしていいのかわからない様子だ。
突然の事態。
把握しきれないのは弦音だけではない。そこで目撃しただれもが事態の把握ができずに狼狽している。
そんな中、冷静なのは朝矢だけだ。
朝矢はどこかに電話をしているようだった。
彼のそばで腰を抜かしたままでいる園田先輩の顔には血の気がない。
目を見開いたままで眼球のみが小刻みに揺れ、気を失っている樹里を見ている。
「何なのよ」
いつもの園田ではなかった。その声は震え、怒声のようにも聞こえてくる。
「知らない。私、なにもしらない。なに? あの子はなに?」
園田は樹里を指さす。
「園田先輩。江川は……」
弦音はなにかをいおうとした。なにか言いたいと思った。けれど、なにをいえばいいのかわからなかった。
彼女のいいたいことがわかるからだ。
あれは何なのか。
異形のもの。
それに変化しようとしたとしか思えない。
「なによ。なによ。なんなのよ」
園田先輩はヒステリックになっていく。
「うるせえ。つうか、いつまでそうしているんだよ」
突然、朝矢が園田の身体を抱えて立たせた。
園田ははっとし、朝矢を見る。
「いやっ」
園田は朝矢の身体を両手で押さえつけた。
朝矢はバランスを崩しそうになり、後ろへと後退する。その直後、園田は走りさってしまった。
「先輩」
止める間もない。
朝矢の口が動く。なにかをだれかに言っているようだが、弦音たちにはまったく聞き取れなかった。
朝矢は弦音たちのほうを振り返る。
「お前たちは平気なのか?」
「はい?」
弦音と麻美はお互いに顔を合わせる。
平気というわけではない。
彼女ら襲われそうになった園田とは違い、どちらかというと第三者に過ぎない弦音たちはパニックを起こすに至らなかっただけだ。
「まあいい。とにかく……」
朝矢は気を失っている樹里を抱え上げた。
「あっ」
弦音は声を上げる。
「とにかく、保健室につれていこう。話はそれからだ」
「あっ、はい」
ようやく我にかえった麻美が立ち上がった。
「こっちです」
麻美が案内するようだ。
朝矢は、麻美から園田先輩。そして、いまだに茫然と座り込んでいる秋月のほうへと視線を向ける。
秋月の口元から声が漏れた。
「……レイ……」




