三日目
今朝、オレの目を覚ましたのはチャイムではなかった。
携帯のアラームが、真っ暗な室内に響く。明け方の四時半。日はまだ昇っていない。
オレはコトリの提案を実行すべく、部屋の隅で眠っている律をたたき起こした。
最初は起きる気配すら見せなかったが、今日はお気に入りの食パンを二斤買ってくることを条件に、嫌々ながら起き上がった。
女の身体は、少し膨らんでいた。ガスが体内にたまっているのだろう。これを昨晩のうちにビニールシートで覆い、その上から黄色の透明なゴミ袋で二重にくるんでおいた。ビニールシートを手に入れるため、わざわざ夜中に三人で西山公園まで足を伸ばすはめになった。
あの公園は、山にだだっ広い公園が寄り添うような形に造られている。平地部分には広めの芝生や大きな噴水しかないが、夜間は木々や噴水がライトアップされるのでデートコースとしても使われている。
山部分には小さな動物園、アスレチックなどの遊具のほか、鯉の泳ぐ川や神社、高所には展望台などが設置されていた。
しかし、そういった『設備』から離れた場所では、鬱蒼と茂る木々にまぎれるようにして、様々なゴミが不法投棄されている。レジャーで訪れた人々が捨てていったカラフルなシートのほか、工事現場用の青いビニールシートまであった。
コトリは夜のデート気分だったようで、文句ひとつ言わず車を出してくれた。律との初デートが『夜中のゴミ漁り』になってしまったというのに、始終上機嫌だった意味が分からない。
そしてゴミ袋は、わざわざ昨日の夜中に近所のゴミを持ち帰って手に入れたものだ。どちらにしても、オレの部屋にあるものや買ってきたものを使うとそこから足がつくから……という、コトリからの入れ知恵だった。
おかげで今、女は見違えるほど他殺体らしい姿に生まれ変わっていた。首から下だけを不透明のブルーシートで覆ったのは、顔を出しつつも腕の欠損を隠すためだ。
携帯電話を取り出し、メモ帳をチェックする。表示されたのは、画面を埋め尽くす長い文章。昨日、皆で考えた台詞だ……と言っても、律の協力は全くなかったのだが。
今日こそは、あの男とコミュニケーションを取るつもりだった。
もちろん、オレは怖いからやらない。後方支援に徹すると決めている。
「今日の段取りをもう一度確認しよう。まずは、あのドアチェーン男がドアの前に到着したら……さあ、どうするんだった?」
「が……」
「が?」
「んばる」
なんて抽象的なんだ。
無理やり起こしたせいか、律の目は閉じかけていた。無言で携帯電話の液晶画面を突きつけると、半開きの目を左右に動かし、読んでいるそぶりを見せる。
「読んだか? ちゃんと理解したか?」
「せっかち」
ため息をついて、携帯電話ごと渡してやった。
ドキドキしながらドアスコープを覗く。廊下にはまだ誰もいない。
窓の外も見たが、日が昇りきっていないために暗く、誰かがいたとしてもよく分からない状態だった。
オレは護身用のビニール傘を手に、部屋をうろうろしながら考えた。
まず、この二日間で分かったこと。
死体の女は真正面から首を絞められていた。おそらく、これが死因だと見て間違いないだろう。しかし、女のつめには何も挟まってはいない。手首を見ると、"うっすらと"線状のあざがあった。
そこから、三つのことが考えられる。
まず一つ目は、女は手を縛られた上で真正面から首を絞められ、殺害されたということ。しかし、自分が殺されるというのにあのあざ程度で済むのだろうか? 死に物狂いで拘束を外そうとしたなら、それこそ首の絞め跡ほどにくっきりとした痕を残すはずではないか。それとも、単に女の力は予想以上に弱いだけだろうか?
オレは腕まくりをし、昨日さやかに掴まれた二の腕を見た。爪で突いたようなあざが指型に並んでいる。さやかの握力が特別なのかどうかは分からないが、よっぽどオレのあざの方がくっきりとして見えた。
次に、手を縛られる以外にも抵抗できない理由があったということ。薬物によって眠らされていたという場合が当てはまるだろう。しかし、だとしたらなぜ最後に首を絞めて殺害したのか? 毒物であっさりと殺したほうが手っ取り早いんじゃないだろうか。
それよりも腹部や頭を殴るなど、暴力によって失神したと考えるほうがしっくりと来る。それを証明するように、遺体には数箇所の、とりわけ服で隠れるような箇所に集中してあざがあった。ただし、このあざも手首同様にそれほどひどいものではなかった。もしかしたら、事件よりももっと前の日に付けられた、事件とは無関係の治りかけのあざかもしれない。
ただ問題は、どこで暴行したのかということだ。死体が放置されたアパート前ならば、たちどころに騒ぎになって、殺人を完遂することなど出来なかっただろう。とすれば、死後に犯人が遺棄したということになる。しかし、西山公園という、死体を捨てるにはうってつけの場所が近くにありながら、なぜ発見されやすい住宅街に遺棄したのかという謎が残る。
三つ目は、手を縛っていた紐か何かが予想以上にゆるく、なんとか外して逃げ出したまでは良かったのだが、結局追いつかれ、殺された上に証拠隠滅までされてしまった、ということだ。弱った体で逃げ出した女は疲労困憊しており、喚く暇もなくあっさりと殺されて、騒ぎにはならなかったのではないか。そして犯人は、女のつめに入り込んだ自分の皮膚に気づき、ご丁寧にも綺麗にしてから逃走した……
まあ、不可能ではないにしても、相当無理やりな話だ。
昨日見た女のつめは、折れているどころかネイルアートが剥げてすらいなかった。するとやはり、これは可能性が低いだろう。
……まぁとにかく、遺体についてこれ以上のことはもう分からない。
次に、律が遺体を拾ってきた後だ。オレは毎朝、異常者に安眠妨害をされることになる。
多分、ドアチェーン男が犯人だろう。なぜ殺したのか、なぜ自分で遺棄しながらも引き取りにきたのかは分からない。
しかし、人の常識が当てはまらないのが異常者というものだ。いちいち考えるだけ無駄だろう。律と暮らしていて、そこら辺は良く分かっている。
そして今、幸いにもドアチェーン男は死体の女を欲しがっているようだ。
もちろん、これを逃す手はない。身の安全さえ保障されているなら、今すぐドアをフルオープンにして歓待したいくらいだ。
今までの様子から言って、彼はドアを揺すったり声を上げたりはしているが、凶器は持っていないようだ。いくら何でも部屋に迎え入れることは怖くて出来ないが、女さえ渡すことを伝えれば、危険な男ではないかもしれない。
「そろそろ覚えたか?」
「ん」
律はオレに携帯電話をつき返すと、うつむいたままプルプルと首を振った。彼にとっての敵は、ドアチェーン男よりも睡魔らしい。
時刻は五時を回ろうとしていた。窓の外が、ほのかに明るい。
西向きの窓なので朝日は見えないが、まさに今、夜が明けようとしているようだ。町はまだ眠っているようで、鳥の鳴き声もほとんど聞こえない。
なんだか落ち着かないのは、耳を澄ませると、ドアチェーン男の足音が聞こえてきそうだからだ。
ほかにし忘れていたことは無いか、と考えていたそのとき。
突然、チャイムが響いた。
普段よりも数倍大きな音に聞こえ、心臓が跳ね上がる。
「お、おい、来たぞ」
どうしていいか分からず、律を見た。下を向きながら大あくびをしている。
あふ、と空気を吐き出すと、彼は迷いなくドアに向かった。オレもあわてて後を追う。
ガチャリ、と鍵を外す音が響く。
ドアの隙間に向かい、律は言った。
「えーと……"おはようございます、まずは質問に――」
「返せえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」
突然の衝撃に、何がなんだか分からなくなった。
筋張った手が、ドアの隙間から勢い良く突き出されている。
突き飛ばされた律がオレに倒れ掛かってきたのだと理解するまでに、数秒かかった。
……手?
よろめきながらも何とか踏みとどまり、ドアを見た。すでに、外側に向かって半分近く開いている。
律……
チェーンをかけ忘れたのか!
「ルカああああああああああぁあああああああぁあああぁあぁああぁあぁぁあああああああ」
突進してくる男に向け、持っていたビニール傘を突き出す。しかし、胸に刺さる寸前で先端をつかまれてしまった。
「くそっ!」
傘を思い切り引いた。
予想外だったのか、男は前のめりに倒れる。間に挟まっていた律が下敷きとなり、迷惑そうな声を上げた。
傘の柄を離し、男の髪をわしづかみにして持ち上げる。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
端が裂けんばかりに開かれた口からは、表情を持たない声と共に唾液が垂れていた。焦点のあっていない目が、オレの向こうの何かを見続けている。
律が何とか男の下から這い出したが、全くそれを気に留めてはいないようだ。
「かかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか」
音だけならば、それは笑い声にも似ていた。しかし、感情の見えない顔とは全く釣り合いが取れていない。
いびつに引きつった口の端には、わずかに泡が溜まっている。
「亮介、手!」
後方からの声で、とっさに男の体を見た。パーカーのポケットに突っ込まれた手が、ずるずると這い出てきている。
その先には、カッターナイフが握られていた。
「てめえ……」
髪を引っ張り、抱きしめるように体を引き寄せる。がら空きのみぞおちを、思い切り膝で蹴り上げた。
ぐうっ、という唸り声が上がる。
やつの手はまだカッターを握ったままだ。じりじりと刃先が近づいて来る。
二発目。
三発目。
膝に当たる感触は柔らかで、心地良いほどだ。肋骨に守られていないせいだろうか。
じんわりと、脳髄がしびれるような感覚に陥った。呻き声がするたびにそれは強くなっていく。
カチン、という硬質な音でオレは我に返った。
掠めるように、律が床に落ちたカッターを奪う。
ドアチェーン男はそれどころではないようで、うずくまったまま嘔吐していた。もみ合ったせいか、男の眼鏡がオレの足元に落ちている。
なんだ。
なんだったんだ、今のは。
困惑しながら律を見ると、わずかに眉根を寄せ、オレを見返してきた。
今のことを咎めているのだろうか?
しかし、これは仕方ないじゃないか。向こうから仕掛けてきたんだ。手には刃物まで持っていた。警察に駆け込んだって、正当防衛だと言われるはずだ。
思わず玄関先にへたり込んだオレの横を、律がすり抜ける。幾分和らぎながらも未だに苦しんでいる男の背中をなでると、こちらに目を向けた。
「さっきの続き言っていい?」
一気に力が抜け、オレは仰向けに転がった。
狭い廊下に体を投げ出しながら、息を整える。嘔吐物の酸っぱいにおいが鼻に付いた。
ドアチェーン男は、今のところは大人しくなったようだ。ここからは死体が直接見えないからかもしれない。
玄関から見て、左手奥に台所がある。突き当たりは風呂場で、トイレも兼ねている。いわゆるユニットバスだ。廊下はそこから右手に伸びており、ドア一枚も無くそのまま唯一の部屋に突入する。
死体があるのは、その部屋のベッドの上だ。
「えーと、"お名前とご住所を言ってください"」
律が勝手に話を進めたが、男は答えない。呻き声も消え、先ほどに比べてずいぶんと落ち着いたようだ。
「"次に、あの死体の女性について――"」
「おい待て、まだ次に行くなよ」
「なんで?」
「答えが返ってきてないだろうが。大きな声で独りごと言ってたって意味ないだろ」
「何事もやってみなきゃ分からないさ」
「その言葉をもっと別のときに言え。職探しとか」
「"あの死体の女性についてお聞きします"」
「だから先に行くな!」
律が少しでも使い物になると思っていたオレがバカだった。
諦めて携帯電話を取り出し、メモ帳を表示する。
「もういい、オレがやる。……ほらお前、まず名前を教えてくれ」
男は、全く耳に入っていない様子だった。起き上がりはしたものの、オレたちなど完全に無視して、うわ言を繰り返している。
「ルカ。ルカ。三日目なんだ、ルカ、今日が三日目の朝なんだ……」
「三日目って何のことだ?」
「朝が来てしまう、ああ、ルカ、ルカ……」
だめだ、全く話にならない。昨日までは、これほどまでに会話が成り立たないとは思っていなかった。
「亮介、このひと聞いてないよ」
「……そうだな。少なくとも、聞いてるのにあえて無視してるわけではないようだ。お前みたいに」
「もう朝ごはんにしよう」
二人とも、手をつないでどっかに消えてくれないだろうか。
「まずは、お前のするべき事をこなしてからだ。そうしたら約束通りパンをやろう」
「えー」
なぜ最初の約束を守ろうとしないんだ。
律は言うことを聞かないし、不審者は一人の世界に入っているし、もうオレはどうしたら良いんだろう。
「ルカ、ルカ、あああああ……」
「パン、パン、あああああ……」
「うるさい!」
半泣きになりながら、結局オレは冷蔵庫に向かった。袋ごと食パンを投げつけると、律はそれを拾い上げ、わずかに口の端を持ち上げた。
「食べていい?」
「ダメだ」
「いただきます」
「そうなると思った」
静かなワンルームに、がさがさという音と、うわ言だけが響く。
今日は、向かいの男に目撃されなくて良かった。もしあの騒動に気づかれていたなら、間違いなく通報されるだろう。そうすれば全てが明るみに出てしまう。
……しかし、このままで本当に無事に解決するのだろうか?
いっそやってもいない罪で自首してしまおうか、と思いつめたときだった。
「今日、三日目じゃないよ」
律がパンを見つめながら言った。
相変わらず、男の反応はない。
「拾ってきたのが二日前でしょ。そのときはまだ生きてて、しばらく看病してた。で、死んだのが昨日」
「何ぃ?」
男より早く、オレが反応してしまった。
「そんなわけ無いだろ、オレが気づいたときには確かに……」
死んでいたんだ、と言いかけると、律の冷たい視線が刺さった。
「気にしないで、この人ちょっとアレだから」
「お前に言われたくない」
アレって何なんだ。
こいつなりに何か考えがあってのことかと思い、抗議をぐっとこらえる。
「とにかく今日が二日目、明日が三日目。今日じゃないよ」
「……本当ですか」
うつろだった目が、初めて光を宿した。
先ほどの状態からは考えられない、しっかりとした口調だ。
「では、まだなのですね。ああ、ルカ……」
どうやら、まともな会話が出来るレベルに降りてきたようだ。
すかさずオレも質問をする。
「で、おまえの名前は?」
「導く者はあなたに訪れましたか?」
「いや、それは知らんが、おまえの名ま――」
「我々は覚醒せねばなりません」
なぜオレだと会話が崩壊するんだ。
改めて彼を見た。目は切れ長で、鼻筋が通っている。浮き出た鎖骨は、肌の白さや華奢な体格とも相まって、女のそれのようだ。
しかし、彼を『格好いい』と形容するには、あまりにも欠落しているものが多すぎる。美しくはあるが、どこかいびつなのだ。
「もう良い、後で身分証明書でも見る。……律、続けろ」
「"次に、あの死体の女性についてお聞きします。彼女はなぜ死んだのですか?"」
「あなたたちの言うヤハウェが、彼女に悪さをしたのでしょう。しかし、結果的にそれは必要なことでもありました」
「なんだそれ」
またしても口を挟んでしまった。
ヤハウェって誰だ? 映画にでも出てきそうな外国人の名前だ。
「彼女はバプテスマを受けています。けれど、それによってもたらされるのは偽者、偽りでしかありません。私たちは脱皮せねばならず、そこにあるのは、新生したルカです」
「ばぷ……?」
「プレーローマへと昇るのです。そこでこそ、私たちは完全たりえるのです」
もうだめだ。
オレに分かったのは、こいつとはコミュニケーションなど絶対に取れないということだけだ。律はいかれたやつだと思っていたが、こんなにも身近に格上がいるとは思っても見なかった。
ちらりと律を見ると、相変わらずパンをかじりながら、どうでもよさそうに頷いていた。
「分かるけど、今はだめだよ」
分かるのか。
こいつもそこそこのレベルにまで行ってしまったらしい。
「あなたも叡智を得た者ですか?」
「んー」
「明日なら必ずルカを返してくれますか?」
「今夜、西山公園に来て欲しいって言ってる。亮介が」
二人の視線を浴び、思わず後ずさった。あわてて携帯電話の画面を確認し、読み上げる。
「ええと、そうだ、今日の深夜一時……つまり明日の午前一時だな……とにかく、一時に西山公園に来るんだ。便所のある場所は分かるか?」
男は無言のまま、オレを見つめていた。分かっているのか、いないのか。
「駐車場を降りた向こうに、広場があるだろ。そこの真正面に大きな階段がある。上りきって広がってる芝生、その右手にあるのが便所だ。そこで待ち合わせしよう」
もう言葉が通じないのかとも思ったが、やがて、男はゆっくりと頷いた。
「すべてが悪に満ちていますから。取り返しが付かないですから、ルカを返してください」
「落ち着け、そのときにちゃんと返してやるから」
あの死体を、今返すわけには行かなかった。ここから持ち帰るところを誰かに見られてはお終いなのだ。
「私を殺しますか。殴って刺して締めて割って潰してえぐって裂いて噛んで食べて、私の肉体は滅びますか」
「いやいや、何もしないから……」
なぜオレが悪者になってるんだ。
「全ては導かれるままに」
男はよほど嬉しかったのか、ぎこちない微笑を浮かべた。
とにかく、オレは今朝なすべきことをやり遂げられた。あとは今夜、決して誰にも見られないように死体を男に引き渡すだけだ。コトリが車を出してくれることになっている。
結局、完全に巻き込んじまったな……。
「よし、じゃあ今夜な。……っと、携帯の番号と住所聞くの忘れてた。免許証か、携帯のアドレスでも良いから見せてくれ。あと、一人暮らしか?」
「私はひとりです」
公衆電話からでもかければ、彼の携帯にオレの痕跡が残ることはないだろう。
それに、彼の言葉が本当なら一人暮らしというのは好都合だ。まともな家族と暮らしていたなら、オレたちの存在はすぐに突き止められるだろう。それ以前に、まともな家族がいたのなら彼を外には出さないだろうが。
いろいろな意味で常人離れしたドアチェーン男だが、携帯電話は持っていたようだ。
プロフィールの名前欄には、
『六宮 俊太郎』
と書かれている。
ふりがなは
『ろくみや しゅんたろう』だ。
赤外線通信で、オレの携帯電話へと彼のプロフィールを転送する。名前と電話番号、メールアドレスだけの、必要最小限のデータだ。ついでに顔写真も撮り、併せて保存しておく。
最後にハンカチを取ってくると、念入りに携帯電話を拭いて返した。ようやく、これで一仕事終わったようだ。
男が部屋から出て、階段を下りるのを見届けた。
肩から一気に力が抜け、大きなため息が出る。来たときの勢いが嘘のような静けさだ。
オレはドアを閉めると、今度こそドアチェーンをかけた。
**********
「なあ……お前が持ってるそれ、本物か?」
「ん?」
律は、いつの間にかポケットにしまい込んでいたカッターを取り出した。それを受け取り、試しに、着ていたティーシャツのほつれた糸に刃先を当てる。
気持ち良いほどにふっつりと切れた。
「……本気で殺されるとこだった……」
「みたいだね」
律はパンを一枚食べ終え、二枚目を取り出そうと袋に手を突っ込んだ。
なぜ、オレが殺されなきゃいけないんだ?
