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四日目

 今日チャイムが鳴らされたのは、いつもより遅い朝八時だった。それでも迷惑であることに変わりはないのだが。

 ドアスコープを覗くと、生き生きとした表情のコトリがボストンバックを持って立っている。

「ごきげんよう亮介。気分はどう?」

「……テンション高いよお前……」

ドアを開けると、コトリは当然のようにずかずかと入ってきた。

「いくら休講だからって、昼まで寝るつもりだったわけ? 小学生じゃないんだから」

昨日はあんなことがあったせいで、寝る時間は遅くなるし、寝付きだって悪かった。どうしてこいつはこれだけ元気でいられるんだろう。

「牧野ちゃん、おはよう。起こしちゃった?」

律はいつもの通り、部屋の隅で毛布をかぶっていた。こいつの場合は今からが寝る時間だ。

「起きてた」

「さすが牧野ちゃんね。手は大丈夫?」

「うん」

昨夜、一応律は自分なりに包帯を巻きつけて寝ていた。手当てと言うよりも、愛用の毛布を血で汚さないためだけの処置のようだった。

 寝込んだ奴の手の包帯を解き、消毒をしながら、なぜオレはこんなところまで面倒をみなければいけないのかと自問自答した。

 だが、どうせこいつが破傷風にでもなって医者にかかれば、治療費はオレの肩に圧し掛かってくるのだ。

 結局オレが寝たのは、それから一時間も後のことだった。

「良かった、すごく心配だったから。これ、差し入れ持ってきたの」

コトリは黒いボストンバッグを開けると、パンを三斤取り出して律に手渡した。

相変わらず、黒いながらも全体的にフリルやらレースやらで覆われている。

「そのバッグは何だ?」

「何だと思う?」

「全部パンってことはないだろうな」

「うん。残念ながら」

中にはビニール袋に入れられたピンク色のバッグのほかに、服や靴らしきものが見えた。

「とりあえず、朝は地道に所持品検査ね。はいこれ」

ルカのバッグをビニール袋から取り出す。

その中身をビニール袋の上に並べながら、もう一度コトリに訊いた。

「なんで着替えまで持ってきてるんだ」

「聞き込み用に決まってるじゃん。変装するのは基本でしょ」

「お前楽しんでるだろ」

「人生はいつだって楽しまなきゃ損だよ」

それから鼻をひくつかせると、うんざりしたように続けた。

「それにしても、臭いが全然取れないね」

「大きな生肉を常温で放置してたからな」

「あれだけ消臭したのに、すっかり元通りって感じ。ま、そういうこともあるかと思って、これ」

ボストンバッグから特大サイズの消臭剤を引き抜き、オレに差し出す。

「律にはパンで、オレには消臭剤か」

「いや、亮介だけのためってわけじゃないから」

聞かなければよかった。

 少しふてくされながら、オレは無言でルカの所持品の調査に入った。

 餌におびき寄せられた猫のように、律が毛布をかぶったまま近づいてくる。

 オレが並べ終えたルカの所持品の前でしゃがみこみ、ピンク色のプラスチックケースに手を伸ばした。

「なにこれ」

半透明のそれは、小さなケースが合体したような形をしていた。蓋の上には、直接黒マジックで文字が書き込まれている。

「ピルケースみたいね。あ、このおっきいとこにはピアスが入ってる」

コトリが覗き込んだ視線の先には、○の中に+を書き込んだような形をした金色のピアスがある。小物入れも兼用しているらしい。

「薬、四種類もあるぞ。どんだけ病弱なんだよ」

「ただのサプリでしょ。名前が蓋に書いてある」

「『ビC』ってのは、もしかしてビタミンCか」

「だと思うよ、うっすら黄色いし。『DMAE』って何だろ?」

「ジメチルアミノエタノールじゃないか? アセチルコリンの前駆体だとか授業で言ってた気がする。ま、これもただのサプリの一種だな」

「へー。亮介ってちゃんと授業聞いてるんだ」

「どういう意味だ」

横目でコトリを見たが、オレの反応など全く気にしない様子で律に話しかけていた。

「ねえ、この『ギンコ』って何?」

「イチョウの葉っぱ」

「さすが牧野ちゃんね」

もう何を言っても無駄なのだが、一応不機嫌になってみる。

「おい、この対応の差は何なんだ」

「こっちの薬は?」

質問に質問で返され、仕方なく指差された方を見る。

『メマイ』と書かれていた。

「こんな物質あったか?」

律が横から一粒つまみとり、掲げるように眺めた。

「目まいに効く薬、って意味じゃない?」

「ややこしい書き方だな」

律は手にした錠剤を口に放り込むと、がりがりと噛み砕きながら、ビニール袋に並べられたバッグの中身の一つに手を伸ばした。

「おいおいおい、勝手に食うな!」

「これ見ていい?」

携帯電話に手を伸ばしながら言う。

すでにピルケースには興味を失ったらしい。

「……間違っても発信するなよ」

携帯電話も、目に染みるようなピンク色だ。パール感も何もない、『プラスチックの塊です』と言わんばかりの質感をしている。折りたたみ型で、正面にはスピーカーのような無数の穴が円状に開けられていた。開くと、ディスプレイで猫のキャラクターが動き回って出迎える。

 律がまずチェックしたのはアドレス帳だ。オレも覗き込んだ。

「もうちょっと分かりやすい登録は出来ないのか?」

五十音順に区切られているページに、まともな名前が一つもない。大抵が『メッシ―/ヒゲ社長』だとか『クラ/インセク金髪』だとか、訳のわからないニックネームを付けられている。その中で、かろうじて正体が分かったのは三人だ。

