五日目
日曜日の朝は、日差しまでもが気だるい。
身の引き締まるような冷たい空気は、太陽が昇るにつれ影をひそめた。窓から入る日光が被っている布団に注がれて、胎内のような温もりを持つ。そのせいで三度寝をした結果、やっと起きたのは十一時だった。
「おはよ」
「……何してる」
フローリングに座布団を下に敷いた即席の寝床から起き上がると、ベランダに律がいた。起こす必要はなかったようだ。
「水やり」
「キュウリにか? そんなもん収穫したとしてどうするんだ。パン以外食わないくせに」
「あげる」
「日曜の朝からケンカ売ってるんだな? そうなんだな?」
「楽しみ」
ベランダごと外れてしまえ。
冷蔵庫から取り出した野菜ジュースを飲みながら、パソコンをつける。ニュースを三日前までさかのぼってチェックしたが、それらしき記事は見つけられなかった。
シャットダウンをしようとして、ふと思いとどまる。パソコンデスクの片隅に、ルカの名刺が置いてあった。彼女の財布をコトリが漁ったとき、戻すのを忘れてここに置いたままにしたのかもしれない。あるいは、わざと抜き取っておいたのだろうか。
検索サイトを再度開いて、『Scarlet Slave』と打ち込む。
それほど期待はしていなかった。ただ、だからといって何もしないままでいるのも落ち着かない。何も分からないままでいるよりは、調べても無駄だと分かったほうがましだった。
ページが切り替わり、キーワードに引っかかったサイトの一覧がずらりと表示される。その一番上には、『SMクラブ Scarlet Slave』と青字で書かれていた。どうやら、ホームページを持っているらしい。
トップページを開くと、黒の背景に店名が艶めかしく浮かび上がっていた。英語で書かれた『Scarlet Slave』の文字は、その名前どおり黄みがかった赤色をしている。
左に並ぶメニューには、料金システムやコース説明に混ざって、在籍女性と書かれたアイコンがあった。それをクリックすると、一呼吸置いて女の写真がずらりと表示される。少しずつ下へとスクロールさせ、扇情的な格好をした女たちの名前をチェックしていく。
『美叶流華』の名前はすぐに見つかった。
気合の入った他の女たちの写真のなかでも、特に目を引く格好だった。ボンデージと言うのだろうか、光沢感のある、黒い水着のようなものを着ている。名前の後ろに書き足されている女王様の文字がなくともそれと分かる写真だ。顔には全体的に強めのぼかしがかかっており、人相は一切分からない。『美叶流華』と書かれていなければ、あの死体のルカと同一人物だとは分からなかっただろう。
「この人、メールの人だ」
いつの間にか律が脇に立ってディスプレイを覗いていた。目線の先には、『愛野ゆな』と書かれた女の写真画像がある。
「ルカにメール送ってきてたユナか」
ユナの顔にもぼかしがかけられていたが、それは口のみだった。子供のように丸い目と小ぶりな低めの鼻がしっかり写っているため、街中で会えばすぐに分かりそうだ。可能性は低そうだが、もしかしたら何かを知っているかもしれない。
「店の場所は、徒町三丁目か……バスで十五分くらいだな。くそ高いバッグを持ってるくらいだからバス通勤ってことはなかっただろうが」
律はオレからマウスを横取りし、『今週の出勤予定表』を見始めた。興味でもあるのか、わざわざ出勤女性の顔写真を何人分か開いている。
「行くの?」
「知り合いと鉢合わせになったら困る。お前が行け」
「ん」
律は唐突なほどすぐに背中を向けると、そのまま玄関に向かった。
「ちょっ、待てよおい」
「ん?」
「なんで断らないんだよ」
言いながら、自分でも何を訊いているんだと思う。
「行けって言ったの、亮介」
「いつもは面倒くさいとか言うくせに」
「散歩のついで」
「ついでに寄るだけじゃだめだ。ちゃんと話をして情報を訊き出すんだぞ」
「えー」
やっぱりか。
少しでも期待してしまったことに後悔し、身支度を始めた。
コトリがいなくて良かった。さすがに、女と一緒に行くのは気が引ける。
「オレも行く。メインはお前だけどな」
律は聞こえないふりをして玄関に佇んでいる。
玄関脇の下駄箱の上に置かれた眼鏡をかけた。六宮が落としていったものだ。これだけでは変装にもなってないが、ないよりはましだろう。律だけでは到底聞き込みに行ってくれそうにないし、少しでも顔を覚えられないようにしなければいけない。
光下先輩に貰ったカーディガンを羽織りながら、結局こうなるんだよな、とぼんやり考えた。
徒町の入口にある古ぼけた喫茶店は、二つの世界の境に建つ石碑のようだ。
昼間の、とりわけ地方の風俗街は、打ち上げられた魚の死骸に似ていた。濡れたような夜闇にこそ映えるネオンは、干からびたフィラメントを晒して沈黙している。人通りはまばらで、両脇に連なる店の看板には誰ひとり目もくれない。
昨夜の活気の名残が、煙草の吸殻や破かれたチラシとなってコンクリートの隅に打ち捨てられている。道の脇に転がっている塗装の剥げた自転車が、妙に似合っていた。
「ここか?」
携帯で写した地図画像を頼りに、一軒の店の前で立ち止まった。
薄汚れたピンクの看板も、壁に貼られた官能的な女のポスターもない、シンプルな店構えだ。黒を基調としており、入り口の上には流れるような字体で店名が掲げられている。おそらく、夜にはスカーレットの明かりが灯るのだろう。その周りは、ダイヤモンドを模した透明なプラスチックがランダムに埋め込まれている。両開きになっているガラスのドアには白字で店名と営業時間がプリントされ、黒いカーテンで中が見えないようになっていた。
壁の一部はガラス製のショーケースになっていて、ベルベットのクッションが敷き詰められている。その上には鞭やピンヒール、プラスチックの男性器が取り付けられたベルトなどが並べられていた。
「店、開いてない」
「三十分くらい早かったな」
ちゃんと営業開始時刻を調べてから来ればよかった。ルカの名刺をジーンズのポケットに仕舞いながら、そう思う。
「ここで待つか」
「あ」
律につられて店の入り口を見ると、細身の女性が背の高いイーゼルを持って現れた。
髪は明るいブラウンで、同業者だからだろう、写真で見たルカと雰囲気が似ている。赤のタイトスカートと黒のピンヒールが攻撃的だ。
「あら」
オレたちを見て、営業用であろう笑顔を作る。年は三十かそれ以上だろうが、それすらプラスにしてしまえる大人の魅力があった。
「オープンは一時からなんです。もしかしてお待ちのお客様?」
「いや、そう言うわけではないんですけど」
女性はイーゼルを店の入り口わきに設置し、そこに縦長のボードを置いた。
「あら、そうですか」
気を悪くした風もなく、笑顔のままイーゼルの向きを整える。ボードには店名や『本日の出勤女性一覧』のほかに、アブノーマルな快楽の素晴らしさが短文にまとめられて書き込まれていた。
「聞きたいことがあるんですけど、今良いですか?」
「なあに?」
「ここで働いてたルカさんのことなんですが」
「……え?」
なぜか、女性は少し面食らったような表情を浮かべた。何らかの事情を知っているのか、それともルカ自体を知らないのか。
「ええと、美叶流華さんっていう人です。源氏名だとは思いますが。この店で働いてたはずなんですけど」
「働いてたっていうか、今も働いてるわよ。何か御用?」
確かに、ルカが死んだと知っているのは殺人犯とオレたちだけだ。店側としては、単に無断欠勤を続けているだけだと思っているのだろう。
それにしても、完全に不審がられている。口調や表情が柔和なままなのは、接客業のプロだからか。
「オレの先輩がここの常連で、ルカさんと知り合いみたいなんです。でも最近出勤してないみたいだから心配らしくて」
「だから先輩に代わって、後輩のあなたが見に来てくれたのかしら」
「だいたいそういうことです。先輩には言ってませんけど」
女性は微笑をたたえたまま、ふうん、と目を細める。はたしてこれで納得させられただろうか。
「先輩のお名前、教えてくれない?」
一瞬逡巡したが、すぐにここで黙っていても仕方がないと思い至った。彼女たちは何度も客として来た先輩を見ているのだ。
「光下佑志だけど……ちょっと待って下さい」
慌てて携帯電話を取り出す。フォルダを漁ると、運よく以前に撮った飲み会の写真が見つかった。さやかはいないものの、この間の飲み会とほぼ同じメンバーが揃っている。その中には、もちろん光下先輩もいた。
こういう店では、本名ではなく偽名を使う客が多いだろう。とすれば、名前よりも顔を見せた方が早い。
「この人です」
彼の顔を指差す。知っているのかいないのか、女はうっすらと営業用の笑みを浮かべたまま写真を一瞥すると、すぐにオレに視線を戻した。
「で、この光下様は流華が出勤してきたら指名しようとしてるってことなのかしら?」
「多分……そうだと思います」
女の顔が、一瞬警戒の色を見せた。今の受け答えで、何かまずいことを口走ってしまったのだろうか?
光下先輩はルカを指名したことがなかったのかもしれない。しかし、さっきの会話にはこれから指名するつもりだという意味も含んでいた。だとしたら、何が不自然だったのだろうか?
