桃志朗の作戦⑤
あれはなんだったのだろうか。
武村は思う。
一人の女性が一人の男性と接吻を交わすところなどみたこともなかった。武村の生まれ育った世は、容易に接吻するなどありえず、婚姻はいつも親の決めた者同士。武村にも物心ついたころには婚約者がいたほどだ。だからといって、その者とは逢瀬を重ねたわけではない。幼いころに一度紹介されただけで顔も名前も覚えてはいないが、自分の家が仕えていた真田家ゆかりの女性であることは覚えている。特に恋慕したわけではなく、ただ自然とこのものと結婚しなければならないという意識だけはあった。それから何年の逢わないまま、武村は元服を迎え、一人の大人の男となった年に、父がそろそろ祝言をあげようかという話になった。
しかし、それが行われることはなかった。
あれはなんだったのだろう?
武村の脳裏には何度も昼間の行為が蘇ってくる。そのたびに顔が熱くなってくる。
あれができたらよいのに
そんなあこがれの中で、武村が一目ぼれした少女の顔が蘇り、思わず彼女がつかんでくれた腕を見た。彼女の手のぬくもり、あの笑顔。
それを思い出すたびに、身体が熱くなる。
知らず知らずにうちに欲求が生まれてくるのは仕方のないことだ。
彼はため息をつきながら、弓道場から見える空を仰ぐ。昼間降り注いでいた雨はすっかり止み、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。武村は学校が終わると、弓道場へと向かった。マネキンの器から抜け出していつものようにその場でくつろぎながら、彼女の姿を思い浮かべる。けれど、今日からは違う。彼女に触れることも話をすることもできる。
何度も何度も今日一日の彼女との会話を思い出しては自然とにやけてしまう。
ああ満たされていく。
ただ見るだけの時間だったはずの武村の心は徐々に空白を埋めていっている。
「もう未練はないかなあ」
そんなことをつぶやいたときだった。
武村の背後に気配がした。
はっと振り返るとそこには一人の男がいた。長身で褐色の肌と真っ赤な髪。
「だれだ?」
その姿をみた瞬間、武村の身体全身が凍り付く。どうにか動く身体で、その男から距離を取りながら、弓を握る。咄嗟に放った矢は男をかすめて後方の壁に突き刺すと同時に消え去った。
風が吹き荒れ、
右目を隠していた前髪がふわりと浮き上がり、隠れていた目を分断する傷が見えてきた。
「いい矢を放つねえ」
男は陽気な口調でいう。
「しかし、不用心だな。こんな弱い結界で守れると思っているのかな」
彼は揶揄するように笑う。
「だれだ?」
武村は戦闘態勢を崩さないまま、顔わしかめる。
「それはどうでもいいことだ。本当に満たされたかい?」
「え?」
「そんなことで満たされるわけないよねえ」
いつの間にか男は武村の目の前にいた。そして、顔が触れそうなほどに寄せてくる。武村はたじろぐ。
「あんな陰陽師たちのようなやり方じゃあ、報われないよ。君。
どうせなら、俺の手を借りないかい?」
「え?」
「俺なら君の望み叶えられるよ。どうせなら、ものにできるんだよ」
武村はハッとする。
「それは?」
「そうだよ。君がこちら側にくれば」
その瞬間、どこからともなく閃光が走り、男と武村の間を貫いた。男は後退し、武村は後方へと転がる。
「あらら、邪魔が入ったか?」
驚く武村に対して、男は冷静なものだった。
閃光の放たれた中庭のほうを見ると、的のすぐ前に一人の男が佇んでいた。青いデニムと白いトレーナー。長い茶髪をそのまま垂れ流した状態の男。
白い肌とその手には錫杖が握られている。
「お客の横取りはいけないよ」
錫杖の男が軽い口調で言った。
「それは済まねえな。でも、こちらのほうがお得だぜ」
赤い髪の男が突然、錫杖の男のほうへと飛びかかる。それを寸前で横によけると、赤い髪の男がドーンという音を立てながら、着地する。
「避けられたあ」
赤い髪の男がニヤリと笑うと、錫杖の男のほうを見た。
「何度も言わせないでくれるかな。こっちの客を横取りしてもらっては困る」
そう言いながら、錫杖の先を赤い髪の男へと向ける。
武村はなにが起こっているのか茫然と彼らを見ていた。
赤い髪の男には見覚えがないが、後からきた錫杖の男には見覚えがあった。
「ハハハハ」
赤い髪の男が高々と笑う。
「そうだな。異端の陰陽師と戦うのは得策ではないな、今日のところは引くとしよう。でも……」
赤い髪の男は武村のほうを見た。
「商談の決定の権限は顧客にあるもんだぜ。じゃあな、異端の陰陽師」
それだけ言い残すと、赤い髪の男は消え去った。