 無断欠勤したルカをやたらと丁寧に扱っていた『店長』。

 調子に乗るなと忠告してきた『ユナ』。

 そして例の、タモ研メンバーではないかと疑われている『みー』。

 それ以外もざっと見たが、『半身』や『あああ』など、個人を指すのかどうかさえ分からないものもあった。

「もうアドレス帳は良い、着信履歴を見よう。何かヒントになるものが来てるかも知れない」

こちらは『店長』と『みー』、『半身』がほぼ全てを占めていた。最近は『店長』からの着信が二件ほどあったが、これは死亡により無断欠勤状態になったためだろう。

 日常的に着信を入れていたのは『みー』、『半身』で、アドレス登録されていない番号も何件かあった。

「この中に六宮もいるのか?」

「『半身』だね」

律は即答した。

「なんで分かるんだ」

「亮介、自分で番号貰ってた」

そういえば、昨日の朝にメールアドレスと併せて赤外線受信したっけ。

 しかし、よく一瞬見ただけの電話番号なんて覚えているな。

「なんで六宮はこんなわけのわからない名前になってるんだ」

「自分たちがアンドロギュノスだって信じてるんじゃないの」

「だから、いきなり意味不明の単語を持ち出して話を終わらせるなって言ってるだろ」

「初めて聞いた」

律は携帯電話に目を落としたまま説明する。

「むかし、人間は頭が二個と手足が四本ある化け物だったらしいよ。なんだかんだで切り離されて男と女になったらしいけど」

「驚くほど端折られている気はするが、うさん臭いことだけは伝わってきた」

どうやら、ルカも六宮の影響を悪い意味で受けていたようだ。

「ほかの悪趣味なニックネームにも何か由来があるのかもしれないな。とりあえず、次はメールを見るか」

受信メールはフォルダ分けされることもなく、全てが受信日順に並んでいた。

 軽く流し読むが、定期的にメールをやり取りしていたのは『みー』だけだ。読む限りでは、たまに会う程度の交流があったようだ。

「ねえ、それって普通のケータイかな?」

横でルカの財布を調べていたコトリが言った。

「普通のって、どういうことだ?」

「もしかして子供用なのかなって」

そう言われれば、確かにおもちゃのような見た目だ。

 しかし、なぜルカはわざわざ子供用の携帯電話なんかを使っているのだろうか。

「普通のとはどこが違うんだ?」

「インターネットへの接続とか、お金がかかるコンテンツは親がロックできたりするんじゃなかったっけ」

「百万以上のバッグを持ってる女が持つものじゃないな」

「防犯ベル機能が付いてるものとかもあるらしいから、そこら辺は使えそうだけど……特に彼女の場合はそういう危険が多そうだし。ほら、これ見て」

コトリは持っていたルカの財布から一枚の紙切れを取り出し、オレたちに差し出した。どうやら名刺のようだが、妙に凝っている。

美叶流華みかの・るかか……変わった名字だな」

「偽名みたいね」

「源氏名ってやつか」

名刺は黒地で、文字がピンクの抜きになっている。顔写真こそ入ってはいないが、蝶や薔薇の絵がちりばめられており、どう考えてもまともな会社員のものとは思えなかった。

「変な名前」

律がつぶやいた。

「名字は確かにな。そういや、名前の方が聖書だか何だかのキャラクターと一緒だって言ってなかったか?」

「けど、ルカってヒゲづらのおっさんだよ」

「……まあ、本名から取ったのかもしれないしな」

「それも違うみたいよ」

コトリが、何かの会員証を財布から抜き取って言った。

「ほら、本名はアキコさん。なかなか古風で素敵よね」

レンタルDVDショップの会員証には、丸い字で『六宮明子』と書かれている。

「六宮って……もう結婚してたのか」

「一緒に暮らしてるんだから結婚してたって当然だよね。ちゃんと責任とって籍入れてるんだし、しっかりしてて良いじゃない」

「妻を源氏名で呼ぶ夫ってのも良いのか?」

「出会った場所が夜の世界だったのかも。それか、古風なアキコより今風なルカの方が気に入ってた、とか」

再び派手な名刺に目を落とす。源氏名の上には、所属している店の名前が書かれていた。

「……スカーレット・スレイヴ?」

思わず声を上げてしまった。二人の視線が一気に注がれる。

「知ってるの?」

「ああ、いや……」

「なあんだ、女嫌いって嘘だったの」

コトリはにやりと笑いながら、やっぱりね、と付け足した。

 誤解を解こうにも、光下先輩には口止めされている。何と言えば良いんだ。

「嘘じゃない、これには事情が――」

「にしても亮介、よりによってマニアックっていうかハードっていうか……」

「違うんだ、友達の友達が……ん?」

再びルカの名刺を見た。

 店名の上には、小さな文字で『SMクラブ』と書かれている。

「え、SM?」

「なに驚いてるの?」

「いや……せめて普通の風俗だと思ってた」

これは正直な感想だ。あの光下先輩が風俗店に行くということだけでも衝撃的なのに、こんな趣味まで持っていたとは。

 あんなにさわやかで綺麗な顔で、鞭に打たれたりろうそくを垂らされたりしているんだろうか……。

「とにかく、これでお金の流れくらいは分かってきたね。ルカさんがSMクラブで働いて六宮さんを養ってたのよ」

「となると、夜に殺されたのも仕事からの帰宅途中ってことか?」

「昨日の牧野ちゃんの話では、アパートの前に死体が出現したのは十一時から一時の間だったよね。SMクラブの営業時間はどんな感じ?」

「名刺によると、営業時間は夜中の一時までらしい。やっぱり仕事帰りの可能性が高そうだな」

「一度、殺された当日に出勤してたかどうか店に行って確かめてみる必要があるね。デートから帰ってきたらさっそく行こうよ」

言いながら、コトリは律でなくオレの方を見た。

「なんでこんなときに限ってオレなんだ。律を誘えば良いだろ」

「経験者を連れて行った方が良いでしょ? 私、SMクラブなんてまるっきり縁がないんだから」

「いや、だから行ったのはオレじゃなくて、友達の友達が……」

「つべこべ言わないで、デートが終わったら連絡してよね。お泊りはしないんでしょ?」

「するか!」

思わず大声で否定すると、唐突にチャイムが鳴った。礼儀正しい客らしく、押したのは一度のみだ。

 まったく、あの日から連日のように客がやってくるな。

 しかも朝に。

 おおかた宗教の勧誘か何かだろう。

 気楽に構えながら開錠し、ドアを開ける。扉の向こうを見た瞬間、予想外のことに言葉が詰まった。

 美濃巡査だ。

「おはよう」

「あ……お、おはようございます」

いつもの笑顔が、少し困惑気味になっていた。

 嫌な予感がする。

「朝からすまないねえ。実はまた通報があってね」

「つ、通報ですか……」

またか。そんなことをするのは向かいのデブくらいだろう。

 しかし、それは良い。問題はなぜ通報したのかだ。

「それがね、ちょっと、なんて言うか……」

巡査は困ったように頭をかき、目線を斜め上に外した。

 今回は、明け方に騒いだりはしていない。とすれば、迷惑はかけていないはずなのだ。せいぜいは昨夜死体を運んだくらいだが、住人とはち合わせることはなかった。

「どういう通報だったんですか?」

「それがねえ……こんなことはないとは思うんだがね、死体を」

「し、死体?」

 なぜだ。

 なぜばれているんだ。

 一瞬頭が真っ白になり、思いつく限りの言い訳を考え始めた。

「ああ、私も聞いた時はびっくりしたんだよ、二人が死体を運んでるなんて通報されたもんだからね」

「えええええ……」

何てことだ。

 誰とも顔を合せなかったはずだ。なのになぜなんだ。

 そのとき、ふと今朝コトリがやってきたときのことを思い出した。

 そうだ。オレはあのとき、ドアスコープで外にいるコトリを見たのだ。

 向かいの部屋ならば、ドアを開けなくてもドアスコープによってオレの部屋から死体が運び出される様子を見ることができる。

「いや、私もそんなことがあるはずはないって思ったんだけどね。通報者さんがね、あまりにも怯えていてね」

「な、何かの見間違いじゃ……あ、家具だ、家具を運んでたかも」

「うん、そう思ったんだけどね、あまりにも怖かったらしくてビデオを撮っておいたそうなんだよ。で、見せてもらったんだけど、どうも人型をしているように見えて――二人とも、あれは何を運んでいたのかな?」

全てが終わった。

 引越しか部屋の模様替えだと言い訳が出来るなんて楽観視していたが、ビデオに録画までされているとは思わなかった。

 人の目はごまかせても、ビデオは無理だ。誰だって録画映像を見れば、それがソファやスキー板などではなく、はっきりと人型をした何かであることが分かる。

 真犯人を見つけるなんて悠長なことを言うより、早く自首しておけばよかった。そうすれば、たとえ冤罪を免れなくても刑は軽くなっていただろうに。

 父との関係はほぼ断たれているし、母はすでに他界しているから、思えばオレがどうなろうと悲しむ人なんかいないんだ。

 もう諦めよう。

 ここで逃げたところですぐ捕まるだろうし、律なんか何の当てにもならないし、コトリまで巻き込んでしまったんだし。

 ああ、そうだ……

 コトリは関係ないんだ。

 オレは良い。律も一緒に逮捕してもらおう。

 だが、コトリは関係ない。あいつだけはどうにかして逃がさなければ。

「巡査、あの、ちゃんと説明しますから、ちょっとだけ待ってくれますか」

「どうしたんだい?」

どんな言い訳が良いかと考えを巡らせていると、美濃巡査は得心したように頷いた。

「ああ、お客さんが来てるんだね」

彼の視線の先には、コトリの厚ぼったい靴がある。

「昨日の夜のビデオに写っていた女の子かい?」

どうして隠しておかなかったんだろう。ドアを開ける前にドアスコープを覗いて、万全の準備をするべきだった。

 しかも、彼女の車はこのアパートの近くに停めてある。オレは車を持っていないから、警察は輸送手段を割り出そうとするだろう。

 コトリが昨日のビデオに写っていたこと、そして今もこの場にいることは、輸送手段を自白したも同じことだ。

 今、もし車内を調べられたら?

 死体を乗せた痕跡が少しでも残っていれば、これでコトリまで罪をかぶってしまう。

「……亮介君、亮介君。どうしたんだい、顔色が悪いよ?」

呼びかけられていたことに気付き、我に返る。

精いっぱいの笑顔を作ったが、引きつっているのは鏡を見なくても分かった。

「あの、まだ、具合がちょっと」

「ああ、昨日の吐き気はおさまったかい? こんなときに悪いね、聴取だけ終わったらすぐに帰るからね」

「聴取ですか……」

「うん。まずは、昨日の夜中に何を運んでいたか教えてほしいんだ」

『死体です』と言うのは簡単だ。問題は、どうやってコトリを逃がすかだ。

 オレが無理やり殴りつけて言うことをきかせた、ということにしようか?

 死体を運んだという事実には変わりないが、自己防衛のためにやむを得なかったと判断されるだろう。罪に問われたとしても、きっと段違いに軽くなるはずだ。

「あの、吐きそうなんで先にトイレ行ってもいいですか? すぐに戻ってくるので」

「うん? ああ、いいよいいよ」

愛想よく言いながらも、一瞬不審そうな表情をしたのが分かった。

 いくら人が良くても、彼は警察だ。今のオレは充分に怪しく映っているだろう。これ以上の策を考える時間はない。急いでコトリに全て話し、口裏を合わせなければ。

 何とか考えをまとめつつ、振り返る。

 と、目の前に顔があった。

 律ではない。

 よりによって、全てが最悪のタイミングだ。

「こ、コトリ……」

「何よ、真っ青な顔して。お腹でも痛いの?」

「相当な。……ちょっと、トイレに付いてきてくれ」

「あのね……いくら友達だからって、なんで排泄シーンまで見守らなきゃならないわけ?」

お前はバカか。

 すぐ後ろには巡査がいるから、妙なことは話せない。なのに、こんなときに限ってコトリは腹が立つほど鈍感だ。

 少々手荒でも、この場で殴って脅迫するふりをしようか? 演技をするうち、コトリはオレの作戦を理解してくれるかもしれない。

 そう思って、すぐに否定した。

 駄目だ。

 今のコトリの台詞で、オレたちの関係性は巡査にも伝わってしまった。今さら下手な小芝居をしたところで見抜かれる。

 しかし、だとしたらどうすればいいんだ?

 もうオレに策は残っていない。守ってやることは、とうとう出来なかった。

「もう、亮介はさっさとトイレ行きなさい。それでなくてもお腹が弱いのに」

「あ……? そうだったか?」

「お巡りさん、この人じゃ全然頼りにならないから、私から説明しますね」

コトリはオレを押しのけると、愛想を振りまきながら巡査と向かい合った。

「お嬢さん、亮介君の恋人かい?」

「やだ、全っ然違いますよ」

とぼとぼとトイレに向かいながら、軽い笑い声を背中で聞いた。

やだはないだろう、やだは。

「私、クラスメイトの北條琴理って言います。今朝は、牧野ちゃん……えっと、牧野律くんに会うために来ました」

律は壁から右目と右手だけを覗かせていた。

 この野次馬こそ真っ先に逮捕されたらいいのに。

「うんうん、元気で可愛らしいねえ。それじゃコトリさん、ちょっと質問させてもらっていいかな?」

狭く短いL字の廊下の奥へと引っ込もうとも思ったが、ここは大人しく突き当たりの三点ユニットバス――安アパートにありがちな、トイレ、洗面台、風呂が一体化した部屋――に入ることにした。

 ただし便器には座ることなく、ドアの隙間にへばりついてしっかりと聞き耳を立てる。

「昨日の夜もこのお部屋に来てたんだったよね?」

「はい。ビデオに写ってたのも、多分私です」

「その時、亮介君と律くんが何やら……こう、人間みたいな形の、ビニールシートみたいなのでぐるぐる巻きにされた何かを運んでいたんだけど。知ってるかな?」

「もちろん知ってますよ」

明るい口調でコトリは言いきった。

 一体どう説明するつもりなんだ。

「だって、あれ頼んだの私ですから」

「うん? 何を頼んだんだい?」

「お人形を車まで運んでちょうだいって。結構重いから」

「人形? なんであんなに大きな人形がここにあったんだい?」

「それは……」

一呼吸を置き、コトリは心から楽しそうな声色で続けた。

「もちろん! 牧野ちゃんの生き写しの人形を作るために決まってます。あの漆黒の髪、不思議なまなざし、形の良い鼻に貴族を思わせる上品な唇、そして陶器のような肌、そんな逸品ばかりを備えているにもかかわらず、あたかも人形が生きているかのような細い手足が――」

「うんうん、もう分かった、分かったからちょっと落ち着こう!」

今の巡査は、昨日の朝オレに抱きつかれたときと同じ心境に違いない。

「もう分かりました? これなら誰だって人形を作りたくなりますよね?」

「ああ、ううん、そうかな……」

なんだか巡査が不憫に思えてきた。

「でも、それには精緻であることが不可欠なんです。写真を見て、見よう見まねで頭部を作ることくらいは出来ますけど、そんなの似て非なるものであって、それを牧野ちゃんの人形と呼ぶなんて出来ないじゃないですか」

演技なのか素なのか、コトリが手加減をする様子はない。

 それどころか、ますますヒートアップしているようだ。

「例えば仏教徒は仏像を作ります、それは偶像崇拝なんかじゃなくて、目に見えない仏性を、見える形へと変換しただけなんです。目に見えないということは容易に触れることが出来ないということで、つまりそれは私にとっての牧野ちゃんなんです」