全く分からない。焦りが募って、余計に思考回路が鈍る。
どうにか会話を繋がなければとは思うが、そのきっかけすらつかめなかった。
「光下君がルカさんを指名するはずないよ」
切羽詰まっていると、面倒臭そうに律が口を挟んできた。
「だって、ルカさんも光下君もサディストでしょ」
そうなのか?
言おうとして、先に女性の反応を見る。先ほどよりも表情はほぐれていた。
どうやら、律の言ったことは本当らしい。
「あなたもお知り合い?」
「亮介はただの後輩。僕は同級生」
「あら、そうだったの」
ただの後輩で悪かったな。
と文句を言いたいところだが、どうやら律が乗ってきたようなので我慢した。
「聞きたかったのは、愛野ゆなさんのこと。いつ来る?」
「今日は出勤する予定だけど、予約が入ってて。でも夕方からなら指名できるわよ」
「ん。わかった」
律は踵を返すと、あっさり元来た道を戻り始める。
「お、おい待てよ」
まだ聞かなければいけないことがあるのだ。せっかく店員を捕まえたのに、ここで去るなんて。
「あ」
オレの気持ちが届いたのか、律は振り向いて立ち止まった。
「閉店時間って何時だっけ」
「夜の一時よ」
女の言葉を聞くと、律は再び背を向けて歩き出した。
一言、耳を疑うような言葉を残して。
「ありがとう。美叶流華さん」
**************************
「おい、どういうことなんだ」
風俗街の入口にある喫茶店に、オレたちはいる。
店内の空気までが飴色に変色していそうな店の看板には、『軽食喫茶 どりあん』と書かれていた。花柄のビニール製テーブルクロスがかけられた木製のテーブルが、木の床に等間隔に並べられている。座っている席のすぐ右横はガラスの壁になっており、通りの様子が良く分かる。が、オレたちも足の先まで丸見えだった。
客は一割程度で、のんびりとした空気が流れている。
「さっきの人が……スカーレット・スレイヴから出てきたのが美叶流華なのは分かった。だが、だとしたらルカは誰だ」
律はコーヒーに目もくれず、サンドイッチの食パン部分だけを慎重に具と分別していた。
「んー」
「偶然同じ店に二人のルカがいたのか? それともあの女の源氏名が、偶然死体の女のニックネームだったとでも言うのか」
「かも」
「その前に、どうしてお前はあの女が美叶流華だって分かったんだ?」
「なんとなく」
美叶流華に会うのは、オレも律も初めてのはずだ。しかもスカーレット・スレイヴのウェブサイトには、女かどうかも分からないほどのぼかしが入った顔写真しか掲載されていない。
「ついでに、お前は光下先輩があの店の客だって知ってたのか?」
「知らなかった。さっき亮介が言うまでは」
そうだ。光下先輩がこのことをオレに打ち明ける直前、先に外に出ているよう律に言った気がする。
「だとしたら、どうして先輩がサディストだとか言えたんだよ。また『なんとなく』か?」
「そんな感じ」
「お前が食べているサンドイッチ、それは誰が代金を払うか知ってるか?」
「亮介」
「半分は正解だが、お前がこのまま何の役にも立たず情報さえオレに流さないって条件が付けば、その答えはハズレだ」
わずかに酸味のあるコーヒーをすすり、反応を待つ。
聞こえていないはずはないが、律は無反応のまま、水をゆっくりと傾けた。ちらりと外を見やって、ようやく口を開く。
「出勤表、見た」
「出勤表? スカーレット・スレイヴのサイトにあったやつか?」
オレからマウスを横取りしてまで見ていたわけが分かった。
「それで、"美叶流華"があのルカじゃないことが分かるのか?」
「三日前から明日まで毎日出勤になってた」
確かに、連絡がつかない無断欠勤者の出勤予定を自信満々の五日連続出勤にすることはないだろう。ウェブからの予約制度もあるようだし、更新はまめに行っているはずだ。
「でも、なんであの女が美叶流華自身だって分かったんだ?」
「一番初めにあの人自身が言ってたじゃん」
美叶流華との会話を思い出してみる。
――働いてたっていうか、今も働いてるわよ。
オレが『ここで働いていたルカ』のことを尋ねた時、彼女はこう言った。
「"今も働いてる"って、そういうことだったのか」
開店準備をしていた彼女は、まさに『ただいま仕事中』だったということだ。
「出勤予定者の写真からも、美叶流華がさっきのあの人に一番近い見た目だったしね」
「ああ、ネットにあったあの写真か。顔をボカしてはあったが、髪型や体型はわかるようになってたからな」
これで一つの疑問は解けた。
「じゃあ次。どうして光下先輩がサディストだって分かった?」
「自分で考えるのも大事」
割りばしがあったならその口の奥に突っ込んでやろうかとも思ったが、ぐっと堪えて考える。
そして思い当たった。オレの返答で美叶流華が警戒の表情を見せた時がある。
彼女が、
『その光下様は、流華が出勤してきたら指名しようとしてるってことなのかしら?』
と言ったときに、オレがそうだと答えた時だ。
あの時はなぜなのか分からなかったが、ウェブサイトで見た通り美叶流華がサディストだということを踏まえれば、その反応も理解できる。
逆に考えれば、ああいう反応をしたということは、先輩が美叶流華を指名するはずはない理由があるということだ。
「美叶流華がサディストだから、ってことだな?」
「ん。それと」
「それと?」
「光下君ってそれっぽい」
「Sっぽいってことか? そうかなあ」
「主観」
強気で攻撃的な男ほど意外とマゾの気がある……と聞いたことがあるから、その逆もあるのかもしれない。
納得していると、律がガラスの外を眺めながら言った。
「ここで待ってて、ユナさん捕まる?」
「心配ならあの店の前で張ってろ。通報されるだろうがな」
あのとき――律が死体のルカではなく愛野ユナの出勤時間について女に尋ねたとき、なぜ今さらユナの話題なんか、と思った。
しかし、少し考えてすぐに分かった。
美叶流華は警戒心が強いうえ、秘密厳守の意識が強すぎる。オレが『美叶流華とは目の前の女のことだ』と認識していないことを会話の始めですぐに察知し、結局最後まで『自分が美叶流華だ』とは言いださなかった。
光下先輩の名前を出した際も同じだ。決して、『彼を知っている』とか『彼は常連だ』と彼女自ら口にすることはなかった。
おそらく、こういう仕事はプライバシーの保護をより重要視しているのだろう。その理由は、光下先輩が風俗に通っていると打ち明けたときの様子から充分に察することができる。働いている女性にしたって、妙な男に付きまとわれる危険性が高い仕事だろうから、詮索してくる相手を警戒するのも無理はない。
結局のところ、美叶流華はSMクラブの従業員としては優秀だが、情報を引き出す相手としては絶望的だったのだ。
「ユナなら喋ってくれるんだろうな」
「さあ」
「そこまで考えてたんだろ?」
ユナの中身は、死体のルカに宛てた一通のメールでしか察することはできない。
『調子に乗ってると首になるょ』
『あんたの代わりがいないなんて思うな』
どんな気持ちでこのメールを送ったのだろうか? 少なくとも、突然姿を見せなくなった同僚を心配しているというわけではないだろう。
感じられるのは苛立ちと嫉妬だ。
おそらく、店での人気は死体のルカの方が高かったのだろう。『代わりがいないなんて思うな』というのは、『代わりがいないと思える状況にあった』ことへの苛立ちだ。死体のルカに対して良い感情を抱いていなかったのは間違いない。
とすれば、彼女のプライバシーに対して口が軽くなることへの抵抗感も低いのではないか。
「まあ、ここでユナが捕まらなかったとしても問題ない」
「なんで」
「お前、どうせ夜は散歩するだろ? ついでに店の前で張ってれば――」
突然、律が立ち上がった。
皿に乗せられていたサンドイッチは、しなびたサラダと食パンの盛り合わせになり果てていた。
「どこ行くんだ! ってか、せめて食えよ!」
再びサンドイッチに組み立てて口に放り込む。
無愛想な老人店員に代金を渡すと、表に飛び出して律を探した。
いた。五十メートルほど先だ。
まさに先ほど戻ってきた道を、スカーレット・スレイヴのある奥へと再び歩いている。
その先にいるのは、ライトブラウンのミディアムヘアにミニスカートの若い女――多分、ユナだ。
「おーい」
驚かせないよう、なるべくのんびりとした調子で呼びかける。
ユナらしき女は立ち止まって振り向いたが、すぐそばまでつけていた律に気付いてぎょっとしていた。
せめて声くらいかけて立ち止まらせろっての。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
丸く大きな目が、品定めをするようにオレを見た。口元がきゅっと結ばれているのは、多分怯えや不安からではない。
「なに?」
「ユナさんだよな? スカーレット・スレイヴの」
「だから、何」
別の意味で聞き出しにくい相手だ。
律の目はすでに喫茶店の方角に向いている。どうせ置いてきたサンドイッチが気になっているのだろう。ここはオレがユナと話を進めた方が良さそうだ。
……と思ったが、次の言葉を言おうとして詰まった。死体のルカの源氏名が分からない。同僚なら、本名を言っても通じるだろうか?