なぜ、こいつじゃないんだ?
「うおっ!」
「今度は何」
「まただ、うなり声が! うなり声がウーッて響いてきたぞ!」
「臆病」
「本当なんだ!」
まさか、本当に呪いなんてものがあるのだろうか。あるのだとすれば、なぜ真っ先に律がオレの生霊によって殺されてはいないのだろうか。
「……おまえ、あの六宮って男とグルじゃないだろうな」
「なんで?」
「さっき言ってただろ、あいつと同じナントカを持つ者だって」
「叡智だね。あそこで違うって言ってたら、話がまとまってたと思う?」
律にしてはまともな発言に言葉が詰まった。
それにしても、なぜあの意味不明な単語の数々を理解していたのか?
「じゃあ、ヤハウェとか、パブス……なんとかってのは何なんだよ」
「さあ」
二枚目に喰らいつこうとしている律から、問答無用でパンを取り上げた。
「……バプテスマは洗礼」
「センレイ?」
「キリスト教の入信のときにやる儀式。パン」
「じゃ、ヤハウェは?」
「最高の神様らしいよ。……パン」
「妄想をぶちまけてたんだと思ったが、宗教にハマってただけだったんだな」
「パン」
「じゃ、あの三日目の朝ってのはなんなんだ?」
「さあ」
絶対知ってるだろ。
仕方なくパンを返すと、律は水道に向かった。
「キリストは死んでから三日目の朝に生き返ったんだって」
「そうか、お前はそれを知ってたからあんな嘘をついたんだな。ってことは六宮は、あの女がキリストの生まれ変わりだって妄想してるわけか」
したり顔のオレに、律がさめたような言葉を返した。
「単純」
「う、うるさいな。お前の情報を元に推理したんだぞ」
「どこまでがかは分からない」
「……どういうことだ?」
混乱するオレに何も言葉をかけず、律はひたすらパンを水道水で濡らしていた。
あの時点で食い物ではない。
「純粋なキリスト教じゃない」
「妄想の力で個性を発揮してるかもしれないってことか」
「あるいは、もっと別の何か」
パンは水でぶよぶよになっていた。腐ったスポンジの化け物だ。
「良く分からん。もっと分かりやすく説明しろ」
「女の人の名前。ルカって言ってたね」
「そうだな。それが?」
「新約聖書に載ってる、福音書と使徒行伝を書いた人の名前」
説明しながら、彼は出来たての水パンを咀嚼した。もちゃもちゃと、気の滅入る音がする。
「聖書って、キリスト教だろ? 筋は通ってるじゃないか」
「ヤハウェがルカを殺した。しかも、それは必要なことだった」
「やつが言ってたな。聖書の中でもそうなってるのか?」
「ううん」
「じゃああれだ、よく異常者が人を殺しておいて"宇宙の毒電波がやったんだ"とか言うじゃないか。その類だろ」
「異常者には異常者の論理がある」
「さすが同類に対しての考察は優れてるな」
いつものことながら、嫌味は完全に無視された。
「少なくとも彼の中には、キリスト教に近い思想がある。しかも、それは歪められている」
「回りくどいな。狂信者の暴走だ、つまりそういうことだろ」
「……単純」
異常者に言われたくない。しかも二度も。
大体、困ってるときに助けてくれた試しのない『神』なんてものは、元から信じてはいない。そんなデタラメ話がたらたらと書かれた紙束なんか、針の穴ほども知ろうなどとは思わなかった。
こいつはこいつで何やら考えがあるのだろう。しかし、ここまで馬鹿にされて聞くのも癪に障る。
第一、オレが望むのは犯行動機や事件の真相を知ることなんかじゃなく、事件の完全なる部外者になることなのだ。
「まあいい。どうせ今夜には全てカタがつくんだ。そしたらおまえのパン代を大幅にカットして、新しい布団を買うんだ」
律のブーイングには耳を貸さず、オレはいそいそと身支度を始めた。
あいつの考えなんか聞き出すことはない。知る必要のないことなど、知らなくても良いんだ。
久々にすっきりとした気分を味わいながら、オレは部屋のドアを開けた。
「ゲロは、帰るまでにお前が片付けとけよ。じゃ、行ってくる」
鞄を提げ、さて学校にと思ったオレの前に、再び男が立ちはだかった。
今度は緑髪のパーカー男ではなく、ぴしっと制服を着込んだ警察官だ。
「おはよう」
「あ……どうも」
四十代半ばくらいであろう、浅黒い肌には人のよさそうな笑いじわが寄っている。近所の派出所にいる、美濃巡査だ。
今までに幾度となく律を補導したのは彼である。最近では、害のない不審者とその保護者として、オレたちの顔を覚えていた。
「元気そうだね。律君は?」
「残念ながら、夜も元気です」
「うん、この間も夜中に見たんだけどね、車通りの少ない道だったし、道の端っこで猫と喋ってるだけだったから、車にだけ注意するように言っといたよ」
「……気遣い感謝します。すみません、いつも手間ばっかりかけさせて」
「いやいや、そういう子は律君だけじゃないよ。この間もこのアパートの前で、真っ暗な中写真を撮る不思議な子に会ってね……ああ、ところで」
優しそうな顔が、わずかに曇った。
「今日来たのはね、通報があったんだよ。お宅から、なにか、叫び声と異臭がするって」
「そ、そうなんですか?」
脳髄が凍りついた。通報者は、正面の部屋に住むブタだろう。
昨日は俺に罵られ、今朝も早くから大騒ぎされたんじゃ、通報するのも無理はないのだが。
「実は、律のテンションが最近高いんですよ」
「叫ぶほどかい?」
「頭にきたので、叫ぶほどに怒鳴って大人しくさせたんです」
証明するように、オレはドアを大きく開いた。壁の角から、律がひっそりと顔を覗かせている。
「うん、気持ちは分かるよ。いつも律君を支えてあげてて、本当に良くやってると思ってるんだ。ただ、あんまり大きな声を出すと、律君もアパートの人たちも驚くんじゃないかな」
「ごもっともです。申し訳ありません」
頭の中で、『濡れ衣』と『冤罪』の二語が握手した。
「うんうん。あとは、何か異臭がするって苦情なんだが」
……まずい。
部屋を調べられるのだけは駄目だが、何と言えば諦めてもらえるんだ?
律が肉を買ってきて腐らせたことにしようか、いかにも取ってつけたようでバレバレだ、いっそ死体のことを話してしまおうか、いや待てそれだけはダメだ、だとしたらどんな言い訳を……
ぐるぐると吐き気がするほど脳をフル回転させた。思わずふら付いて後ずさる。
かかとで、べチャリという音がした。
「ああ、それか。やっぱり臭うね……どっちか具合が悪いのかい?」
オレの靴は、六宮の吐しゃ物によって汚染された。
叫びたいのを堪えながら、無理に笑顔を作る。
「じ、実は最近なんだかよく吐き気がして……片付けるのが面倒くさくて、臭いが広がったみたいで」
「それはいけない。まだ具合が悪いようなら、病院まで運ぼうか? 部屋の奥からも、まだ臭ってくるみたいだし」
「も、もうだいぶ良くなったみたいです。ただ、オレも忙しくて、掃除やら片付けやらが全然出来てなくって……それで……」
美濃巡査は穏やかな笑顔で、腕まくりを始めた。
「うん、じゃあ特別に私が掃除をしてあげるよ。内緒だから、手早く済ませよう。なあに、これでも家内の手伝いはよくする方で……」
「いやいやいや、いやもう、もう本当に大丈夫です。お仕事の邪魔をするわけにはいきません」
「だったら、非番のときに来て……」
なぜこんなに親切なんだ?
オレの周りにはとんでもない輩しか集まらないくせに、たまに善人が降臨したと思えば、最悪のタイミングで一番余計なことを言い出すのだ。
もう、どうにでもなれ。
「そこまでオレのことを! 好きです!」
オレは大声で感謝を叫びながら、やけくそ気味に抱きつきつつ、ぬるい相撲のようにじりじりと外に押し出した。
妙にテンションが上がったので、ついでに頬擦りもしておく。そり残されたらしきひげがヤスリのように痛かった。涙が出そうになるのは痛みのせいではないのだが。
「うぉほっ、な、ちょっと……」
驚きの奇声が上がった。人の良い美濃巡査も、さすがにオレのことが気持ち悪くなったようだ。
「う、うん、大丈夫なら良いんだ、良いんだけどね! ほらほら、もう離して……!」
ぐぐっと手を突っ張って顔を背けられる。たった今、オレも彼の中で変質者の仲間入りをした。
「ということで、お気遣いありがとうございます」
「う、うん……アパートだから、みんなの迷惑にならないように気をつけるんだよ……」
あいまいな笑顔で、巡査は足早に立ち去って言った。
彼のオレに対する評価は、面倒見の良い苦学生から、同棲中の血気盛んなホモになったかもしれない。
どちらにしても殺人犯よりはましだ、と自分を慰めた。
「にんじん、白菜、まいたけ、しらたき……豚肉と鶏肉もな」
昼食後の寺田研究室には、ミノルと光下先輩、そして鳥島先輩までが来ている。レポート用紙を前に座るオレの周りを、取り囲むようにして立っていた。
室内には、黙々と実験をしているコトリ、離れた席でぼーっと雑誌を読んでいるさやかもいる。
「鍋にジャガイモなんていらないだろ」
ミノルが、勝手に買い物リストの『ジャガイモ』にバツをつけた。
今夜行われる飲み会の、鍋の具を決めているのだ。明日は平日だが、皆明日は講義がない。四年生も午後からは講義があるが、午前中はフリーだった。
「オレが食べるから買う」
光下先輩が、バツのついたジャガイモをグリグリと丸で囲む。
「確か、ジャガイモって喘息に効くんだよねえ」
鳥島先輩が得意げにニヤリと笑う。
「ジャガイモが? ってか、光下先輩って喘息だったんスか?」
ミノルが意外そうな声を上げた。オレも初耳だ。
「あれ、光下くんみんなには言ってないんだ」
「いや、言ってないっていうか最近はほとんど発作なんて出てないからな。運動だってできるし」
光下先輩は顔をしかめた。当然だろうが、あまりいい思い出のある話題ではないらしい。
「とにかくジャガイモは決定な。あとエノキと、肉団子も入れよう」
レポート用紙にさらさらと具材が書きたされる。飲み会会場が一人暮らしをしている光下先輩の部屋なのもあってか、誰も文句は言えないようだ。
一応オレもヤツさえ追い出せば一人暮らしなのだが、部屋の広さが比べ物にならない。父親が警視監、母親が内科医である先輩は、自分で一銭も払うことなく、オートロックつきの1LDKに住んでいるのだ。
「シイタケも買いますか」
紙にもう一品書き加えた。
今夜の買出し担当はオレだった。これには、ちょっとした訳がある。
「お鍋するのー?」
雑誌から目を上げて、さやかが言った。
昨日あんなことがあっただけに、正直今日はどうなるだろうと思っていた。しかし、さやかは何事もなかったかのように笑顔を振りまいている。
「今日、光下先輩んちで飲み会するんだ」
「ほんと? 誰が来るの?」
ミノルは、いつも女と話すときに使うさわやかな笑顔で答えた。
「ほとんどタモ研メンバーだよ。光下先輩と鳥島先輩だろ、オレと壮太、そんで亮介。後輩の四年生三人も来る」
武田壮太は、ミノルや光下先輩たちのいるタモ研の、オレやミノルと同じ五年生だ。
おとなしい性格で、普段は目立とうとしない。中肉中背で、髪も染めなければファッションにもこだわってはいないようだ。話してみると相当に博識で驚くのだが、それを表に出すことはなく、まるで細心の注意を払って注目を避けているようにも見えた。
「じゃ、あたしも行って良い?」
鳥島先輩を除き、その場の全員に微妙な空気が流れた。
この飲み会に、女メンバーは一人もいないのだ。
「来てくれるんなら、猫の写真いっぱい持ってこうかなあ」
鳥島先輩はさやかと良い勝負だ、とため息をつく。
「あたし、猫よりみんなのアルバムとか見たいなー」
「アルバム?」
「そっ、みんなの小学生のときの卒アルとかー」
ちら、と笑顔でオレを見たさやかが、なんだかとてつもなく邪悪なものに見えた。
いや。さやかが知っているわけがないじゃないか。そのために、オレはわざわざ故郷を離れて県外のこの高専に入学したのだ。
今この学校に、九年前の事件を知るものはいないはずだ。
「今回の飲み会は男メンバーばっかだから、きっと大変だぞ。手が早いのがいるし」
少しの沈黙ののち、光下先輩が明るく言いながらミノルを見た。
「先輩こそ、いつの間にか隣の寝室に連れ込んでんでしょ」
「そんなことする前に、お前ら絶対ゲロって勝手に寝だすだろ」
笑いあう皆に合わせ、苦しい愛想笑いを浮かべた。さやかだけが、笑いながらもオレを見て困惑しているようだ。
あわてて強張った頬を緩める。また、思ったことが顔に出るという悪い癖が出てしまったらしい。
オレの過去なんか、さやかが気付きようがない。どうも過敏になっているようだ。
一週間前、この話が立ち上がったときにはあんなに楽しみにしていたのに……。
漠然とした不安を感じつつ、オレは買出しに出かけた。
黒いセダンの助手席に、オレは座っていた。
後部座席には、大量の荷物が積まれている。その半分が鍋用の食材だ。
「で、チャリどうするんだ?」
ハンドルを握りながら、光下先輩が言った。
「……明日にでも水ぶっ掛けて洗います」
今朝は、最近にしては素晴らしい陽気だった。オレはいつも通り自分の自転車で、何も気づかずに登校した。
飲み会の買出しに、と四時半に学校を抜け出すと、自転車のサドルは、さながら新生児室か保育園のようだった。なぜだかは分からないし知りたくもないが、昨日の夜中に律がカマキリの卵を自転車の荷台に乗せておいたらしい。
学校に来るまでに滑り落ちなかったのは奇跡だが、オレにとっては災厄だった。昼に卵から子カマキリたちが生まれ、荷台だけでなく、サドルや車輪にまで広がっていた。
オレがそいつらを尻で潰すことがなかったのは、自転車小屋に入ろうとしていた時点で、その惨状を見た女子生徒たちの悲鳴が聞こえたからだ。
「律には玄関と部屋の掃除が残ってるんだし、誘う必要はなかったんですよ」
「シンデレラの継母みたいなやつだな。そんなの後でもいいだろ」
後部座席の荷物のもう半分は、律だった。
先輩の正義感により渋々連れて行くことになったが、部屋から出てこない律と部屋に入ろうとする先輩の間に挟まれ、一苦労だった。
幸か不幸か、玄関の吐しゃ物はまだ片付けられておらず、なんとか美濃巡査のときと同じ言い訳が使えた。
かといって、オレの部屋がこれ以上臭くなるのはごめんだが。
「吐いた人が片付ければ良いと思うよ」
オレは一瞬うなづきかけたが、話の上ではオレが吐いたことになっているのだと思い出した。
後部座席をにらみ付けると、律は前傾姿勢で床に頭をこすり付けるようにして手を伸ばしている。
まったく何してんだこいつは。
「下にゴミ落ちてた」
「おまえもそのゴミみたいに拾ってもらえ。コトリあたりに」
しかし、この飲み会に彼女が誘われていないのは幸いだった。巻き込んでしまったのは本当にすまないが、彼女ならきっと律よりも数倍上手くやってくれるだろう。もちろん、オレも途中で抜け出すつもりだ。
「……にしても、金出してもらった上に買出し付き合わせちゃってすみません」
「いいって、気にすんな」
本当は、買出しはオレひとりでやるはずだった。それは、年中金のないオレの心中を察し、『買出しに行ったやつは代わりに鍋代タダ』と光下先輩が言ったからだった。
「どうせ、こんだけの食材をひとりじゃ運べないだろ。最初から車くらい出す気だったさ。律もいるし」
「オレ、女だったら間違いなく今告ってます」
「鳥島にも言われたが、その日は眠れなかったな」
おぞましい悪夢を見たに違いない。
「ところで、さやかは……まさか来ませんよね?」
「ミノルに時間と場所を聞いてたぞ。間違いなく来るだろ」
「なんでまた……女、あいつ一人だけでしょ」
「張本人、責任持ってしっかり面倒みろよ」
本当にオレ、女だったら良かったかもしれない。
鬱々とした気分になりながら、オレはもう食べることだけに専念しよう、と思った。
光下先輩の部屋は、オレの部屋から車で五分程度のところにある。通学時はいつも亮介のアパートの前を通るんだよな、と言っていた。
先輩の部屋に来たのは初めてだが、予想以上の広さだ。十人もいるのに全く窮屈に感じない。玄関からはまっすぐ廊下が伸びており、突き当りには先輩の寝室がある。オレたちがいるのは、廊下の左手にあるバルコニー付きのリビングルームだった。
皆は鍋を食い、缶ビールやチューハイなどを飲んでいる。ただひとり、律は部屋中を猫のようにうろうろと調べまわっていた。
「律、ミノルから差し入れがあるぞ。この辺りにたった一軒しかない、サークルストアー限定のモモもちパンだ」
「いらない」
「なんでだ、パンだぞ? しかもこの辺りじゃ一店舗しかない貴重なサークルストアーの限定だぞ」
「安心しろ、一日くらい賞味期限切れてたって食える。味もイケるし」
「いい」
ミノルも口添えしたが、律は水割り用のミネラルウォーターをコップに注ぐだけだった。
「普段もあんな偏食か? よくフツーに暮らせてるな」
「偏食が奇行にも現れるなら、普通に暮らせてはいないな」
「安心しろ、お前が編入してくる前から、一個上にいる個性的な先輩の噂は有名だった」
「その話のどこが安心ポイントなんだ」
鍋の汁をすすってため息をついた。しょせん他人事のミノルには、この苦労は分かるまい。
「しっかし部屋広すぎだぞ。オレも金持ちんとこに生まれたかったな」
「ミノルだって、ワンルームに男二人で住むよりはましな状況だろ」
「おまえだけの特殊な例を挙げるな。……コンビニ経営ってのが穴だったんだよな。親父がサラリーマンでもやっててくれりゃ今ごろ……」
「ん? おまえん所のコンビニ、結構人入ってるだろ?」
「人が入ったって買わなきゃ意味ねえんだよ。公衆便所や待合室代わりに使われたってなあ」
「耳が痛い話だな。でも、サークルストアー本部からの保障ってのはないのか?」