「あの、ちょっと話が――」

「つまり容易に触れられないものを触れられる形へ変換するわけで、例えばデータの保存形式を他のものへと変えることと同じです。だからこそその変換後が粗悪な複製品だったなら、それこそは非難されるべきことなんです。あの、人の話聞いてます?」

「ああ、でも先に質問を――」

「だから、私は出来の悪い牧野ちゃんもどきなんてものは冒涜にしかならないし、そういった類の偶像崇拝は悪徳にしかならないのであって、だからこそ、ライフマスクが絶対、絶っ対に必要なんです」

「分かったよ、分かったから落ち着こう、ね!」

「落ち着いてますよ。さっきから」

いきなりの冷ややかな返答に、会話が途絶えた。

 そろそろ巡査を助けた方が良いかもしれない。

「で、何のお話でしたっけ」

「あ、うん……その……大切なお人形なんだけど、今はどこにあるんだい?」

「私の家です。残念ながらライフマスクはまだなので、今のところは不完全なただの球体関節人形です」

「キュウタイ?」

「ひじとか膝とかの関節部分に球体がはめ込まれていて、可動式になっている人形のことです」

「そのお人形、どうして昨日まではここにあったのかな? 君が作ったものなんだろう?」

一瞬、コトリの返答が詰まった。痛いところを突かれたらしい。

「同一化を図るためです。本物の近くに置くことで、人形に牧野ちゃんの波動エネルギーを浴びさせるんです。人間の霊性と生体波動エネルギーの重要性についてはご存じですか?」

どう考えても苦しい言い訳だが、ここは理屈の通った返答をひねり出すより効果的かもしれない。

 少しおかしい方が、後々の発言も大目に見てくれやすそうだし。

「い、いや、知らないけれど……とても重要な事は分かったよ。じゃあ、以前に人形をここに運び入れたことがあるってことだね?」

「はい」

即答して大丈夫なのか? 実際にはしていないのだが。

 コトリもそれを危惧したのか、言葉を続けた。

「でも、それは私が直接この部屋に持ち込んだわけじゃないんです。さっき、球体間接人形って言ったでしょう? これはゴム三本で身体全体をつなぎとめているんですが、これがない状態だと、ばらばらになります。つまり、細かいパーツ状になるんです」

「じゃあ、パーツの状態でこの部屋に?」

「はい。私と亮介はほぼ毎日学校で顔を合わせるので、その時に預かってもらってました」

なんとか乗り切れたようだ。

 しかし、本当に巡査は納得したのだろうか。

「コトリさん、そのお人形を見せてほしいと言ったら、可能かな?」

「まだ完成はしてませんよ、ライフマスクもないですし。それでも良いなら、私の部屋に寝かせてありますからどうぞ。写真だったらケータイに入ってますけど」

オレは使用しないまま水だけを流し、トイレから出た。コトリと巡査が目を丸くしてこちらを見る。

「ずいぶん長かったね。やっぱりまだ具合は悪いのかい?」

「ええ……今度は下痢気味で」

部屋中に吐き散らすわホモだわ下痢だわ、散々なイメージを作ってしまったものだ。

「じゃあコトリさん、写真だけでも見せてもらっていいかね?」

「分かりました。ちょっと待ってください」

コトリはすぐに自分の携帯電話を取ってくると、躊躇なく液晶画面を巡査に見せた。

「ふうむ、確かに。いやあしかし、上手く出来ているねえ」

「ありがとうございます。今までで一番力が入ってるんです」

「うんうん、確かにこれじゃ人間と間違えるのも無理はないね」

オレは心の中で歓声を上げた。コトリもとびきりの笑顔を向けている。

「お騒がせしました。でも、まさか夜中にビデオで撮られてるなんて思わなかったんです」

「そりゃあそうだろうね。よし、この一件については通報者の人にちゃんと説明して、誤解を解いて来るよ。亮介君も身体に気を付けて、もう何も心配はいらないからね」

「はい、よろしくお願いします」

美濃巡査は笑顔で手を上げると、部屋を後にした。

 と思ったが、すぐに再度ドアを開けると、忘れ物でもしたかのように言う。

「ちょっと、コトリさん」

「はい?」

不意を突かれたのか、コトリが目を丸くした。

 巡査はなぜか哀愁のある笑みを浮かべ、指二本の小さな敬礼をする。

「愛は……直球勝負だよ」

それだけ言い残すと、今度こそ本当に巡査は帰った。

「直球かあ……直球ねえ……」

何かを思案するようにコトリが繰り返す。

「巡査、結局何が言いたかったんだ」

「時には大胆さも必要ってことなのね。うん、分かる分かる」

タイミング良く、オレの携帯電話が鳴った。さやかからのメールだ。

「……デッドボールだ」

「亮介、のろけてばっかりいると嫌われるよ」

なぜそんなポジティブな感想が出て来るんだ?

 無事巡査をやり過ごしたことを喜びながらも、オレは次のスケジュールに頭を抱えた。




 指定通り、オレは映画館へと向かっていた。

 寒風の吹く中、自転車で約二十分。交通量の多い大通りに面したショッピングセンターは、平日のためか、広大な駐車場の半分ほどしか埋まってはいない。敷地内にはショッピングセンターを中心に、映画館のほか、ファミリーレストランやファーストフード店などが併設されていた。七つのスクリーンを持つこの複合型映画館にはボウリング場やゲームセンターも入っており、よくミノルたちと利用している。

「あれか」

公開中の映画のポスターが貼られた壁を背に、一人の女性が立っているのが見えた。漕ぐ足を止め、彼女の前に乗り付ける。安物の自転車が派手なブレーキ音を立てた。

「亮介くん、やっと来てくれたんだあ」

普段はシンプルな服が多いのに、今日はふんわりとした花柄のワンピースを着ていた。それでも、いつも通り大きな胸の方ばかりが目立っている。

「チャリしか持ってないんでな。待ったか?」

「待ったけど、いろいろ考えてたから楽しかったよ」

「何を?」

「えとね、今日のデートのプラン」

心から嬉しそうに微笑むさやかは、正直可愛い。こういうところだけ見ていれば普通の子なんだがな……。

「そういや、『死霊の盆踊り・最終章』が公開中だな」

「もお、せっかくのデートなんだからロマンティックなのにしようよ。あっ、これ見たかったんだぁ」

いつの間にかオレの腕を取ると、さやかは恋愛映画のポスターを指差した。どうして女は赤の他人の色恋沙汰で盛り上がれるのだろう。

 結局言われるがままにチケットを買い、薄明かりの映画室へと連れて行かれた。さすが平日、しかも昼前とあって、映画館は八割がたが空席だ。

「すごーい、座りたい放題だよ」

「せっかくだから広々と使おうぜ」

席を一つ空けて座ろうとすると、無言で却下された。捕えられた右手が解放される様子はない。

 さやかは終始上機嫌で、悩むことを知らない子供のようだった。開演のベルに歓声を上げ、コミカルな場面では弾けるように笑って、ラストシーンで涙を流す。ちらちらとスクリーンの光が彼女を照らすたび、その表情は色を変えた。建前や演技とは無縁の、無垢な感情がそこにあった。

 正反対だ。横顔を見て、ふとそう思った。

 いつの日からか、オレは心の中で選定するようになっていたのだ。表に出すべき感情。そして、他者に悟られないよう抑圧すべき感情を。

 いつからだったのだろう。ありのままの心をさらけ出すことは、弱点を晒すことだと思っていた。心を隠さねば、何かがオレを平穏から引きずり下ろす。誰もがそう感じているのだろう、と今までは漠然と信じていた。

 さやかの言動は、オレとは全く異質の何かを感じさせる。

「ね、亮介くん」

エンドロールが流れ出したと同時にさやかが言った。

「あたしね、あんな恋がしてみたいな」

薄明かりの戻った館内で、オレを見つめる瞳がきらきらと輝いている。

「ドラマチックってことか?」

「うーん、それもそうだけど……」

さやかは、言葉を探すように小首を傾げた。

 ストーリーは、いかにも純愛映画の王道だった。

 ――病に冒された女流画家と、彼女に思いを寄せる男。男は今までに握ったことのなかった絵筆で毎日油絵の練習をし、少しでも彼女に近づこうと密かに努力する。その成果を披露することなく彼女は死んでしまうのだが、死の間際まで描いていた絵が彼宛てに遺されていた。彼の肖像画である。ラストはその遺作に彼が彼女の絵を描き添え、二人は画中でようやく結ばれる……というものだった。

 ありがちな展開ながらそれなりに楽しめはしたものの、それ以上の感想は持てなかった。

「まさか、画家の彼氏が欲しいってわけじゃないよな?」

「んもう、なんでそうなるのよぉ。そうじゃなくて、何て言うか……障害が全然ないっていうか」

ゆっくりと出口に向かいながらさやかは言った。

「女は病気で死んだだろ。障害中の障害じゃないか」

「あたしね。そういう障害って、愛が本物なら関係ないって思うの」

外に出ると、思いのほか天気が良かった。

 さやかは思い切り伸びをして、再びオレの腕を取る。知ってか知らずか、オレの腕はふっくらとした胸の谷間に沈められた。

「たとえ本当に少しの間だけでも、好きな人と心が通じ合って、お互いに愛し合ってるなぁって実感出来たら、それって最高でしょ」

「うーん、そうなのかな」

相槌を打つことすら気恥ずかしくなる話だが、さやかは真っ直ぐな目でこちらを見ている。

 というか、胸が、胸が。

「本物の愛が存在した一瞬なら、きっとそれがその人にとっては永遠にもなれるのよ。妥協した百年の恋より、ずっとずっと価値があるわ」

「妥協、か」

「だから、誰がいつ死ぬことになったっていいの。好きな人が私だけを本気で見てくれる……その一瞬が、欲しいの」

左頬に痛いほどの視線を感じながらも、オレは青い空に視線をさまよわせた。心臓はいやというほど脈打っており、頭の中は真っ白だ。

 今、さやかに何と言えばいいんだろう?