「あたし急ぐんだけど」
「ええと、アキコさんについて聞きたいんだ。ほら、最近店を休んでる……」
「アキコって何よ。アオイのこと?」
死体のルカはアオイという源氏名だったのか。アキコだったりアオイだったりルカだったり、ややこしい名前の持ち主だ。
「そうそう、舌を噛んで言い間違えた。アオイさんだったな」
「あっそ。あの子の客なわけ?」
それにしても、同じ接客業だと言うのになぜ美叶流華とはこうも態度が違うのだろう。この女はきっとサディストだな、と心の中で思った。
「まあ、なんて言うかそんな感じかな。にしても最近来てないみたいだが……最後に出勤したのは五日前の日曜日だったか?」
「は? 五日前ったら月曜日でしょ」
「そ、そうだな。悪い悪い」
機嫌を損ねないよう浮かべた愛想笑いが引きつる。はたしてこの女は今までに笑ったことがあるのだろうか。
しかし、わざと曜日と日にちを間違えて言ったのは正解だったかもしれない。口が軽ければこんなことをする必要はないのだが、ユナもまた積極的に情報を提供するタイプではないようだ。
となれば、わざと片方だけ間違っている情報を提供し、『こいつの言ったことは間違っている』と相手に思わせる必要がある。
相手が完全に間違った日付を言っていれば『違う』で切り捨てられるかもしれないが、今回のようにどちらか片方だけ合っていると思われる場合、相手は訂正するため無意識のうちに『正解』を言う可能性が高くなるのではないか……と、勝手に頑張って推測した。
今回は死亡当日である月曜か、その前日の日曜か、どちらかだろうと踏んでいた。
おそらく、死体のルカが最後に出勤したのは、ユナの言った五日前の月曜日だろう。
……多分、だが。
「で、アオイさんとは友達だったんだよな?」
「はあ? どう考えればそうなるわけ?」
「違うのか」
「あのさあ、汚ない手使って客取られてさ、そんで友達とか思ってると思う?」
「汚い手?」
「そーだよお。外ヅラ良いからって上手くすり寄ってさあ、オプションだってホイホイ何でもオッケーにして、あたしを指名してた客取ってさ。プライベートでも関係持ってたとかウワサだったし。って思ってたら無断欠勤とか、誰が穴埋めると思ってんの?」
無断欠勤は別として、他の部分はそれなりに順当な気がする。噂はどこまで本当なのかわからないし。
だが、彼女がアキコ――源氏名で言うとアオイ――を憎んでいるのは充分伝わってきた。
「薄情な客だな。そんなすぐに乗り換えるのか」
同情したふりをしてみる。
「でしょお? ホントそうだよ。超カッコよくて、本番とかはやらないのにハード鞭でチップ四万くらいくれたりとかさ、すっごい良い客だったんだけどさ。オプションの倍額だよ、倍額」
どういうシステムなのかは分からないが、チップ四万はオレでも惹かれる。だからと言ってハードな鞭で何をされるかなんて考えたくもないが。
「最後にアオイさんが相手した客って、もしかしてそいつか?」
「ううん。それが! あたしを指名したの。最初こそアオイと六十分プレイしてたんだけどさ、その後はあたしとマリヤに切り替えてがっつり五時間。ってコレすごくない?」
「二人を五時間も? 良くやるなあ……」
正直な感想だ。
もともとこういう遊びは高いだろうに、一体いくらになるんだろうか? それ以前に、計六時間もの間体力が持つのか?
「ま、さすがにあのときだけだけどね、そんな使ってくれたの。予約もなしに急にだったから、気まぐれだったんだろうけど」
「いくらだった?」
「五時間プレイだけでも二十一万。あたしらに入るのは六割だけどね」
「すげ……」
六割でも十二万六千円だ。二人だからさらにその半額なのだろうが、それにしたって心動かされる金額だ。
といって、オレが働けるわけはないが。
「にしても、その客は結局ユナさんが良かったんだろ。アオイのあとにそんだけ出来るってことはさ」
「まあね」
まんざらでもない表情だ。そろそろ本題に入ろう。
オレは携帯電話を取り出すと、画像フォルダを開いた。
「一応なんだが、この中に最後にアオイを指名した客はいるか?」
見せたのは、さっき美叶流華にも見せた写真だ。
「んー」
オレの手から携帯をもぎ取ると、ユナはすぐに目を丸くした。
「あっれ、光下さんだ」
指先は確かに光下先輩を指していた。
こんなところまで調べまわる者などいないと思ったのか、本名を使っているようだ。
「光下さんと知り合いなんだ? あ、そのカーデって」
「ああ、学校の先輩でさ、この服も光下先輩に貰ったんだ」
ユナは納得したようで、その表情から硬さが消えていた。まさか、ここでこのカーディガンが役に立つとは思わなかった。
「へえ。じゃあさ、もっとあたしのこと推しといてよ」
「もしかして、先輩がアオイを最後に指名した客か?」
「違う違う、それはもう一人のブサハゲ。ねえねえ、知り合いならまた五時間コース入れてって頼んでよぉ」
「まさか、がっつり六時間プレイした金払いの良い客って……」
「うん、光下さん。今度はあたしを指名してって言っといてよね。オプションいっぱいつけて」
「あ、ああ。勧めておく」
無理無理ぜったい無理、と心の中で叫んだ。多分、赤面した先輩に殴打される。
「ってことは、先輩じゃないのか」
光下先輩の口からスカーレット・スレイヴの名が出たので、まさかとは思ったのだが。
おそらく、死体のルカ――源氏名で言うところのアオイであり、本名はアキコ――を指名したのは、オレたちとは関係のない客だったのだろう。
律があくびをしながら、帰りたそうな目を向けてきた。最後に、六宮のこととアオイが仕事を終え店を出た時間とを訊いて帰ろう。
そう思い、ユナから携帯を返して貰おうと手を伸ばしたときだった。
「あ!」
ユナが身体をひねり、オレの手から携帯を遠ざけた。
「なんだ?」
「いたいた。筋肉とキモハゲ」
心底嫌そうに顔をしかめるユナは、しっかりと二人の男たちを指差した。
ミノルと鳥島先輩だ。
「えええ、来てたのか? 客として?」
「筋肉は違うよ、合コンやったことがあるだけ。こういう暑っ苦しい男、生理的にダメなんだよねー」
ミノルは良く合コンをしていたから、そのうちの一回だろう。そう言えば、二日前の飲み会の席で風俗嬢らしき女を持ち帰った話をしていた。
この間の合コンと、確か一ヶ月前の合コンでもそういった女の子に当たったとか何とか言ってぼやいていたっけ。
「それって、いつの話?」
「さあ、よく覚えてない。二週間以上は前かな」
だとすれば、三日前にオレが誘われた合コンではない。あのときにはすでにルカ(=アオイ=アキコ)はオレのベッドの上で死体となっていた。
逆に、ユナの言う合コンがあった時点では、間違いなく彼女は生きていたはずだ。
「メンバーって店の子たちか?」
「ううん、高校んときの同級生。本当はミキが来るはずだったんだけどぉ、なんか都合悪いからって穴あいちゃってさ。仕方なしにアオイを誘ってやったんだ、その一回だけだけどね」
同級生……。
合コン時の女性メンバーに風俗嬢が二人しかいないとすれば、ミノルが持ち帰ったのはユナかアオイかのどちらかということになる。
もちろん、ミノルの『感想』が当たっていればの話だが。
「その話、こないだあいつから聞いたんだけどさ。誰とくっついたんだっけ?」
「え? そうなの?」
「知らないのか? 誰かを持ち帰ったとか言ってたが」
「ならアオイだわ。ほかの子とは終わったあとで店変えておしゃべりしてたから」
やはりか。
