九年前
「人殺しの子が来たぞ」
教室のドアを開けて、一番にかけられた言葉。
近寄って話しかけてくる子はもういない。みんなが遠巻きに、ぼくのことを見ている。
「知ってる? 包丁でめっちゃくちゃに刺しまくったんだって」
「血とかいっぱい出て死んだんだろ」
「お母さんも反撃されて死んだって聞いた。相打ちらしいよ」
「あいつ、自分の母ちゃんが殺されるところまで全部見てたらしいぜ」
「それマジで? すげえ」
目立たないようにするのはムダだった。教室中の視線が刺さる。
それでもなるべく音が出ないようにイスを引いて、窓際の自分の席に座った。
のろのろと教科書をランドセルから机に移していると、誰かが走り寄ってくる。
相変わらず岡村の取り巻きをしている斎藤だった。
「なあなあ、おまえ母ちゃんが人殺すところ見たの?」
にやついた声だ。顔を見なくても、好奇心むき出しのサルのような顔が想像できた。
なるべく反応をしないように、教科書を移しかえ続けた。心臓だけが、どくどくと興奮したように暴れている。
「血とかすごかったんだろ? 死んだ奴って、どんな顔して死んだ?」
やめてくれ。
何も思い出したくないんだよ。
お母さんはいつだって優しかったんだ。
あんなことなんて永遠に起こり得ないはずだったんだ。
「やっぱ叫んだりとかしてた? 包丁で刺したんだよな? 母ちゃんどんなふうに殺してた?」
やめろやめろやめろ。
違うんだ。お母さんは違うんだ。
どう違うかは分からないけど、そんな人じゃないんだ。
もうやめてくれ。
「なあってば。全部見たんだろ、教えろよ。お前、母ちゃんが刺し返されるところも見てたんだよな?」
いつのまにか止まった手から、国語の教科書がすべり落ちた。拾おうと思ったけど、いっこうに手がとどかない。
どうしてだろう。体が石みたいだ。
ムダにのばされた手が、細かくふるえているのが見えた。
「母ちゃんどんなふうに死んだ? おい、ちょっとは返事しろよ。死ぬとこ見たんだろ?」
視界がどんどんせばまって、電気が消えるみたいに暗がりに落ちる。緑の光が闇にたゆたう。ぼくと教室がどんどん離れていきそうだ。
暑くもないのに汗がにじんでいる。
「お前、なんで母ちゃん助けなかったの?」
――突然、どなり声とともに視界がぶれた。
脳が熱い。
気が付くとぼくは斎藤を床に押したおし、その首をつかんでいた。口のはしがぴりぴりと痛む。
のどの痛みを感じながら、ああこのやかましいさけび声はぼくのなんだ、と気付いた。
教室中のやつらがさわぎ出したけど、誰ひとりとしてぼくを止めようとはしない。
それほど力を入れていないはずなのに、斎藤の顔はどんどん赤黒くなっていく。涙がぷっくりと目のはしにたまって、せきを切ったように流れ落ちた。口をゆがませて、死にかけの金魚みたいに動かしている。
斎藤は大嫌いだけど、こういう斎藤はそれほど嫌いじゃないな。
「何してるの!」
後ろで大人の声がした。ああ、誰かがわざわざとなりのクラスまで行って先生を連れてきたんだな、とぼんやり思った瞬間、ぼくははがいじめにされて強制的に引き離された。
斎藤は吐きそうなくらいせき込んでいる。みんなの同情するような視線は、ぼくにではなく、斎藤に向けられていた。
「いいからこっちに来なさい!」
ヨウコ先生に抱えられ、引きずられるようにドアへと向かう。教室から連れ出されるまぎわ、誰かの声がした。
「ひとごろし」
ふと、足が止まる。先生はすぐさま振り向くと、ヒステリックにしかりつけていた。誰かもわからない声はやみ、何かを言いたげな視線だけが残る。
教室を出てドアが閉まる瞬間、再び声がした。
「なあ、人殺しって――」
それは閉じかかったドアのスキマからはい出て、ぼくの耳にぬるりとすべり込んだ。
「遺伝するんだぜ」