 オレの中の本能が、彼女を求めて暴れていた。ブレーキをかける必要はどこにもない。なのに、もうひとつの本能が、彼女を絶対的に拒絶していた。

「死ぬのが障害じゃないとしたら、障害って何なんだ?」

視線を外したまま、さやかに訊いた。絡められた手に力が入り、オレの腕は更に胸に埋没する。

「好きな人が、違う子を見ること。あたしより魅力的な子が、好きな人を見ること」

気が付くとオレたちは駐車場を縫うように進み、シャンパンベージュの軽自動車の前に来ていた。さやかの車だ。

「今日からは、あたしだけを見てね」

ぷっくりとした頬が、桃色に染まっている。

 車に乗り込んだときには、すっかり死体のことなど忘れていた。




 「平日のショッピングセンターって良いよね」

遅めのランチを取ったあと、オレたちは映画館の隣にあるショッピングセンターに来た。

 休日と比べて空いてはいるものの、幼児連れの母親や定年後の老夫婦でそれなりに人通りはある。サービス業なのか、オレたちと同じような年齢の男女もちらほらと見かけた。

 オレたちのいる二階は女物の服を売る店ばかりで、どの通路を歩いても興味をそそられるものは見当たらなかった。

 さやかのパンプスが床を打ち、硬く軽やかな音を立てる。

「ねえ、女の子の服って、どんなのが好き?」

「どれもだいたい一緒だろ。店がこんなに存在する意味が分からん」

「亮介くん、全然分かってないんだから」

言いながら、さやかはマネキンが来ていた服を見て立ち止まった。スモークピンクのロングカーディガンがお気に召した様子だ。

「これ、すっごく可愛い」

マネキンの足元には、二万八千円と記されたプラスチックの小さなボードが置かれている。ゼロの数をもう一度数えたが、やはり二千八百円の誤りではないらしい。

 さやかがすっかり服に夢中になっているので、そろそろ動きだすことにした。もちろん、例の事件のアリバイのことだ。

「おまえさ、結構ショッピングとか好きなのか?」

「うん、だって女の子だもん」

「じゃ……四日前の深夜とか、何してた?」

何だこの不自然な会話の流れは。

 もっと自然に持っていくはずだったんだ。せめてあと二、三ステップは踏むべきだった。これではオレ自身が怪しいことをしていたと勘繰られそうじゃないか。

「ええ、そんな前のこと覚えてないよお。なんで?」

「いや、ゆ、夢を見てさ。夢っていうか」

こんなファンタジックな路線に乗せて、どうやって訊き出すんだオレ。

「夢? あたしが出てきたの?」

「そう、そうなんだよ。結構リアルでさ、うちの前に立ってた夢でさ。まさか本当だったのかなって」

さやかは目を丸くすると、気恥ずかしそうに微笑んで言った。

「あはっ、バレてたんだぁ」

おいおいおいおい。

 心のどこかではまさかと思っていたのだが、やはりストーカーまがいの行為をしていたらしい。昨夜の鍋パーティで言っていたことは本当だったようだ。

 とすれば、ルカが殺されるところを目撃している可能性がある。

「な、なんか夜にオレの部屋を見上げてたような……もう一人、女がいたような気もしたんだが……おまえ、友達連れだったりしたのか?」

「ううん、一人だよ」

「それ、だいたい何時くらいの話だ?」

「えーとね、いつも九時か十時くらいかなぁ。北条さんを部屋に上げてた日は、亮介くんも早く帰っちゃったからその分早くなったんだけど。おかげで、密会現場を押さえちゃった」

さやかの言葉に棘が混じった。

「いや、だからあれは律に会いに来たんだ。オレじゃない」

「じゃ、なんで亮介くんまで早く帰っちゃったの?」

何やら都合の悪い方に話題が流れている。服屋の女店員は、営業トークを始めてはいけない空気を悟ったようで、遠巻きにこちらを見ていた。

「男二人暮らしの部屋なんてお前には想像が出来ないかもしれないが、そりゃひどい状況なんだよ。ゴミは散乱してるし洗濯物は溢れてるし、律は役に立たない上に、流しには汚れた食器が積み重なってるばっかりで、片付けなきゃとても客なんて入れられるような場所じゃないんだ」

言いながら悲しくなってきた。どうして律は、風呂やシャワーには率先して入るくせに、掃除や洗濯はしないんだろう。

「じゃ、ほんとに北条さんとは何もないのね?」

「せいぜい律とのキューピッド役くらいだ。あいつの言動を見てたって分かるだろ」

言い終わった後、果たしてこれで良かったのだろうかと自問した。さやかの攻撃はコトリに向かうことはなくなったものの、オレへの一点集中へとシフトしたからだ。

「とにかく、あれは夢じゃなかったんだな。でも、九時くらいだったらまだいつも起きてるはずなんだが……」

ルカの死亡推定時刻は夜の十一時から一時だ。問題は、その時間にさやかのアリバイがあるかどうかだ。

「もお、さっきから変なの。何?」

「いや、だから……もっと遅くに、視線を感じたんだ。夜の十一時から一時の間かな」

不審がられている。これで芳しい答えが返ってこないようなら、一度引いた方が良いだろう。もし事件が公になった場合、逆にオレが怪しまれるからだ。

「それってストーカー? 怖ぁい」

思わず噴き出した。勢いで鼻水が飛ぶかと思った。

「でもあたし、何回か見たことあるよ。時間は覚えてないけど、女の人が亮介くんのアパートの前にいるの」

「それ、通りすがりじゃないのか?」

「違うもん。ちゃんと亮介くんの部屋を見上げてるところ見たんだから」

なぜ見上げていたのがオレの部屋だと断言できるのか、とは訊かないでおいてやった。

「その女、毎回おんなじ奴で、毎回オレの部屋を見上げてたのか?」

「そうだと思う。顔は良く見えなかったけど、だいたい似たような体型の女の人だったし。見上げてるところだって二回くらい見たもん」

それはただの通行人だ。この言葉も、敢えて呑み込んだ。

「じゃあ、おさらいだ。何度か夜遅くにストーカーらしき女を見て、四日前の夜九時か十時ごろにオレのアパートの前に来て、その日の十一時以降は部屋に戻った、と」

「うん。あたし、いつも十二時までには絶対寝ちゃうの。お肌に悪いから」

「おまえ、一人暮らしだっけ?」

「ううん、実家。でも」

再びオレの手を取ると、さやかの胸元に当てた。むっちりとした質感と体温が伝わってくる。

「あたしの部屋って、声とか隣りに漏れないから」

……なんだかもう、色んな思いが込み上げてきた。

 周りを見渡すが、ショップの店員は女性二人組の接客中だ。クールに手を振り払おうとするも、顔が真っ赤になっているということは鏡を見なくてもわかる。

 もう誰でも良いから助けてくれ。

「えへへ、可愛いんだぁ」

結局オレは、何も言い返せなかった。

 さやかに手を引かれるまま、ずるずると引きずられていく。




***

 


 プリクラも撮った気がするし、ドライブもした気がする。全てが彼女のペースで進んで行き、時間は気付かない間に過ぎて行った。

 再び映画館の前に戻ってきたときには、藍色の空に三日月が浮かんでいた。広大な駐車場は、昼間よりも格段に賑わっている。

 こいつと付き合ったら、ずっとこの調子なんだろうな。

「そろそろ帰るな。律の面倒見てやらなきゃいけないし」

駄々をこねるかと思ったが、さやかはあっさりと了承した。

「うん。あたしもやらなきゃいけないこと、まだ残ってるから」

「卒研か?」

「そんなんじゃないよ」

ふふっ、と顔全体で笑う。

「二人のこと。二人の未来のためのこと」

「……良く分からんが、それをすることでオレが二度とビールをかぶらなくて済むのか?」

「それはぁ、亮介くんが悪いの」

――ちょっと待て、勝手にお前が勘違いしただけでオレは何も悪いことをしてないぞ。

 と、言おうとした。しかし、それは出来なかった。

 さやかが口をふさいだ。

 目の焦点が合わないまま、シナモンの甘い香りに包まれる。二の腕は、彼女の細い指でゆるく捕えられていた。

 唇に触れるのは、ホイップクリームのような柔い感覚。

 一瞬ののち、蜜のようなグロスを残してそれは終わった。

「またね」

さやかに反射的に手を振り返すと、茫然としたままその場を去る。

 ポケットに入れたはずの自転車の鍵が、なかなか見つからない。ようやく指先に触れた鍵らしきものを取り出そうとすると、からかうかのように手から滑り落ちた。

 ――ママ、あのお兄ちゃんね、キスしてたよ。

 無邪気な子供の声を遠くに聞きながら、オレは冷たい鍵を拾い上げた。




 「デジャヴだ」

夜風を切って自転車を漕ぎ、帰宅早々目に入ってきた光景の感想だ。

 いつも通りのワンルームでは、律が仰向けに寝ていた。その上には、コトリが暴漢のように覆いかぶさっている。

「おかえり」

馬乗り状態のコトリに首を絞められたまま、抑揚のない声で律が言った。どうやら、本気で絞められてはいないらしい。

「あ、りょ、亮介おかえり」

「……まだ帰ってこない方が良かったか?」

コトリは赤くなりながら顔の前で手を振った。いつもより短めのスカートが、律の上で微かに揺れる。

「違うよ、これは事件の再現をしてただけ。それと……」

「それと?」

「美濃巡査から色々聞いてきたよ。事件当日、巡査は牧野ちゃんと会ったみたい。場所は、死体発見現場であるアパートの前の通りを右に曲がってすぐのところ。散歩に行く途中、入れ違いみたいな感じで会ったんだって。多分そのころにはルカさんはまだ死んでなくて、牧野ちゃんと出会ったあとに通りかかった巡査も発見できなかったんだろうね。時間は、十一時半から十二時のあいだだって巡査は証言してた」

「そして散歩の帰り、夜中の一時ごろに、律が死体となったルカを見つけて持ち帰った、と」

コトリが頷いた。

「ルカさんが殺害後に運ばれたんじゃないとするなら、十二時くらいまでは生きていて、一時に死んだようね」

十二時から一時の間に、ルカは死んだ。巡査と律が偶然にもアパート周辺を歩き回っていたおかげで、かなり犯行推定時刻は絞れてきた。

「巡査と律が歩き回る……?」

「ん? どうしたの」

思わず出た一言に、コトリが反応した。

「なあ、本当に現場はクローズド・サークルじゃなかったのか?」

「どういうこと? 何か分かったの」

「いや、ただの推測なんだが……全くとは言えないまでも、アパート前はそれなりに人の出入りは制限されていたんじゃないかと思うんだ。ルカがアパート前に現れてから死ぬまでの約一時間、巡査は見回りをしていたし、律だってうろちょろしてたわけだろ」

「うん。美濃巡査は、だいたい一日おきにこのルートを巡回してるって言ってた」

「確かに、律と美濃巡査の目をかいくぐって現場に近づくことは可能だろう。だけど、これはかなり難しいぞ。まず、美濃巡査が一日おきに、しかも何時ごろにこのあたりを巡回するか把握している必要がある。さらに、無秩序に行動する律の目までかいくぐらなきゃいけない」

「確認しておくけど、牧野ちゃんは誰も人影を見てないのね?」

律が、即座にふるふると首を振った。

「地理的にこのアパート周辺は民家とアパートばっかりで、路地裏に隠れるとか、商店で客として長い時間を潰すとかは不可能だ。だから犯人は、律と美濃巡査がこのあたりを巡回しているときは、このあたりには出入りしてはいない。つまり、二人の出歩いていた時間以降に、外部から犯人が入ってきた可能性はないと思うんだ」