これで、おとといの夜に六宮が執拗にミノルを睨んでいたことにも納得がいく。妻であるルカの浮気相手だと知って憎らしく思ったのだろう。
「とにかく、ミノルは客として来てたわけじゃないんだな。じゃあこの人は?」
鳥島先輩を指差してユナを見る。彼女の顔は瞬時にして歪んだ。
「このキモハゲ、あたしのこと指名してきてすんごい迷惑でさぁ。店に来るときは服だけは光下さんみたいなカッコしてるけど、この顔してちゃ何したって無駄だよ。マジ無理だってコレは」
「んー……まあちょっと変わってるが、良い人だぞ」
ついフォローしてしまった。
それにしても、まさかタモ研にSMクラブ通いをしている人間が二人もいるとは思わなかった。
「やだよ、こいつ絶対ホモだもん。あたしのこと指名すると、必ず光下さんとのプレイを詳しく説明させて一人で興奮してんだよ。あたしには指一本触れないでさぁ」
ごめんなさいを繰り返しながら走り去りたい気分だ。
いたたまれない気持ちになり、良い人なんだけどね、と視線を逸らして再び呟く。飲み会で光下先輩に纏わりついていたのは、相当に本気だったようだ。
「店に良く来るのか?」
「たまに。来るときはいっつも光下さんと一緒だよ。時々おごってもらったりもしてるみたい。ま、基本貧乏みたいだからあんまり金にはならないけどね」
「へえ。じゃ、もしかして六日前も一緒に?」
「うん。あたしじゃなくてアオイを指名してたけど」
まさか……。
意外だった。
ルカとともに過ごした最後の客は、鳥島先輩だったのか。
「でも、あたしに魅力がないからアオイを指名したわけじゃないんだからね」
「そ、そうなんだろうな」
「このハゲ、必ず前回に光下さんが指名した嬢を指名したがるだけだから」
歪んだ恋愛模様にはすでにお腹いっぱいだ。
「ところで、アオイが仕事を終えて店を出た時は分かるか?」
「えーっと、ハゲが来たのが光下さんと同じ九時半でしょ。んで、光下さんと六十分コースしてるあいだ待ってて……そのあとにハゲと一時間コースだったから、んーと……一時間と一時間足して……」
指折り数えるユナに助け船を出す。
「夜の十一時半?」
「そそ、確かそんな感じ」
ようやく、当夜の状況が掴めてきた。
十一時半に仕事を終えたルカ(=アオイ=アキコ)は、なぜかは分からないがオレのアパートに向かった。バスはもうない時間帯だから、タクシーを使ったのだろう。
車でだいたい十五分の距離なので、十二時十六分にオレのアパートの写真を取ることは時間的に充分可能だ。そのころには律は家を出たあとで、巡査ともすれ違ったあとだ。
そして何らかの理由で殺され、戻ってきた律に発見された。それが夜中の一時。
「ちなみに、なんかアオイの様子で変わったこととかなかったか?」
「風邪ひいてて超迷惑だったよ。マスクもしないで咳してて、あたしにうつったらどうすんのって感じ。けどまぁ軽そうだったし、それで無断欠勤とか許さないけどね」
「風邪が原因なら、連絡くらいは入れられるもんな」
「そーそー。社会人のジョーシキだよね」
言い終わって、ユナは弾かれたように腕時計を見た。
「うっわ、ちょっと遅刻なんですけど!」
「最後にあと一つだけ。この男に見覚えはあるか?」
走り出したユナに並走しつつ、六宮の写真を見せる。オレの部屋で朝っぱらから乱闘した後に写したものだ。
「んもう、しつこいよ! いい加減にして」
「悪い、お詫びに光下先輩にユナさんのこと勧めておくから」
「マジで? 絶対だよ! じゃ、これあげる」
「なんだ?」
「あたしのメアドつき名刺。まだ用があるなら後からメールでもして! ヒールで走りながら喋るの、どんだけ辛いと思ってんのよ!」
「分かった」
名刺を受け取り、並走をやめる。
「あ、それと最後に言っとくけど」
息の荒いユナが、振り返って言った。
「その伊達眼鏡、超絶似合ってないから!」
そのまま道の向こうに消えていくユナを見送り、そっと眼鏡を外す。単なる変装でかけていただけなのに、妙に傷ついた。
踵を返し、道の端でしゃがんだまま眠っている律を叩き起こす。
「起きろ、終わったぞ」
「うう」
「夜寝て朝起きるなんて慣れないことするからそうなるんだ」
腕をつかみ、引き上げるように立たせる。
目が死んでいた。
「亮介、話長い」
「好きでおしゃべりしてたとでも思うか?」
「おなか減った」
「大人しくサンドイッチをサンドイッチのまま食ってりゃ良かったんだ」
再び座りこみそうになる律を、強制的に歩かせる。夜中に長い時間散歩が出来るくらいだから、バスを使わなくても徒歩で帰れるだろう。
徒町を抜け、大きめの道路に出る。週末の昼過ぎとあって、車通りはそれなりに多い。知り合いに見られてなければいいのだが。
手を離せばその場で永遠に止まってしまいそうな律を引きずりながら、ユナとの会話の内容を最初から説明した。
熱心に聞いているとは言いがたいが、相槌や質問が返ってくるだけでも良しとしよう。
「光下君、金使い荒い」
「そりゃ、親が警視監だの医者だのなんだから金なんか腐るほどあるだろ」
「鳥島君は?」
「金持ちかどうかは知らんが、光下先輩ほどの遊び方じゃなかったにしても定期的に行ってたっぽい」
「何で?」
「何って、そりゃSMを……いや、もしかして光下先輩のプレイ内容を聞くためにわざわざ通ってたとも考えられるか」
何とも言えない感情がよみがえった。きっと、もう少し健全な愛情の表現法があるはずなのに。
広い道を折れ、住宅街に入る。まだ新しそうな一軒家や新婚向けのマンションが多い。駐車場の車が少ないのは、皆どこかに出かけているからだろうか。
遠くで、子供たちのはしゃぐような声が聞こえた。
「光下君の部屋、このあたりだっけ」
「ちゃんと覚えてるんだな。あの白いマンションだ」
左前方にある、四階建ての建物を指差す。
アーチ状のゲートは西洋の神殿のようなデザインで、大理石のような色と質感だ。
足もとには、マンションへと通じる幅の広い赤レンガの通路が伸びている。
両脇に背の高い花壇があり、まだ花は付けていないものの、濃い緑色の葉で賑わっていた。
入口の大きな自動ドアはガラス張りで、その上には『ハイム・アゼリア』と書かれた銀色の看板が掲げられている。
前を通り過ぎながら、何気なくその奥の駐車場を見た。見覚えのある黒いセダンが停まっている。
「先輩、家にいるみたいだな」
「だね」
こんな天気の良い休みに珍しいとも思ったが、誰か友達を呼んで遊んでいるのかもしれない。
ユナによって先輩のアリバイの裏も取れたことだし、特別用もないので、そのまま通り過ぎようと視線を外す。
「……ん?」
視界の端に違和感を感じた。マンションとは逆の右側だ。
「なに」
早く帰りたいのに、と言いたげな律を無視して辺りを見渡す。道には、路上駐車されている二台の車。
その中に、シャンパンベージュの軽自動車を見つけた。
「これ……」
昨日乗ったのだから間違いない。
さやかの車だ。
「飲み会でオレにビールぶっかけた手塚さやかってやつ、覚えてるか?」
「うん」
「そいつがここに来てる」
「うん」
何のリアクションもなかった。すでに思考回路は停止しているらしい。
「研究室も違うし、研究内容も違う。何の用でここに来てるんだ?」
「うん」
「飲み会のときの詫びなら、オレかミノルにでもケータイの番号を訊けば良いんだ。
昨日の調子じゃ、わざわざ会いに来て詫びを言うほど反省しているようには見えなかった」
「うん」
近づいてナンバープレートを確認する。やはりさやかの車に間違いはない。
この辺りに住んでいる他の友達に会いに来ただけだろうか?