「ありゃ経費の保証であって、オーナーの給料は入ってねえよ。水道代やら光熱費やらで消えて、あとは腕のいい万引き犯でもいりゃあ赤字確実だな。こないだのイカレた緑頭みたいに分かりやすく盗ってくれりゃ良いんだが。そうそう、おまえのアパートにも来たって言ってたよな」
今朝も会ってきたとは言えず、曖昧に返事をした。
「なんで亮介の部屋に行ったんだろな、知り合いでもねえのに。あの後に店内商品チェックしたら、食品類は捨てて逃げたから大丈夫だったんだが、カッターが二、三本パクられててさ。多分あいつだと思うから、また乗り込まれたときは注意しろよ」
もう一日早く言ってほしかった。
「明日の朝からは気をつける……にしても、そんなに経営が苦しいんなら、いっそ辞めたらどうだ? お前の親父、まだ若かっただろ」
「今年で三十九になるな。けど、コンビニってのは、入るのは簡単でも、辞めるとなると違約金払わなきゃなんねえんだ。
人には勧められねえ商売だな」
そんな裏があったとは。
なんとなくしんみりとしていると、首筋にからみつくような吐息が吹きかけられた。
「とととととと鳥島先輩?」
鳥島先輩の顔は、広い額も含めて真っ赤になっていた。月並みな比喩だが、本当に茹でダコみたいだ。
隣には壮太がいて、手首をがっちりと鳥島先輩に掴まれている。柔和な細い目が、困ったようにオレを見た。
「亮介君、困るなあ」
「突然こんなことされたオレのほうが困りますよ! で、何がですか?」
「ふふ、女の子二人に気を持たせてるそうじゃないか。そういう態度は良くないよなあ」
さやかが妙なことを吹き込んだのだろうか。
面倒くさい展開になりそうなのでミノルに全部押し付けようと思ったが、すでに隣にいない。見ると、さやかや四年生の男子二人と一緒に談笑中だった。
あの野郎、逃げやがったな。
「いや、そんな気はないですよ」
「いい機会だから、どっちを選ぶのかはっきりしたまえ。で、僕が余ったほうを……」
「いやいや、だからどっちも選びませんってば。聞いてます? それオレのビールですよ、ちょっと」
壮太はオレの困惑した様子を見ながら、くすくすと笑っている。
「いや、亮介君の気持ちはこれで分かったのだよ。つまり、君は女性を愛せないわけだ」
「何なんですかその展開……」
あえて否定はしなかった。
「よし、じゃあ僕と壮太君、どっちかを選びたまえ」
「発想が安易です」
本日二度目のホモ扱いに胸が悪くなる。
壮太は壮太で、何も言わずに苦笑いしていた。おどおどとしたところはないのだが、本当に大人しい。
「じゃあ、それなりに特殊な好みをしているわけか。そうだな、じゃあマザコンでどうだ」
「どうだって言われても……」
壮太に目で訴えると、遠慮がちに助け船を出してくれた。
「そういえば、マザコンって男だけじゃないらしいね。女の人にも結構いるんだって」
「レズってことかい?」
「いや、もともとマザーコンプレックスってのは性的嗜好の意味合いじゃないらしいよ。母親に対する強い執着や愛情っていう意味ではあるけど、心理学用語でもないし、はっきりした定義がないんだって。あ、話が逸れちゃったな……」
いいぞ、もっと逸らしてくれ。
「マザコンがどうしたって?」
コップを片手に、光下先輩がにこにこしながらやってきた。飲んではいないのか、素面の様に見える。
オレと鳥島先輩の間に入るように腰を下ろした。
「ああ、亮介君がマザコンだって」
「言ってません!」
怖い顔をしてみたものの、鳥島先輩には効果なしだ。
「ネロみたいなやつだな」
「誰ですかそれ」
「ローマ帝国の皇帝だよ、暴君で有名だろ。確か、マザコンか何かだったんだ。ああ、細かいこと忘れた……何だっけなあ」
光下先輩は、ちびちびとウーロン茶を飲みながら言った。首をかしげながら、必死に思い出そうとしているようだ。
「アグリッピーナ・コンプレックスですね。マザコンとはちょっと意味合いが違いますけど」
壮太が思いのほか興味を持ったらしく、口を挟んできた。こんなマニアックな話題なのに、どれだけ引き出しを持ってるんだこいつは。
「おお、それだ。母親が男の赤ん坊に授乳をするとき、母親も息子も互いに性的興奮を覚えている、とかなんとか」
気持ちの悪い話だ。泡の消えたビールのコップを持ち、黙って腰を上げる。
「なかなか興味深い話だねえ。こら、亮介君座りなさい」
「ちょっ、引っ張らないで下さい」
鳥島先輩はにやにやと笑いながら、シャツの裾を離さないでいる。なんでオレまでこんな胸糞の悪い会話をしなければいけないんだ。
「で、マザコンとはどこが違うんだい?」
「マザー・コンプレックスは、純粋に母親に対する愛情が問題の根本です」
興味津々の鳥島先輩に押されるように、壮太が説明し始める。
オレはいったんビールを置き、裾をつかむ指を一本一本引き剥がす作業に入った。
「アグリッピーナ・コンプレックスは逆で、母親からの愛や接触を拒絶するんです。
さっきの光下先輩の話で、授乳の話があったでしょう。男児は成長して母親から離れようとするのに、母親は快感を忘れられず、無意識に息子から離れまいとするそうです」
「ふむふむ。で、禁断の愛に……」
「そんなエロ小説みたいにうまくは行かないって」
光下先輩が笑いながら口をはさんだ。近親相姦のどこが"うまく行っている"んだ。
「壮太が言ったろう、息子は自分を求める母親を拒絶するんだ。母親が引かなければ、その忌まわしい関係が息子側の精神を蝕んでいく。そのせいで恋愛関係に支障をきたしたりだとか、精神疾患を起こしたりだとかで、まあ良い話は聞かないな」
「ほおお。男と女ってのは複雑だねえ」
指を引き剥がし終わり、早々に輪を抜けた。結局、聞きたくもない話を最後まで聞いてしまった。
うんざりしながら部屋の片隅に腰を下ろすと、早速ミノルが腹の立つ笑顔で近づいて来る。その向こうで、さやかがこちらを窺うように見ていた。
「よお、セクハラされずに済んだか?」
「逃げたやつに教える義理はないな」
気の抜けたビールをあおった。平坦な苦みだけが口に広がっていく。
コップを空けると、唐突にジーンズのポケットが震えた。どうやら携帯電話が何かを受信したらしい。取り出してみると、コトリからメールが入っていた。
『もう部屋ついた。入ってるね』
内容はたった一言だけだった。そんな時間かと時計を見たが、まだ九時半だ。
先に部屋の掃除と消臭をする、と言っていたので合鍵を渡したのだが、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。
『早いな。三時間半前だぞ』
手早く返信した。
すでに遺体は、ビニールシートで何重にもぐるぐる巻きにしてある。車に運び入れるのだって男二人ですることになっている。待ち合わせ時間の夜中一時までにすることは、もうほとんどない。
「なに携帯いじってんだよ、女か?」
ミノルが、にやにやしながら両肩をがっしりとつかむ。
「そういや、こないだの合コンはどうなったんだ」
「質問に質問で返すんじゃねえよ」
話の矛先をどうにかして変えなければ、と思ったが、さすがに不自然だったようだ。しかし、死体処理についてのメールを見せろといわれては困る。
万が一のことを考えて、読まれても真意がばれないようには書いてあるのだが。
「結構可愛いのを持ち帰ってヤったんだが期待はずれだった」
「成功してんじゃないか。何が不満だ」
「やたら上手いっつーか、妙に商売くせえんだよ。ありゃ風俗嬢かなんかだな」
「そこはこだわるべきポイントなのか?」
「バカだな、金でなんとかなる女となんかいつでも出来るだろ。そうじゃない女を落とすから良いんじゃねえか。先月あたりにも似たような女引っかけちまって、妙なとこで引きが良いんだよなあ」
こいつから女遊びを取ったら、筋肉の抜け殻にしかならないだろう。
「つか、亮介はどうなんだ。もう付き合っちまえば?」
ミノルは、ちらりと横目でさやかを見た。
いつの間にか彼女の横に壮太が加わっており、計三人で話している。さやかに笑いながら二の腕を叩かれた壮太は、照れながらも嬉しそうだ。
「なんでこんな男ばっかの飲み会に呼んだんだ」
「呼んでねえぞ。訊かれたから、場所と時間と会費を教えただけだ」
「その情報を教えることにほかのどんな意味があるんだ?」
ため息をつき、開けたての缶ビールをコップに注いだ。
後のことを考え、飲みすぎてはいけない。そう分かってはいるのだが、どうにも自制が利かなかった。
「りょーすけ君っ」
ピタ、と頬にグラスが押し当てられた。甘ったるい息が耳にかかる。今の会話を聞かれたのだろうか。
「飲んでるぅ? 今日ちっとも話しかけてくれてないよね。最近なんか冷たいんだぁ」
「気のせいだ、お前飲みすぎじゃないのか?」
「まだまだいけるもーん」
おんぶお化けのように、さやかがしなだれかかってきた。救いを求めてミノルを見たが、またもヤツは一歩下がってほくそ笑んでいる。
律は律で、部屋においてあるものを片っ端から丹念に観察しており、オレどころか周囲に目もくれない。
焦りながら光下先輩を見ると、鳥島先輩の抱擁をなんとか振りほどこうと藻掻いている真っ最中だった。
この場でオレよりも不幸な人がいるとは。
「……でさ、きっと彼女とか呼んで、朝は一緒にお料理作るの。どう思う?」
胸元から見上げるように見つめられ、思わず仰け反った。
「な、何の話だ?」
「んもう、ぜんぜん聞いてないー!」
「悪い。酒でボーっとしてた」
嘘も方便だ。
「だからぁ、光下先輩のお部屋の話。こーんなに広いとさ、彼女とこっそり同棲とかしてそうじゃない? 一人でいるには広すぎるもん」
「いや、彼女はいないらしいぞ。つい最近聞いた気がする」
「へぇー……じゃ、彼氏のほうかもね」
さやかは意味ありげに先輩二人を見やった。鳥島先輩の抱擁からやっと逃れつつも、未だに絡み続けられている光下先輩がいる。周りにいる後輩たちも、なんとか鳥島先輩の気を逸らそうと喋りかけているようだ。
「飲むたび、毎回あんな感じだ。酒の席では隣になりたくないな」
「知ってる? 鳥島先輩、バイなんだって」
ちびちびと飲んでいたビールが、気管に入った。
「先輩、が? うっげほっ、なんで?」
むせながらも聞き返すと、熱を帯びた手が優しく背中をなでる。
「あたしの男友達で、光下先輩の前に鳥島先輩に狙われた子がいたの。人間だったらほとんどが恋愛対象なんだ、って自慢げに言ってたんだってー」
それ自慢にならないだろ。
「あーっ、もしかして亮介くんもそっち系とか?」
「なんでだよ、話飛びすぎだぞ」
「だって、全然そういう話しないんだもん。どんな子がタイプなの?」
「話の筋が通ってないぞ。なんでバイに……」
「ねえ、教えて?」
ぐい、と二の腕に胸が押し付けられた。
酒も入ってるし、服越しに柔らかい感触がガンガン伝わってくるし、こんなもん反応するなという方が無理だ。
オレの顔を覗き込んだまま、さやかの手がそっと太ももに乗せられる。
男とは違う手の柔らかさにドキッとし、直後に自己嫌悪を覚えた。
「お前、くっつきすぎ」
「あはは、興奮したー?」
さらっと言われ、否定の言葉が出てこない。
「ね、どういう子がタイプなの? 顔とか、性格とか」
「特にない」
「うそだぁ! じゃあさ、今まで付き合ってきた子の特徴とかは?」
「ない」
「特徴がないってどういうことよぉ。オバケと付き合ってたの?」
「それ特徴ありすぎだろ。じゃなくて、付き合ったことがねえっての」
渋々言うと、さやかは妙に食いついてきた。
「ホントぉ? じゃあさぁ、じゃあ、次に付き合う人が亮介くんの初めての彼女ってことだよね!」
てっきり引かれるかと思ったのだが。
勢いづいたさやかは、初デートの場所やプランについて、楽しげに喋り始めた。何とか、他のやつを捕まえてこの場を離れられないだろうか。
「ちょっとお、なんでチラチラ他のトコ見てるの?」
「生まれつき落ち着きがないんだ」
「もっと飲んじゃえば落ち着くよ」
「何だそのオリジナルな対処法は」
さやかは自分でコップになみなみとビールを注いだ。おいしそうに一口飲んで、それをこちらに差し出す。顔に似合わず酒好きらしい。
そのとき、穿いていたジーンズのポケットが振動した。また何か受信したらしい。
「あ。メール?」
密着していたため伝わったらしく、さやかが勝手にポケットから抜いた。
「おい、勝手に触るな」
「いーじゃん、誰から?」
子犬のように無邪気だった顔から、笑顔がすっと引く。
「……なんで北条さんからメール来てるの?」
オレの携帯は二つ折り式なのだが、正面にも小さな液晶画面が付いている。今、その画面に
『メール受信 北条琴理』
の文字が光っていた。
「べ、別に研究室が一緒の同級生からメールなんて、普通だろ。お前もときどき送ってくるだろ?」
なぜどもりながら弁明してるんだオレは。
「ふーん。……じゃ、中見て良い?」
「だめだ」
思わず即答してしまった。
「なんで? 見せて困るような内容なの? あたしに知られたらまずい話でもしてるわけ?」
「いや、まさか」
さやかに、というか、善良な市民と警察に知られたらまずい類の話ではある。
「じゃあ見ても良いよね」
「お前、オレにプライバシーを守る権利はないのか?」
「あたしたちの間には必要ないもん」
「ホントだな? じゃあオレがお前のケータイ見たり、鞄の中見たり、風呂やトイレ覗いたりしても良いんだな?」
「良いよ」
オレが良くない。
「さっきの会話は忘れてくれ。携帯を返せ」
「もうメール開いちゃった」
「おい……!」
取り返そうと手を伸ばすが、背中でガードされてなかなか上手く行かない。しかし、まさか女を羽交い絞めにするわけにもいかない。
バスケットボールのボール争奪のようにフェイントを駆使して戦っていると、突然彼女の動きが止まった。
すばやくその手から携帯を抜き取り、画面を確認する。確実に読まれてしまったようだ。
表示されていた文章を、そっくりそのままさやかが復唱する。
「……"部屋の掃除して待ってるね"って、どういうこと?」
死体のことには触れていない。
良かった。
……と思ったのもつかの間だった。
「付き合ってないって言ったじゃない!」
突然、細い腕がオレを突き飛ばした。
フローリングに背中を打ちつけ、酔った頭ががくんと揺れる。近くにあった椀やコップが倒れて床を濡らした。
一体、何がどうなったんだ。
わけが分からないまま上半身を起こすと、今度は顔めがけてビールをかけられた。
「あの女も嘘ついてたんだ! 律くんのことが好きだとか言って……」
びしょ濡れのまま押し倒され、再びフローリングで背を打つ。ビールが目に染みた。
さやかが馬乗りになり、驚くほどの力で胸ぐらを掴んでくる。
「なんでみんな嘘つくの? 言えば良いじゃない! あたしのこと陰で笑ってるくらいなら、正直に嫌いだって言ってよ!」
さすがにただ事じゃないと感じたのか、ミノルや後輩たちが駆け寄ってくる。
「隠したって知ってるんだから! 昨日の夜、部屋で会ってたんでしょ? 二人であたしのことバカにして、嘘ついて騙して笑って、でも、今までバカみたいに信じてたのに! あたし知ってたよ! 全部知ってたんだから!」
ミノルがさやかを羽交い絞めにし、オレの上から引き摺り下ろす。
「離して! 離してよ! 離せええええええええええええええええええええ!」
誰かが大丈夫かと声をかけてきたが、それに答えることが出来ない。目の焦点が合わないのに、オレにはずっと死んだはずの女が見えていた。
――さやかの中に、母がいた。
「災難だったな」
タオルの敷かれたベッドに、オレは腰掛けていた。
あの後すぐに、先輩の寝室に連れて行かれた。クリーム色の壁、紙くずひとつ落ちていないフローリング。
入って左手には、金持ちの象徴としか見えない大きな液晶テレビ、もはやどんな使い方をするのかついていけない最新のAV機器、アダルト雑誌など絶対に入っていないであろう本棚が設えてある。
オレの座っているベッドは、その反対側の壁、右手に配置されている。正面奥の窓からは、頼りないおぼろ月が見えた。
リビングルームからは、もう何も聞こえない。壮太とミノルが暴れるさやかを無理やり送り届けに行ったため、人がほとんど残っていないのだ。送り届けには行かなかった者も、場が白けたので帰っていった。
今ここに残っているのはオレと律、そしてリビングで寝ているマイペースな鳥島先輩だけだ。
律はこの寝室の隅で毛布をかぶり、何事もなかったかのように背を向けている。
「暖房、もっと強くするか? 入る気になれたら、シャワーでも浴びてこい。着替えはオレの使えば良いから」
光下先輩は、申し訳ないほどにオレを丁寧に扱った。床はビール濡れになるし飲み会は潰れるしで、先輩だって迷惑だろうに。
「すみません。せっかく部屋まで貸してくれたのに、こんなことになって……」
「いや、初めからオレがきっちり断ってれば良かったんだ。嫌な思いさせたな」
先輩は電子レンジで作った蒸しタオルを差し出すと、クローゼットで服を選び始めた。
細身の黒いティーシャツに、時々先輩が穿いていたカーキのデニムパンツ。アーガイルチェックのカーディガンも選び取ると、まとめてベッドに置いた。
「使い古しだが、ないよりは良いだろ。寒かったらジャケットもあるぞ」
「いや、充分です。まさかこんなことになるなんて……オレがあの時、断ってたら」
「誰にも止められなかったさ。誰がいつ何をするかなんて、誰にも分からないんだ。
いつだって」
「え?」
濡れたシャツのボタンを外す手が止まった。
「お前はさ、ほんと似てるんだよな」
「先輩とですか?」
「思わないか?」
残念ながら、成績や容姿は似ているとは言えない。共通点といえば、厄介者に好かれやすいところだけだろうか。
「オレは、おまえを知ったときから似てるって感じてたぞ。同時に、羨ましくもあった」
先輩はそう言いながら、パソコンデスクの椅子に逆向きに座った。
羨ましい?