「犯人が二人の行動を熟知してた、ってことは考えられない?」

「オレが犯人なら、少なくとも美濃巡査が巡回する日を選びはしない。次の日なら見つかる危険は半分になるんだからな。かといって、全く知らずにここに来て二人に見つからなかったっていうのも、あり得るとは思うが、そこそこ運がいい話だとは思う」

へえ、とコトリが感心したように声を漏らした。

「でも、それってどういうこと? 犯人は亮介が住んでるこのアパートの住人だって言ってるみたいに聞こえるんだけど」

「いや、そういうわけじゃないが……」

コトリが一瞬不審そうな目を向ける。なんだか話が妙な方向に流れてしまった。

「そうそう、念のために巡査と話したとき地図を作ったんだよね。巡査がどこを見回ったかわかりやすいように」

「おっ、気がきくな」

「けど、このあたりは本当に民家とアパートしかないんだよね。しかも巡査は亮介のアパート周辺をぐるっと一周するように見回ってるわけだけど、その輪の中にあるアパートは、亮介の住んでるとこひとつなの。ちなみに亮介の部屋は最上階だし、屋上はなかったから、廊下で佇んでたら牧野ちゃんにバレるでしょうね。アパートの通路や階段に身を隠すのも無理そうだし」

「あとは全部民家か。庭付きの家もあることはあるが、どこも簡素な柵でしか囲われてない。侵入者が隠れるのは無理だな」

「私もそう思う」

「巡査は夜の見回りで誰か不審者を見たりはしてないのか? 律以外に」

「ルカさんが殺された日に限らなければ、何度かあるみたいよ。ただ、美濃巡査の説明からすると、多分目撃されたのはルカさん本人だと思う」

「ルカが不審者?」

なぜ彼女が巡査に覚えられることになったのだろう。

「あとは、通行人みたいに自然に振る舞って巡査の目をあざむいた、って可能性も考えたんだけど……巡査、一応警察官だからね。そこらへんは職業柄ちゃんとしてると思うんだ」

「だとすると、かなり犯行が可能な人物が限られてくるな」

「そうね。例えば美濃巡査とか」

思わず声を上げた。わざわざ質問に答えてくれた警察官を疑わなきゃいけないのか。

「驚くことじゃないでしょ? 美濃巡査の証言が嘘なら、つじつまは合うんだから」

「まあ、そりゃそうだが……」

「それに、ルカさんは真正面から首を絞められてる。普通知らない人が夜中に近づいてきたら、首を閉められるくらい近くの真正面に立たれる前に逃げるよね。だけど、相手が知り合いとか警察官なら、近づいてきた時点ではあんまり警戒されないんじゃないかと思うの」

言いながら、なぜかコトリは俺の表情を探るような目で見てきた。

「現場がクローズド・サークルだったとしたら、ほかにも犯行可能な人たちがいる。例えば……犯行現場の近くに住んでいる住人とかね」

軽い口調やほころんだ口元に相反して、彼女の目は笑っていない。それどころか、どんな小さな動きも逃すまいという鋭ささえ感じる。

「ねえ、ところで確認していい? 亮介って、ルカさんとは本当に面識がないんだよね?」

探るような質問に、わずかな苛立ちを感じた。一体、今さら何を言い出すんだ。

「ああ、前も言っただろ?」

コトリは無言で立ち上がると、傍らにあったルカのバッグから携帯電話を取りだした。

「画像フォルダ、見て」

ピンクの携帯電話を受け取り、『マイピクチャ』と書かれたところを開く。携帯電話のカメラで撮影されたデータが保存されている場所だ。

 そう言えば朝は受信メールやアドレス帳ばかりで、ここまではチェックしていなかったな。

「何だこれ」

とりあえず、一番最近撮影された画像を開いた。

 画面全体が暗く、右上の一部は濃灰色に見えなくはないものの、残りのほぼ全ては真っ黒だ。その黒い塊の中に、大きめの星だろうか、光の粒がある。

 画素数自体が少ないのか、撮影者の腕が悪いのか、何を撮ったかすら分からなかった。

「夜景写真か? 前衛的だな」

「後で分かるよ。とにかく見て行って」

ページを捲るように、次の写真を表示させた。時系列的には次々とさかのぼる形になる。

 次に現れたのは日中の道路で、すぐ近所であることが分かった。通学路としていつも使っている。

 数人が行き交っているところを見ると、朝の通勤時間帯かもしれない。

「……道の写真? なんだこりゃ」

「いいから次、見て」

 その次は、またしても全体的に暗かった。夜ではないが、夕闇時だろう。見覚えのある、四階建ての白い建物が真ん中に写っている。

「これ……専攻科棟か?」

毎日通っている学校がそこにあった。

 専攻科棟は、専攻科生――光下先輩や鳥島先輩たち――のための建物である。他の建物とは二階の渡り廊下でつながっており、外に出ずとも行き来できる構造だ。

 この専攻科棟には、少人数用の教室や資料室のほか、それぞれの教授の教官室と、その研究室もあった。オレの所属する寺田研究室――そして、その隣には寺田先生の教官室――もここにあり、もちろん毎日出入りしている。

 ミノルや光下先輩たちの所属するタモ研は他の棟にあるので、移動が面倒臭いと鳥島先輩がぼやいていたこともあった。

「そう。次も見て」

「まだあるのか……」

次の写真は、三階建アパートを下から写した写真だった。

 今まで気づかなかったが、一枚目の夜景写真も、このアパートを同じような位置から撮ったものらしい。黒い塊に見えた星のような明かりは、窓から漏れた光だったようだ。

 嫌な汗が背中を伝う。

 思わずコトリを見ると、冷たささえ感じる落ち着き払った表情で、同じ言葉を繰り返した。

「次」

律も、何かを知っているのか知らないのか、じっとこちらを見ている。

 これは何なんだ。

 冷たくなった指先で、携帯電話のボタンを押した。あっけないほど直ぐに、次の写真が映し出される。

「……ひ」

喉の奥でかすれた悲鳴が上がった。

 ディスプレイでは、穏やかな表情で男が寝ている。

「きゃっ!」

思わず投げ捨てられた携帯電話に驚き、コトリが叫んだ。

 律は微動だにせずオレを見続けたままだ。

「何なんだ……」

携帯電話はフローリングを滑り、壁にぶつかって硬い音を立てた。

 ディスプレイでは、相変わらず男が無防備な寝顔を晒している。

「何なんだよ! 何なんだこれ!」

「私が聞きたいよ」

コトリが苛立ったように反論する。

「どうしてルカさんの携帯に亮介の写真があるわけ?」

「し、知るか!」

あのアパートは、オレのアパートだ。

 あの通学路は、オレの通学路だ。

 寝ていた男は、オレ自身だ。

「日付を見ると、一番最近に撮られたあの夜景写真は月曜日の十二時十六分。分かる? 死亡推定時刻だよ」

「何が言いたい!」

コトリはいやに落ち着き払っていた。その表情は、人殺しを見るかのように冷ややかだ。

「少なくとも、ルカさんは亮介のことを知ってた。住んでいる場所も、通っている学校も、そこに行くまでの通学路も、全部ね。それだけじゃない」

コトリは立ち上がると、壁際に落ちた携帯を拾い上げた。

「彼女は、生前にこんな至近距離で亮介の寝顔を撮影できたんだよ」

オレの眠るディスプレイが、目の前に突き付けられた。

 いつ撮影されたものかは分からない。鎖骨から上、寝顔のアップで、青色のクッションか何かを枕にしているようだ。なぜか、頬がうっすらと上気している。

「知らない……本当に分からない」

震えるようなぎこちなさで首を振った。

 思い出せない。

 第一、女の家に泊まったことなんか、今までに一度もないはずだ。

「誰かが撮った画像を貰ったんじゃないか? だとしたらあり得るだろ?」

「残念だけど、それは私も考えたの。このフォルダはこの携帯で撮影した画像専用になってて、赤外線通信やメールなんかで貰った画像は、ここに入れることはできない。それに、何度かこのアパート前で写メをとる姿が、巡査に目撃されてたの」

「で、でも……」

「盗撮なんてのも無理よ。こんな至近距離だと、撮影者は亮介のすぐそばまで来てなくちゃいけない。路上でクッションを枕に寝てたなら誰でも撮影できる可能性は出てくるけど、そんな記憶もないんでしょ?」

頷くしかなかった。

 オレは、ルカを知っているのか?

 そう考えて、即座に否定する。

 いくら物覚えの悪い人間だったとしても、寝顔を見せるほど心を許した相手の存在そのものを忘れるなんてことはあり得ない。

「そう言えば、亮介のアリバイまだ聞いてなかったよね」

「疑ってるのか? オレが殺したって言いたいのか!」

「落ち着いて、私は念のために――」

「それなら、お前だってアリバイを証明できるのか? いやに知り合いを犯人に仕立てたがってるじゃないか」

「……残念だけど、私は三時ごろまでずっとファミレスにいたの。流体力学のレポート、まだ提出してなかったから」

驚くほど焦っていた。

 そんなわけはない、オレは殺していない、と切り捨てれば良い話だ。それなのに、どうして手が震えるんだ。

 遠くで、いつか聞いた子供の声がする。

「寝て起きたら、死体があった。オレが覚えているのはそれだけだ」

「その前の日は、いつ帰ってきたの?」

「いつも実験が済めば直帰する。詳しくは覚えちゃいないが、あの日だってお前は最後まで残ってたはずだ。実験室を出るまでのオレのアリバイは、お前自身が証明できるだろ」

「そうね。九時……九時半過ぎだったと思う。それからは?」

「だから、帰って寝たんだよ! 寝てる時のことなんか覚えてない!」

なぜオレばかりが疑われるんだ。むしろ、律の方が疑わしいはずなのに。

「そ……そうだ、律だ」

思わず律の両肩をつかんだ。

 今だけは、頼れるのはこいつしかいない。

「お前はいつも夜明けまで起きて朝方に寝る。そうだよな?」

「うん」

「なら見てたはずだ。オレはずっと寝てた、仮にベッドを抜け出して外に出たら、お前は気付くはずなんだ」

しかし答えたのは、律ではなくコトリだった。

「亮介が寝た後、牧野ちゃんは散歩に出かけたのよね? その時には死体はなくて、散歩から帰ってきたときに死体が出現したのを持ち帰ったって、最初の日に説明してくれたじゃない。とすれば、牧野ちゃんが出かけている間に殺して、また部屋に戻ることは可能よ」