そう考えて、すぐに否定した。周囲にあるのは、新築の一戸建てや、新婚向けのマンションだ。光下先輩のような金持ちでもない限り、二十歳ほどの学生が住む場所だとは思えない。
やはり、さやかは光下先輩に会いに来たのではないか。
その考えを後押しするように、彼女の車は『ハイム・アゼリア』の真正面に停められている。
「さやかが先輩と話してるところは、学校ではほぼ見たことがない。あいつと話してるときだって、コトリやミノルの話題にはなっても先輩の話題なんか出てきたことないぞ。だが……」
次第に緩やかになった歩を止め、振り返る。
「律、どう思う?」
律はすでに百メートルほど先を歩いていた。
「どうしてお前はそんなに協調性がないんだよ!」
後を追いながら文句を言うが、奴の耳には届いていないようだ。追いついた勢いで肩をたたくと、心底鬱陶しそうな目で見られる。
オレ絶対そこまで悪いことはしてないよな、と自分を慰めながら、そっと手を引っ込めた。
遅めの昼食後の律には、珍しく表情があった。ただし、見ていて楽しくなるような笑い顔ではない。
「頭痛い」
眉間と鼻にしわを寄せ、斜め下を睨みながら座り込んでいた。
「大丈夫か? 鎮痛剤あるぞ」
「まずそう」
「一応言っとくが、錠剤ってのは噛み砕かずに飲み込むものだぞ。それに、貧乏学生にとっては高級品なんだからな」
「ちょうだい」
うな垂れたまま差し出された左手に、白い錠剤を二粒乗せてやる。ガラスのコップに水を汲んでいると、すでに後ろからぼりぼりという咀嚼音が聞こえてきた。
「……旨かったか?」
「そこそこ」
薬に味を求める意味が分からない。
「で、パンは?」
「……働いて自力で買えばいいと思うぞ。ってか働いてくれ」
「これ貰う」
律はオレの手から箱ごと頭痛薬を取った。相当痛むのか、食料としてストックしたいのか。
「一回二錠だ。今飲んだばっかりなんだから四時間は飲むなよ」
「飲んだらどうなる?」
「さあな、副作用とかが出るんじゃないか? ま、死にはしないが経済的に打撃になるからやめておくんだ」
薬を取り上げ、オレの学校用の鞄に仕舞う。幼児なら手の届かないところに置けばいいのだが、こいつの場合はオレよりも手が届く範囲が広いから厄介だ。
「なあ、さっきのこと覚えてるか?」
遺伝子工学の教科書とレポート用紙を、鞄から取り出す。学生実験で行ったプラスミドDNA抽出の結果をまとめて提出しなければいけない。
「なに」
「さやかの車が、光下先輩のマンションの前にあったことだよ」
「知らない」
「だろうと思った」
部屋の真ん中に置かれた、布団のかけられていないコタツを机代わりにしてレポートを書き始める。
「さっき帰る途中、さやかの車が光下先輩のマンションの前に泊まってたんだよ。研究室だって違うし、そんなに親しいなんて話は聞いたことがない」
「ふーん」
律はいまだに牙をむく直前のライオンのような顔をしている。
が、声の調子が軽いあたり、単に面白くて変な顔をしているだけなのかもしれない。
「あれか、今までオレに絡んできてたのは先輩に近づくためだったってことか。で、今日目的を果たしたとか」
「希望的観測」
「……他人事だと思いやがって」
腹が立つが、確かにそうだ。輩が目的だったなら昨日オレとデートをした理由がないし、この間の飲み会をぶち壊した意味もない。
気にするほどのことではないかもしれないが、普段接点がないと思っていた二人なだけに妙に引っかかる。電話ではなくわざわざ自宅に行かなければいけない理由とは、何だったのだろうか。
「気になるなら光下君に訊けば?」
冷蔵庫を開けながら律が言った。確かにそれが一番手っ取り早いだろうが、何と切り出せばいいのだろう。
アリバイを確認するついでに訊こうかとも思ったが、先ほどのユナの話から、ルカの死亡推定時刻時に先輩はSMクラブにいたということが分かっている。
むしろ、アリバイを取る必要が出てきたのは鳥島先輩のほうだ。
「なあ。鳥島先輩がルカを殺したんだと思うか?」
「さあ」
「確かに変な人だ。けど、人を殺すような人間には思えないんだよな」
律が返答をする前に、オレの携帯が鳴り始めた。コトリからの電話だ。
通話ボタンを押すと、いつもより大人しめの声が聞こえた。
「亮介、今って大丈夫?」
「ああ、丁度部屋に戻ったところだ。どうした?」
「いや別に……進展あったかなーと思って」
いつもの歯切れの良い口調ではない。あれからずっと律のことが気になっているのだろう。
「今朝、ルカが勤めてたっていう店に行ってきた。なんなら律に報告させるか?」
コトリに貰ったパンを食べる律を横目で見ながら言った。
「えっ、い、いいよ。失敗は成功で取り戻して見せるから」
「成功?」
「犯人を見つけるのに役立てたら、少しは見直してくれそうじゃない?」
コトリらしいセリフだ。昨日はどうなるかと思っていたので、正直ほっとした。
「それで、お店で何か良い情報を貰えた?」
「それがな……」
オレは、今朝あったことをコトリに話した。ただし、光下先輩の名前を出すのはやめて、鳥島先輩の友人と言うに留めておいた。光下先輩に固く口止めされていたし、何よりアリバイがあるのだから、今言わなくても良いと思ったからだ。
「ユナさんのアドを貰えたのは収穫だね。それに、鳥島先輩やミノちゃんの名前が出たってのも新展開じゃない?」
「けど、ミノルが女を殺すなんてあり得ないだろ。殺されることはあったとしても」
「殺されそうになって自己防衛、ってことも考えられるでしょ。それと、ミノちゃんに彼女はいたっけ?」
「何日か前に聞いたときは別れたって言ってたぞ。そのときも修羅場になったとかなんとか」
「どんな?」
「ミノルが夜中のコンビニで働いてるときに突撃してきたらしい。その彼女に横恋慕してた男もなぜか付いてきて、わざわざミノルの女遊びを注意したらしいぞ」
「何それ……彼女側の浮気相手ってわけじゃないんだよね?」
「だったらわざわざ恋敵に文句付けに来ないだろ。取り巻きみたいなもんじゃないか? 元カノ、かなり可愛かったし」
「じゃ、恋愛感情はなかったってこと?」
「うーん、それも違うみたいだ。ミノルによると、元カノに片思いをしていて、ミノルと対決して彼女を奪いたかったらしい」
「その場でケンカしたの?」
「いや、ミノルのほうはもう冷めたらしくて、彼女を譲るって言ったらその男は喜んだらしい」
「彼女はそれ黙って聞いてたわけ?」
「かなり怒ったみたいだ」
「だろうね」
確か、『殺してやる』とまで言ったらしい。
勢いに任せて言っただけだとは思いたいが、もしその女がさやかのような性格だったとしたら、言葉のあやだけでは済まないかもしれない。
「顔見知りや警官もそうだけど、夜道で話しかけられたとしても、若い女の人なら警戒しないかもね。ミノちゃんの元カノさんのアリバイ、何とかして分からないかなぁ」
「難しいな。それにオレのアパートや近くの民家に住んでるわけじゃないし、巡査と律の目をどうやって掻い潜れたかが問題になってくる」
電話の向こうが沈黙した。おそらく、頭をフル回転させて可能性を探しているのだろう。
正面から付けられた首の締め跡や、公道で殺されたにもかかわらず聞こえなかった悲鳴。そして、律や美濃巡査の目をかいくぐっての殺人。この事件には、不可解なことが多過ぎる。
「あっ、そうだっ!」
コトリが突然、何かを思い出したように大きな声を上げた。
「何なんだよいきなり」
「忘れてた、洗濯機!」
こいつも不思議の世界の住人になったかと思ったが、本人は大まじめな様子で続ける。
「ちょっと、妙な沈黙作らないでよ。アパートの二階の階段わきにある洗濯機のことだってば」
「ああ、ちっとも回収される気配のない洗濯機か。律が壊したやつだ」
わざとらしく律を見やると、頭痛薬の箱から目も上げずに言った。
「どんだけ洗っても綺麗にならなかったから、最初から壊れてたんだ」
「ああ、衣類だったらそう言っても許されただろうな。衣類だったらな」
「な、何入れたの牧野ちゃん……」
会話を漏れ聞いていたコトリが、電話の向こうで困惑していた。
「で、洗濯機がどうしたって?」
脱線しかけた会話を戻す。
「だから、洗濯機がこのアパートの二階の粗大ゴミ置き場に置かれてたでしょ?」
「ああ」
「あれって、人ひとりくらい入れるよね」
「……そうか。あそこに入ってフタを閉めれば――」
「誰にも気づかれず隠れていられる。つまり、牧野ちゃんや巡査に会うことなくアパート前に現れて、すぐにまた隠れることが出来るの」
盲点だった。
このアパートにはエレベーターがないから、律が出入りするときには、必然的に階段の横にある粗大ゴミ置き場の前を通る必要がある。
つまり、洗濯機の中に入っていれば律がいつ出入りするかをリアルタイムで知ることが出来るのだ。
ただ、問題がないわけでもない。
「確かに入れるだろうが、かなり小柄じゃないと無理だぞ。ミノルなんか絶対フタが閉まらないだろうな」
「そっか……どれくらいなら入りそう?」
「オレでも無理だろうな。相当痩せてるか、小柄な女なら入りそうだ」
小柄な女性。そう、例えばさやかのような。
「それに六宮……あいつも相当小さかったよな。体格だけなら女性と変わらない」