オレのどこをどう捉えればそんな言葉が出て来るんだ。生まれてこのかた、同情されることは山ほどあったが、人より良い目にあったことなど何一つ無かったのに。
先輩の表情を伺ったが、どうやら嫌味でもなんでもなく、素直にそう思っているようだ。
「確か、オレに彼女がいないって話したよな?」
「ああ、今は作る気がないって言ってましたね」
「そこ、嘘だ」
子供のように無垢な笑い顔を見せると、先輩は続けた。
「中学のころ、隣のクラスの子と付き合ったことがあってさ。物静かな可愛い子で、付き合ってることは内緒だった。普通にデートしてたから、ばれる可能性は充分にあったんだがな。そのころは浮かれてて気づいてなかった」
やっぱ先輩は、昔もモテてたんだな。ますますオレとは似つかない。むしろオレが羨ましいくらいだ。
「そのうち、彼女の下駄箱に小動物の屍骸が入れられるようになった。夜道では、誰かが後を付けてくるようにもなったらしい。送って帰ったりもしたんだが、すればするほど状況はひどくなったし、そういうときに限って誰も後を付けてこないんだ」
「根性曲がってんなあ。犯人、捕まったんですか?」
「オレたちが別れるまで、とうとう捕まらなかった。最終的には、夜道で待ち伏せされた彼女が暴行を受けて、別れざるを得なくなったんだ」
「……それ、立派な犯罪でしょう。警察は何やってんすか」
「いや、警察は何も出来なかった。彼女が被害届けを出さなかったんだ。暴行事件とオレたちの関係は、全部闇に葬られて終わった」
かろうじて笑顔を保とうとしている先輩の口元が、ひどく頼りなげに見えた。
オレは今、何と声をかければ良いのだろう?
迷いながら言葉を選んでいると、いきなり何かが倒れる音がした。
部屋の隅を見ると、律がつまづいたのか、ゴミ箱をひっくり返してしまっている。よりによって、なんでこのタイミングなんだ!
「はは、律は良いよな。裏表はないし、そういう黒い部分とは無関係だから」
「すんません、今片付けます! ……本当にお前は、どうして迷惑かけずにいられないんだ!」
ゴミ箱からは、頭痛薬らしきアルミのシートやモモもちパンの包み、何かの明細書などがこぼれ出ている。
「いいよ、適当で。……だからさ、亮介も気をつけろよ。そういうことが明日起こったって不思議じゃないんだ」
先輩は、もう笑ってはいなかった。
さやかが、オレに何かをするといいたいのだろうか。しかし、中学時代の彼のように、標的がオレ本人ではなかったら?
「守りますよ。今度こそ後悔しないように」
そう言うと、先輩は安心したようにうなづいた。
大切な人を失くす感覚は、二度と味わいたくはない。少なくともこのことだけは、オレたちに共通する思いだった。
ふと、壁にかけられた時計を見る。十一時四十八分。予定の時間まで、あと一時間ちょっとしかない。
「あっ、この服ありがたく借ります! 早く帰らないと……」
「おう、送ってくぞ」
「先輩、飲んだんじゃないですか?」
「アルコール摂ると蕁麻疹が出るんだ」
「へえ、厄介な皮膚してますね」
「せめてデリケートとか繊細とか言いようがないのか? さて、掃除して待っててくれる子のためにそろそろ帰るぞ」
「いや、それは違――」
「それにしても隠し事は良くないな。今度詳しい話聞かせてくれよ」
なにやら先輩まで誤解しているようだ。
なんとか弁解しようとすると、またしても携帯電話がメールの受信を報せた。
「お、噂をすれば」
「こいつまで、何でこんなタイミングで……」
ブツブツと言いながらコトリからのメールに目を通す。
てっきり『遅い』とか『早く帰って来い』という内容だとばかり思っていたオレは、その用件だけのメールに困惑した。
「まだ?」
律が『何してんの?』と言わんばかりに言った。
こいつ、自分がひっくり返したゴミ箱の片付けもろくにしなかったくせに。
「はいはい、お前はさっさと出てろ。……先輩、服はちゃんと洗濯して返しますから」
「いいさ、気に入ったんならやるよ」
「マジすか? 実は春モノが足りなくて……じゃなくて、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
車の鍵を持ったまま、先輩が不思議そうにオレを見る。
「三日前の深夜って、先輩何してました?」
「な、なんでそんなこと聞くんだ?」
「えっと、先輩を見た気がして……うちの近くにいませんでしたか?」
「あ、ああ、いなかった」
なんなんだこの動揺は。
黒い疑惑が頭をよぎったが、それにしても妙だ。どうして先輩は赤くなっているのだ?
「そうですか。じゃ、人違いだったんですね。よく似てたなあ……先輩、どこにいたんですか?」
「だから、なんでそんなこと聞くんだよ」
「先輩、自分でも言ってたじゃないですか。隠し事は良くないですよ」
光下先輩はいかにも困ったような表情をしたあと、観念したように言った。
「絶対に誰にも言うなよ。言ったら殴るぞ」
「え? え?」
「お前にしか言わないんだからな。約束しろよ」
「あ、はい……一体何してたんすか」
いつもの先輩とは違い、まるで少女のような恥じらいを見せていた。頬は赤いし、目線もあわせないまま、なかなか喋りだそうとしない。
「あの……先輩?」
ようやく、端正な顔がこちらに向けられた。不機嫌そうに眉根を寄せている。
「……"スカーレット・スレイヴ"」
「は?」
バーか何かの名前だろうか。それにしても、どこか怪しげな響きだ。
「風俗だよ、風俗。徒町にあるだろ」
「えええええええ?」
自分が驚くほど大きな声を上げていた。
確かに、この近くには徒町という歓楽街がある。ここからだったら車で十五分、学校からでも三十分もせずにいけるような場所だ。
だからと言って、学内で有名になるほどの容姿とステータスを持つこの先輩が、そんな店に用があるとは思えなかった。
「そんな目で見るな。オレだって男だ」
「いや、でも……」
「さっき言っただろ。彼女を作ると迷惑をかけるんだよ」
ぶっきらぼうに言う顔は、さっきにも増して赤い。
「苦労してるんですね……なんか親近感沸いてきました」
「うるさい。いいか、誰にも言うなよ。言ったら本気で殴るぞ。ついでに蹴るからな。本当ったら本当だぞ」
「わかりました」
そのあと、先輩はつとめて他の話題を広げようとした。
もちろんオレは上の空だった。
信じられない思いを抱えたまま、オレは車を降りる。よく分からない親近感が残った。
自宅に着くと、すでに十二時半だ。幸い、どこにもさやかの姿は見当たらない。
部屋に入ると、久しぶりに嗅ぐ人工的な清潔感のある匂いがした。玄関の吐しゃ物も、すっかり片付けられている。
「遅い。しかもお酒臭いよ、めちゃくちゃ飲んだでしょ」
コトリが唇を尖らせて部屋から出てきた。どこから調達したのか、雑巾を片手に持っている。
「まあ、浴びるほどにな。何か変わったことはなかったか?」
「私の携帯が鳴り止まない以外、特に変わったことはなかったけど」
「誰からかは言わなくても分かる。帰るのが遅かったのもビール臭いのも、そこから全て察してくれ」
彼女にしては珍しく、黒のパンツを穿いていた。黒のベストの下には、レースとフリルがふんだんにあしらわれた白いシャツを着ている。
「あっ、牧野ちゃんおかえり! お部屋を掃除してみたの」
「おい、その前に聞かせてくれ。どうしてあんなメールを送ったんだ」
帰り際に来た、コトリからのメール。そこにはたった一言、
『アリバイをみんなに聞いて』
と書かれていた。
「そう、それなんだけど。掃除してたらこれを見つけたの」
コトリが差し出してきたのは、どぎついピンク色のバッグだった。何かの皮で出来ているのか、等間隔にブツブツと濃い色の点が付いている。
「これ、死体の女のか?」
「多分ね。触るのって生まれて初めてよ、エルメスのバーキン」
「何だそれ、ブランドか何かか? このブツブツのバッグが?」
「オーストリッチよ。そっちの知識は全然ないけど、偽物じゃないなら百万以上は確実ね」
「そんな高級品が、何でオレの部屋でくさい汁にまみれて転がってるんだ」
せめて百万の札束だったら使い道があっただろうに。
「大体どこにあったんだ? 今初めて見たぞ」
「ベッドの布団の中に入り込んでたの。あと、布団の下から大人な雑誌も見つかったけど?」
「それは察してくれ」
それにしても、てっきり布団が丸まっているだけだと思っていた。
オレは発見以来ベッドで寝ることはなかったから、今まで見つけられなかったのだろう。
「律、お前バッグは捨てたって言ってただろ? 全然違うじゃないか」
「ベッドの上に投げ捨てた」
窓からこいつを今すぐ投げ捨てたい。
「私が掃除してたら、ウーって低い音が死体から聞こえてきたの」
「ん? ……あっ、オレも聞いたぞ! 気味悪いうなり声が何回かしたんだ」
「じゃ、なんでこれに気づかなかったの?」
コトリが目の前に差し出したのは、バッグと同じ色をした携帯電話だった。平たい積み木のようなフォルムとぺったりとしたプラスチックの質感が、まるでおもちゃのようにちゃちだ。付けられているストラップは『A』の形をしており、ピンクのクリスタルが表面にぎっしりと敷き詰められている。華やかなストラップや高級バッグと比べれば、どうみても携帯電話だけ釣り合いが取れていない。
「……なるほど、これが正体か」
「幽霊のしわざとでも思った? 唯物論者が聞いて呆れるわ」
「で、どうしてそれがあのメールに繋がったんだ」
まさか、今日のあのメンバーの中に真犯人がいるとでも言うのだろうか?
しかし、そんなはずはない。六宮がいるではないか。あの狂った男が犯人じゃなくて、だれが犯人だと言うんだ。
「お掃除も終わっちゃって暇だったから、勝手に中を見させてもらったの。どうせ本人に了解の取りようもないしね。で、まずは新着メールを読んだわけ。ほら、これよ」
コトリは、携帯電話を突き出した。それを受け取り、受信フォルダのメールを新着順に表示させる。
『送信者:ユナ
件名:なし
調子に乗ってると首になるょ
あんたの代わりがいないなんて思うな』
『送信者:みー
件名:こんばんは
久しぶり。
最近メールしなくてごめん。
ポスター発表の資料作りに追われてて。
土曜の夜は空いてる?
結構本格的でおいしいイタリアンの店見つけたから、一緒に行きたいな。』
『送信者:店長
件名:お願いします
いつ出勤できますか。成田様や栗本様などから問い合わせが殺到しています。せめて出勤可能な予定の日だけでも連絡お願いします』
『送信者:るんるん
件名:RE:
しばらく忙しいから無理』
"店長"ということは、接客業か何かなのだろう。ルカはまだ若いようだし、学生をしつつファミレスかどこかでアルバイトをしていたのかもしれない。もっとも、なぜ問い合わせが殺到などという事態にまで発展したのか疑問は残る。
二件目のメール送信者は彼氏だろうか。ルカが学生ならば、彼氏も学生である可能性は充分にある。
三件目は、友達か何かだろう。おおかた、世間話程度の雑談メールだ。特に引っかかるところはない。
これだけ連絡が取れなければ、普通の会社員やアルバイトなら首になるところだろうが、店長がやけに丁寧なのが気になった。何か重要なポストに就いていたのだろうか。
「で、お前は何が引っかかったんだ」
「二通目よ。なにかピンと来ない?」
「……ポスター発表のことか? 確かに、日本細胞生物学会が最近あったな」
「そう。あれってポスター形式だったはずよ」
「いやいや、この県だけで何校があの学会に参加したと思ってるんだ? しかも開催地は隣りのI県で、全国からいろんな学校が参加してる。第一、メールには学会としか書いてないんだ。日本細胞生物学会かどうかってことすら分からない。該当者は未知数だ」
「確かに、それだけの情報ならね。でもメアドを見て」
上にスクロールして確認する。
送信者は『みー』という名で登録されている。名前をクリックし、メールアドレスを呼び出す。
『we--thank--rats@xoxomo.ne.jp』
直訳すれば、『我々はねずみに感謝する』と言ったところか。なんだか聞き覚えがある。
「タモ研のドアのプレートに、似たような文があったっけ?」
「そう、日本語だったけどね。"ネズミに感謝"って書いてあった。あそこ、ラット捌いたりしてるから」
「偶然の一致ってことはないのか? 例えばペットでネズミを買ってるやつとか」
「ネズミの英訳って、ほとんどの人が『マウス』って言うと思うの。キャラクターの名前にも使われてるから、こっちの単語の方が有名になっちゃってるしね。厳密には、マウスはハツカネズミの改良種、ラットはドブネズミの改良種だけど、タモ研みたいに実験で使ってない限り、マウスとラットの違いをちゃんと知ってるひとって少ないんじゃないかな」
確かにそう考えると、メールの差出人はうちの高専生、しかもタモ研のメンバーである可能性が高い。
しかし、だからといって犯人に結び付けるのは安易すぎる。
「タモ研メンバーの誰かと偶然知り合いってのも、普通にあり得るだろ。死体発見現場と学校も近いことだし。第一、犯人ならこんな身元の割れやすいメアドにしないぞ。しかもメールで近況まで報告してるじゃないか」
「犯人とまでは言わないけど、重要参考人くらいにはなり得るじゃない。これだけ手がかりが少ないんだから、少しでも情報かき集めるのに越したことはないでしょ」
「犯人は六宮で間違いないだろ。あいつを色々調べれば、必要な情報や証拠なんかも出るんじゃないのか?」
「うーん、そんな単純かなぁ」
「だいたいアリバイがあれば無実ってのは分かるが、ないからって犯人って訳ではないぞ。クローズド・サークルじゃないんだから、アリバイの有る無しで消去法的に犯人を絞っていくのは無理だ」
クローズド・サークル――外界からの往来が断たれ、最初から登場人物が限られた状況での殺人なら、犯人探しはまだ簡単にもなってくる。
しかし、実際の死体発見現場は、人通りが少なかったとはいえ公道だ。人間の出入りが可能である以上、アリバイの重要性は半減する。
アリバイがあれば、確かに無実の証明になるだろう。しかし、アリバイがなかったからと言って、それは有罪の証拠にはなり得ないのだ。
「でも亮介、それじゃ矛盾してるよ」
「え?」
「六宮さんにはアリバイがあるじゃない」
ルカが死んだ夜の六宮の行動について、そういえばミノルから聞いた気がする。
「ルカさんが死んだ夜、六宮さんはミノちゃんのコンビニで万引きしてたんでしょ。このアパートからミノちゃんのコンビニまで、歩くと一時間くらいだったよね? 六宮さん、車が運転できる年じゃなさそうだし」
「自転車を使えば可能じゃないか?」
全力で自転車を飛ばせば、三十分以内で到着するだろう。
だが、その前に重要なことを忘れていた。
「そういえば、犯行推定時刻は一体いつなんだ? それがわからないことには、アリバイだのなんだのって会話はほぼ無意味になるぞ」
「うーん、確かに。牧野ちゃんが夜中の一時ごろに見つけた、ってことしか聞いてなかったけど」
犯人の動きを知るうえでは、発見時刻より、死亡推定時刻の方が重要だろう。
律を見ると、どうでもよさそうな顔をして振り返った。
「死後約二時間以内」
珍しくちゃんと会話を聞いていたようだ。
「それは確かなのか?」
「硬くなかったから」
死後硬直が始まる前、ということか。
「一応聞くが、死亡推定時刻をずらすような細工がされてたってことは考えられないか?」
「知らない。ただ見つけたのは散歩の帰りで、行く時はなかった」
「散歩に出かけたのは何時だ?」
「さあ。十一時? 十二時?」
曖昧な奴だ。
「じゃ、早めの方を取って十一時と考えておくか。アパートの前に死体が出現したのは十一時から一時の間ってことになるな。死後にどこかから運ばれたってことは考えられるか?」
「さあ」
「確か、死体が動かされたかどうか死斑を見れば分かるんじゃなかったっけ? ドラマか何かで言ってたよ」
コトリの意見に希望を見出しかけたが、すぐに律が口を開く。
「拾ったときに死斑を調べてないけど。もしあったとしても、死にたてだったら動かしちゃえば元の位置にあった死斑は消えて移動する。死後約二時間以内じゃ、最初の死斑は残らない」
「そっかぁ……」
「ためにはなったが全く嬉しくない情報だな」
さらに細かく議論していくには、ルカのその日の行動やアパート周辺の状況なんかも詳しく知っておきたいところだ。
だが今は情報が少なすぎるし、ルカのバッグを調べようにも予定が控えている。
「とにかく、もう時間がないからその話は後にしよう。死体を運ぶから、車を玄関に着けてくれ。もちろんそれも一緒に返品するからな」
「んー、近づいてる気はするんだけどなあ……」
コトリはバッグと携帯電話を持つと、名残惜しそうな面持ちで部屋を出て行った。
まだ引きずっているようだが、仕方ない。遅刻するわけにはいかないのだ。
念入りに洗った手袋を装着し、死体全体をさらにブルーシートで包む。ルカの体は朝よりも膨らみ、初日に見た見事なボディラインが嘘のようだ。
先にコトリを行かせ、階段や外に誰もいないかチェックしてもらった。
臭いうえにぶよぶよとしてくじけそうになったが、なんとか抱えあげ、オレと律とで運び下ろす。そのおかげか、それとも深夜だったからか、アパートの住民に出くわすことはなかった。
見られたら見られたで、部屋の模様替えとでも言っておけば良いのだ。警察だって、すでに一度呼ばれている。美濃巡査には、律どころかオレまでも変人として認識されたのだ。これ以上の悪いことなど起こりようが無いだろう。
この時間帯、住宅街にはわずかに出歩く人もいるが、誰もいないのを確かめて車に積むことも出来た。
トランクと座席が繋がるタイプの普通自動車だったため、後部座席のシートを倒し、広めの空間を作ることで死体を収納する。
「おい、なんで鉄パイプなんか車に積んでるんだ」