「それは律だって同じだ!」

涙が出そうだ。

 違うと何度繰り返しても、コトリは信じてくれない。それどころか、オレ自身ですら心の底では確信が持てないのだ。

 脳内で響く子供の声が、だんだん大きくなる。声をひそめた、小学生の声。

 ……九年前から続く、あの声。

「そうだけど、普通、警官と会った直後に人を殺せる? 悲鳴でも聞かれたらお終いなんだよ。すぐにこっちを巡回しにやってこないとも限らないのに、少なくとも牧野ちゃんには、そんな危険な賭けをする必要なんかないでしょ」

ひひひ、と頭の中の声が笑った。

 ――人殺しって、遺伝するんだぜ。

「オレなら……やっても不思議じゃないってことか」

コトリは知らない。

 彼女だけじゃない、律を除いて、周りのやつらは誰もオレが人殺しの子だということを知らない。あの時から、オレは何よりそれが周囲に知られることを恐れていた。誰も知らない"はず"なのだ。

 なのに今、こうして人殺しの嫌疑をかけられている。

 母と同じだ。

 同じ、人殺しの血が流れているのだ。

「亮介はやってない」

不意に、頭上から声がした。

いつの間にかへたり込んでいたオレの横に、律が立っている。

「亮介じゃないよ」

「理由、あるの?」

コトリがおずおずと訊いた。

「ルカさんのこと知らないって言ってるじゃん」

「でも、携帯には……」

「あの写真は寝顔だったよね」

「そうだけど」

「友達と飲み会があるって、その写メの撮影日に亮介言ってた」

そうだ。あの日も、ミノルたちと飲んでいたんだ。

「撮影者が所有者のルカさんじゃなくても良い」

「そっか……言われてみれば」

「ルカさんとメールしてた『みー』って人じゃない?」

「亮介、その時の飲み会のメンバーは?」

「ミノルとオレと……光下先輩と、鳥島先輩と……壮太」

覚えている。

 ミノルが珍しく鳥島先輩に絡み、滔々と女の口説き方を語ってたっけ。

 ああ、あの時は楽しかったなあ。

「ってことは……亮介以外、みんなタモ研メンバーじゃない! 『みー』もタモ研だとしたら、携帯を直接渡して撮影してきて貰うことも可能だったってことね」

コトリは一人納得して、目を輝かせていた。

 もしかして、オレへの疑いは晴れたのだろうか?

「ま、ルカさんがなんで直接携帯を渡してまで撮影させたかってのと、どうして亮介のことを知ってたかって疑問は残るけどね」

「……もう、好きに思えばいい……」

どのみち、オレにはコトリのような鉄壁のアリバイがないのだ。いくら喚いたところで、状況は好転しない。

 最初は疑われたことで怒りが先んじたが、次第に熱は冷めていった。

 冷静になれたわけではない。オレ自身、自分の出生を思い知らされて、確信が持てなくなってきたのだ。

「コトリさん」

しばらくの沈黙ののち、律が口を開いた。

 推理が進展したことに気を良くしたのであろう、生き生きとした表情のコトリがその言葉に振り向く。オレも何気なく、横に突っ立ったままの律を見上げた。

 いつもの無愛想な顔に、わずかな違和感を感じる。

「そういうやり方、嫌いだ」

――何だ?

 聞き返す間もなく、律はそのまま部屋の隅へと移動した。自分の定位置で、いつも通り毛布を頭からかぶる。オレたちに背を向けたまま、ごろりと横になった。

 死体のように動かなくなった彼の背中からは、『話しかけるな』という無言の圧力のようなものを感じる。

「あ……」

コトリを見ると、哀れなほどに狼狽していた。

 自分の何かが律を怒らせたことに気付いたのだろう。

「牧野ちゃん、あの……」

彼女はいつでも凛として、強かった。グループで群れたがる女子たちの中で、常にコトリだけは自立していた。

 一匹狼というわけではない。自分が必要とする分だけ友人と話し、遊びはするが、決してそれ以上の依存はしようとしないのだ。

 だから、そんな彼女がこんな姿を人前で晒すことは、想像すらしなかった。

「私……ごめんなさ……」

彼女もそう思っていたに違いない。

 答えてはくれないであろう律の背中に呼びかけながら、目を伏せた。途切れた言葉は、多分もう続かない。

 次の瞬間、弾けたようにコトリは走りだした。

「おい!」

鞄すら持たず出て行った背中に呼びかける。

 反射的に後を追った。

 静かなアパートに、コンクリートの階段を打ち鳴らす音だけが響く。

「待てったら!」

アパートのガラス戸を突き飛ばすように開け、なおコトリは逃げ続ける。道路に飛び出したところで、ようやく指先を捉えることが出来た。

 オレの手を振り払うだろうと思っていたが、彼女は予想に反して成すがままだ。

 俯いたまま、荒い呼吸だけが繰り返される。

「ちょっと落ちつけって」

離れた所からの街灯の明かりでは、黒髪のかかった彼女の横顔から表情を読み取れない。

 ただ振り払われない手だけが、妙に不安を誘った。

「いちいちあいつの気分に付き合うな。明日には忘れてるはずだ」

答えはない。

 息切れは収まりつつあるようだが、まだ唇は薄く開けられていた。

「鞄は……今持ってくるか? 明日学校で渡してもいいけどな。あ、明日は土曜だから休みか」

まだ返事は帰ってこない。間を埋めるように、更に言葉を続ける。

「そろそろ八時くらいか……夕飯もまだだし、今日のところはお開きにした方が良いかもな。車の鍵、持って来てるか? 部屋にあるなら、取って来――」

「亮介」

意外にもしっかりとした声だった。

 こちらに向けられた顔は、しかし、前髪の影が目の辺りを覆っている。

「ごめん」

つかんでいた手を、コトリはぎこちなく握り返した。思った以上に指は細く、頼りない。

「……ああ」

「じゃあね」

すり抜けるように、彼女の手はオレから離れた。

 そのまま一瞥もくれず去っていく後ろ姿に、思わず呼びかける。

「おい、車の鍵は!」

「ポケット、入ってるから」

「そうか……気を付けて帰れよ」

「ん」

その背は、いつも通りバレリーナのように伸びていた。颯爽とも形容できそうな後ろ姿に、先ほど見せた動揺の影はない。

 あいつ、強いもんな。

 思いながら、ふとコトリをつかんでいた手を見る。まだ、彼女の体温が芯に残っているようだ。

 遠い街灯の弱々しい光にかざす。なぜそうするのか、オレにも良く分からなかった。

でも……

 多分、知りたかったのだ。あいつの心を。律の言葉になど左右されない強さを持っているであろう心を。

 わずかな明かりを受けて、オレの手の甲に一滴、小さな光の粒がきらめいた。




 部屋に戻ると、誰もいなかった。

 風呂とトイレ、洗面所が一体となったバスルームから、シャワーの流れる音がする。

 朝、美濃巡査が来たときにオレが中座するため立てこもった場所だ。正直、玄関を開けて真正面にこのドアが見える構造はどうかと思う。

 バスルーム前に敷かれたスカイブルーのマットレスには、一切たたまれてもいないが脱ぎ捨てたわけでもない、アイロンをかける前のような状態で服が広げられていた。

 その脇に、ゴミが並んでいる。

「何だこれ」

一つ一つを横一列に整列させているところを見ると、まだ捨てる気ではないのだろう。しかし、オレから見ればどう見てもゴミだ。

丸みを帯びた小石、薬が入っていたであろうアルミのシート、A4サイズの紙が数枚、菓子パンの空き袋、茶褐色の小ビンにペットボトルのキャップ。そして取り上げたはずの血まみれカッターもある。今のうちにまとめて捨ててやろうか。

 そう思い、一番目についた紙束を手に取った。

 一瞬、蟻の群れでもたかっているのかと思った。それほどに小さな字で、紙一面に文章が隙間なくびっしりと書き込まれているのだ。

「気持ち悪っ」

得体の知れない生き物の死骸に触れたような気分がした。思わず取り落とし、紙がフローリングを滑るように広がる。

 全部で六枚あった紙を拾い集めると、部屋の左奥にあるゴミ箱に持って行った。ペダルを踏んでふたを開けるタイプだ。

 最近は律のせいでばたばたしていて、ゴミ収集の日を一回逃してしまった。パンの包みやカップラーメンの器などがふたを押し上げんばかりに詰まっており、腿ほどの高さがある大きなゴミ箱はすでにいっぱいになっている。

 紙束を力任せに突っ込むと、わん、と小バエが数匹飛び立った。

「な、何だ」

すぐにベランダの戸を開け、虫を追いたてた。隅に鎮座している忌々しいキュウリの苗は、いまだにプランターで元気にやっているようだ。

 それにしても、今までに虫がわいたことなど一度もなかったのに。

 そう言えば、再び部屋に立ち込め始めた異臭もここから発されているような気がする。思い切って中身を調べようか、と迷っていると、後ろでドアの開閉音がした。

 バスタオルを頭からかぶっただけの律が、身体から湯気を立てている。

「おかえり」

がしがしと髪を拭きながら言った。すぐにゴミ箱を漁らせようかとも思ったが、その前に伝えるべきことがある。

「コトリは帰ったぞ」

「ん」

それ以上、律は何も聞こうとしなかった。

 いつものことだが、他人に無関心だ。これだけ自分を想い、世話を焼く女に対しても。

 とはいえ、そのことを注意するのもためらわれた。常に無表情なこいつの心など分からないが、さっきの律の態度には多分、オレが関係しているからだ。

「そういや、日中は何してた?」

「寝てた」

「……二人でか?」

「さあ。少なくとも僕は」

部屋奥のベッドは、シミの出来たマットレスのみが乗せられていた。死体の汁を吸った布団は、二重にしたゴミ袋に入れられてクロゼットで眠っている。流しに放置してあった食器も全て洗ってあったし、もちろん六宮の吐しゃ物だって片づけられている。