ここでまた、六宮の可能性が出てきた。殺した場所に不自然さは残るものの、やはり一番怪しい人物だ。
「つまり、牧野ちゃんと巡査以外で現場に近づけたのは、アパート住民のほかに小柄な女性と、六宮さんも含まれるってことね」
コトリはそうまとめたあと、何かを思い出すように少し間を置いた。
「ねえ……身体のあざって、ホントにルカさんの死と関係あるのかな」
ひとりごとのように、ポツリとつぶやく。
ふと今朝の光景を思い出した。もしかしたら、オレは何でも関連付けすぎているのかもしれない。
「そうか、あれは全く別のときに付けられたあざかもしれないな」
「でしょ? 何しろSMクラブで働いてるんだもの。あざのひとつやふたつ、仕事中についてもおかしくないんじゃない?」
「そんなハードな仕事なら、勤務中に死んだりしないのか?」
「そこらへん、SMクラブ経験者の亮介としてはどう思ってるの?」
「いや、だからオレじゃなくて知り合いが……」
弁解しようと思ったが、コトリのてきぱきとした言葉でさえぎられた。
「まぁ、こういうときのためのユナさんよね。連絡とって、そこのところ確認しといて」
「ったく……分かったよ」
「ついでに、六宮君とタモ研メンバー全員についても聞いておいて。何か新情報が出るかもしれないし」
「はいはい」
「さやかちゃんもね」
「なんでここでさやかが出てくるんだ?」
「情報は多いほうが良いじゃない。それにさやかちゃんは、接点はほとんどないはずなのに、SMクラブの常連だった光下先輩のマンションの前に車を停めてたのよ?」
「そうか……って、おい」
今、コトリがさらっと大変なことを言った気がする。
「なんで光下先輩がSMクラブに行ってたとか知ってるんだ」
「さっきの報告を聞いてればおのずと、ね。鳥島先輩のSMクラブ代をおごれるほどのお金持ちで、鳥島先輩がご執心なのって、思いつく限りではひとりしかいないもん」
「お、おまえの全然知らないやつかも知れないじゃないか」
「そう、だから今カマかけたの。見事に引っかかってくれたよね」
……何だかオレ、同じようなことがつい最近もあった気がする。
「自己嫌悪だ」
「大丈夫よ。大抵の男の子って、女よりも単純に作られてるもんだし」
それが良いところでもあるんだよ、とコトリは付け足したが、そんなの何のフォローにもなっていない。
「とにかく、さやかちゃんと光下先輩との密会は気になるところだよね。学校では話してるところを見たことなんかないし」
「確実にルカの件とは関係ないだろうけどな」
「そうかなぁ? ま、意外なところから何かが分かるかもしれないし、取り合えず調べてみるよ」
「わかった」
電話を切り、いまだパンを貪っている律に声をかける。
「今からバイトに行ってくる」
「ん」
「携帯を持たないおまえにユナに聞き込みをしろとは言わないが、もう面倒なことは起こすなよ」
「ん」
「間違っても、もう死体なんか連れ込むな」
「ん」
「なんならバイト探しに出かけても良いぞ。天気も良いことだし」
「やだ」
そこはちゃんと答えるのか。
妙な理不尽さを感じながら、オレは部屋をあとにした。
バイトから帰宅し、ゆっくりと息を吐き出しながら座布団に腰を下ろす。
このまま寝てしまいたかったが、今日のコトリとの電話を思い出した。携帯とユナの名刺を取り出し、一文字ずつメールアドレスを手打ちする。
ルカの身体についていたようなあざが果たして勤務中につくのかどうかを、なるべく遠まわしな表現にして打ち込んだ。ついでに、オレの携帯の番号も添えておく。
一度読み直してから送信すると、三分もしないうちに未登録の番号から電話がかかってきた。
「もしもし」
「今日の人だよね? ってか名前聞いてないんだけど」
「……牧野律だ」
学校でオレがSMクラブに行っているなんて噂が流れては困る。律なら良いが。
「じゃあ律、メール打つの面倒くさいから電話で済ませるね」
「店はもう良いのか?」
「今日はもう終わり。帰ってビール飲んでるとこ」
ちゃぷちゃぷ、と電話の向こう側で残り少ないビールの音がする。
「それでさ、プレイの話だけど。律ってわりとドSなわけ?」
「いや、な、別にそういうわけじゃ」
「隠さなくても良いよ。こういうこと聞いてくる人もフツーにいるし」
「こういうことって……プレイ内容のことか?」
「っていうか、ほら、あたしたちSMやってるって言っても商売なわけでしょ。プライベートでやってる人と違ってさ、激しすぎることやっちゃうと後が困るわけ。客はひとりじゃないんだからさ」
ビールを一口飲んで、ユナが続ける。
「だから、律が言ってた殴ったり蹴ったりなんて、お店では無理かな。縛りですら跡が残らない素材の縄を使うくらいだから」
「へえ、色々あるんだな」
「奥が深いんだよ」
だとしたら、あのあざはSMクラブとは関係ないのだろうか。ふと昼間のことを思い出し、ユナに言ってみる。
「じゃあさ、たとえば光下先輩みたいにチップを払ったとしても無理なのか?」
「ああ、昼間話したハード鞭のこと言ってる?」
「そうだ、あれなら殴るのと同じぐらい痛いんじゃないか?」
うーん、とユナが電話口で唸った。
「何て言えば良いかなぁ。ほら、ハード鞭って言ってもさ、しょせんSMの道具なわけよ。跡がついたりもするけど、皮膚どまりなわけ。映画に出てくるみたいな、肉が裂けて骨が折れて、なんてのじゃないよ」
「そんな殺傷能力高そうなのは最初から想定してないぞ」
「でさ、殴ったり蹴ったりされちゃうと、下手すると骨折とか流血沙汰になるでしょ。最悪死ぬかもだしさ。特にプレイ中は興奮しまくりだから、手加減は難しいし」
「ああ、なるほど……」
「律がそういうことしたいならお店以外で相手見つけることだね。あたしはムリ。イくのは良いけど逝くのはやだ」
何と反応していいか分からないので、下ネタは聞かなかったことにした。
「じゃ、店抜きでならそういうプレイもSMにはあるってことか?」
「プライベートになればセックスなんて色々でしょ。律が今までどんなセックスしてきたかなんて知らないけど、歴代の彼女で同じ反応する女とかいなかったっしょ?」
「まあ、それは」
言葉を濁す。話がわけの分からない方向に行ってしまった。
「ねえねえ、律はどんなプレイが好きなわけ?」
「な、なんだよいきなり」
もう切りたい。
「いいから教えてよぉ。あたし今日あんたに感謝してるんだから。危ないのじゃなければ、お店来たらサービスしてあげちゃう」
「感謝? 何に?」
「光下さんだよ。さっそく指名してくれたんだから」
「え? 今日来てたのか?」
「そだよ、オプションは少なめだったけどさ、やっぱカッコ良いんだもん。んもう見てるだけでも癒される~」
キャハキャハとはしゃいだ笑い声が聞こえた。酔っ払いの相手はいい加減疲れる。
「そうかそうか、良かったな。じゃあそろそろ切るぞ」
「やぁだ、冷たいなー。そういうの嫌いじゃないよ」
げっそりした。
そのままそっと切ってしまおうと思ったが、運よくドアチャイムが鳴った。
「なにー、深夜にお客さん? やーん、デリな彼女?」
「……何か知らんが、多分男だ。じゃあ、本当に切るぞ。出なきゃいけない」
「はいはぁーい」
今度こそ本当に電話を切ることができた。
だからと言って、これが歓迎するべき事態かどうかは分からないが。
もう疲れたし、無視してやろうか。
しかし、この狭い安アパートならば今の電話中の声も外に漏れていたかもしれない。何より、部屋の電気がついているのだから居留守はバレバレだろう。
ため息をついて立ち上がり、覚悟を決めてドアを開けた。
「悪いな、こんな時間に」
立っていたのは、光下先輩だった。遊びに行く時など何回か迎えに来てもらったことはあるが、いきなりの来訪は初めてだ。
「どうしたんですか急に」
時計を見ると、夜の十一時だ。いくら土曜日といっても、急に遊びに来られるのには困る時間帯だ。
しかし、先輩の表情からは今から遊ぼうなんて雰囲気は感じ取れない。
「取りあえず入って下さい。麦茶くらいしかないですけど」
「いや、いいんだ。ここで」
狭い玄関に立ったまま、先輩は靴を脱ごうとはしなかった。ドアを閉めると、余計に狭苦しさが際立つ。
「何かあったんですか?」
いつも朗らかな先輩の表情が硬い。
ふ、とその目がオレの目を見つめたとき、訳もなく動揺した。
「あの――」
「どうして行ったんだ」
落ち着いた、そして何の感情も読み取れない声だった。先輩の目は、ずっとオレを射抜いたままでいる。これなら、怒鳴りつけられたほうがよっぽど平常心を保っていられるだろう。
「ど、どこにですか?」
「店だ。このあいだ教えた、スカーレット・スレイヴ」
簡潔な、淡々とした返事が返ってきた。自分の恥ずかしいところを探られて怒っているのだろうか。
「ちょっと……興味があって」
違う。ただ恥ずかしいだけなら、もっと感情を出して『怒る』はずだ。
今の先輩からは、怒りを通り超えた何かを感じる。
「何に興味があった。店にか。それとも別の何かか」
思わず視線をそらした。
なぜだ。
何が先輩をここまでにさせているんだ。
オレだって、全てを洗いざらいぶちまけたい。嘘をつくのは苦手だし、こんな状況から一秒だって早く逃げ出したい。
しかし、だったら何と言えば良い?