「失礼ね、ステッキよ。牧野ちゃんの人形に持たせて、ミステリアスな英国紳士風にしようと思ってるの」
金属製だが全体的に木を削ったような凹凸を持たせてあり、漆黒に塗装されている。黒い皮を巻きつけた柄には、立派な角を持つ山羊の首があしらわれていた。
「お前、まだそんなこと言ってるのか……」
「うるさい。この事件が無事に解決したら、ご褒美にライフマスク取らせてもらうんだから」
「律は了承したのか?」
「そこが目下の課題なんだよね」
後部座席のサイドウィンドウとリアウィンドウはスモークになっていたが、万が一外側から見られても大丈夫なよう、ダンボールと新聞紙を被せて極力シルエットが出ないようにした。
律は死体と共に、さっさと後ろへ乗り込む。
「牧野ちゃんが助手席来ると思ったのに……」
「そういうのは心の中で言ってくれ。無駄に傷つく」
シートベルトを締めながら言うと、後ろから律が話しかけてきた。
「連絡した?」
「六宮にか? いらないだろ、時間と場所は昨日言ったんだし。着信履歴が残るのは避けたい」
「ふーん」
子供じゃあるまいし、忘れているなんてことは無いだろう。律にしては珍しく心配性だな。
車の時計が、十二時五十六分を表示していた。
三人と一体を乗せた車は、西山公園に向けて出発した。
「おかしいな、来てない」
車から降りて園内を確認したが、六宮の姿はなかった。
山を丸ごと一個含むこの公園は、旧国道に面している。ちょうど、車を停めた広大な駐車場の右側の道がそうだ。駐車場の前方には、三十段ほどのコンクリート製の階段がある。幅が広く、真ん中には金属製の手すりが取り付けられており、途中にある踊り場にはベンチが備え付けられていた。そこを上がりきると、だだっ広い芝生の広場だ。あちこちが茶色く剥げている。小学校の校庭くらいはあるだろうか。桜の木がまばらに立っているが、すでに葉桜だった。どれもが下からライトアップされており、満開のころならばさぞかし良い眺めだっただろう。他にも白々とした光の貧相な外灯が立っているので、意外にも明るかった。左端には高いコンクリート壁と一体化している噴水が、右手には自動販売機とトイレがある。
とぼとぼと歩きながら広場を見回したが、キャンキャンとわめく犬の散歩をしている男と、木の下にたたずむカップルと思しき二人組しか見つけられない。
駐車場まで戻ると、二人は死体を残して車から降りていた。密閉した空間では臭かったのだろうか。
「あいつ来てないぞ。どうしてだ?」
「ちゃんと場所と時間は教えたのよね?」
「当然だ、右手にある公衆便所、個室まで見てきたが誰も入ってなかった。どうなってるんだ?」
「忘れてるんだよ」
しゃがんで下を向きながら、律はぼんやりと言った。
「まあいい、そんなときの携帯だ。確か近くに公衆電話があったよな?」
振り向くと、駐車場と階段の間、左の隅に、ひっそりと電話ボックスが設置されていた。
「今時珍しいね。やっぱ非通知で携帯電話からかけただけじゃバレちゃうもんなの?」
「テレビかなんかでそう言ってた気がする。まあ、用心に越したことはない」
さっそく三人で電話ボックスへと向かった。流石に全員は入れないので、ドアを開け放したまま受話器を取る。十円玉を入れ、携帯電話に『六宮俊太郎』の電話番号を表示した。番号を押し終えると単調なコール音が繰り返されたが、一向に出る気配はない。
「なんだよ、寝てるのか?」
コール音が十回を超えた。いい加減、緊張も緩み始める。
もう切ってしまおうか。そう思った瞬間、唐突にコール音が止んだ。
「お、出た! もしもし、聞こえるか?」
しばらく、向こうは沈黙していた。取ったまま放置されたのかとも思ったが、どうやらそうではない。スピーカーの向こう側で、こちらの様子を伺うように潜められた息遣いが感じられた。
「もしもし……おい、今どこだ。約束はどうなったんだよ」
『……約束は……破られた』
抑揚のない声が返ってきた。横で盗み聞きしている二人にも聞こえやすいよう、受話器を二人の方へと向ける。
「どういうことだ。昨日はあんなに乗り気だったじゃないか」
『破られたのは……必然的に。その実は叡智の……』
「ん? ん?」
『そして解放された、実を食べ……楽園が……』
「おい、またトリップしてんのか! ふざけんな、こっちは眠いし寒いし臭いんだよ!」
「りょ、亮介声でかすぎ」
思わず八つ当たりしたオレを、コトリがなだめた。
「ルカさんのこと聞いてみたら?」
さも退屈そうに律が言った。
「うるさい、お前が聞けばいいんだ! なんでオレばっかりが……いや、こっちの話だ。六宮、ルカって女は覚えてるだろ?」
『ルカ……あ、ああ、ルカ、ルカ、ああああ』
「待て、変なスイッチを入れるんじゃない。今朝した約束は覚えてるな?」
『ルカは、ルカを返してください』
「だーかーらー!」
怒鳴る寸前のオレの手から、律が受話器を引ったくった。
「今すぐ、西山公園に来て」
『ルカは……ああ、ルカ』
「うん、西山公園においで。場所わかる?」
『すぐ、すぐ行きます。返してくれるんですよね? ルカは救われるんですよね?』
「うん」
『あなたは叡智を得た者ですか? プネウマティコイなのですか』
「たぶん」
言ったあと律はすぐに電話を切ると、すっかり興味をなくしたようだった。
「なあ、プテマ? ティコイ? って何だ?」
「徒歩で来るかな」
「聞けよ、さっきから二人してオレの話を……」
「だとしたら家が近いね。車なら別だけど」
「あいつが来てから聞き出せ。それよりプテなんとかって……」
「電話鳴ってるよ」
こいつと会話しようとしたオレがバカなんだろうか。
今度は公衆電話でなく、オレの携帯電話が着信を報せている。
「そりゃ即切りしたらかかってくるだろ! ……もしもし、さっきは悪かったな」
『おお、出るの早ぇな』
聞こえてきたのは、随分まともそうな聞き覚えのある声だった。そういえば、六宮に携帯番号は教えていなかったか。
「だ、誰だ?」
『誰だじゃねえよ、誰だと思って謝ったんだよ』
「お、ミノルか! いや、さっき別件で電話をしてて……それよりどうしたんだ」
危うく死体の話を始めなくて良かった。それにしても、随分と不機嫌そうな声だ。
『もうオレの手には負えねえな。さやかちゃんを送って帰るつもりだったんだが、家の場所教えてくれねえんだよ。お前にもう一度会うまでは絶対口を割らねえって』
「……嘘だろ……」
てっきり、ミノルと壮太でカタを付けてくれたとばかり思っていた。まさか、未だに揉めていたとは。
「本当に悪い、まさかそこまでとは……」
『いや、オレもお前に負担かけるのは避けたかったんだがな。ついさっきあんな目にあったばっかだし。けど、さっきから話になんねえんだわ。夜道に置いてくわけにもいかねえし』
交番に引き渡して帰ってしまえ、なんてことを思いついた外道はオレだけらしい。
「壮太でも説得出来なさそうか?」
『あいつは帰した。最初は一緒にいるって言ってくれたんだが、何人いたって一緒だしな。すっかり酔いが覚めちまったぜ』
「マジですまん……」
今から行く、と言いたかった。しかし、こちらとしても今から一仕事しなければいけない。どうしたらいいのだろう。
『なあ、今どこだ? こっちから行ってもいいから、ケリ付けてくれ』
「あー……心からそうしたいんだが、今はとんでもなく遠いところにいてだな……」
『県内ならタクシー飛ばす。どこだよ』
今から例の万引き犯と死体の取引がある、なんて言うわけにもいかない。どう言えば諦めてくれるのだろうか?
こんな状況で仮病を使っても白々しいだけだし、律が深夜徘徊するのはいつものことだから言い訳には使えない。
警察に引き渡せ、と本気で提言しようとしたときだった。
――キャンキャンキャン。
おもちゃのような小型犬が通り過ぎた。そういえば、さっき広場に犬の散歩中の男がいた。
特段気にもせず、何とか苦しい言い訳をひねり出そうとしたとき、意外な反応があった。
『亮介、もしかして西山公園か?』
なぜだ?
思わず後ろを振り返る。男と犬が、駐車場の車に乗り込もうとしていた。
『西山公園にいるんだよな? いやー助かった、オレらもなんだよ。今どこだ、駐車場か?』
「ちょ、ちょっと待て、なんで分かったんだ?」
『あ? 犬の鳴き声がしただろうが。オレら、芝生の広場にいるんだよ。ほら、階段上ったとこの。さっき、そこでチワワ連れの男を見たんだ』
「で、でも、そっちのチワワとこっちのチワワは違うかもしれない」
『夜中に鳴きまくるチワワ連れ廻してるやつが何人もいると思うか。しかもこんなタイミングで。……おまえ、オレに押し付けて逃げようとしてんな』
「そういうわけじゃ……」
『じゃ、今いる場所を教えろ。言っとくが、さっきお前は"なんで分かったんだ"って言ったんだからな。今さら西山公園にはいませんなんて嘘ついても無駄だぞ』
ちらりと後ろを見た。さっきの犬連れの男は帰ったようで、車が一台減っていた。広々とした駐車場には、たった二台しかない。
もしここに来られたら、どの車でオレたちがやって来たのかはすぐにばれるだろう。その後部座席に積まれた死体にも気づいてしまうかもしれない。
「いや、オレたちの方から行く。階段を上った先の芝生だな」
『おう、じゃあ来てくれ。……オレ"たち"?』
引きつった顔で横を見ると、律がため息をついた。また余計なことを口走ってしまった……。
「り、律といるんだ。二人で仲良く散歩だよ」
『なあ、亮介。コトリちゃんがいるなら、隠すのはもうやめた方がいいぞ。さっきだって、さやかちゃんは昨日の夜にお前らが部屋で会ってたって知ってたんだ。どうやって知ったかは別にしてな。そろそろ真正面から向き合ってやれよ。じゃねえと、あとあと泥沼になるぞ。何回か修羅場を経験してるオレが言うんだから大体間違いない』
「その中で、ストーキングしたあげくに馬乗りになってきた女はいたか?」
『馬乗りになったことならある』
頭を抑え、携帯電話を耳から話した。
コトリはスピーカーから漏れ出る会話を聞いていたらしく、冷めたような表情をしていた。
「良いよ。私も行く」
オレはコトリに謝ると、再び携帯電話を耳に当てる。
「今から三人で行く。待ってろ」
『おう』
電話を切ってから、もう一度コトリに謝る。今のところ、オレは彼女を巻き込みっぱなしだった。
「悪い。さやかが何かしようとしたら、オレが守るから」
光下先輩の話を思い出していた。
先輩は未だに悔やんでいる。自分のせいで、大切な人に大きな傷を負わせたことを。
だからこそオレは、コトリを守らねばならない。
「あーあ、そのセリフ牧野ちゃんに言われてたらなぁ」
こいつ速攻殴られたら良いのに。オレに。
むき出しの土が目立つ無駄に広い芝生、そのど真ん中に二人はいた。
ミノルはすぐに気づいたようで、軽く右手を上げた。さやかはその隣で、ミノルに腕を絡ませながらしなだれかかっている。
どこをどう見ても仲のいいカップルだと思ったのだが、近づくにつれ、二人の表情はとてもそうは見えないことに気づいた。女の目は据わり、男の頬は引きつっている。
「待たせたな……」
「よお。――うおっ!」
突進しようとしたさやかを、あわててミノルが掴む。手首を取られた反動で、肩上まで伸びた髪が大きく揺れた。
酒の抜け切らないピンクの頬には不釣合いな、ぎらぎらと光る目。下から上へとなめ上げるような視線は、絡みつく毒蛇を思わせる。
「もう、隠しもしないんだね。バレちゃったもんね」
低くつぶやくような、自嘲的な声。口の端こそ釣りあがっていたが、それ以外の全ては敵意に満ちていた。
ミノルは筋肉の塊のような腕でさやかを引きとめながら、ため息をついて眉間にしわを寄せる。
オレの目を見て首を振ると、『無理』と一言、唇の動きだけで訴えてきた。
「さやか、取りあえず落ち着け。明日誤解を解こう。酔った頭じゃ話し合いは無理だろう」
「誤解? 何が誤解なの?」
「全部だ。見てみろよオレたちを、コトリと二人だけってんならまだ疑うのも分かるが、律も入れて三人だ。三人でデートするカップルがどこにいる? それとも、オレたちは三人で楽しむ趣味があるとでも思ったか?」
「律くんさえ連れてればごまかせるって思ったのね。バカにしないで!」
溜息をつき、夜空を見上げた。
たっぷりと陰鬱さを含んだ雲が充満し、地上に星の光一つ与えようとはしない。まったく、これほどこの状況にふさわしい空はないな。
「どうしてそうなるんだ。ほら、おまえだって今ミノルと二人でいただろ。でも、デート気分で一緒にいたわけじゃない。そうだろ? どうしてそれと同じだって分からないんだ」
「あたし、ずっとミノル君にお願いしてたのよ。亮介くんに会わせてって。ねっ、そうよね?」
「お、おう……」
「ずっと亮介くんに会いたかったの。そばにいて欲しかったの。なのに、どうしてそんなこと言えるの? あたしに会いたいなんてちっとも思ってなかったくせに!」
子供のようにつぶらな目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
狂気だ。理性と常識が洗い流された、無垢なまでの狂気だ。
なぜか一瞬、苦しそうに泣くさやかを愛しく感じた。それもまた、理性とは別に湧き上がる思いだった。
「送ってったら?」
数を数えるように指を折りながら、律が言った。
「あ……ああ、そうだな……」
つまり、死体の引渡しは律とコトリだけでするということだ。大丈夫なのだろうか。
見渡すと、ミノルは疲弊しきった表情をしている。そろそろこのゴタゴタから解放してやらなければいけない。
コトリはオレと目が合うと、軽く頷いた。
律は未だに緊張感の無い顔をしながら、一定のリズムで指を折り続けている。
「よし……じゃあさやか、送ってやるから行こう」
手を伸ばし、さやかを歩くように促す。さやかも同じように、オレに向かって手を伸ばしてきた。
そして、それが大きく振り上げられる。
乾いた破裂音がするのと、目の前が一瞬真っ白になるのは同時だった。
「うそつき!」
左の頬が燃えるように熱く、そして痛かった。
「なによ親切ぶって! 厄介払いしたいだけのくせに!」
本当に……
なぜオレはこんな目にあわなければいけないのか?
なるべく穏便に、と願っていた心は消え失せた。
何かが弾けて全てがどうでも良くなる。
急激に熱せられた液体のように、脳が突沸した。
「……ああああああああああああああもういい加減にしろ! 明日話し合うっていってるだろ!」
全員の視線がオレに向いた。
さやかが怯んだように勢いを失う。
「だ、だって――」
「うるさいうるさいうるさい、こっちは倒されて頭打ってビールぶっ掛けられて叫ばれて掴まれたんだぞ! ミノルにも壮太にも先輩にも、四年にまで迷惑かけて、それなのに呼び出されたと思ったらまた平手打ちだ! どんな愛情表現だよ畜生!」
ミノルが必死でオレをなだめながら、後ろから両腕を押さえてきた。いつの間にか拳を作っていたらしい。
「大体おまえは何なんだ! 知ったような口で責め立てやがって、恋人でもなんでもないくせに、なんでバカとか嘘つきとか罵倒されなきゃいけないんだよ! オレが生まれてからどうやって育って何が起こってどんな思いしてここまで生きてきたか全然知らないくせに、妄想大爆発で好き勝手に文句だけは垂れやがって、くそっ!」
「でも……だって、教えてくれないんだもん。亮介くん、あたしに何にも教えてくれない!」
「うるさい黙れ! ……じゃあ教えてやるよ」
落ち着け、落ち着けとミノルが耳元で懸命に呼びかけている。
そうだ。落ち着かなきゃいけないんだ。
なのに、何を言い出そうとしているんだ。
「鍋食ってたときに言っただろ、オレは一度も女と付き合ったことがない。そしてこれからも付き合うつもりはない」
「……げっ」
なぜかオレを掴んでいたミノルの手が緩んだ。
「はっきり言っておくが、おまえとくっつく気なんか更々ないぞ! おまえだけじゃない、誰ともだ」
「な、なんでよぉ!」
「それは、こ……」
「コ?」
声と勢いが、自分でも驚くほど失速する。
「……怖いから……だ」
律以外、みんな阿呆のような顔でオレを見た。
だから言いたくなかったんだ。
「そんな目で見るな! 誰だって怖いもののひとつやふたつあるだろうが!」
「それ……まさか、女性恐怖症ってやつか?」
ミノルは口に手の甲を当てながら、隆々とした肩を小刻みに震わせていた。
「ち、違う、普段は普通に接せてるだろ!」
「でも似たようなもんだろ、付き合えねえんだし。はは、そうかそうか、だから合コン来たことねえのか! そうかー」
「全然似てない! 合コンは時間がなかっただけだ、行こうと思ったら行けたんだ、それくらいは出来るんだ。畜生、肩組むな!」
不愉快極まりない上機嫌さで、ミノルが暑苦しい腕を巻きつけてきた。
釈然としない表情のまま、コトリはこちらを見て首を傾げる。
「あのさ、喋ったりするのはオッケーだけど、付き合うのが駄目ってこと?」
「……そうだ」
「触るのは?」
「大丈夫だ。妙なところじゃなければ」
「抱き付くのは?」
「時と場合と人による」
「キスは?」
「さあな。試してみるか?」
「あーあ、今のが牧野ちゃんだったら死んでも良かったのに」
「いちいち人の神経を逆撫でるのはやめないか?」
ちらりとコトリの隣に目をやると、律はしゃがみこんで空想上の猫と戯れていた。
いつもながら腹が立つ。
「北条さんだけにそんなこと言ってずるい!」
「さやかは本気にするから嫌だ」
「嫌って言うなあ!」
文句を言いながらも、すっかり涙は乾いたようだ。研究室でよく見た、子供が拗ねたときのような顔で頬を膨らませている。
それにしても、本当に信じたのだろうか。言ったことは本当だが、証拠を見せろといわれても困る。
「亮介くん、明日約束だからね」
「ん? 何のだ」
「もぉ、忘れちゃヤだ! さっき、酔いが覚めたら明日デートしてくれるって」
言ってない。いつ『誤解を解こう』が『デートしよう』に変化したんだ?