 全部、昨日オレたちが飲み会に参加している間にコトリがやってくれたのだ。

 しかし、そのことに律は何も感じてはいない。怒りや呆れよりも、不思議だった。

「なあ。お前、コトリのことどう思ってるんだ?」

思わず口にしたオレを、何をいきなり、といった表情で見た。

 妙に気恥ずかしくなってくる。ゴミ箱の話をしようと思ったのに、なぜコトリになったのだろう。

「人を殺すときは道具を使いそうな人」

これ、いったいどう解釈したらいいんだ。

「……つまり、ルカを殺すなんてことは考えられないってことか?」

「言ってない」

まともな回答を得ようと思ったオレがバカだった。

 律は気にする様子もなく、バスタオルをかぶったままタンスを漁っている。

 溜息をつき、床の上に広げられたままの律の服をつまみあげて小さすぎるバケツ型洗濯機へ放りこんだ。

「おい、これ捨てていいんだろ」

そばにあったゴミの群れを指差す。

 見もしないまま「だめ」という返事が返ってきた。キュウリともども忌々しいやつだ。無言でゴミを部屋の端に寄せ固める。

 時計を見ると、急に腹が鳴った。いつもながらだが、夕食にしては遅めの時間だ。

冷蔵庫を開けて残り物のカレーを取りだし、レンジで温めた。

 幾分身のしまったジャガイモを噛みながら、ぼんやりと考える。思えば今日一日"も"、いろいろなことがあった。

 さやかとのデートに始まって、オレの写真がルカの携帯に入っていたり、コトリがあんな風に帰ってしまったり。

 律の反応は、オレにとっても予想外だった。

 律はオレが犯人ではないという証拠を持ってはいないはずだ。オレとルカが顔見知りではないという確証もないだろう。なのに、どうしてあれだけきっぱりと断言出来たのだろうか。

 黙々とカレーを食べながら、疑問がじわりと広がっていく。

 寝顔写真の件だって、律が言ったのはあくまで可能性だ。ルカじゃない誰かが、飲み会のときに酔いつぶれたオレの寝顔を撮った可能性がある。しかし、そうではない可能性も充分にあるのだ。

 実はオレとルカは出来ていて、飲み会の帰りに彼女の部屋に寄り、そのときにルカがオレの寝顔を撮ったと考える方が、よほど自然ではないか。

「まずそう」

カレーから顔を上げると、目の前に律の顔があった。いつの間にか服を着て、頭からタオルをかぶっている。オレの顔真似をしているつもりなのか、眉間にしわを寄せていた。

「オレが作ったんだぞ。旨いよ」

「えー」

「パンばっか食べてたから味覚障害になってるんだ。だから分からないんだ」

「顔が歪んでたから」

「お前の性格よりは歪んでない」

「えー」

「そこは認めろよ。しょっちゅう平気で嘘ばっか吐いてるくせに」

ふと、さっきの疑問が蘇る。コトリのことに気を取られ、聞きそびれていた。

「なあ。……どうしてさっき庇ったんだ?」

スプーンを止め、しゃがんだままの律を見る。

 数秒遅れて、返事が返ってきた。

「かばう?」

「そうだ。オレが殺したんじゃないって言い切ってただろ」

無言のまま、奴はぐんにゃりと首を曲げた。疑問のジェスチャーなのか首のストレッチなのか、どっちだ。

「言っとくが、オレは殺してないぞ。ただ、証明できない。殺してないと自分で思ってるだけで、実は頭がイカれてて、知らないうちにやっちまってたってことも考えられる」

律は相槌すら打たなかった。アーモンド形の目だけが、いつもよりもわずかに見開かれている。

「お前がさっき言ったのは、あくまで可能性だろ。ルカじゃない誰かが、飲み会のときに酔いつぶれたオレの寝顔を撮ることが出来た、っていうな。だが、実はオレとルカは出来ていて、飲み会の帰りに彼女の部屋に寄り、そのときにルカがオレの寝顔を撮ったっていう可能性もある。そう考えるのが自然だし、そう思われても仕方ない状況だったんだ」

今言っていることは、全てオレ自身が不利になるようなことだ。しかし、客観的に考えた末の意見でもある。

 オレさえも自分が信じられない今、どうして律は『亮介じゃない』と言い切れたのだろうか。

「オレがルカのことを知らないなんて、お前が断言出来るはずがない。そうだろう。お前は何を考えてる」

それに応えるように、しゃがんでいた律が立った。被っていたタオルが床に落ちる。

 華奢なために小柄なイメージを持ちがちだが、こうして見上げると予想外に背が高いことが分かる。身長だけなら、奴はオレよりも大きい。

「ぼくが」

「……あ?」

「殺した」

明日の天気の話でもするかのような調子だった。

 分かってはいる。

 これは、いつもの意味のない嘘だ。

「人が真面目に話しているときにまでふざけるのは止せ」

怒鳴りつけたい気持ちを抑えはしたものの、声が震えた。

 オレを庇ったのもただの気まぐれだったのだろうか。それとも、住む場所がなくなることを危惧しての保身か。

「信じない?」

「信じると思ったか? バカが」

「お互い様」

「何がだよ」

律は背を向けると、部屋の端のゴミの前で再びしゃがんだ。迷わず、茶褐色の小さな空きビンを手に取る。

「キツツキってさ」

きつつき?

 突拍子もない単語に、一瞬何のことか分からなかった。

「木の穴にいる虫を食べるんだけど」

「……どうして殺人から野鳥の話になったんだ」

全く聞こえていない様子で、空きビンばかりを凝視している。真面目に話しているのに、なぜ唐突に鳥の話なんか聞くはめになったんだ。

「穴のあいた、二種類の木を用意する。一種類目は、穴があいているだけで何も入っていない木。もう一種類は、何個かの穴にだけキツツキの食べる虫が入っている木」

バカらしくなって、すでに冷えたカレーを掻っ込んだ。

 咀嚼しながら律を見るが、本題に入るどころか、妙な話をやめる気配もない。

「キツツキが虫を食べるには、はずれの混じったいくつもの穴を覗き回らなきゃいけない。虫が入っていない木の穴はいくら覗いたって無駄だけど、穴に虫が入っていなかったからと言って、その木が『はずれの木』かどうかは分からない」

確かに、『当たりの木』でも全ての穴に虫が入っているわけではないのだから、覗いた穴に虫がいなくても、たまたま『当たりの木の虫が入っていない穴』を覗いただけ、という可能性もあり得る。

 だからと言って、本当に何なんだこの話は。

「つまり重要なのは、はずれの穴が何個続けばその木をあきらめるべきかなんだ。ここで数学的に一番効率の良い数値を算出することもできる。だけど、キツツキは数学が苦手だから」

「……それは知ってる」

「それでも、キツツキは高等数学を用いて算出した数値と同じ数だけの穴を覗いて、次の木に移ることができる」

「なんでだ?」

「本能だよ」

「ただの偶然じゃないのか」

「誰だかの実験結果では、『当たりの木』の虫の数を増やしたり減らしたりしても、キツツキは正確な数値を導き出したらしいよ」

「まるで超能力だな。で、結局のところ何が言いたい」

律の背後に立つと、奴が両手で持っていた小さな空きビンを取り上げた。さして気にする風でもなく、のけ反るようにオレを見上げる。

「ぼくは亮介を無実だと思った。亮介は僕の自供を嘘だと言った。どうして」

「それは……」

改めて問われると、返事に詰まった。

 考え付く理由ならばいくらでもある。律ならばこんな『ごく普通の殺人』など犯すはずもないとか、そもそも殺すほど誰かに関心を持つことなどあり得ないとかだ。しかし、どれも論理的な理由ではない。そして律の自白を聞いたとき、そこまで考えていたわけでもない。

 オレもまた、何となく律が殺したのではないと感じていたのだ。

「ずいぶん遠まわしだな」

本能。

 オレたちにその力が働いているとするなら、律の嘘もまた本能によるのだろうか。

 だとしたら、その目的は……。

「お前の言いたいことは分かった、今回はな。だが、九年前――」

「亮介、あれがない」

「おい!」

すでに律の顔はゴミに向けられていた。オレと会話する気はあるのだろうか。

「まず、指示語じゃなくて名称を言え。お前の考えていることが分かる人間がこの世に一人としていると思うな」

「六宮君が、書いた紙が、どこにも、ない」

あれは六宮が書いたものだったのか。どおりで禍々しいと思った。

「捨てたぞ。あのな、六宮とオレらを繋ぐ証拠になりそうなものを拾ってくるんじゃない。そうそう、ついでにゴミ箱から異臭がするんだが」

「あった」

律はすぐにゴミ箱を開け、紙を発見した。

「お前だな? お前が何か変なものを入れたんだろう」

「くしゃくしゃになってる」

「また通報される前にゴミをどうにかするんだ。じゃなきゃ、その紙と一緒にパンを捨ててやる」

律はしぶしぶゴミ箱の袋を換え始めた。それを見守りつつ、オレはコトリから貰った噴霧タイプの消臭剤をまき散らす。

「ちょっと待て。何だそのジューシーなやつ」

地域指定の透明なゴミ袋の中、丸めたティッシュと書き損じたレポート用紙との間に汁っぽい何かを見つけた。

 当然、いやな予感がする。

「手」

「手? 手って、まさかルカの手じゃないだろうな」

「僕の手だと思った?」

「そこは疑ってない。どうしてここにあるのかって訊いてるんだ」

「折れたから捨てたって言ったじゃん」

確かに聞いてはいた。三日前、死体の添い寝で朝を迎えた日の夜に、律はルカの右手を折ったあげくに捨てたのだ。しかし、この部屋のゴミ箱に捨てただなんて予想はしていなかった。

 こいつは常に主語と修飾語が足りない。それ以前にまともな思考と配慮が足りない。

「警察に見つかったらどうするんだ? 今すぐ取り出してうまく片付けろ。何ならお前が食べても良い」

「パンなら食べられたのに」

「これがエビフライだったとしてもゴミ袋から出して食う気にはならない」

半透明の新しいビニール袋を律に投げつけた。

嫌がるかとも思ったが、あっさり手をゴミ袋に突っ込むと、大根でも引き抜くかのように腐った手を引きずり出した。雑多なゴミと濃厚な腐臭があふれ出す。

 カレーを食べ終わっていて良かった。

 雑ながらも作業をこなす律に背を向けると、奴がそこまでして欲しがっていた紙切れに目をやった。

 六宮の書いたものならば、ルカのことも書いてあるかもしれない。とすれば、何かこの状況を打破できる記述があっても良さそうだ。

 適当に一枚を拾い上げて読んでみた。


『ああ目れだおおイだふあざいうるイレイイくイぽレうエぽぱ目目目目るふぁきすイイイぺりんどおいぴぴイイ目イねイ存イイイイイイイイイイイイイイイイイイ』


 捨てた。

「こっちの方が分かりやすいよ」

汁まみれの手で律が他の紙を差し出した。

 手を拭け、手を。

「お前、これもう読んだのか?」

「うん」

「解説してくれ。こんなんじゃ分からん」

紙には、

『プレロマからの神託があるのは伝わるので物質界にエヴァは逃げ落ちる』

から始まる文が書かれている。

「自分で読めばいいのに」

「いいから手を洗って解説しろ。昨日切ったばっかりだったろ」

「傷口にセロテープ貼っといた」

お前の手は夏休みの工作か。

「感染症だけじゃなくそこから足がつくかもしれないからとにかく洗え。それから解説だ」

律はわざとらしく溜息をつき、べりべりとセロハンテープを剥がしながら台所に向かった。

 ベランダを見ると、腐った手はビニール袋で何重にも包まれて放置されていた。

そっとベランダの端に寄せ、上に段ボールを被せる。

 室内では、流水がステンレスの流し台を打ち始めた。手を洗いながら、同時進行で律が話し出す。

「六宮くんとルカさんの思い出話を既存のお話に当てはめたり繋ぎ合わせたり作り足したりしたもの、だった」

「そんなんで分かるか」

空いたカレー皿を流しへと持って行く。

「聖書って知ってる?」

「単語だけなら」

律は再度溜息をついた。無言でその手に汚れた皿を押しつける。

「一番初めに造られた人間がアダムっていう男の人らしい。で、アダムのあばら骨からエヴァって女の人を作ったんだって」

「ああ、何となく聞いたことはある」

「ただし六宮君のオリジナル話によれば、一番最初に存在したのはエヴァで、ヘビの導きによって闇に沈んでいたアダムの魂を救い上げて、楽園に物質化させたって設定みたいだけど」