以前保管していた死体について調べていたんだ、なんて言えるわけがない。決してオレが殺したわけじゃないんだけど、彼女の携帯にはオレの写真が残ってます、なんて信じてもらえるわけながい。
「何も言わないなら、オレから話す。……さっき、オレは店に行ってきた」
顔を上げると、先輩はいまだにオレを見据えたまま、言い含めるように続けた。
「愛野ゆなと会ってきた。彼女から、おまえらしき人物に会ったと聞いた。アオイについて散々聞かれたそうだ」
ああ、こんなことならユナに口止めをしとけばよかった。
……しかし、そうしたところで律義に話さずにいるとも限らない。今日会ったばかりの素性も知らない男と比べれば、光下先輩のほうがよっぽど彼女にとっては重要だろう。
「亮介、おまえも知ってるんだろう? 彼女は五日前に姿を消したきり店にも顔を出していない。これまで、こんな長い間アオイが店を無断欠勤することなんてなかった」
「先輩……」
何かが崩れるように、光下先輩の目から力が抜けていく。
「思い出すよ。中学二年の秋だったなあ。おまえにも言っただろ? オレが初めて付き合った子……」
「……はい」
「少しずつ痩せていくんだ。笑顔が消えてくまが出来て頬がこけて、確実に弱っていくんだ」
光下先輩の口が、奇妙に歪んだ。それは笑っているようにも見えるし、泣くのを必死でこらえているようにも見えた。
「どうしたんだ、って何度も聞いたよ。理由は教えてもらえなかったけど、噂にはなってた。彼女がいじめに合ってるってな。誰かは分からないけど、とにかく嫌がらせが続いているらしかった」
飲み会の夜、さやかが暴れた後に聞いた話。
先輩は今でも、あの時の悪夢にとらわれているのだ。
「二度と誰かを好きになんてなるもんかと思ったよ。相手を守るためにも、自分自身を守るためにもな。だから金で割り切った遊びで済ませようと思った。けど……」
先輩は、たぶん好きになってしまったのだろう。知らず知らずのうちに、アオイに惹かれたのだ。
誰が悪いわけでもない。ただ、先輩を苦しませるには十分すぎる出来事だった。
「極力気をつけてはいたんだ。店外で合うときは、必ず待ち合わせ場所を遠くにして、車で迎えに行ってた。それも、必ず半月は間をあけて、誰にも気づかれないようにした。店で合うときも毎回指名するのは避けていた。本当に気をつけていたんだ。……アオイは、何もそこまで、って苦笑いしてたけどな」
過去の一度のことで、と軽く考えるアオイの気持ちもわかる。
周囲に自慢したい気持ちもあったのだろうか、光下先輩とアオイとの関係は、彼女に嫉妬していたユナでさえ知るところとなった。
「今さらおまえに何かしようなんて思わない。本当のことを教えてくれればそれで良いんだ。なあ亮介、何があった。おまえは何を知ってるんだ」
輩の表情は、あの飲み会の夜よりも痛々しかった。中学時代の恋人がそのまま取り憑いたかのように弱り切っている。
今の先輩に全てを話しても、きっと通報することはないだろう。六宮に危害を加えることも、たぶんない。ただ腐乱した死体にすがって泣くことしか、彼には出来そうになかった。
「……分かりました。大きな声では話せないこともあるんで、とにかく中入って下さい」
うなだれたまま、先輩はオレの後をついてきた。部屋の隅では、律が毛布をかぶりながら様子をうかがっている。
先輩に座布団を勧め、オレもその脇に腰を下ろしながら考える。いったい、どこから話せばいいだろう。
やはり律が死体を拾ってきたところからだろうか、と思ったとき、先輩が咳き込んだ。
彼が喘息持ちだということを思い出す。学校では発作が起こっているところを見たことがないが、ルカのことでストレスがかかって酷くなってきたのかもしれない。
「なあ亮介、中に入らせてもらっても良いか? 長くなるようだし」
「ああ、もちろん……いや」
快諾しかけたが、慌てて撤回した。今、部屋にはまだルカのバッグが残されている。律に『見えないところに片づけてこい』と言うのももう無理だし、何より、まだ腐臭が漂っている危険性もあった。オレや律は住んでいるから鼻が慣れきっているだろうが、外から入ってきた先輩なら、敏感にそれを嗅ぎ取るかもしれない。
先輩がここを訪ねてきた理由が理由だけに、今ここで『死体』や『ルカ』というキーワードをこの部屋から連想させるわけにはいかなかった。
「だめなのか?」
先輩がいまだ咳き込みながら不審そうに尋ねる。
「あの、ちょっと……ものすごく今散らかってるのに気づいちゃって」
「それくらい別に構わないが……。何かあるのか?」
ストレートな物言いに、言葉がつまった。さっそく不審がられている。
オレだって咳を繰り返す先輩を玄関に立たせたままにはしたくないが、状況が状況だけに拒否せざるを得ない。
「あの、ほら、今取り込み中というか」
「誰か来てるのか?」
「やっと送り返したところですけど、まだ忘れ物っぽいのも残ってるんで」
納得したかどうかは分からないが、先輩は「そうか」と言って引き下がった。咳も、まだ出てはいるものの、発作と言うほどひどくはないようだ。
彼の目に、オレはよほどの人でなしに映ったことだろう。もうちょっと上手く嘘をつけるようになりたい……。
微妙な沈黙が流れたとき、タイミング良く律が話しかけてきた。
「ルカさんの話?」
いきなり死体の名前を出すな。
あまりの言葉選びにひやりとしたが、先輩はそんなことは気に留めていないようだった。
「何か知ってるのか?」
先輩がまっすぐな視線を律に向ける。
「今は六宮君のところにいる」
"今は"って言うな。
「六宮……?」
「うん。ずっと探してたから」
「じゃあ、無事なのか!」
「無事っていうか、手は取れてるね」
「手? 怪我したのか?」
「怪我っていうか死んでるね」
なんてダイレクトなんだ。
こいつは人の心情というものをもう少し理解すべきだ。
「……律、こんなときに冗談は……」
先輩はうろたえながら目でオレに助けを求めてきた。本気なのかどうか分からないのだろう。
律はなぜ先輩が動揺しているのか分からない様子で、風邪? とかふざけたことを訊いていた。
「先輩、落ち着いてください。何というか……その六宮って男が、突然この部屋に現われるようになったんです」
言いながら、先輩を見る。六宮という苗字に何も反応しないということは、彼女が既婚者だということを知らないままに付き合っていたのだろう。
「それまでは一切そいつのことなんか知りませんでしたし、いまだに何で奴がここにオレがいることを知ったのかも知りません。で、木曜日、あの飲み会の後、西山公園でいきなり六宮に襲われたんです。ミノルやさやかもその時いて大騒ぎになったんで、訊いてみてくれれば分かります。そのあと、とにかくその場に置き去りにするわけにもいかないということで、コトリの車で六宮を家に送り届けることになったんです。そして……そこで、なんというか、変わり果てた姿の女性を発見しまして」
都合上オレたちが死体を拾って六宮に返したくだりは省いた。保身に走ったことに対しては先輩に申し訳ないとも思うが、やはり自分の口からは言えなかった。
「……嘘だ」
しばらくの沈黙ののち、光下先輩はつぶやいた。
「信じたくない気持ちは分かります」
「第一、それはアオイじゃないかもしれない。だってそうだろ、亮介も律も彼女のことなんか知らないじゃないか」
「その時までは知りませんでした。生前、彼女に会ったことはなかったですから。でも、店にアオイさんが顔を出さなくなった時期と一致してるじゃないですか」
言いながら、考えてみる。
確かに、死体の女が『スカーレット・スレイヴ』の美叶流華の名刺を持っていながらも、本人でないことは分かった。そして、六宮が死体の女を『ルカ』と呼んでいることも分かっている。
オレたちは消去法で『死体の女=失踪した風俗嬢・アオイ』だと考えたが、本当にそうなのだろうか。
「単なる偶然かもしれないだろ?」
必死に説得するような光下先輩の言葉に頷く。
「言われてみれば……そうですね」
しかし、そうだとすれば携帯電話に入っていたメールの件はどうなるだろうか。
先輩には話していないが、あそこには『店長』と『ユナ』、そして『みー』からのメールが残されていた。
いつ出勤できるのかと迫る店長、無断欠勤を責めるユナからのメール。どう考えても、『スカーレット・スレイヴ』を休んでいるアオイに宛てたものだとしか思えない。
そして何より、このメールだ。
『送信者:みー
件名:こんばんは
久しぶり。
最近メールしなくてごめん。
ポスター発表の資料作りに追われてて。
土曜の夜は空いてる?