しかし、変に反論してこのまま粘られるのは御免だ。何しろ、いつ六宮が到着してもおかしくはないのだから。
皆から見えないところで待っていてくれればいいのだが、そんな気が利くような相手には思えない。最悪の場合、お前の部屋にある死体を返せなどと言い出されるかもしれない。そうすれば、もし六宮が逮捕されたときにオレたちも巻き添えを食う可能性が高くなる。と言うか、オレたちが真っ先に逮捕されそうだ。
「……分かったよ、分かったからもう家に帰れ」
「ふふ」
さやかは嬉しそうに笑うと、思い切り伸びをした。
本当にあれだけで納得したのだろうか? それとも、また何かをたくらんでいるのか。
予想外の上機嫌が、逆に不安を煽った。このまま終息するなんて幸運が、本当に起きれば良いのだが。
「ミノルくん、タクシー呼んで! 早く帰らなきゃ、やることがいっぱいあるもん」
「はいはい、お嬢さま」
呆れた顔でミノルがタクシー会社に電話をする。
公園全体の右側には道路が走っており、駐車場からは勿論、芝生の広場の右側からも通りに出ることは可能だ。
早く行ってくれ。
時間を確認することも出来ないまま、心の中で訴えかけた。と同時に、六宮と鉢合わせなかったことに心の中で安堵する。
ミノルを見ると、電話を終えたようだった。携帯電話を閉じ、オレたちに向き直って言う。
「すぐ来るってよ。ここからだと、まあ十五分くらいで着くだろ……ん?」
「ん?」
やっと緩んだミノルの眉間に、再びしわが寄った。わけの分からないものでも見たように、オレたちの後方を凝視している。つられて、全員がその方向を振り返った。
嫌なシチュエーションが具現化していた。
男がすぐそこまで来ている。今までさやかたちに気を取られ、気づかなかった。
彼は灰色のパーカーの帽子をかぶり、その下からはいつものように緑色の髪が覗いている。
黒ぶち眼鏡はかけておらず、二重の奥では光を失った目がどこか違う世界を見ていた。
「サルクス。おまえも。おまえも。おまえもサルクス」
右手はパーカーのポケットに突っ込まれたままだ。
そこから、かすかに妙な音が聞こえる。
「何なんだよお前」
ミノルは面倒くさそうに言ったあと、何かに気づいたように眉を上げた。
「もしかして、こないだウチで万引きしたやつか?」
「あなたは叡智の味がしません。エヴァを汚したアルコーンの末裔、肉と物質の奴隷です」
ミノルは一瞬眉をひそめたが、苦笑いしてオレのほうを見た。
「亮介、こういうの慣れてるだろ」
「そうだな。いい機会だから、おまえも慣れといたらどうだ」
六宮は、相変わらず独創的な世界を呟いていた。このまま、タクシーが来るまで大人しくしていてくれればいいのだが。
さやかは思いのほか興味のない目で六宮を見ている。知り合いなの、と訊かれたが、曖昧に首を傾げるだけに留めておいた。
律は六宮をぼんやりと見ていた。どうでも良さそうに、一言言う。
「ポケット」
こいつまで別世界に意識を飛ばしてしまったのだろうか。
「何のメッセージだよ……」
律の視線を追う。どうやら、六宮のパーカーに付いているポケットのことを言いたいらしい。
何の変哲もないそのポケットは、右側だけが妙に尖っていた。まるでテントだ。
チキチキチキ。
音にあわせてテントはさらに突っ張る。ついにぶつりという音がし、布地が裂けた。
その先から覗いたのは、見覚えのある銀色の刃だ。
「おいおいおい!」
思わず後ずさる。律と六宮以外の全員が不審な目を向けた。
皆も逃げろ、と言いたいが、それが引き金となってパニック状態になるのが怖い。それとなく皆に分かるように危険を報せなくては。
「ポ、ポケットが」
それに対して返ってきた反応は、ついさっきオレが律にしたものと一緒だった。
「……おまえまでイっちまったか?」
妙な屈辱を味わった直後、つつかれた亀の首のように、カッターの刃は引っ込んだ。
皆はオレの視線をたどって六宮のポケットを見たあと、失望したような目を向ける。
「ち、違うんだ! ポケットから……銀色のが覗いてたんだよ」
ミノルは呆れたように答えた。
「グレイのことか? お前、そうとうキてるな」
「銀色でそれを連想することの方がキてると思うぞ」
実はオカルト好きなんだろうか。
どうでもいいことに意識を向けていると、ふらりと灰色の影が動いた。六宮は左手だけをポケットに突っ込んだまま、ミノルに背後から歩み寄る。
「うお、何――」
ミノルが振り向いたのと、六宮が彼の首に左手を回したのは同時だった。
「てめえ!」
ミノルの太い肘が、正確に六宮の胴体を撃った。くぐもった呻き声がしたが、それでも左手は首から外れない。
さやかだろう、甲高い女の悲鳴がした。騒ぎが大きくなってはまずい。
オレはあわてて引き剥がそうと、六宮の左側から掴みかかった。カッターを握ったままの右手に辛うじて手をかける。
死体を引き取らせるまでは、厄介ごとを起こさせるわけにはいかない。
「おい、誰かこいつの……」
カッターを取り上げてくれ、と言おうとして気付いた。さすがにこんなことを、コトリやさやかにさせるわけにはいかない。
奴の右手の肘をなんとか捕らえてはいるが、ミノルめがけて振り上げられたカッターには手が届きそうになかった。
小さく細い身体からどうして出せるのか、六宮は男二人にも引けを取らない力でミノルに絡みついている。
カッターを奪うには、位置的に近い右手を使わなければいけない。しかし今右手を離せば、一瞬の隙を突いてミノルの首が刺される危険が生じてしまう。
「亮介っ!」
コトリの声が近づき、六宮の右手に掴みかかった。
「危ないだろ、下がれ!」
「さっきから充分危ないっての!」
ミノルが六宮の胴に、さらに肘を入れた。再びうめき声が漏れ、ようやく少し力が緩む。
首を締め上げる手を引き剥がすと、ミノルはやっと自由になった体でよろめきながらこちらを振り向いた。
途端、その目が丸くなる。
「お、おい大丈夫か」
「んなわけないだろ!」
「お前じゃねえ」
いつの間にか、コトリも六宮の手から離れていた。驚いたように何かを見ている。六宮自身も暴れる気が失せたようで、空っぽの右手をだらりと垂れた。
……空っぽ?
「カッターどこ行ったんだ?」
もう一度、さやかの悲鳴が聞こえた。三人は六宮の向こうの何かを見ているようで、絶句している。
「おい、律か? 今まで何やって……」
六宮の手をねじり上げて屈ませた。見通しの良くなった前へ、顔を向ける。
律は相変わらずつまらなそうな顔をして突っ立っていた。
変わったことと言えば、左手からぼとぼとと血を滴らせていることだろうか。
「これ、万引きされたやつ?」
赤い手のひらを開くと、限界まで刃の引き出されたカッターが現れた。
ミノルがおっかなびっくりと言った感じで律の血まみれカッターを覗き込む。
「おお、確かにうちで取り扱ってるメーカーのだ……っつか、それよりお前、手!」
「貰っていい?」
いまだ芝生の上に血を垂らしているやつとは思えない落ち着きだ。苦手なのか、ミノルのほうが青い顔をしている。
「そんなもん返品されたって要らねえよ。つか手ぇまた握んな! 開け!」
「牧野ちゃんっ」
コトリは走り寄ると、レースの付いた純白のハンカチを律の手に巻いた。ハンカチはじっくりと血を吸い込み、深みのある赤に染まっていく。
「痛くない? 今すぐ病院連れてってあげるから」
泣きそうな表情のコトリに、ミノルが言った。
「それならさっき呼んだタクシーもう来てるはずだ。それに乗った方が早い」
さやかがぼんやりと呟く。
「あたしどうやって帰ればいいの?」
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ!」
ミノルは一喝したあと、オレに向かって言った。
「警察呼んでくれ。こいつ逃がすなよ」
「け、警察?」
「立派な傷害罪だろ!」
律の真っ赤な手を見て考えた。
確かに手当ては必要だ。よくやってくれたと思うし、純粋に心配な気持ちはもちろんある。
しかし。
今警察を呼ばれたら、最悪の事態になることは明らかだ。オレたちが乗ってきたコトリの車には、どこからどう見ても他殺の女が入っている。たとえ六宮だけが取調べを受けたとしても、その場でオレたちとの関係性がばれれば、軽い取調べや所持品チェックはされるだろう。
「警察より先に病院に行ったほうが……良いんじゃないかな……」
「だから、それはコトリちゃんが行ってくれるんだっつの。良いから呼べ!」
ミノルは大股で六宮に近づくと、オレを押しのけ問答無用で組み敷いた。不意を突かれなければ、体格差はそのまま力の差になるのだろう。
六宮は大人しくうつぶせにされ、右手を捻り上げられていた。ただその首は限界まで捻られ、呪いでもかけるようにミノルを凝視し続けている。
「無駄」
律がきっぱりとした口調でオレたちに言った。
「あ?」
「自分の意思でカッター握っただけだから」
一瞬の沈黙ののち、苦々しくミノルが唸った。しかし、何かに気付いたように口を開く。
「さっき、オレの首絞めたぞ。そっちなら確実に傷害罪だろ」
「ケガしてないと傷害罪は認められない」
六宮の背中にまたがりながら、ミノルは首をさすった。傷どころか、あざひとつ付いてはいない。それどころか、このまま彼が六宮を押さえつけ、打ち身でも出来ようものなら、傷害罪になってしまうのではないだろうか。
「ちっ。手の一本でも折ってやりてえところだ」
「コトリさんの車で病院に行くから帰って良いよ。バイバイ」
律は有無を言わさず二人に手を振った。
元々さやかは帰りたそうにしていたので、律の心配をすることもなく手を振り返した。こんなときにまで、顔にはいつもの笑みがある。
ミノルはやる気を削がれたようで、六宮の背中から退いた。再び暴れだすのではないかとも思ったが、六宮はじっとりとミノルを見つめるだけで、立とうとすらしない。いつもは空虚だったその目には、敵意が溢れている。
ふと、ルカのメールを思い出した。
六宮は、もしかしてミノルを知っているのだろか。そう言えば、さっきミノルに対して何か言葉をかけていたっけ。
「こいつどうするんだ? また暴れだすかもしれないぞ」
「さあ」
無責任な律に変わり、オレはミノルの背を押した。六宮の耳に入らないように皆の輪から二人で外れ、声を潜める。
「オレたちはもう帰るから、このまま放っておこうと思う。付いてくるなら、今度こそ警察を呼ぶさ」
「本当にそれで良いのか? 通り魔ならともかく、この野郎はお前のアパート知ってんだろ。万引きした次の日の朝に来たって言ってたよな」
余計なことを話さなければ良かった、と激しく後悔した。これ以上詮索されては、ルカのことがばれるだけでなく、事件が明るみに出たあとで面倒臭いことになりかねない。
「だからこそ、あんまり関わらないほうが良いんじゃないの?」
振り返ると、いつの間にかコトリが後ろに立っていた。
「一方的に情報をつかまれてる人に逆恨みされても困るしね。警察だって事件にならない限り動いてはくれなさそうだし」
その言葉で、ミノルはようやく納得したようだった。ただし、渋々と言った表情だ。
「律を早いとこ手当てしてやれよ。じゃ、さやかちゃん送って帰るわ」
「おう。最後に一つ訊いていいか?」
「ん?」
「三日前の深夜って何してた? 一時くらいだ」
「いきなり何だよ……多分、コンビニで夜勤だったと思うが」
「何でもない、お前に似たやつを見かけただけだ。じゃ、さやかを頼む」
「亮介くん、また会おうねっ」
オレだけに向けて手を振ると、さやかは振り返りもせず、さっさと立ち去った。
公園の右手にある木々の向こうの道路からは、時折車の走る音はするものの、ほとんど静寂に包まれている。六宮も死体もない、平和な日常が広がっているのだろう。ミノルは眉根を寄せて首を傾げながらも、さやかを追った。途中、未だに凝視し続けてくる六宮を振り返り、嫌悪感たっぷりの表情で舌打ちをする。
二人の姿が完全に公園の広場から消え、深いため息が漏れた。
ようやく片付いた。
これで良かったのかどうかは分からないが、死体だけは見つからずに済んだ。
四人だけとなった夜の公園に、弱い風が吹く。場の熱を拭い去るような、ひんやりとした風だ。
コトリを見ると、すでに怪我人のもとへと駆け寄っていた。一向に立ち上がらない六宮のわきには、律がしゃがみこんでいる。
「これ君の?」
血まみれのカッターを差し出されても、六宮は何の動きも見せない。
「返すよ」
「待て待て待て、返すんじゃない」
あわてて律の襟首を掴んだ。
「なんで?」
「お前の左手と同じ目には遭いたくないからだ」
「ふうん」
一応納得した様子だが、本当に理解したのだろうか。
「第一、よく平気な顔でいられるな。大丈夫なのか?」
「べたべたする」
「本当に言いたいことがそれだけなら病院に行くべきだ。脳の」
カッターを取り上げ、少しためらったが結局じかにジーンズのポケットにしまった。こいつのそばに置いておくと、あとでどうなるか分かったもんじゃない。
「牧野ちゃん、早く病院行こ。手当てしないと」
「やだ」
「だって……ひどい怪我だよ、ほっとけないよ。痛くないの?」
「それなりに」
こいつは一度言い出したらきかない。素直に病院へは行ってくれないだろう。その方が都合は良いのだが、本当に大丈夫なのだろうか。
巻きつけられたハンカチは大部分が赤黒い色に染まっていたが、幸い血は止まったようだ。
「肉体の消滅を望んだのですか」
ようやく六宮は立ち上がり、律を見下ろして言った。
「ううん。君は?」
「使命を果たせば」
「どんな」
「デミウルゴスの手からルカを救い出すことです。今こそ輪廻を断ち切り、我々のふるさと、再びプレーローマへと」
「あー分かった。グノーシスだ」
「……頼むからお前ら、普通の人間にも分かるような会話だけをしてくれ」
こういう状況でなければ、良い友達になれそうな二人だ。これだけ会話ができると言うことは、ようやく六宮も落ち着いたということだろうか。
しかし、なぜさっき暴れたのだろう。理論的に行動しているわけではなさそうだから、こんなことは考えるだけ無駄かもしれない。
それでもオレは、さっき見たルカへのメールが気になっていた。
あれの差出人の名前は、『みー』で登録されていた。もしかして、ミノルのことではないのだろうか。
とすれば、これほどまでにルカにこだわる六宮が、ミノルを敵視するのもうなづける。
「ねえ、そろそろ移動した方がいいんじゃない? 二人も帰ったし」
「そうだな。長居しても良いことはないだろう」
コトリの言葉で、オレたちは駐車場への車へと戻った。いっそ忽然と消えていてはくれないかとも願ったが、死体は変わることなく後部座席のスペースを占領している。
「ちょっと、亮介は後ろに行って」
助手席のドアを開けようとしたオレを、コトリが制止した。
「なんでだよ」
「牧野ちゃんはケガしてるでしょ。それに、もし牧野ちゃんの血が死体の彼女に付着したら、あとで警察に発見されたときどうなると思う?」
よく頭が回るやつだ。ついでに、死体と六宮に囲まれるくらいならボンネットに乗ったほうがましだというオレの気持ちも先読みしてくれないだろうか。
……なんて車を出してくれた部外者に言えるはずもなく、オレはうなだれつつ後部座席に乗り込んだ。
「どうやって乗るんだこれ……」
死体に被せておいたダンボールをそっと退け、スペースを作る。
死体はコトリのいる運転席の真後ろに頭があり、膝を少し折った形で、対角線を描くように斜めに横たわっていた。踏まないようにするには、律の座席シートに抱き付く形で低姿勢を維持したまましゃがまなければいけない。
「文句言わないの。軽自動車じゃなかっただけありがたいでしょ」
「その場合は車に加えてノコギリも借りてたと思う」
同じく後部座席に乗った六宮はそれどころではないようで、定番のスイッチがさっそくオンになっている。
「あああ、ルカ、ルカ、間に合った……」
「おい、感動の途中で悪いが、おまえの家はどこだ?」
「あああああああ、ルカ、あああああああ……」
毎回この通過儀礼に立ち会うたび、うんざりする。
コトリは複雑な表情で六宮とオレたちの顔を交互に見ていたが、やがてしばらくの時間が必要だということを悟ったようだった。
エンジンをかけ、車通りの少ない公道を適当に流す。
道沿いにはガソリンスタンドや民家くらいしかなく、それらをつなぎとめるように点在する街灯がわびしい光を灯していた。賑わいとは無縁の静けさだ。開けた窓から通り抜ける、夜の清浄な空気がありがたい。
「牧野ちゃん、本当に手は大丈夫? 一度家に帰って手当しようよ」
「いい」
そっけない返事だ。
しかし、コトリは何が嬉しいのか、微笑みながら再び声をかけた。
「そういえば、さっき嘘ついたよね」
律は前を見たまま、顔すら向けない。
「何が」
「警察を呼んでも無駄だって」
「言ってない。無駄なのは、傷害罪を適用しようとすること」
「傷害罪じゃなけりゃ適用できたってことか?」
思わず口を挟む。
「暴行罪なら」
コトリが、やっぱり、と言った。
「そうか、盲点だったな。コトリはさっきから気付いてたのか?」
「でも、私が気になったのはそんなことじゃないの。牧野ちゃんがとっさに嘘をついてみんなのために犠牲になってくれたってことよ」
「どうせなら死体を拾って帰るってピンチから助けて欲しかった」
助手席の真後ろで言ってやると、大きなあくびが返ってきた。
「そういえば、牧野ちゃんはどうしてカッターのことミノちゃんに聞いてたの?」
血まみれのカッターをミノルに見せていたことを言っているのだろう。
「そりゃあ、ミノルのコンビニから盗まれたものかどうかを確認するためだろ?」
「それもあるけど」
『も』ということは、ほかに理由があるのだろうか。
「思いつきを確認したかった」
「思いつき?」
「六宮君は目立つ格好してるよね」
「おい、話そらすな」
「そらしてない」
わずかにむっとしたような声で律は反論した。
「もし、それがわざとなら記号になる。パーカーを被った緑の髪と黒ぶち眼鏡」
「今日は眼鏡かけてなかったな。オレの部屋に落ちてるやつ一個しか持ってなかったんだろう」