そのまま蛇口を閉めた律を引きとめ、もう一度蛇口を開く。何かを言いたげな律の視線を無視し、話を促した。

「で、それが?」

「あー傷口痛い。あー痛い」

棒読みも良いところだ。

 しかし奴の手を見ると、予想以上に傷は深そうに見えた。ところどころ出血中の赤黒い線が四本の指にまたがっており、その線は熱っぽいピンクで縁どられている。

 仕方ない。洗い物をさせるのは断念しよう。

「で、続きは?」

「アダムとエヴァが住んでた場所が、エデンの園。そこに生えてたのが善悪の知識の木」

「確か、その木の実は食っちゃいけないんだよな?」

「そう、神様が言うにはね。結局はヘビの勧めで食べたんだけど」

「で、楽園追放と」

「知ってんじゃん」

手を拭いて再び傷口にセロハンテープを貼ろうとしている律を止めた。渋々、包帯とガーゼで手当てをしてやる。

「でも、どうして知識を得ちゃいけなかったんだ?」

「例えば、世界を作ったのが神様じゃなかったとしたらどうする」

「どうするも何も、実際は神だの悪魔だのなんて存在しないんだろ」

「違う」

出来の悪い子に勉強を教えるように、律が言った。

「世界を作った造物主は出来そこないの悪者で、本当はもっとすごい神様がいるとしたら、ってこと」

「その事実を、"知識の木"の実を食べることで知ることになる、ってことか」

「うん。一番偉いと思ってた神様は偽物で、実はダメなやつだって気付いた。で、それを知ったアダムとエヴァは楽園を追われた」

「でも、人間を造ったのは本当の神自身じゃなくて、偽物の神の方なんだろ? だとしたら、人間にとっては一応神様みたいなもんじゃないか」

「だね」

律は首を前に垂らし、あくびを一つ漏らした。

 絶対こいつ、話を切りたがっている。

「で、その偽物の神がどうしたって?」

「デミウルゴスって名前。残りは明日」

「じゃ、パンも明日だ」

コトリから貰ったパンを目の前でぶらぶらさせると、うつろな目で律は話を再開した。

「プレーローマっていう、本当の神様たちがいる世界があるらしいよ。で、その中でも一番位の低いソピアーって神様が、なんだかんだでプレーローマから堕ちた。そのとき出来たのがデミウルゴス。つまり、人間を造った偽の神様」

「ややこしいな。デミウルゴスは下っ端の神の創作物みたいなもんか」

「この世界も人間も物質で出来てるから、必ず壊れたり死んだりする。世界や人間が不完全な物質で出来てるのは、傲慢で低劣なデミウルゴスのせい、ってことらしいよ。そのデミウルゴスが旧約聖書で言うヤハウェなんだけど」

「んん……」

ほぼ聖書の内容を知らないとはいえ、さすがに違和感を感じた。

 以前律から説明を聞いたとき、ヤハウェを『最高の神様』と言っていたはずだ。なのにどうして、下っ端の神から造られた悪神デミウルゴスと一緒だと言うのだろうか。

「それって……キリスト教か?」

「ううん、グノーシス」

律は包帯を巻き終わった手を弄りながら、六宮の紙に目を落とした。

「グノーシス?」

「これをベースにして、六宮君はルカさんとの思い出話を書き連ねたっぽい。かなりオリジナル部分はあるけど」

「それより先に、グノーシスってのは何なんだ」

「古代ギリシャ語で『叡智』って意味」

オレの顔を見て、まだこいつは理解できていないな、と判断したようだ。

「僕も良く知らないけど、神秘主義思想の一つと思っとけば良いんじゃない? キリスト教にも流れ込んでるけど、それだけじゃないから」

「お前……そういうどうでも良いことに脳みその容量使いすぎてるぞ」

「ありがとう」

噛み合わないのはいつものことだ。

「で、結局その紙にはなんて書いてあるんだ?」

「部屋に行ったとき六宮君が話してたことと、だいたい一緒」

確かに、楽園から逃げただの牢獄だのと言っていた気がする。ほとんど覚えてはいないのだが。

「一番最初、ルカさんはソピアーって神様で、六宮君がその伴侶だった。けど、さっき言ったように、そこからデミウルゴスが生まれた。で、二人は神様の国から物質の世界に堕ちて、アダムとエヴァになった」

「無理やりだな」

「実を食べて真実に気付いたルカさんを、デミウルゴスと悪い仲間たちが襲おうとした。二人は逃げて、転生を繰り返して今に至る。以上」

「死後三日目にどうのこうの言ってたのは何だったんだ?」

「三日後に生き返ると思ってたから、それを阻止したかったんじゃない?」

「それで死体を殴り潰してたのか。でも何で生き返っちゃだめなんだ? ルカが好きなんだろ」

「さっきも言った。物質は悪なんだから、物質で出来てる身体も悪なんだよ」

昨夜のさやかとはまた違った狂気だ。しかも、全く同調できそうにない部類の。

「まあ……とにかくだいたいの内容は分かった。だからそれを捨てろ」

「えー」

「内容は頭に入ってるんだろ?」

「うん」

「じゃあ捨てるぞ。一応燃やしてからの方が良さそうだな」

流しでライターを使って紙を燃やしていると、後ろからパンの袋を漁る音がした。

諦めがついたらしい。

 昼間に嫌な汗をかいたことだし、シャワーでも浴びよう。

 服を脱ぎ、トイレとの間仕切りであるカーテンを引くと、途端に薄暗くなった。狭苦しい上に照明まで不十分なバスルームだが、無いよりはましだ。

 熱めの湯が全身をくまなく覆うと、頭の中まですっきりとしていく。

 いろいろな事が起こりすぎたのだ。立ち止まって考えている暇もないほどに。

 麻痺していた思考回路を、少しずつ癒し、ほぐしていく。

 とにかくルカだ。あの女は何なんだ。どうしてオレの写真を撮影できた? それ以前に、なぜオレを知っているのか。

 律の仮説と、オレの客観的予想。もちろん、律の仮説が当っていれば良いとは思う。しかし、たとえ『みー』という人物がタモ研のメンバーかそれに近しい人物だったとして、なぜそんなことをする必要があるのか。

 ふと、さやかのことを思い出す。あれだけオレに執着しているならば、写真くらい欲しがったとしても不思議ではない。しかし、自分のではなく他人の携帯電話をわざわざ借りて撮影する、という意図が分からないままだ。むしろさやかも飲み会に参加していなかったのだから、撮影者側ではあるまい。かといって、オレの寝顔が写っていたのはルカの携帯なのだから、依頼者はルカで確定だろう。

 顎から涙のように滴るシャワーを見て思う。

 やはり分からない。何もかもが分からない。

 『撮影者はルカである必要はない』という律の理論は正しいが、だからと言ってルカがオレを知らないとは、結局言い切れないのだ。

ルカが自分の携帯電話を撮影者に渡している以上、そこには何らかの理由がなければいけない。

 そんな理由が、本当に存在するのか。

 髪を洗い、身体を洗いながら考える。泡が這うように皮膚を下り、足先から離れて行く。未練がましくすがりついていた最後の泡が排水溝に消えても、その答えは浮かばなかった。

 代わりに強くなったのは、やはりオレが殺したのではないかという疑いだ。

 コトリがああ推理したのも、当然だと思う。あの時、彼女の推論を一蹴しなかったのは――それどころかひどく狼狽してしまったのは、やはり、オレ自身がすでに心のどこかでそう思っていたからだ。

 人殺しの遺伝子。

 そんなものが存在するわけはない。片親の取った行動を、子が百パーセント再現するなんて有り得ない。

 オレが高専の物質工学科へと進学し、生物学を選択したのは、それを確認したかったからだ。あれは小学生の悪童が考えもなしに言った戯言だと、確信できる知識が欲しかったのだ。

 そして学んだ。殺人遺伝子など存在しない。

 ……存在しないが、気質的なものは遺伝する可能性が強い。

 人間行動遺伝学では、関連遺伝子が盛んに研究されている。差別や偏見に繋がるとの一部からの危惧をよそに、今後も発展していくことだろう。いつか真実が暴かれたとき、オレにもたらされるのは安堵だろうか。それとも……。

 蛇口を閉め、ごわついたタオルで体を拭く。蒸気の充満するバスルームを出て、ひんやりとした空気を吸い込む。素肌を隠ぺいするように服を着ながら、先ほどの考えを訂正した。

 安堵する日は、永遠に来ない。

 オレにとっての真実は、九年前のあの日に発芽し、五年前の事件で決定づけられた。人間行動遺伝学云々ではなく、個人的な確信だ。この身体には、確かに忌まわしい性質が息づいている。

 オレにできるのは、ひたすらにそれを隠し、露呈するきっかけとなり得るものを身の回りから取り除いていくことだけだ。

 着替え終え、陰鬱な想いをそう結論付けると、律と目が合った。どうやら食事は終わったようだ。何をするでもなく座ったままこちらを見ている。

「何だ」

「ううん」

立ち上がり、自分の毛布を引きずって定位置に寝転ぶ。静かすぎる室内で、眠いのか、かすれ気味の声が言った。

「今夜は、散歩いかない」

「そうか」

なぜこんなことを断るんだ。いつも好き勝手に行動しているくせに。

「散歩、明日の朝にする」

「……おう」

「起こして」

「何時だ」

「お任せ」

意味が分からない。いったい何時に起きたいんだ、というか、本当に起きたいのか。

 もやもやとした思いを抱えながらテレビを付けた。途端に、弾けるような笑い声がスピーカーから広がる。

 ほどなく意識はテレビへ向かい、ちらついていた五年前の思い出もぼんやりと溶けていった。


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