結構本格的でおいしいイタリアンの店見つけたから、一緒に行きたいな。』
あの時コトリとも話していたが、最近ポスター発表形式の日本細胞生物学会が開かれた。光下先輩やミノルが参加していたはずだ。そして『みー』のメールアドレスの文字から、タモ研のメンバーである可能性が高いということも分かった。
ここまでくれば、どう考えても『みー=光下先輩』だと結論付けるのが普通だろう。
「そうだろ、そうだよな。縁起でもないこと言って驚かせるなよ」
オレの心の内を知ることなく、光下先輩は眉間にしわを寄せてため息をついた。
「……すみません」
本当のことを言うべきなのかもしれない。が、偶然見つけたはずの死んだ女の携帯電話をなぜ見ることができたのか、と問われれば、もう全てを話すしかなくなってしまう。
「けど、本当に人間の死体を見たのか? 本物の」
「はい」
「それはそれで大変なことじゃないか。通報はしたんだろう?」
「それが……なんていうか」
「してないのか?」
先輩は驚いたように言った。
そりゃそうだ。オレだって死体を運びこんだ張本人じゃなければ、即刻通報して警察の手にすべてを委ねていただろう。
「……もう良い」
何も言えないまま黙っていると、先輩はため息をついて言った。
「亮介は亮介なりに事情があるんだろう」
「え? ……は、はい……」
「しかも、オレに言えないことなんだよな。これだけ言っても、お前は全部を話してくれない。どうしてお前がアオイの失踪を知っているのか、とかな」
「え?」
「だって、おかしいだろう。オレは店の名前こそお前に教えたが、アオイのことなんか一切話してなかった。それなのに、どうしてお前は初めて見た死体の女をアオイと結び付けたんだ?」
「……それは……ネットで、スカーレット・スレイヴのサイトに載ってた顔写真を見て――」
「もう喋るな。お前は嘘が下手なんだよ。おおかた、死体を見たなんて言うのも嘘なんだろう?」
そこを疑われるのはむしろ幸いだが、全てを見抜かれている気がして言葉が出ない。
「ついでに指摘しておくと、スカーレット・スレイヴのサイトに載せてあるアオイの顔写真にはボカシがかかっている。そんなもの見ても何の参考にもならない」
返す言葉もなかった。
ますます疑わしくなっているはずなのに、先輩がオレを見る目には、不思議と敵意を感じない。
「なあ、亮介。似た者同士のおまえにひとつ忠告してやるよ」
先輩はうつむき加減に言った。その表情は見えない。
「昔の彼女が暴行された、って言ったよな。あれは……正確に言うと、性的暴行だった。愛情のかけらもない、さんざん殴られ蹴られたすえのレイプだ」
唐突な告白に困惑する。
こんなこと、きっと先輩にとっては思い出すだけでもつらい過去だ。
彼は今、何を伝えようとしているのだろうか。
「分かるか。亮介。犯人は男なんだよ。あのとき、オレに告白してくる女はたくさんいたが、男からはさすがになかった。彼女にしても、男はおろか、誰かから恨みを買った覚えはないと言っている。オレに振られた女が知り合いの男に頼んでやらせたと思うか? 確かに犯人は中学生程度の体格だったらしい。だが、そんな危ないことを一人で引き受ける中学生がそんなに簡単に見つかるか? 単なる通り魔なら、その一件限りでおとなしく事件が終わるか? ……分からない。結局は分からないが、それでもオレは学んだよ。どこにでも『こういうこと』は転がってる。馬鹿みたいに笑って楽しく暮らしてるすぐそばで、『こういうこと』は待ちかまえてる。それはおまえの知り合いかもしれない。いつも一緒にいる友達かもしれない。恋人や兄弟や、信頼している誰かかもしれない。自分にとっては些細でしかない何かが切っ掛けになって、身近な誰かが、おまえの大切な何かを破壊するかもしれない」
オレの中の何かを見定めるような目が、こちらに向けられた。
「だから、気をつけろよ。お前が何を抱えてるかは知らないけどな」
いつも朗らかで仲間に囲まれている先輩からは想像がつかなかった。
きっと、常に彼は怯えていたのだ。いつ誰が自分の大切なものを壊しにやってくるかわからない恐怖に。
「……オレを疑ってないんですか?」
そんな疑心暗鬼の彼が、オレのことを『似た者同士』と言ったのは意外だった。自分の恋人のことについて嗅ぎまわり、本当のことを話そうとしないオレは、どんな人物より怪しく見えたはずだ。
「疑っていないと言えば嘘になる。お前が何かを隠してるのは事実だからな」
「ですよね……」
「だが、どうしても話せない事情があるんじゃないかとも思ってる。オレが風俗通いをしていてその店の女に惚れてる、なんてことが口外出来ないみたいにな。オレに似て、厄介な……いや、個性的な人間に好かれるタイプだし」
後ろの律をちらりと見た。完全に無反応だった。
「それに、ユナに話を聞きに行ったのが今日だろう。アオイが失踪する前のことならもう少し疑っていたかもしれない。だが、どちらにしたって盲信しているわけじゃないからな。もしお前が怪しい行動をとれば確実に調べ上げるし、万が一アオイに何かしたんだとしたら――」
言いながら、先輩はかすかに目を細めた。
「殺すぞ。それくらいの覚悟はしてる」
「……冗談に聞こえません」
「言葉通りに捉えてくれて構わない。親が警視監だろうが就職活動を控えていようが、そんなのは関係ない。今ここで我慢して何もしなければ、今後のオレの人生は死人と同じだ」
なんだかまずい方向に燃え上がっている。このままだと、先輩は六宮かオレを殺すんじゃないだろうか。
「分かりました。でも、本当にオレはアオイさんに危害を加えたりしてません」
「ああ。きっとそうだと思うし、そうであることを祈ってるよ」
彼はすっと立ち上がると、じゃあそろそろ、と言った。
そのまま帰ろうと玄関へ歩きだした矢先、唐突に振り返った。
「そうだ、忘れてた」
「忘れ物ですか?」
「いや、伝えておこうと思って。お前と同じ研究室の、手塚さやかのことで」
思い出した。今日の帰り道、先輩のマンションの前でさやかの車を見かけたんだった。
訪問時の先輩の雰囲気に気おされて、すっかり訊くのを忘れていた。
「さやかがどうしたんですか」
「今日、ひとりでオレの部屋に来たんだ」
「どうしてですか?」
「おまえのことについて何でも良いから教えろって、事前連絡もせずにいきなりやって来て訊かれたよ。昼間から酔っ払ってるんじゃないかと思ったくらいだ」
「それは……すみません、何でそんなことに」
「亮介が謝ることじゃない。むしろ、大丈夫なのか? 殺すとか口走ったオレが言うのもなんだが、あの子はちょっと……普通じゃないぞ」
「それは、何となく気づいてます」
「いきなり部屋に入り込んできて、家探しされたよ。亮介に関する何かが欲しかったんだろうな。下手に取り押さえると『部屋に引きずり込まれて襲われた』とか言われかねないから、しばらく見守ってた。部屋中の棚やクローゼットを引っかき回したあと、ひとしきりおまえのことについて質問してきたな」
「……そんな」
脳のどこかが麻痺していくようだった。
確かに、どこか天然のようなところがある子だった。他者との距離の取り方も下手で、妙に親しげに接する所があったのも知っている。だからと言って、それは『あの子は変わってる』で済まされるレベルだった。
今までは、少なくともほんの最近までは、人間として生きていく上での暗黙のラインを逸脱するようなことはなかった。
なのに、どうしたというんだ。ここ数日のさやかは、明らかにおかしい。
「……オレも、お前と同じく変わった人間に好かれやすいからな。こういうことには慣れてるとは言わないが、ある程度の耐性と経験がある。その経験から言わせてもらえば、もうあまりあの子と関わらないほうがいい。おまえが心底惚れ込んでいて、一生を共にする覚悟があるなら別だが」
「まさか。さやかとはただの研究室仲間ってだけで……勢いに負けて一度だけ二人で遊びには行きましたけど」
「軽率だったな。いつの話だ?」
「昨日、です」
「昨日の今日じゃないか」
今、初めて昨日のさやかの言葉の意味がわかった。別れ際、あいつはこう言ったのだ。
――あたしもやらなきゃいけないこと、まだ残ってるから。
――二人のこと。二人の未来のためのこと。
先輩宅への訪問は、勢いに任せたものではない。少なくとも考え付いてから一日は経っていて、それでも却下することなく実行したのだ。
ふと、以前何かで『計画的犯行は衝動的犯行より罪が重い』と聞いたことを思い出した。そのときは『犯行自体は同じものなのに、なぜ罪の重さが変わるんだろう』と思っていた。しかし、今なら少しわかる気がする。さやかが、普段話したこともない光下先輩の部屋に押し掛けて家探しするという突拍子もない思いつきを『持ち続けた』という事実は、馬乗りで胸倉を掴まれたときよりも狂気を感じさせる。
「とにかく、おまえにその気がないならもうデートみたいなことはしないほうが良い。余計な希望を持たせるな」
「はい……でもオレ、あいつにきっぱりと『女とは付き合うつもりがない』って言ったんですけど」
「え!?」
先輩が一歩退いた。
まずい、絶対に勘違いしている。
「いやいやいやそうじゃなくて、女の人が苦手ってことです。いろいろあったので」
「ああ、だから女と付き合ったことがないって言ってたのか」
「飲み会の時の話、よく覚えてますね。あんなに鳥島先輩に絡みつかれてたのに」
「絡まれてたからこそだ。あらゆる情報をリアルタイムで得ることで、逃げ道を常に探ってるんだよ」
「……本当に苦労人ですね」
「ああ。おまえと同じだろ?」
苦笑いするしかない。どうせ同じになるなら、頭脳やルックスや金回りの良さで同じになりたかった。
「じゃあ、オレにも情報を下さい。さやかはオレの何を探ってるんですか? 質問されたって言ってましたけど」
「知ってることなら何でも教えろって言われたよ。漠然としすぎているって言ったら、じゃあ過去のことについて何か知らないか、って訊かれた」
過去。
反射的に、血の気が引いた。もしあのことを皆に知られたら、もうオレはここにはいられない。
「けど、オレたちが知り合ったのは、おまえがミノルに会いにタモ研に来るようになってからだしな。長く見積もったって一年程度の付き合いだから、逆に君のほうがよく知ってるんじゃないの、って言ったよ」
「そう、ですよね」
「それに亮介は県外から来たんだよな? 中学時代の同級生も学校にはいないだろう、って駄目押ししておいた」
光下先輩の配慮に心から感謝した。これで、オレの過去を調べるのを思いとどまってくれたなら良いのだが。
「しかし、これで亮介の過去を調べることを諦めたら諦めたで、また問題だな」
「え? どうしてですか?」
「今の矛先がおまえの過去に向けられてるってことだろう。それが別のところに向くことになるとしたら……」
「あっ」
自分のことならまだ良い。しかし、もし誰かが危険にさらされるようなことになったら。
「今、オレはオレ自身のことで手一杯だから何も手伝ってやれないけど――」
先輩は玄関で靴を履きながら、どこか悲しみを湛えた目で言った。
「おまえは、オレの二の舞にはなるなよ」