「その眼鏡、度が入ってなかった」
「ファッションアイテムとして使ってたんだろ。で、記号って何なんだ」
「目立つものに目がいって、細かいところを見落とすのを狙う。たとえば、背格好が同じような人が同じ格好をしていたら、同一人物だと思い込むかもしれない」
なるほど。万引き犯と六宮が別人物だという可能性を考えたわけか。
「けど、そりゃ考えすぎだろ。もしそうだったとしたって盗んだカッターを後で六宮に渡せば済む話だし、第一そんな面倒臭いことをする意味がない」
「うん」
「それと、そういうことは積極的に口に出して言え。いつか少しは役に立つかもしれないだろ」
「んー」
適当な返事をして、そのまま律は黙った。
言わなくたって分かる。『そんなの面倒臭いから嫌だ』と言いたいのだ。
「あのさ……私、思うんだけど」
コトリが首をかしげた。
「何だ」
「殺したの……本当にその人なの?」
バックミラー越しに、六宮を視線で指す。
「そんなもん決まってるだろ」
声をひそめ、ちらりと六宮を振り返った。ようやく落ち着いたようだが、女にすがりついたまま、ビニールごしにその顔を撫でている。オレたちの会話には無頓着なようだ。
「いいか、こいつは女がうちに運び込まれた翌朝から現れて、連日皆勤賞状態なんだ。だいたい、犯人じゃなくて誰がオレんところに死体があるなんて分かるかよ」
「逆に言うと、犯人は絶対に亮介の部屋に死体があることを知ってるはずだって言えるわけ?」
「それは……」
確信していたはずなのに混乱してきた。六宮以外に犯人がいるとでもいうのか。
当初の遺棄現場からオレの部屋に死体が移動したことを知る方法は、二つ考えられる。
実際に目撃したか。それとも、誰かに伝え聞いたか。
どちらにせよ、普通の人間ならばその後は警察に通報するはずだ。
「正直分からない。だが、もし六宮が無実だったとして、その後の行動を説明するには、とんでもない条件を満たさなきゃならないんだぞ」
「とんでもない条件?」
「一、『偶然死体の女を知っていて』二、『何らかの方法で死体がオレの部屋にあるのを知ることが出来て』三、『偶然警察に通報なんかしないような人間である』っていう三拍子が揃ってるってことだ。二番目の条件、オレの部屋に死体があることを知るには、『誰かから聞いた』か、『偶然目撃していた』って条件が必要だ。何回"偶然"て言ったかはカウントしてないが、これを満たすには相当の運が必要だぞ」
バックミラー越しのコトリがつまらなそうに口をとがらせた。
代わりに律が答える。
「偶然である必要はない」
「なんでだよ」
「『ルカさんを知っていて』『通報しない理由がある』人なら、どうにかなるから」
「じゃあ、どうやってオレの部屋に運ばれたのを知ったんだ。偶然じゃなくなるには、女が殺されてから律に運ばれていくまで、ずっと監視してたことになるんだぞ? それなら、途中で助けるか、律よりも早く死体を運び去るか、どっちかにするだろ」
赤信号のためブレーキを踏みながら、コトリが付け加える。
「真犯人が死体のありかを六宮さんに教えた、とか」
「まあ、可能性の一つとしちゃ出てくるだろうが、理由が分からないな。それによって犯人にメリットはあるのか?」
「彼はこんなに彼女の死体を欲しがってたわけでしょ? 牧野ちゃんが持ち帰ったのは誤算だったけど、犯人としては六宮さんが持ち帰ってくれると思ってたはずよ。だとすれば、それって充分すぎるメリットじゃない」
言いながら、コトリは自分の説がどんどん正しいものだと思えてきたようだった。
「それに六宮さんは朝来たのよね? 牧野ちゃんが死体を拾った夜じゃなくって。もし実際に牧野ちゃんが死体を拾うところを見ていたのなら、その場で呼び止めたって良いはずじゃない。彼が来るのが翌朝になったのには、それなりに理由があるはずよ」
「つまり……その理由が、『犯人が目撃して、それを六宮に伝えるまでのブランク』だって言いたいのか」
「そうよ、良い推理だと思わない?」
コトリは得意げに声を弾ませた。
本当に、真犯人なんてものが存在するのだろうか。
死体は、無造作に路上に放置されていたのだ。推理小説に出てくる密室殺人事件なら分かるが、そこまで手の込んでいる殺人には思えない。
いや……
女の爪の謎があった。
首を絞められて殺害されているのにもかかわらず、なぜか抵抗した跡がないのだ。申し訳程度に、手首に縛ったような跡があっただけである。
薬物で昏倒させたのかもしれないが、それならばもっと発見しづらい場所に死体を捨てないだろうか? あれでは、どうぞ発見してくださいと言っているようなものだ。
何か、死体を運べない理由でもあったのだろうか。
「言われてみるとそんな気もしないでもないが……律、おまえはどう思う?」
人とは違う発想をするやつだからこそ、さっきのように何か新たな考えが出てくるかもしれない。
「本人に直接聞けばいいと思うよ」
今すぐ事故を起こして助手席だけ潰れれば良いのに。
しかし、当然の発言に何も言い返せない。
「あの……六宮さん、今話せる?」
コトリが刺激しないよう穏やかな声で話しかけた。しかし、彼は死体にささやき続けるだけで、一向に反応する様子はない。
オレも一緒に声をかけたが、意味不明の単語が返ってくるだけで、少しも有益な情報は得られなかった。
その後十回ほど呼び掛けて、コトリはついに諦めた。
「なんでここまで会話が成り立たないわけ? このままじゃこの人の家にすらたどり着けないよ」
「うちの近くのアパートのどれかだと思う」
「おい、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「毎朝うちに始発前に来てたから」
「電車じゃなくても、車か自転車で来たのかもしれないだろ?」
「わざわざ遠くに停めて来るような人に見えない」
こいつ、六宮がアパートを出た後にずっと窓から監視してたのか。
アパートを出てから見えなくなるまで、六宮が徒歩であることを確認したのだろう。
「でも、こんな派手な頭のやつ近所にいたら気付いてると思うんだがなあ」
「あと、さっきの西山公園から徒歩約二千三百二十七秒あたりに住んでる」
思わず助手席の律を覗き込んだ。どこからこんな具体的な数字が出てきたんだ。
「やっぱおまえ、こいつと――」
「グルじゃない。数えてた」
「ああ、やっとわかった!」
コトリが嬉しそうに手を叩いた。ハンドルから両手が離れ、冷や冷やする。
「公園で、ずっと牧野ちゃんが指を折って数を数えてたわけ。そのためだったのね」
「うん。だから時速5キロで歩くとすると、自宅から公園までの距離はだいたい三千二百メートル。ただし、直線距離じゃない上に電話を受けたのが自宅だったって前提が必要だけど」
感心したというか、呆れたというか。
その努力の方向性をまともな方に向けるだけで、少しは生活費が浮くだろうに。
「確かに良い情報かもしれないが、それだけでこいつの家を特定するのは不可能だろ。たとえ自宅でオレの電話を取ってたとしたって、西山公園から三千二百メートルなんて、どんだけの住居が該当すると思ってんだよ」
「ワンルーム以外の賃貸住宅。持ち家の可能性は低いと思う」
「今度は何を数えた上での推理だ?」
「勘」
問答無用で律の右頬を引っ張った。
こいつは、いつだって自分が面倒臭くなると嘘をつく。だが、こんなお粗末な回答で納得できるはずはない。
「……一人暮らしは難しそうだから」
「確かに、会話すら成り立たないまま自活はできないだろうな。で、持ち家はなんで可能性が低いんだ?」
「六宮君は今まで外に出ず生活が出来てた。誰かが食事を用意したり、必要なものを買ってきてくれたりしてたみたいだから」
「オレとお前みたいだな」
「でも、六宮君は外に出てきた。今までは外で見かけたことがなかったのに」
「それじゃ、この死体……ルカが今までこいつの世話をしていたってことか?」
「可能性の一つとしては。たとえば複数人の同居者がいたとしたら、その中の誰かがいなくなったってほかの人がいるから、六宮君が外に出なきゃいけない事態にはならなかったと思う」
「つまり、六宮は二人暮らしをしていて、その片割れが最近いなくなった可能性が高い、ってわけだな」
「うん」
コトリが感心したようにつぶやく。
「だからワンルームじゃないって言ったのね。二人とも若いから、購入型より賃貸のマンションの方が断然確率が高いし」
「ワンルームに男二人で暮らしているオレたちは例外扱いか?」
「バーキンが買えるような人よ。だいたいの生活レベルは推測できるでしょ」
なるほど。納得できた反面、悲しい。
「しかも牧野ちゃんたちが住んでるとこって、ちょうどここから三キロくらいなんじゃない? あの一帯は住宅街だけど、学校の近くだから学生用のワンルームマンションが多い。二人暮らし用のマンションは絞られてくるね」
しかしこんな推理をしたところで、地図と近隣の物件情報がなければ特定は難しい。絞り込めてきたとはいえ、未だ範囲が広いうえに、推理が本当に正しいかどうかすら分からないのだ。
律の推理はあくまでも『可能性の高い説』を挙げただけだ。広い家で優雅に二人暮らしだとか、五人家族だけど一人は寝たきりで二人は引きこもりだとか、例外を挙げればきりがない。
「で……結局どうやって探すんだ。該当地区をしらみ潰しか?」
「その答えはさっき言った」
律は平然と言った。
「本人に直接聞けばいいと思うよ」
こいつはさっきの一連の出来事を記憶しているのだろうか。
「それがオレの神経を逆撫でるために言ったのでないとすれば、たいした記憶力だよ」
いつの間にか六宮は囁くのをやめ、首をぐるぐると回していた。手だけが、何かを探すように床でうごめいている。
「コトリさん」
「はいっ?」
律に呼びかけられ、コトリはびくっとして背筋を伸ばした。
「後ろに何が載ってるんだっけ」
「え? 死体でしょ……?」
「そのほかに」
「亮介」
オレはモノ扱いか。
運転席に向かって心の中で毒を吐いていると、背後からゴトンと音がした。車体の揺れで何かが動いたのだろうか。
「そのほかに」
「え? 段ボールと、それと……」
「そういや、真っ黒のステッキがあったぞ」
そう言って先程置いておいた場所を見るが、ない。
「ああ、ステッキか」
律ののんびりとした声を聞きながら、ステッキを探した。ふらふらとさまよわせた視線が六宮の手をとらえたところで、思わず叫ぶ。
「な、何やってんだ!」
やつは死体に乗り、両手でステッキを逆手に握りしめて、大きく振りかぶっていた。その先端は、女の頭に向けられている。
オレの声に驚いたのか、車体が大きくぐらついた。強くブレーキを踏んだのだろう、進行方向に重力がかかる。
六宮の体がこちらに倒れかかるように揺れ、振りおろそうとした手は止まった。
今だ。
六宮の脇腹を思い切り蹴る。そのまま横倒しになり、背中を打ちつけたのかうめき声を漏した。
それほどダメージを受けてはいないようだが、抵抗もする様子はない。倒れこんだ姿勢のまま、焦点の合わない目を見開いている。
六宮の手が緩んでいるのを確認してステッキを奪い、助手席へと渡した。あたりを見回し、ほかに武器がないことを確認する。
「……これほど退屈しないドライブは初めてだ」
「忘れられない夜になりそうね」
コトリの言葉ははたして皮肉なのだろうか、と思う。こいつなら、律といるだけで純粋に喜べそうだからだ。
「ところで今どこを走ってる?」
「西山公園から三キロちょい離れたところをぐるぐるしてる。アパートをチェックしてはいるんだけど、外から見ただけじゃワンルームかどうか……」
貧弱そうな飾り気のないアパートが、民家にまぎれてぽつりぽつりと並んでいる。
明かりがついている部屋はまばらで、暗い窓の下には『入居者募集中』の看板が下がっていた。
「ここら辺は学生用ばっかだ。そこの角を右折してくれ、メゾネットタイプのマンションがいくつかある」
道の車通りは依然として皆無だった。
センターラインすら引かれていない住宅街を曲がると、小さな一戸建てが合体したような建物――メゾネットタイプの賃貸住宅が、白い柵に囲まれて何戸か建っていた。
メゾネットとは、室内に階段があって上下階に分かれており、一戸建てに住んでいるような感覚が味わえるマンションの形態である。オレが住んでいるような狭苦しいアパートとは大違いだ。しかし、その分賃料も高いのだが。
柵の周りは、何も植わっていない田んぼが、沼のように広がっている。
「新聞でも取っててくれてりゃ、郵便受けで見当が付くんだがな」
おそらく、六宮はまめに新聞を読んだりはしないだろう。とすれば、郵便受けに新聞があふれかえっている可能性が高い。
「新聞がなくたって、チラシくらいなら入ってそうじゃない?」
コトリは一番近くのメゾネットに車を近づけた。しかし、道側は駐車場になっていて、マンションはその奥になっている。しかもこちらからはマンションの右側面しか見えない。
見ると、どのメゾネットもこうした構成になっていた。
「律、ちょっと降りて見て来い」
「えー」
コトリの機嫌を損ねずにこいつを葬れないだろうか?
黒い思いを巡らせていると、後ろでかすかな声が聞こえた。
「……あ」
振り向くと、六宮が体を起こしていた。だらりと口を空けながら、窓の外を見まわしている。
「停めてください。停めてください」
声に反応し、ゆるゆると走っていた車にブレーキがかかった。コトリが少し驚いたように振り返る。
完全に停車すると、六宮は後部座席のドアを叩きながら、取っ手をガチャガチャと引いた。
「壊れるだろ、今開けるからどけよ」
ロックを解除してドアを開けてやると、わき目も振らず車を飛び出した。そのまま小走りにマンションの方へと走っていく。
今停まっているものではなく、その向こうのメゾネットの方だ。
「コトリ、追ってくれ」
「了解っ!」
ドアを閉めると同時に、コトリは勢いよくUターンをした。
深夜に、アスファルトをこすり上げる微かな音が響く。
「おい、死体に尻もち付いたらどうするんだ」
「これがテンション上げずにいられる?」
六宮は当然のようにふらふらと白い柵を越えた。三台しか車の停まっていない駐車スペースを抜け、右側の、六つほどの玄関戸が並ぶところへと進む。
迷いなく一番奥の扉を押し開けて、中へと消えた。
「ビンゴ! すごい、牧野ちゃんの言う通りじゃない!」
「外れる可能性もあったんだ、単に運が良かっただけだろ」
オレの発言に対して、コトリはミラー越しに冷たい一瞥をくれただけだった。
「それにしてもあの部屋、鍵がかかってなかったみたいね。やっぱり、ほかに同居人はいないのよ」
「見に行っていい?」
珍しく律が乗り気になったようだ。となれば、今のうちに死体の運搬を手伝わせられる。
「よし、一度本当に同居人がいないか確認しよう。大丈夫そうなら、オレと律で死体を部屋に運び込む。それでようやく全ては終了だ」
「私は? 何か手伝えることはない?」
「エンジンをかけたままあたりを見張ってくれ。オレたちが戻ってきたら、そうだな、駐車場の空いてる所に車を移動させてほしい。死体を持ち運ぶ距離は短いに越したことはないからな」
汁が駐車場に垂れたら、外部から死体が持ち込まれたことがばれてしまうかもしれない。
もしかして、死体を包んでいるブルーシートも現場に残さない方が良いのだろうか?
しかし、包みを引っぺがして腐りかけた死体を取り出す作業をする気にはなれなかった。もともとゴミとして捨てられていたものだし、そこからオレたちに繋がるものはないだろうと思う。
六宮のマンションから離れたところにコトリを路上駐車させ、オレと律は車を降りた。
夜のコンクリートは黒く深く、ところどころに設置されている街灯と月明かりがなければ、夜空と地続きになりそうだ。
携帯電話で時刻を確認する。真夜中の、二時五十三分。
今日も明日も平日だから、人通りがないのは当然だろう。その点ではラッキーだ。こんなときに出歩いているのは、オレたちのように明日講義が入っていない学生か、律のような無職くらいかもしれない。
「あんまり入居してないのか」
「六戸のうち三戸は空き部屋だね」
郵便受けには、差し込み口をふさぐように『入れないでください』と書かれたビニールテープが張られている。
六宮が入って行った一番奥の部屋の戸を見ると、わずかに開いていた。きちんと閉めなかったようだ。
「入るか」
「うん」
ドアノブに触れないよう、ドアの隙間に足先を入れて開けた。
構造的には、どこにでもある普通の玄関だった。当初はさぞかし機能的でモダンな美しさがあったのだろう。しかし今や、正面に伸びている短いフローリングの廊下には靴が散乱し、泥やゴミや謎の汁にまみれて、見た目も臭いも飲み屋街の裏路地のようだった。
廊下の右には部屋があるらしいが、そのドアノブにはいつ洗濯される予定なのか分からない服がぶら下がっていた。正面奥には二つに折れた階段がある。
「やっぱり靴は脱がなきゃいけないのか?」
「靴底の方がまだ清潔そう」
話していると、階段から足音がした。六宮が手に何かを持ち、ゆっくりと降りてくる。
「あ、六宮君も履いたままだ」
「……そんなこと言ってる場合か」
どこから調達したのか、右手に小汚い金づちを持っていた。
オレたちを見ても何の反応もない。
ぎし、ぎし、と階段がきしむ音だけが規則的に迫ってきた。
「……に、逃げるぞ」
「なんで?」
「訂正だ。オレだけ逃げる」
律に背を向けると、再び声がした。
「ルカさんよろしくね」
「こんなときに何の話だ?」
「コトリさんとここまで運んできて。六宮君と待ってるから」
「……運んできたらお前まで死体になってたりしないだろうな」
六宮の足が、ついに最後の階段を下りた。
「そうなったら、ぼくをここに運ぶ手間が省けていいね」
外に飛び出し、全力で車へと走った。
余計なことは考えるな。律がそう簡単に殺されるわけがないじゃないか。それよりは、出来るだけ速やかに死体を部屋へ運び入れることを考えるべきだ。
だいたい、どうしてあいつはあんなに余裕なんだ?
車に走り寄ると、助手席に飛び乗った。息を切らしたオレを見て、コトリが心配そうな顔をする。
「何があったの? 牧野ちゃんは?」
「あいつの部屋に二人で残ってる。オレたちで死体を運び入れてくれって」
「牧野ちゃんがそう言ったの? 二人きりにしちゃって大丈夫?」
「あいつが言ったんだ、信じてやるしかない。悪いが、オレ一人では運べそうにないんだ。手伝ってくれ。あと、ルカのバッグも忘れずにな」
「それは良いけど……とにかく、車移動するね」
白い柵を越え、マンションの敷地内にある駐車場に停車した。あたりを見回すが、依然として誰の気配もない。そのまま周囲に気を配りながら、互いに手袋をはめ、後部座席から死体を引きずり出した。
臭気と触感を極力気にしないように努め、上半身を持ち上げる。コトリには足首の部分を持たせた。
重い。
生前のルカなら、オレ一人でも充分抱えられたはずなのだ。ガスで膨れたせいでしっかりと掴めないからだろうか。
「静かだな」
「車で待ってる時も、誰も通らなかったよ。住宅ばっかりな上に通り抜けしづらい道なのが良かったのかもね」
半開きのドアの前に再びたどり着くと、中の様子を窺った。玄関には、もはや誰の姿もない。
死体を担いだまま、速やかに室内に入った。ドアを閉めさせ、万が一のために施錠する。
床に死体を下ろし、階段を上がろうとしたとき、後ろでドアの開く音がした。見ると、未だにドアノブから服を垂らしたままの部屋から、律の顔が覗いている。
「おい、無事か? 六宮は……」
「ここ。ルカさん運んで」
「分かった」
ドアが内側に大きく開けられた。
同時に、饐えた臭いがあふれ出す。
「中でも誰か死んでるの?」
「モルグかここは」
部屋へと入った途端に何かを踏んだ。
シュークリームか何かのように見えるが、それにしては色が黒ずんでいるし、やたらと粘つく。
その隣には、生物学と思しき専門書が開かれたまま伏せられていた。背が低いため幼く見えるが、六宮は高校生かそれ以上なのかもしれない。彼も、オレと同じように生物学を学んでいた頃があったのだろうか。
窓がないためか、部屋全体がかなり暗い。そのまま幾度となく何かを踏み潰しながら、後ろ向きに死体を運び入れた。
だいたい中央あたりに来たところで、そっと床に下ろす。
顔を上げると、六宮はいまだ金づちを持ったまま奥に突っ立っていた。その顔は逆光によって陰に覆われ、表情が読めない。
見上げると、吊り下げるタイプの室内灯が割れていた。中央の豆電球が、腐った蜜柑のような明かりを垂らしている。
奥の右隅にはデスクらしきものがあり、クリップ固定式のアームライトが取り付けられていた。それがデスクだろうと推測できたのは、表面を本や紙束や数十本のペンに覆われながらも、四本の足によってある程度の高さを保っているのが見えたからだ。この部屋最大の光源、アームライトから発せられる清浄な白色光が、六宮の背中を照らしていた。
「私は感謝します。三日目、復活の前に、ルカの肉を手に入れたことです」
「良かったね」
律が無感動な相槌を打った。
「ちょっと、何がどうなればこんなに汚せるわけ? それにこの臭い……」
「今朝似たような臭いを嗅いだな。こいつが玄関に吐いたゲロを一カ月くらい寝かせば同じ臭いになるだろう」
コトリが顔をしかめながら、服の袖で鼻を覆った。
床には、何かの包み紙、脱ぎ捨てた下着や靴下、プラスチックの包装容器と食べ残しなどに混じって、どろどろとした液体も見られた。食品か何かが腐って液状化したのか、それとも今朝のように吐いたのか。どちらにしろ、床全体が臭うのには間違いなさそうだ。
「始まりのとき、ルカはソピアーでありエヴァでした」
六宮が唐突に口を開いた。机のゴミの山に手を突っ込み、何かを探っている。
「私はテレートスですから。二人は楽園へと堕ちます」
机の上の紙束がばさばさと落下し続ける。それはあっという間に広がり、床のゴミを覆った。
濃い灰色の紙かと思ったが、目を凝らしてライトの当たっている紙を見ると、細かい文字が隙間なくびっしりと書かれていることが分かる。
「そこに棲むヘビは知ってます。何がです? 楽園が偽りの牢獄であることはです。それですから、彼女を諭します。叡智の実を食べるようにです」
六宮は、ようやく探し当てた何かを引き抜いた。どこにでもある安っぽいハサミだ。
くるりと向き直ると、ルカの傍らに座り、金づちを置いた。
「彼女はその実を食べます。だから叡智の味を知ります。盲を脱したのです」
ぐるぐる巻きのビニールシートにハサミを入ていく。しゃくしゃくと軽い音がした。
「叡智は開かれて、彼女は逃げました。デミウルゴスが追います。彼女を穢すために」
部屋に立ち込めていた臭気が、さらに濃密になる。
こみ上げる吐き気をこらえ、突っ立っている律に聞いた。
「こいつは一体何を言ってるんだ」
「ルカさんとの思い出話」
「それにしては壮大過ぎる」
どこが妄想かを考えるより、どこが事実かを考えた方が早いくらいだ。
「楽園に残ったのは、エヴァは肉のエヴァを残しました。私たちはさらに堕ち、人間に転生しました」
六宮は丁寧にハサミを入れ、ビニールのほとんどを剥がした。初日には一目見て高級だと分かった服も、今や小洒落た雑巾のような色合いになっている。そこからは、すでに人間とは思えない黒ずんだ肌が露出していた。
「そして繰り返しです。転生は、何度も繰り返されました。幾百年、幾千年に渡って――」
彼は静かにハサミを置いた。そして、傍らに置いてあった金づちを再び握る。それは高々と振り上げられ、アームライトの光の中で影の塊となった。
「何度も――」
ルカの顔面が、一撃で陥没した。てらてらと光を反射しながら汁が飛散する。
コトリが堪え切れず小さな声を上げた。
「何度も、何度も、何度も……」
金づちは振り下ろされ続けた。腐敗の進んだ身体が湿った音を立て、陥没していく。
ルカは抵抗一つ見せず、六宮の暴力の全てを受け入れていた。当然だ。彼女は死んでいるのだから。
――もし、まだ死んでいなかったなら?
唐突に、妙な想いが生まれた。ルカが死んでいようがいまいが、あれだけ殴打されてはどのみち死ぬだろう。しかし、一体なぜそんなことを考え付くのか?
――もし、彼女が生きていたら……
考えても仕方のないことだ。女は死んだのだ。
あのときと同じだ。
振り注ぐ悪意を一身に受けていた。抵抗は許されない。一方的な暴力。
一緒なのだ。
オレの目の前で、また母が殺されている。
「ぐ……」
朦朧とした意識を覚ましたのは、強烈な吐き気だった。
口を強く押さえつけるが、胃が暴れるように蠕動している。
こんなところで吐くわけにはいかない。ここに来た痕跡は何一つ残すわけにはいかないのだ。
オレはあわててドアに駆け寄った。
部屋を飛び出す直前、ふと立ち止まる。
薄闇に見たのは、泣きながら女を潰す六宮と、彼の背中をさする律だった。
マンション敷地内の駐車場に、もうコトリの車はなかった。
道に出て、道路脇の草むらに顔をうずめる。先程から暴れていた胃の内容物は、全て流れ落ちた。
ふと、視界の端で何かが動いた。しかし、息を整えるのに精いっぱいで確認する余裕はない。まさか、第三者に目撃されてしまったのだろうか。
「すっきりした?」
すぐ後ろで抑え気味の声がした。コトリだ。
「お前か……」
「車は向こうの方に停め直しといたよ。出来るだけマンションのそばには置いておきたくなかったから」
「見られなかったか?」
「うん、誰も通らなかったと思う。見られたとしても私一人だし、特に怪しいところもなかったと思うし」
再び吐き気を催したオレの背を、コトリがさすった。その手が往復するたび、不思議と楽になってくる。悪夢に浸食されていた心も、少しずつ落ち着いていった。
目のふちにじわりと涙がたまっているのに気づく。
「亮介ってこういうの意外と弱いんだね」
「人のことは言えないだろ?」
「私の鼻は敏感なの」
彼女は澄ました顔で言い返したが、ふと何かに気付いたように辺りを見回した。
「……ねえ、牧野ちゃんはどこ?」
「まだ中にいるはずだ」
「そんな……」
言いながら、すでにコトリの足は六宮の部屋へと向けられた。
慌てて手を引く。反動で倒れかかったコトリの髪が、ふわりと頬にかかった。
「何? 離してよ」
「戻ってどうするつもりだ? お前が行く方がよっぽど危ないぞ」
オレから逃れようともがきながら抗議する。
「行かなきゃ牧野ちゃんが危ないじゃない。助けなきゃ!」
「分かってる。オレが行く」
コトリの動きが止まった。驚いたような目がオレを見上げる。
「亮介が?」
「お前は車で待機してろ。第一、有事だったとしたらお前の方が危険だ」
「でも、二対一なら勝てるかもしれないじゃない……」
「武器を持ってるやつにか? 危ういだろ、あいつは怪我してるんだし。それならオレが行った方が成功率はまだ高まる」
「何の?」
「何のって、律を救出する……え?」
最後の質問は、後ろから発されていた。
驚いて振り返ると、そこには一応無事らしい律が突っ立っている。なぜか数枚の紙を持っていた。
「お前、戻ってたんなら早く言えよ! 心配掛けやがって」
「邪魔かなって」
気づけば、オレはコトリとかなり接近したまま向かい合っていた。しかも、まだコトリの手を掴んだままだ。
「いつも気が利かないやつだと思ってたが、余計な時のために取っておいてたのか?」
オレが手を離そうとするより早く、コトリが嫌そうに振り払った。この仕打ちは何だ。
「違うの、牧野ちゃん信じて!」
「車は?」
自分で話題を振ったくせに、すでに奴は興味を失っていた。
車は百メートルほど離れた角の田んぼのそばに停められていたのだが、そこまで行く道中、コトリは未練がましく言い訳をしていた。もっとも、律がまともに聞いているのかどうかはわからない。
車に再び乗り込むと、一人と一体を下ろした車体は、幾分軽めの走りを見せた。
細い道の住宅街を抜け、少しだけ広い通りに出る。回り道をしているのは、尾行者がいた場合のことを考慮してだろう。
明かりの消えたガソリンスタンドや寂れた喫茶店が、視界を流れて行った。
車通りは少なく、時折道の向こう側から来た対向車のライトが、オレたちを照らしては消えて行く。
「色々あった上にあんな最後だったが、ようやく本当に終わったんだな……。これで最悪の事態は免れた」
これほど夜風がさわやかに感じたことはない。今日は朝から散々だったぶん、余計に良い気分だ。
「まだでしょ。犯人が誰か分かってないじゃない」
「だから犯人は六宮だろ?」
「表向きはね。でも、本当は違うかもしれない。亮介だって本当はそう思ってるんでしょ? さっきミノちゃんにアリバイを確認してたじゃない」
「それは……お前があんなことを言い出すから、気になっただけだ。けど、結局誰が犯人だろうと関係ないんだよ。これでオレは晴れて自由、死体との共同生活から解放されたんだ。それでもう全部終わりだ」
「真実を突き止めたいとは思わないわけ?」
「全然! やぶへびって言葉を知ってるか? そんなことをして何になるってんだ」
「死体に私たちの痕跡が残ってたら、どうやって弁明するの? 一番に疑われるのは亮介なのに。冤罪で捕まる前に、犯人の動かぬ証拠を手に入れるのよ」
「ちょっと待て、なんでオレが? 真っ先に疑うべきは律だろ」
後部座席の律を見た。先程までの死体そのままの体勢で寝転がっている。
「亮介のベッドに寝かされてたわけでしょ? そしたら、体毛とか皮膚組織の一部とか、死体に付着してそうじゃない」
「それを言うなら、律が運ぶときに真っ先に付着してるだろ」
「そういうことにしてあげても良いけど、私が言いたいのは、とにかく死体に証拠が残ってるって話よ」
上手く事が運びすぎると思ったんだ。もともと厄介事が寄ってくる体質なのに、今回に限って珍しく乗り切れた。
そう思ったのが間違いだったのだ。
「もう……出頭した方が良いような気がしてきた……」
「バカ、なに弱気になってんの」
「日本での殺人事件の検挙率を知ってるか? 九〇パーセント以上だぞ。オレの髪の毛やらなんやらが死体に付いてたとして、逃げ切れるわけないだろ」
「だから真犯人を探すんじゃない。だいたい、亮介は本当に殺したわけじゃないんでしょ?」
「当然だ」
「なら、真犯人だって九〇パーセントの確率で捕まるはずよ。ちょっと状況が特殊ではあるけど、だからこそ先に私たちが真犯人を突き止める必要があるわけよ」
プラス思考もここまで行くと頭が下がる。
「無駄だとは思うが、一応お前にも意見を訊いておく」
全く期待はしていないが、念のため律に声をかけた。後部座席で寝転がりながら、相変わらず他人ごとといった様子だ。
「選択肢がない」
「は?」
「警察に捕まらないようにするのが前提なら、確たる証拠を押さえて犯人を割り出す以外に選択肢はない」
「……実に真っ当な意見だ。全ての元凶だという自覚を微塵も感じさせないな」
「ありがとう」
やはりそうなるとは思ったが、こいつに訊いたことを心から後悔した。髪をかき上げ、大きなため息をつく。
「方針が決まったんだから、うだうだ言わないの。こうなると思って"あれ"も持って帰ってきたんだから」
そういうと、コトリは後部座席をちらりと見やった。
嫌な予感がして後ろを向くと、相変わらず律が鬱陶しい寝姿をさらしている。そして、なにやら派手な色の枕を使っていた。
「……なんでここにあるんだ!」
強烈なピンクの高級バッグが、律の頭の下で潰れている。
「返すタイミングをずらしただけ。ちゃんと犯人を捕まえたら返すつもりだから」
「その前にオレらが捕まったらどうするんだ? 殺人から強盗殺人にランクアップだぞ」
「携帯、財布、ハンカチにメイクポーチ、ピルケース、あとはヘアゴムとかティッシュとか小物が数個……中身はそれくらいかな。この中に手がかりが隠されてればいいんだけど」
「お前もか? お前までオレの話を無視するようになったのか?」
「亮介だって分かってるでしょ。六宮さんが犯人だったとしてもそうじゃなくても、犯人がルカさんを殺したっていう証拠がないことには冤罪は晴れない。とことん事件を調べる以外に、もう道はないんだから」
「オレたちみたいな素人が調べたところで上手くいくと思うか? 誰でも通行可能な住宅街で死んでたんだぞ。どれだけの容疑者がいると思ってるんだ。それに、今さっきオレらの目の前で死体を餅つき状態にしていた六宮は、犯人じゃなければ一体なんであんなことをしなきゃいけなかったんだ?」
独り言のように律が言った。
「宗教上の理由」
「もういい、歪んだ妄想はたくさんだ。ただオレは平凡な幸せが欲しいだけなんだ」
気が重くなる会話を続けていると、いつの間にかオレのアパートの前に到着していた。
車を路肩に寄せて降りる。まとっていた毛布を剥ぎ取られたような肌寒さに首をすくめた。
「ね、明日も来ていい?」
コトリが、ピンクのバッグを右手に提げながら言った。言うまでもなく、伺いを立てたのはオレにではなく律にだ。
「いいんじゃない」
律はそっけなく答え、アパートの自室へ戻ろうとした。六宮宅から持ち帰ったらしき謎の紙束も忘れずに持っている。
「待って、手当てしなきゃ!」
慌てた様子でコトリが止める。血が止まっているとはいえ、手当てが必要な傷であることには違いない。
それにしても、やつが怪我をしていたことをすっかり忘れていた。
「いい」
一言言い残すと、歩を止めることなくさっさとアパートに入ってしまった。
「待って、そんな……」
「思ったより軽傷で痛くないんだろ。大丈夫だ。部屋に戻ったらオレがやっておく」
痛くないわけではないのだろうが、律はしばしば妙な嘘をつく。おおかた、久しぶりの集団行動がいい加減面倒臭くなったのだろう。
「手当てしたかったのになあ……明日また来たときに再チャレンジしようかな」
「お前が来るところをまたさやかに見られたら、オレの方が手当てが必要になりそうだ」
今度こそ骨の一本でも折られるかもしれない。
「その時は、私と牧野ちゃんが付き合ってることにしちゃえば良いよ。既成事実から実る恋もありそうじゃない?」
「そういう考え方はやめろ。本気で実践するやつが割と近くにいる」
「でも、明日はその子とデートなんだよね。私も牧野ちゃんとデートしたいなあ」
「どうせならさやかとデートしてきてくれ。まだ部屋で律の面倒を見ていた方がましだ」
仮病を使って休んでしまいたい。むしろ、明日のことを考えていると本当に病気になりそうだが。
「駄目だよ、亮介だってちゃんと役目を果してくれなきゃ」
「役目?」
「そ。私と牧野ちゃんで出来るだけ真犯人の目星を付けておくから、亮介もさやかちゃんにアリバイを確認するの」
「まだそんなこと言ってんのか。大体、あいつタモ研じゃないだろ」
「だけど、日本細胞生物学会には行ってたじゃない。メアドは引っ掛けで、実はメールの送り主ってこともあるかも」
「送り主は男じゃないのか? メールを送れなくてごめんとか、食事に誘ったりだとか、ただの女友達って感じじゃないだろ」
「甘い甘い。それ自体がトリックかもよ」
「何のためのトリックだよ」
「うーん、例えば……ルカさんはレズで、それがバレないように、とか」
「さやかもレズなら、今オレはこんな目に遭ってないだろ」
「じゃあバイとか」
「鳥島先輩ひとりで充分だ」
先程の飲み会を思い出し、ぞっとした。
「あれ、鳥島先輩ってそうだったの? じゃあそっちの線も考えなきゃ」
「くだらない線を考慮するな」
「ルカさんと誰かが良い感じになってて、その誰かが好きだった鳥島先輩が妬んでやったってこともあり得るでしょ」
「あのなあ……簡単に人を殺人犯に仕立てるんじゃない。確かに変わり者だが、そんな短絡的な思考で殺人なんかする人じゃないぞ」
「はたから見ただけで殺人犯に見えるような犯人なら警察だって苦労しないじゃない」
コトリは出来の悪い子を諭すように言った。こいつに口で勝てる気がしない。
どう考えたって鳥島先輩なんかが犯人だとは思えないが、あえてそれ以上反論はしないことにした。
「とにかく……アリバイを確認すりゃ良いんだろ。で、なんとかして犯行推定時刻も調べ上げる、と。これが分からないことには、どの時間帯にアリバイがあれば無実なのかが分からないからな」
「だね。アリバイは深夜のことだから確認が難しそうだけど」
確かに、普通ならば寝ている時間帯だ。
オレたちのように一室に二人で寝泊まりして、しかも片方が夜中に活動を始めるようなやつだとしたらアリバイは完璧だろう。しかし、そんな奇特なやつはほかにいない。ミノルのように深夜のバイトでもしていれば別なのだが。
「あと、犯行推定時刻を調べる糸口はありそう?」
「そうだな……顔見知りの美濃巡査がこのあたりの夜間の見回りをしてるんだが、もしかしたら何か分かるかもしれない。ただ警察官だから、逆に不審に思われて墓穴を掘る可能性も大きいが」
「じゃ、適当な口実を作って私が訊いてみるよ。美濃巡査が死体を見つけてたら今ごろは大騒動になってるだろうから、アパート前にルカさんが死んでたことは知らないだろうし」
「だな。それじゃそっちは頼んだぞ」
「任せて! よーし、明日から張り切って調査しなきゃ」
コトリは妙に張り切った様子のまま、車で帰っていった。一人残されたオレは、ぼんやりとテールランプを見送る。
顔見知りの中に犯人がいるなんてことがあるのだろうか? 被害者であるルカは今まで見たことがなかったのに。
ルカへ宛てられたあのメールの送り主すら、誰だか分からない。コトリは、どうしてそこまでオレたちの顔見知りの犯行にしたがるのだろうか。
――そうしなければいけない理由が、彼女にあるとしたら?
ふと生まれた疑念に舌打ちをした。
これではコトリと一緒だ。簡単に周りのやつらを殺人犯に仕立て上げるなんてどうかしてる。
再び始まった頭痛の種を抱え、オレは自分の部屋へと帰った。